義経

January 18, 2016

数奇者二代目 岩佐又兵衛

 摂津伊丹有岡城で信長に反旗を翻して籠城していた荒木村重は毛利方に遁走(1579)します。落城後、置き去りにされた家臣・人質122人は尼崎七松にて処刑され、信長の逆鱗に触れた村重とその家臣の一族郎党36人は京都市中を引き回された後、六条河原で斬首されます。…と、村重の謀反の様子が『信長公記』に記されているそうです。

 奇跡が起こります。落城寸前に、村重の息子:数え年2歳の又兵衛(1578年生まれ)だけが乳母に救い出され、石山本願寺に保護されたのです。

 時代は急変、「本能寺の変(1582)」を経て豊臣政権が成立しますが、村重は堺に戻り、武人ではなく、今度は茶人として復活、「利休の七哲」の一人に数えられるまでになります。芸術家として大成した村重は1586年、畳の上で死去、享年52歳でした。

 成人した又兵衛は母方の姓:「岩佐」を名乗り、信長の息子:信雄に「御伽衆」として仕える一方、絵師としての才能を発揮します。織田、豊臣、「関ヶ原」そして家康が江戸に開幕と時代は移り、岩佐又兵衛(1578-1650)は福井に居住、藩主:松平忠直・忠昌に仕えます。60歳の頃、幕府の招請を受け、江戸に上った又兵衛は江戸初期を代表する大和絵絵師と評されることになります。江戸で没しますが(1650)、遺言により、墓所は妻子と暮らした福井に在るそうです。

 中仙道、美濃国と近江の境の山中宿を幾度も往来した信長が「本来、乞食とは住所不定のはず。この者はいつも変わらず、この場所に居るのは何故か」と問うに、村の住人答えて「当所、常磐御前を殺してしまいました。その因果により、子孫の者は代々乞食となっています。山中の猿とは、この者の事でございます。」…と、同じく、『信長公記』に記されているそうです。
 
 常磐御前は何処で没したのか…、群馬県前橋、埼玉県飯能、実は私の住む東京都町田市にも「常磐」という地名があり、常磐御前に関係する地所と聞きますが、今回は関ヶ原の「山中宿」です。信長の時代(戦国時代)から4百年前の平安末期の話、物語が作られたのは2百〜3百年前の室町時代に入ってからの話、日本人の誰もが知る貴種流離譚:義経伝説、その母:常磐御前の最期が、既に今から4百年以上も前、信長の時代に一般庶民まで広く流布していたことに今さらながら驚いてしまいます。
 
 又兵衛最高傑作の一つ、『山中常盤物語絵巻』、おどろおどろした、血染めの常磐の姿は強烈、信長に惨殺された彼の母の姿でした。
山中常磐物語絵巻_2

Momo holding sign board-HKX Radio※今までの曲は左サイド、Music Player でお聴きになれます。 

I appreciate YOUR SUPPORT.  ▼ 皆様のご支持をお願いします。
 にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 


express01 at 15:59|PermalinkComments(0)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

August 30, 2015

行く夏の…、金売り吉次

 8月も末になり、あの異常までのな暑さはどこへ…、気配どころか、一挙に秋本番を迎えてしまいました。あまり乗り気でもない団地内の「夏祭り」も終わって、今年の夏もこのまま終わるかと思えばどこか妙に寂しく、なにかを残さねば、と言う気持ちが沸き上がってきます。予定していた中仙道、馬籠・妻籠宿行きが、Akiraさんの膝の故障で急遽取り止め、それに代わる…かどうかは判りませんが、念願の「金売り吉次」の墓を訪れました。

 Akiraさんと知り合ったのは、二人共通の友人:Toshioさんの住む伊賀上野で催される「伊賀上野天神祭」でした。伊賀上野と云えば芭蕉の出身地、地元では「芭蕉さん」と親しみを持って呼ばれ、小学生の時から俳句を作るという土地柄だそうです。残念ながら、私には文学・詩歌を鑑賞する、ましてや創作する能力はこれっぽっちもありませんが、10月の伊賀上野訪問までには芭蕉のことを勉強しなければなりません。 

 芭蕉西行、義経の足跡を辿って奥州を紀行して『おくのほそ道』を残します。最初の目的地である「日光」、記録上現れるのは鎌倉時代以降であり、それ以前は「二荒神」と表記され、「二荒(ふたあら)」を「にこう」と読み、これに「日光」を当てたものといわれています。芭蕉は舟で「深川」を出発、千手観音が川中から発見された事に因む「千住」、それは浄土教の補陀洛渡海を暗示する船旅で、観音浄土:「日光」を目指します。「死」を暗示、象徴する道程です。

室の八島 けぶりたつ「室の八島」と呼ばれ、平安時代以来東国の歌枕として知られる大神(おおみわ)神社、五畿七道の時代には下野国国府が在り、その真北に鎮座します。大和国(奈良県)三輪にある、別名:三輪神社を勧請して創建されました。都から赴任してきた役人の多くが歌人だったのでしょう、多くの句碑が建てられています。今回、テニスの仲間の一人、Aさんとご一緒だったのですが、彼は顕彰碑・句碑・古文書の解読を講義する先生であり、今回はまさに「フィールドワーク中の先生と生徒」といった趣です。

吉次の墓 さらに北へ、車で10分、「金売り吉次」の墓が在ります。紀行の随行者:曾良の旅日記に、「吉次ガ塚、右ノ方廿間バカリ畠中ニ有」、と記された場所は栃木県鹿沼市壬生町上稲葉1603−5、今も3百年前とほとんど変わらない、収穫を前にした稲田の中にあります。

 1174年、「金売り吉次」の案内で、牛若(遮那王、元服して義経)は奥州に下向したとされます。「治承・寿永の乱(1180〜1185)」後、頼朝に疎まれて、頼朝に出した釈明書:「腰越状」の内容とは矛盾するのはこの話が作られたからなのでしょう。奥州の砂金(などの産物)と京の産物を交易して、奥州・京を往還した商人は存在したと考えられており、「金売り吉次」はその総称と云われています。吉次は三人兄弟の一人、父親は「炭焼き藤太」と呼ばれ、これまた奥深い話があるようです。

吉次の墓_2 壬生町の芭蕉が訪ねた「金売り吉次」の墓他に、もう一つ吉次の墓が踏切横にありました。近所のお年寄り(90歳)の話では、別の場所に在った墓が東武の鉄道工事により移転させられたそうです。この地域には他にも「金売り吉次」の墓や「義経の〜」と称する塚が複数あるそうです。 

 行く夏の…、過ぎ去ってしまえば、あっという間の夏でした。おそらく、人生も…。

参考書:芭蕉 おくのほそ道−付・曾良旅日記 おくのほそ道の旅 身体感覚で「芭蕉」を読みなおす 義経伝説−判官びいき集大成 怨霊になった天皇

Momo holding sign board-HKX Radio※今までの曲は左サイド、Music Player でお聴きになれます。 

I appreciate YOUR SUPPORT.  皆様のご支持をお願いします。
 にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 


express01 at 09:57|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

December 03, 2012

2012年近江の旅 Episode 5 〜 篠原 宗盛胴塚

元暦2年/寿永4年3月24日(1185年4月25日)、「壇ノ浦合戦」に勝利した義経は京に凱旋、これを賞して後白河法皇は義経とその配下の御家人達を任官させます。これを知った頼朝は激怒、義経以下の東国への帰還を禁じます。その命令に反して、義経は兄:頼朝への弁明を目的に、5月?日、平宗盛・清宗父子を護送するという名目で鎌倉に向かいます。

鎌倉は、東海道を東へ、足柄峠を越えた坂東の地、相模国の小さな一寒村に過ぎませんでしたが、急に表舞台に登場します。当時は揖斐川・長良川・木曽川の河口の幅が広くて渡河出来なかったのか…、京を出てすぐ東海道を行くのではなく、東山道(近世における中山道)を美濃国に入り、加納で木曽川を渡り、尾張国を迂回するように南下、東海道に入って東進、14〜16日間の旅程だったそうです。

義経 宗盛護送経路?_2
甚目寺町歴史民俗資料館の地図を拝借しました。

それは平家全盛の承安4年3月3日(1174)、鞍馬寺で「遮那王」と名乗っていた牛若は、金売り吉次と陵助頼重(みささぎのすけよりしげ)を同道して奥州の藤原秀衡の館を目指して京を脱出、東山道を「篠原」から「鏡宿」(現滋賀県竜王町)に至ったところで、追手が稚児姿の牛若を探しているのを知り、急ぎ髪を切り烏帽子を着けて元服しました。

感慨深く…、義経はこの地を通り過ぎたに違いありません。鎌倉の手前:腰越に至るも、義経は頼朝の命令で鎌倉へ入ることを許されず、そこで5月15日から6月9日までの間留め置かれます。6月5日、大江広元を通じて頼朝宛に異心のないことを書状で送ったのが『腰越状』でした。

これが、あの清盛の息子…?、平家の総大将だった…?、とみんなが呆れる宗盛は頼朝との対面を終え、鎌倉入りさえも許されなかった義経に護送されて元来た京への路を戻ることになります。義経の失意は、京への帰路、何時どこで兄:頼朝との決別の決意に変わったのでしょうか?変わったのは義経だけ…、宗盛は相も変わらずとぼけたまま…、「ここで斬られる」、「ここだろうか」、「きっとここだ」と、恐怖に顔が引きつる毎日です。いつの頃からか、「ひょっとしたら助かるかも…」と、宗盛は淡い希望を取り戻しますが、息子の清宗は父への返答を声に出す気にもなれません。「首が腐らないように京の近くで斬られるだけですよ。」

またもや、11年前に義経が元服した「鏡宿」を通り過ぎ、京を目前にした6月21日、宗盛を「篠原」、清宗を「野路口(滋賀県草津市)」にて斬首。

現在の国道8号線と東山道(=中山道)が奇妙に交差しています。近くまで来ているはずですが、どうも場所を特定できません。Kenさんが街道沿いの何軒かのお宅を訪ねてやっと判りました。今や営業されず廃屋になっているガソリンスタンドの横の脇道を入っていくと、その廃屋もさることながら、朝から雨、妙にうらさびしく、哀れな胴塚です。
平宗盛胴塚_2

宗盛・清宗父子は捕虜となって京六条通りを引き回され、本来ならば、後は静かに斬首を待つだけであったはずでしたが、兄:頼朝の命令に背いた義経は父子を利用、頼朝の歓心を買うために、命じられてもいない父子護送で京・鎌倉を往復、40日間を徒労してしまいました。父子の首が、今度は、三条通りを西へ引き回されるに至っては、義経の失敗のとばっちりを喰うようなもので、父子はそこまでの辱めを受ける必要はなかったように思います。6月23日、父子の首は六条河原で獄門に晒されます。

文治5年(1189年),藤原泰衡は義経主従を衣川館に襲い、義経は自害します。首は酒に浸して43日間かけて鎌倉に送られ、6月13日、その首実検が行われたのが、何故か…腰越、やはり鎌倉へは入れませんでした。

Momo holding sign board-HKX Radio※今までの曲は左サイド、Music Player でお聴きになれます。 
Your Support, Please. ▼ ボタンを押して下さい。このサイトの順位がわかります。
にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 人気ブログランキング



express01 at 14:20|PermalinkComments(2)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
Profile

ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

ISAO's Bookshelf
Back Issues At A Glance
Comments
人気ブログ ランキング
NINJA
Search