平清盛

November 14, 2012

2012年近江の旅 Episode 3 〜 大津義仲寺

義仲は『倶利伽羅峠の戦い(1183)』では捕虜にした平氏の瀬尾太郎兼康を「失うには惜しい武士」と助命、しかし瀬尾は再び敵に回って抵抗、怒り心頭の義仲は彼を攻めて自害に追い込みます。最後まで善戦したと聞くと、「やはり、殺すには惜しい男だった」と悔やんだという。

5万の軍勢で都入りした当初は、義仲は日の出の勢いで上洛し、「旭将軍」と都人に喝采を持って迎えられたのもつかの間、義仲軍の駐屯は飢饉を悪化させるだけで、都・殿上人の習慣・礼儀・作法を知らない厄介者、田舎者と蔑すまれます。

一時はクーデターを成功させ、征夷大将軍の地位につくも、やがて頼朝の命で鎌倉から上ってきた源義経・範頼の軍に『宇治川の戦い(1184) 』で破れ、散り散りにになりながらも、「死なば一緒」と誓い合っていた今井兼平と共に、粟津ヶ原での最後の戦いに挑み、幾度かの突撃でその数はわずか5人、その中に兼平の妹、義仲の愛妾:巴(ともえ)御前も入っていました。最後の最後、巴御前を逃した後、死地を目指すべく馬を走らせるが敵の矢を受け即死、享年31歳、それを見て、兼平も馬上で太刀を口にくわえ頭から飛び降り自刃します。

数年が過ぎ、いつしか、美しい尼がこの墓所の畔に草庵を結び、日々の供養に努めていました。この尼こそが義仲の愛妾:巴御前の後身でであったという。

芭蕉は、一説には、好きだった義経の足跡を訪ねて、『奥の細道』を旅したのですが(1689)、旅から帰って間もなく、それもまた旅先の大坂で亡くなります(1694)。「骸は木曽塚に送るべし」とは彼の遺言、不思議なことに、彼の故郷:伊賀上野ではありませんでした。

義仲・巴・芭蕉墓・義仲寺門前
義仲は、人懐っこい人情家、人を信じて受け入れるが、これが過ぎて裏切られる、無骨で粗野な田舎者、男女を問わず、人を惹き付ける人間的魅力のある人間…、裏を返せば、どこか滑稽さが漂う、無教養な、ぱっと出の(成り上がりの)人間。怜悧な頼朝、酷薄な作戦の義経という源氏、関東武者の中にはない存在で、英雄として非業の最期を遂げた義経ではなく、どこか、おっちょこちょいで人間味が感じられる義仲に強く惹かれるものがあったのでしょう。

又玄(ゆうげん)の有名な句:「木曽殿と背中合わせの寒さかな」には芭蕉の思いが伝わって来ます。

我々の『2012年近江の旅』は、『奥の細道』の「結びの地」:美濃大垣から始まり、二人の「結びの地」:『義仲寺』を訪問することになりました。粟津ヶ原も今は昔、『義仲寺』は大津の街中に在り、寺というより、集会所あるいは庭園の趣です。晩年、芭蕉はここの「無名庵」と京都嵯峨の「落柿舎」を往来することになります。
義仲寺バナナ

10月23日、今日は雨、まだ肌寒いというほどでもなく、庭のあちこちにバナナの大きな葉、何と居心地の良い処なのでしょう。

eyecatch_amazon_2おくの細道

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November 03, 2012

2012年近江の旅 1(序章) 〜 美濃国不破郡青墓

中仙道青墓宿いつもブログにコメントをもらうKENさん。その彼にご一緒する『近江国』を巡る二泊三日の旅が始まるのは翌朝、競技開始前の様に自然とアドレナリン分泌が高まっているようです。歴史を遡る旅行は既に始まっています。

下野国から白河関を越えて東山道(近世の中仙道)の奥、陸奥国(道の奥→みちのく、むつ、奥州)に入ったのは5月のことでした。今回はその東山道を遡って近江国に至りますが、あっさりとお国入りすることは許されません。その中間の道程ははしょっるものの…、通過儀礼・儀式としてに「不破関」のあった美濃国不破郡(現在の岐阜県大垣市)を訪れなければなりません。

20年も前だったでしょうか、数人でこの地に来たことがあります。自炊しなければならず、料理の上手い友人の指図で、料理の出来ない私は朝の買い物に出かけることになりました。その小さな商店に入って、「納豆下さい」、というと、「甘納豆でしょうか、それとも濡れ納豆?」とはお店の人の反応。そうです、ここで食文化が東西に別れるのです。ついでに、エスカレーターの立つ位置がここから西は右側となるそうです。

「関東」の概念は、大和朝廷の勢力範囲が東方に及んで行くにつれ、時代と共に東方に移って行きます。まずは、「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも〜」の「逢坂の関」、これが東進して「不破関」、東海道なら「鈴鹿関」、さらに東進して、「碓氷峠」あるいは「足柄山、富士山噴火以降は箱根関」を越えた地域を「坂東」、「関東」、「東(あづま)←吾妻」と呼ぶようになり現代に至っているようです。それじゃ…「関西」は? 「関東」ほどには東へ移動していません。「関西」と並んで「近畿」と言う言葉がありますが、都のある地域:「畿内」に由来するもので、その東の端が山城国、「逢坂の関」の西が「関西」だったのでしょうか…、それが東進、いつ頃からか?…、明治政府は「畿内」に滋賀県・三重県を加えて「近畿地方」としました。現代の「関ヶ原」以西、「不破関」と「鈴鹿関」を結ぶ線より西が関西になり、この関ヶ原を境に日本の文化、特に食文化は東西に大きく別れるそうです。新聞・テレビ初めとするマスコミ、交通網の発達で全国の平均化は進行して、昔ほどではないにしろ、まだまだ、そこには東西を別ける境界があるようです。

散々なNHK大河ドラマ:『平清盛』の筋書きにかろうじて付いて来ている私ですが…、白乙前 後白河 青墓河法皇の愛妾:祇園女御は宮中を去って、今度は、後白河法皇の『今様』の師匠、「乙前」と名を変えて彼の側に使える、という作者独自の設定らしいのですが、その間30年は過ぎて80歳ぐらいの役か?…松田聖子のメイクは全く変わらず、化け物か?…というぐらいにきれいで(?)、彼女だけが歳をとっていません。外務省を「伏魔殿」と呼んで大臣を辞した田中真紀子が、あれっ…、こんどは文化省大臣に返り咲いて一悶着、老若美醜はともかく、宮廷世界も外務省も伏魔殿・魑魅魍魎の世界、そこに登場する化け物、どこか似ています。

「傀儡女(くぐつめ)」は、売春を生業としながら、人形を廻しながら集団で諸国を往来、各地の宿駅を活動の場としたが、「乙前」は美濃国不破郡の宿駅:青墓が居所の「傀儡女」でした。
平治物語
『平治の乱(1159)』で敗れた源義朝、嫡男:義平、次男:朝長、三男:頼朝以下の一行は東国に逃れようと、都を大原から北に若狭街道(鯖街道)に出ます。竜華越(りゅうげごえ)で叡山僧兵の襲撃を受け朝長が腿に重症を負い、近江国では頼朝(当時13歳)は疲労のため一行に脱落、既に平家方に抑えられている不破の関を避けて北側に迂回、義朝の妾:「延寿」という名の大炊長者(おおいのちょうじゃ)を頼って美濃国不破郡青墓に辿り着きます。重症を負った次男:朝長は足手まといになることを恐れ、父の義朝に頼んで自分を殺してもらいます(当時16歳)。嫡男:義平は平家に一矢報いようと都に引き返すも、途中捕縛され六条河原で処刑(当時20歳)、義朝はその後も逃避行を続け尾張国野間(現愛知県知多郡美浜町至るも、謀られて入浴中に殺害されます。
源朝長の墓_for Blog 
※ 明るい色調になってしまいましたが、実は朝長の墓所は山中の木々に覆われた暗い処です。人魂でも出てきそうな雰囲気、『耳なし芳一』になった気分です。耳はちゃんとついていますが…。

義朝の側室:「延寿」も大炊長者呼ばれる「傀儡女」で「今様」の名手でした。その二人の間に生まれたのが「夜叉姫」で、平治の乱の敗北により、父:義朝以下多くの兄弟を失い、源氏の行く末を悲観、杭瀬川に身を投げて自殺してしまいます。「今様」の母娘相伝を受けたはずの「夜叉姫」は惜しい結果となり、後白河の「今様」の師匠「乙前」の死(1168)をもって歌謡の芸術としての評価は終わることになります。

納豆を載せた炊きたてのご飯、友人の作ったみそ汁、…その朝食の美味かったことが思い出されます。

※ Buy at Amazon: 新・平家物語 吉川英治 

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September 23, 2012

逗子田越川の畔

祖父、藤原成親は、平家一門を滅ぼさんとした「鹿ケ谷の陰謀(1176)」の主犯の一人として、備前国に配流、後に殺されます。、平維盛は、その父は重盛(その妻は成親の妹)、祖父は清盛に繋がる平家一門の嫡流、「富士川の戦い(1180)」で頼朝に、「倶利伽羅峠の戦い(1183)」で義仲に敗れ、京、六波羅を後に都落ちします(1183)。一門の中で苦しい立場の維盛は、「自分が死んでも出家などせず、再婚して子供たちを育てるよう」と告げ、追いすがる妻子(若君10及び姫君8歳)を京に残して西国に逃れますが、妻子への強い愛情を振り切ることが出来ず、とうとう屋島の戦線を離脱して京に戻ろうとします。…が叶わず、滝口入道を頼って高野山へ逃れ、最期は、熊野にて入水自殺を遂げます。六代御前まえバス停(看板)_2

「六代」、正盛から数えて六代目、維盛の幼名が「五代」だったので子供を「六代」と呼んだという、本名は「高清(たかきよ)」、一般的には「六代」と呼ばれます。もちろん一門の嫡流です。親子は、平家が「壇ノ浦の戦い(1185)」に滅んだ後も、嵐山に密かに隠れ住んでいましたが、鎌倉の代官:北条時政の残党狩りの探索の網に捕まり、愛しい我が子さえも捕らえられたことに気が狂わんばかりに悲観してしまいます。「六代」の命も風前の灯火…、そこに文覚上人が現れ、「六代」助命の為に猶予を申し出ます。挙兵を奨めた文覚に恩を感ずる頼朝に 助命 を直訴に鎌倉へ向かいます。すでにその猶予期間も過ぎ、足柄の峠の手前、駿河国で今まさに処刑が執行されようとする、その時、文覚の弟子の僧が馬にむち打って駆けつけて来ます。頼朝の赦免状が届き、間一髪のところで救われます。悲観のどん底から希望へ、と思ったら、悲観のどん底へ、と思ったら、希望へ…、まるでジェットコースターに乗っているようなテンポの速い舞台回しです。

1189年「六六代御前 墓標代」は剃髪して妙覚と号し、1194年には頼朝に謁見、異心無く出家したことを伝えます。僧として、まずは高野山に滝口入道を訪ね、父:維盛出家の様子を聞き、父の最期の地:熊野へ、諸国を訪ねて父:維盛の菩提を弔っていました。1199年頼朝死去。文覚が謀反を企てたとして隠岐国に流罪となり、「六代」も捕らえられ、鎌倉への護送の途中、今度は足柄の峠を越えて相模国、逗子田越川の畔にて斬首、「六代」=妙覚26歳でした。

「それよりしてぞ、平家の子孫は絶えにけり」の一文は「平家物語」冒頭の、「諸行無常」、「盛者必衰の理」を実感させる重要な結びとなります。

父を、夫を、息子さえも失った女、維盛の北の方は夫の遺言通り吉田経房(つねふさ)と再婚、娘と共に経房の屋敷に住んでいましたが、1193年、娘を18歳で藤原実宣に嫁がせます。

源頼朝の血統は、「壇ノ浦」から50年後の1234年、「竹御所(たけのごしょ)」、母子共に死亡をもって断絶しますが、平清盛のそれは花山院(かさのいん)家、四条家、宗家に、そして、後深草天皇、亀山天皇を通じて今日の皇室に伝えられているそうです。

男達は、絶望から自殺する人も含めて、次から次へと死んでいきますが、どっこい、女達は、入水自殺しても海中から救い上げられたり、子孫を残しながら、しぶとく生きて来たようです。

そんなことを思いながら「六代御前」の墓を逗子田越川に訪ねました。源氏ファンが圧倒的な関東、いわんや鎌倉の隣の逗子…、とは全くいらぬ心配、きれいに整備されており、お参りの方も多いようで、地元住民により手厚く守られています。
六代御前の墓_2

※ Amazon: 「平家レクイエム紀行」中石孝著 新潮社
                 「平家後抄」〜落日後の平家 上・下 角田 文衛著 講談社

 
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August 23, 2012

小山田の谷戸田(やとだ)

関西で育った私が、この地に引っ越してきた当初は、その地名:「小山田、小さな山の田んぼ…」、何と想像力の乏しい、単に、田んぼの風景を描写しただけ、またそう呼ばれる地域の広いこと…、その名前の付け方に「おおざっぱさ、いいかげんさ…」を感じたものでした。しかし、歳とともに、今まで全く見過ごしてきたものに、ハッと、気付くことが多くなってきました。

隣の横浜市に住む彼は山口県出身です。同じ西日本に住んでいた、ということで、「この辺には『〜谷戸(やと)』という地名が多いが、関西では聞いたことがない。」と、暗に同意を求める私の発言に、「そんなことはない、ありますよ。」とあっさりと否定されました。ご夫婦で山登りを趣味としている彼は「谷戸」の意味は把握しているはず、その彼が言うことなので間違いないものと…、話もそれで終わりました。

小山田の風景
…が、やっぱり真相はこうでした。東京都多摩地域及び神奈川県東部では、丘陵地が雨や川によって浸食されてできあがった谷が谷戸(やと)と呼ばれます。雨は丘陵や尾根を伝って谷戸に流れ込み、湿地を作ります。人々は谷戸の湿地を利用して水田を作ってきました。同時に、谷戸は多種多様な生き物を育み、豊かな農作物と美しい里山の景観を創り出しています。ちょっと昔なら、単なる田舎、で終わりましたが…。
※奇特な方が居られ、地名・バス停名として今に残る「谷戸コレクション」を紹介されています。

小山田神社低迷が続くNHK大河ドラマ:『平清盛』の時代、関東八平氏の一派、埼玉県嵐山町畠山荘、秩父桓武平氏:平有重がこの地にやって来て小山田別当有重と名乗った。頼朝挙兵時(1159)には京に在り、平家の忠実な御家人として各地に転戦、木曽義仲追討にも加わりました。平家西国落ちの際に許されて東下し、遅れて鎌倉御家人となった。平氏に続いて、源氏政権に於いても重要な地位についた小山田有重は農民を動員して土地を開発、現在の町田及び川崎・横浜の一部を支配する大土地所有者・開発領主となります。当初は単に土地の名前でしたが、その名前を冠した彼の勢力圏とともに拡大したのでしょう。

小山田一族は「谷戸田」を開発して「小山田」という水田を拡げ、その稲作の優れた生産力が一族の勢力拡大に大きく寄与しました。「谷戸田」の多い多摩丘陵地帯は「田方(たかた)」と呼ばれ、水田があり、コメが穫れるところ、の意味です。一方、南の相模台地地帯は「岡方(おかがた)」と呼ばれ、水田のない、コメの穫れないところです。相模台地は火山灰土、乾燥が激しく酸性が強いため大豆・粟さえも育たなかったそうで、安定的な農業が可能になったのは土壌・品種改良等の農業技術が発達する近世を待たなければなりません。
小山田の案山子_2
中世までは、町田の中心は小山田・小野路であり、原町田・中町などの繁栄は幕末以降、とりわけ横浜線・小田急線が開通してからの、たかが百年ちょっとのことではないでしょうか。

秋になると、小山田の谷戸田では豊かな稲穂に案山子が映える収穫の時期がやって来ます。

※参考資料:「道」白州正子 新潮社  「町田の歴史をたどる」 町田市
  DVD:「平清盛」


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July 01, 2012

東方に向かう三道、その分岐点

「白村江の戦い(663)」で唐・新羅連合軍に敗れ、半島での足場を失い、百済からの難民を受け入れ、 唐・新羅の侵攻を恐れ、断固たる決意で律令国家を目指し、唐(中国)との冊封関係を断ち切った倭の国。ここに、天皇制国家:日本が誕生しました。近江へ遷都(667)、わずか5年しか続きませんでしたが、大和朝廷の軸足が東へ移動したことになります。

因みに、地名の「近江=現在の滋賀県」と「遠江=静岡県浜名湖」は対。前者は元々「近(ちかつ)+淡海(おうみ)」、後者は「遠(とおつ)+淡海(おうみ)」。前者は文字:「近」が残ってその音:「チカ」が抜け『近江、おうみ』となり、後者は文字:「淡」が抜けその音:「おう」が残って『遠江、とおとうみ』となった由。

元へ…。 
大陸、沿海州に渤海国が出現(698 -926)、唐・新羅の圧迫に対抗するために、従来外交の玄関口である太宰府より、むしろ、日本海を横断、敦賀・越前・佐渡を玄関口に渤海使を派遣して来るようになった。当初の軍事同盟の性格は希薄となり、次第に文化・商業的な性格に変わり、その交易関係は渤海国滅亡(926)まで続きます。

秦(はた)氏・漢(あや)氏など優秀な技術者集団が渡来し、錦を織る錦織部(にしごりべ)は15世紀、京都の西陣織として開花、機織り技術は後世の加賀友禅、近代の福井・近江の人絹・繊維業、さらに南下して和泉国の綿織物に繋がる、一大繊維産業地帯、その織物を商う近江商人を生み、明治近代日本を担う多くの人材を輩出します。

律令制・中央集権国家体制では、辺境に向かって速やかに制圧集団を送り、逆に地方の物資・労役を中央に貢がせることを目的に「道」が整備されました。平安中期(810年頃)、天皇が凱旋行進を閲兵したであろう、京の朱雀大路は筑前国太宰府を終点とする山陽道に通じ、これこそが大路=最重要道路でした。京以西、西日本が大和朝廷の統治下にあり、当時は如何に大陸・半島を重視していたかということですが、その視線は次第に蝦夷の勢力圏である東方に移っていきます

京都の鬼門:艮(うしとら:北東)に位置する比叡山は王城鎮護の山とされ、延暦寺を据えます。坂本からの参道を除いては、山科の地(山城国)より逢坂(おうさか)峠を越えるのが唯一の東方:近江国へ入る道でした。

更級日記「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも 〜」、その「逢坂の関」を越えるとそこは蝦夷の住む「化外(けがい)の地」、近江国府=瀬田(現在の大津)は要衝、東方に拡がる三道のターミナル、分岐点でした。

東山道: 近江「不破の関」を越えて美濃〜信濃「碓氷峠」〜上野〜下野〜陸奥「白河の関」を経て多賀城に至る
東海道: 伊勢「鈴鹿の関」を越えて尾張〜参河〜遠江〜駿河「足柄山」を経て相模〜武蔵〜下総〜常陸〜陸奥に至る
近江街道北陸道: 「愛発の関(あらちのせき)」を越えて越前〜加賀〜越中〜越後に至る

もし…、近江京が5年ではなく、さらに続いていたとするなら、その視線が陸伝いの東方に注がれただけではなく、日本海をまたいで、例えば、筑前太宰府のように、敦賀を新しい玄関口とするモノと人間が往来する日本海貿易圏のようなものが出来たかも知れません。北陸道の重要度は大きく高まり、越後以北、出羽〜秋田、そして陸奥のその後も大きく変わったはずです。 
 
摂津国福原に大輪田泊を修築(1162)、音戸ノ瀬戸の開削(1167)など大型土木工事が好きだった、あの『平清盛』、敦賀湾〜琵琶湖〜揖斐川〜伊勢湾に至る大運河構想を持っていたそうです。ほんまかいな…。

秋、歴史にうるさい彼と、近江『湖東の旅』を計画しています。ついて行けるように、勉強しておかなければなりません。

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May 26, 2012

「趣味」と「数奇」

この歳になり、仕事もほとんど午前中には片付くようになり、残りの時間、それは単に一日の残りの時間という事だけではなく、人生の残りの時間=「人生の黄昏」とは少々抵抗があるところですが…、を如何に過ごすか、これが一大関心事となりました。

先日の金環食、友人と二人で撮影すべく前もってリハーサルまでして準備したのですが、前日の夜、彼からメールをもらいました。 「申し訳ない。当地曇りの予報にて、晴れている赤城山に行きます。」 

写真を趣味としている人はこれぐらいでないといけません。彼は、日々、天気予報に気を配り、どこが最適ポイントかを判断します。当日の朝、満天の(?)曇りがフィルター代わり、結果的には、肉眼で十分でした。事前に用意した観測サングラスは曇天下では無用の長物、生きている間に二度と使うことはないだろう…と、全く別なことを悔やむ私でした。

※彼が赤城山で撮った写真がこれ。意図とは違ったらしく、失敗の由。
Annular Eclipse

写真、音楽、あるいはスポーツにせよ、暇が出来たからと行って、急に出来るものではありません。趣味を「楽しめる」レベルに達するまでにはそれ相当の時間と環境が必要です。私はお音楽が好きで、ジャンルを聞かれれば、「カントリーぽぃロック、ウエス・トコースト風、あるいはルーツ・ミュージック」と答えるでしょうし、これが理由で「カントリーミュージック人気ランキング」に参加しています。

私が今、音楽経験豊かな他の3人と一緒に楽しめるのも、高校生の時代、それなりにギターを練習したからでしょう。「少年老いやすく〜」はその通りですが、それ以上に言えることは、当時そんな仲間=環境があれば、また違った人生になったかも知れません。欲は言いますまい。ギターのコードを弾けるだけで十分、満足です。

視聴率、少しは回復したのでしょうか?…NHK大河ドラマ:『平清盛』、佐藤義清(さとうのりきよ 後の西行)は出家(1140)してしまい、そんな場面も亡くなりましたが、彼は「弓馬の道」だけではなく、帝・院の要請に応じて即興の歌を披露する、和歌・今様・けまりの名手でした。専門業とはせず、何らかの芸事に打ち込む様を「すき」と称し「数寄」の字を当てるのですが、彼は当時随一の「数寄者」であり、彼の出家の原因をこの「数寄」に求める説もあるようです。

宮廷貴族という限られた世界に広まった和歌は、室町時代には連歌に、桃山時代には富裕な町民層及び武士の間に広がります。江戸時代になるとその裾野はさらに一般庶民に広がり、俳句を使った「三笠付け」と呼ばれる賭博が流行、幕府はその取り締まりに手を焼いたそうです。ほんの一握り人たち:貴族の遊びだったものが、それから5百年後の江戸時代には一般庶民の遊びになっていました。これは江戸時代の識字率の高さ、ひいては文化の高さ、庶民の豊かさを示すものでした。

西行はその人生で二回奥州に、そして四国に旅しますが、決して放浪ではありませんでした。揺るぎない経済基盤を背景に熊野に庵を構えますし、庶民層と係わることもなく、況わんや決して乞食(こつじき)やホームレスなんかではありません。旅に出ながらもいつかは都に帰って世俗との関わりを維持する、鼻持ちならない金持ちの道楽者、ということも言えるでしょう。

音楽といえば聴くだけのもの。自分で演奏するなど夢の又夢、楽器と言えばプロの演奏者が弾くものと思っていた私が最初にギターを弾く事ができたのが『君といつまでも』、続いてベンチャーズが空前のエレキブームをもたらし、一気にギターを庶民の楽器にしてしまいました。戦後、大衆文化としてのアメリカ音楽が日本に入ってきてから僅か15年、文化の高さはともかく…、庶民の急激な豊かさの実現を示すものでした。

西行の生き方と比べるのもおこがましいのですが、揺るぎない経済基盤を築く間もなく、「人生の黄昏」に突入してしまった私です。

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May 02, 2012

そろそろ、「保元の乱」です

NHK大河ドラマ『平清盛』の視聴率がワーストタイの11.3%と低迷しているそうです。兵庫県の井戸敏三知事の「画面が汚い」と同じく、『映像が見にくい』、『登場する人物関係が複雑』等の視聴者からの声が反映したものでしょう。

私たちは、歴史の今、現代に生きる人間の価値観・道徳・習慣で清盛の時代を見てしまいます。平安時代と言えば、ひらがな・カタカナの発明で日本語の表記が容易になり、『源氏物語』・『枕草子』・『古今和歌集』(残念ながら読んでませんが…)に代表される物語文学・日記文学・和歌が隆盛、平等院鳳凰堂等の和様建築(寝殿造)が登場する国風文化興隆を背景に、貴族による雅(みやび)な宮廷政治をイメージします。しかし、平安末期になると、末法思想の予言が現実の社会情勢に出現し、社会不安が深まります。荒れた京を舞台にするのですから「画面が汚い」のは当然なことでしょう。

平安貴族は、天皇から政治実権を奪い、京で詩歌・管弦などの遊興、恋愛にふけり、退廃的にさえ見えます。権力を奪取した清盛には「悪役」のイメージ。その平家も次第に堕落して貴族化、哀れな末路を迎える。これに代わって、源頼朝が坂東の武士を束ね、京の風:「雅」に染まらない為に都より距離を置いて鎌倉に質実剛健な幕府を開いた、というのが同時代に対する一般的イメージで、これが理由の一つではないでしょうか。

もう一つ、人物関係が複雑で、これを理解するだけでいやになってしまいます。これに恋愛・憎悪が絡み合うのですから、現代人の価値観(恋愛感)・道徳では理解しがたい、「雅」とは魑魅魍魎の世界なのか…、末法の世故か支配階級内の人物関係は隠微に映ります。

待賢門院美しいと聞こえ高い璋子は養女となり、幼い頃は白河院の懐に足を差しいれて眠ったぐらいに、白河院に溺愛されました。美しい少女に成長し、いつしか、養父と養女の関係を越えてしまい、それと同時に幾つかの男女の関係を持つようになります。

璋子が11歳のとき、白河法皇は当時の関白:藤原忠実の長男:忠通に璋子を嫁がせようとしますが、忠実はその縁談を断っています。彼の日記には「実に奇怪不可思議の人也」、「乱行の人」とあります。白河法皇はそんな彼女を自分の:鳥羽天皇に入内させることになります。鳥羽天皇の后になりながらも、白河法皇との密通を続けて顕仁親王(崇徳院)を生み、鳥羽天皇との間には雅仁親王(後の後白河院)を含む6人の皇子を生みます。

鳥羽天皇は顕仁親王(崇徳院)を「叔父子(おじご)」と呼び忌み嫌った。鳥羽天皇にとっては、祖父に当たる白河法皇の御子だから、「叔父」であると同時に、名目上は「子」でもあるの意味。「保元の乱」の遠因。
璋子(待賢門院)と白河法皇と鳥羽天皇の三角関係、その三人で熊野詣に4回も行っており、その旅先では待賢門院を挟んで寝たように、現代の価値観・道徳では到底理解できません。ついでながら、その後のもう一つの三角関係。佐藤義清(さとうのりきよ)は北面の武士であり、「弓馬の道」だけではなく和歌・今様・けまりの名手であり、なおかつ見目麗しい美少年であった。彼が鳥羽院との「浅からぬ契り」、その「男色」の相手であったであろうことは、彼がそのような空間に生きた、ということで容易に想像がつきます。ドラマの中では、佐藤義清の出家する原因を、手の届くはずのない待賢門院への恋慕、に求めていますが、ここにも、待賢門院と鳥羽院と西行(=佐藤義清)の三角関係を見ることが出来ます。待賢門院はよっぽどいい女だったのでしょう。

鳥羽院の死をきっかけに、この年「保元の乱(1156)」が起こります。
それぞれの生きた時代 342
※図をクリックすると拡大します
NHK大河ドラマもそろそろ「保元の乱」でしょうか…、私が理解している人物関係相関図をご覧にいれましょう。
相関図x2
※図をクリックすると拡大します

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April 16, 2012

ここは地の果て〜♪

ここは地の果てアルジェリア〜♪…、この歌詞が好きです。

人は「果て」、「端」と言う言葉に惹かCabo_da_Rocaれるようで、『ユーラシア大陸の最西端』と言えば、ポルトガルのロカ岬が、ユーラシア大陸の西の最果ての地、石碑には叙事詩の一節「ここに地終わり海始まる」が刻まれています。「最果ての地」、「最端の地」、と言えば辺境の地と同意義であると勝手に思いこんでしまいますが、このロカ岬、地図で見ると首都:リスボンから西へわずか20kmの距離です。

時代は、またもや、NHK大河ドラマ『平清盛』の時代、平家に莫大な富をもたらした日宋貿易、日本からの主要輸出品の一つが硫黄、その産地が鬼界ヶ島(=薩摩硫黄島)でした。日本の東の最果ては津軽半島東部の「外ヶ浜」、そして西の最果てが硫黄の産地と同じ「鬼界ヶ島(=薩摩硫黄島)」でした。国の辺境を指す代名詞であり、前者は蝦夷の住む土地、穢れを放逐する土地=流刑地と考えられていました。一方では、同時代の西行を始めとする多くの文化人が強い郷愁や憧憬を抱くのも不思議です。

1177年、後白河上皇を黒幕として、僧都俊寛(そうずしゅんかん)らが 謀反を企て 、『鹿ヶ谷の陰謀』と呼ばれます。事に及ぶ間もなく鎮圧され、首謀者の3人は西の最果て:鬼界ヶ島(=薩摩硫黄島)に流されます。…と言っても、3人にとって鬼界ヶ島は、決して絶海の孤島・辺境ではなかったはずです。硫黄の産地、積み出し港として、日宋貿易、朝鮮半島・琉球を結ぶ交易ルートにおける重要拠点の一つでした。朝鮮王朝初期の政治家:申 叔舟(シン・スクチュ1417−75)が著した『海東諸国紀』(1471年)には、この交易ルート上に鬼界ヶ島が明記されています。
海東諸国紀 鬼界が島marked

後に恩赦により平康徳、藤原成経は釈放されますが、俊寛だけは許されず島に留め置かれます。同じ不遇の身であった3人のうち2人が救われて、たった1人残される、これはもはや絶望です。2人を乗せた船が出るに及んで、俊寛は舟にすがって海の中まで追ってきて、終いには渚に倒れ伏し、幼児が母を慕うように、足摺(じだんだを踏むこと)して、泣き叫んだが、舟は遠ざかって行くだけでした。後白河法皇の側近で法勝寺執行の地位にあった僧侶、打倒平家を合い言葉に、謀反を企てた首謀者の一人、…にしては、俊寛の取り乱し様はあまりにも哀れ・惨めです。硫黄島港ライブ映像 「置き去りにしないでくれーっ!」、 遠ざかる舟を追いすがって渚を走る俊寛の後ろ姿(彫像)が見られます。

『カスバの女』、私は1970年頃のリバイバルでしか知りません。1955年、映画の主題歌あるいは挿入歌として、エト邦枝の歌として発表されたが全く売れなかったそうです。おそらく、 「アルジェリア独立戦争」 を意識して作られたのでしょうが、その映画も頓挫し、歌が復活するのは70年学生運動の頃でした。その後の俊寛に、この曲:『カスバの女』を贈りましょう。カントリーではありません。



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express01 at 22:53|PermalinkComments(2)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

March 25, 2012

『平清盛』は面白い、…NHK大河ドラマはともかく…

宋(960 - 1279)は北方の遼、西の西夏、満州から南下した女真族が建国した金(1115)などの異民族の圧迫に悩んでいました。金と謀って遼を倒したまでは良かったのですが、遼の残党と南宋時代の地図手を組んで金を牽制、これが金の怒りを買い、中国史上における政治的中心地:華北を失います(1127)。長らく漢民族王朝がとってきた『以夷制夷 夷を以て夷を制す』政策が機能しなくなり、異民族王朝の出現を許すことになります。

これら異民族の圧迫により、唐の時代(618年〜907年)に発明された黒色火薬(硝石+木炭粉+硫黄)は実戦兵器への応用が急速に拡大します。金により、華北・東北地方の領土を失った南宋は、より一層、火薬の原料である硫黄を必要とするようになったにもかかわらず、国内にその産地を失い、日本に供給を求めるようになりました。

894年の遣唐使廃止以降も、中央の朝廷や貴族は貿易や交流にきわめて消極的でしたが、九州沿岸の商人たちによる私貿易は続いており、太宰府に代わって博多が中世都市として発展します。平清盛は1167年に太政大臣となり、権力を掌握、その基盤を西国に拡大し、音戸ノ瀬戸を開削(1167)、(機内)摂津国福原に大輪田泊を修築(1162)、安芸国厳島神社を造営(1168)、海上路を確保することになります。
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摂津国福原で奥州産の金・銀などを積み、鬼界ヶ島(薩摩硫黄島)の硫黄を宋へ運び,宋から大量の宋銭・香料・陶磁器などを持って帰るという三角貿易(鬼界ヶ島 → 宋(寧波) → 博多・摂津国福原)を実現。輸入された大量の宋銭は、従来の国産の貨幣を駆逐、貨幣経済の革命的な発展をもたらしました。これは正に、大航海時代、エリザベス1世(在位1558-1603)の時代、英国が莫大な富を得るアフリカ黒人奴隷(三角)貿易と全く同じ構図です。日宋貿易は院政否定、天皇擁護、福原遷都とならんで、清盛が東アジアを見据えた、如何にスケールの大きな政治家であったかを物語っています。
てつはう

宋が日本から大量の硫黄を輸入した訳を、清盛は知る由もなく…、また知る必要もないのですが…、次の異民族王朝:元(1271 - 1361)の時代、モンゴル軍は、「てつはう(炸裂弾)」を持って鎌倉幕府北条政権下の日本に侵攻します(1274/1281)。当時は十字軍の時代、イスラム教徒とキリスト教徒が闘い、そこにモンゴル軍が割り込んでくる、言わば、史上初めての、世界大戦の様相を呈した時代でした。

清盛は『平家物語』では傲慢な悪役として登場し、「貴族化した軟弱な平家が屈強な坂東武者に敗れた」や「奢り高ぶった平家から人心が離れた」とされますが、実は、朝廷、貴族、寺社(比叡山・興福寺)など、没落して行く支配階級側からの強烈な嫉妬・遺恨・敵愾心でした。武家の棟梁の座についた頼朝は、清盛の政策を踏襲して鎌倉幕府を開き、関東武士を結集しますが、どう見ても、チマチマした箱庭のような政権に見えるのは私だけでしょうかね。

モンゴル軍の炸裂弾に驚いた鎌倉武士でしたが(1274/1281)、ただびっくりしただけで、それが何であるかは興味もなかったのでしょうか…、次に日本人が鉄砲を目の前に持たらしたのは1543年、種子島に漂着したポルトガル人でした。中国 → イスラム → ヨーロッパ → 日本、あれから260年もかかっています。中国4大革命のうち、製紙・活版印刷はかなり初期の段階で、羅針盤は鎌倉時代までに日本に伝来したと思われますが、火薬も、中国から直接、あるいは朝鮮経由でもっと早い時期に伝来していたのではないでしょうか。

バグダッド陥落(1258)
グダッド陥落(1258)
NHK大河ドラマ:『平清盛』の人気は今ひとつ…、らしいですが、歴史上の『平清盛』は大いに見直されるべきでしょう。
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March 11, 2012

『3.11』が巡って来ました

西行NHK『平清盛』、北面の武士:佐藤義清は、待賢門院璋子(たまこ)への片思いが原因(?)で…、23歳で出家、以降『西行』を名乗り、1143年、26歳の時、何故奥州なのかは不明ですが、最初の奥州の旅に出ます。

それから40年後、戦乱:『治承・寿永の乱、 あるいは、源平の戦い(1180 - 1185)』を避けて伊勢の国に庵を組んでいました。戦乱で焼け落ちた東大寺大仏復興のための寄進が捗らず、再建の責任者:俊乗坊重源(ちょうげん 1121 - 1206)に依頼されて、大仏を鍍金(金メッキ)するために必要な砂金を寄進する旨約束してくれていた藤原氏を訪ねて、1186年、70歳を前に再び奥州へ旅立ちます。

今日、『3.11』がやって来ました。メディアの多くは『東日本大震災からの1年』を特集していますが、被災地そして日本の今後を考えると暗澹たる気持ちになってしまいます。言いたくはないのですが…、この1年を振り返ると、政治、官僚はもちろんのこと科学・技術、報道、教育、宗教…等、どれをとっても『日本の〜界のリーダー』(あるいは『専門家』)には本当にがっかりさせられてしまいました。

しかし、西行の奥州行を調べていると、偶然、ちょっと古いのですが、約1年前のニュースにぶつかりました。2011年4月8日付の産経新聞に…

『1300年前の縁…東大寺が1億円寄付 銀行借り入れ「宮城の文化財修復に」』…とあります。

宮城県涌谷(わくや)町は日本で初めて金(砂金)が採れた所。奈良時代、聖武天皇によって東大寺の大仏が建立されました。大仏は銅で鋳造された後、金で鍍金(メッキ)されるはずでしたが、その金が不足し、 大仏の完成が危ぶまれていました。そこへ749年、日本で初めて産出した砂金900両が陸奥国守百済王敬福(くだらのこにきしけいふく)によって献上され、大仏は無事完成しました(752)。

「白村江の戦い(663)」で唐・新羅連合軍に敗れ、半島での足場を失い、百済からの難民を受け入れ、唐の侵攻も恐れられる中、断固たる決意で律令国家を目指し、唐(中国)との冊封関係を断ち切った日本。その国家安泰・人々の幸福・五穀豊穣を祈願して建立されたのが東大寺大仏。奈良時代のみならず、鎌倉時代の西行による勧進に応え、2度までも(…実は3度)奈良東大寺大仏建立・再建を支えたのが奥州、今の東北地方でした。

これに応えたのが『東大寺の1億円寄付』。ちょっと…、古いのですが、「ほっ」とさせられたニュースです。

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February 04, 2012

帝(みかど - Mikado)

平清盛
NHK大河ドラマ『平清盛』、「画面が汚い」の批評はともかく、ドラマの登場人物が当時の天皇家を「王家」と呼んでいることが議論を呼んでいるそうです。「王家」の呼称は「天皇家の権威をおとしめる表現」との強い批判があり、それに対し、時代考証を行った本郷和人(ほんごう・かずと)東大史料編纂所准教授は、「「王家」の使用は純粋に学問的な見地からのもので、皇室をおとしめる意志が露塵(つゆちり)ほどもなかったことは、まちがいありません」と弁解しきりの様子。天皇の住む京都を「王城の地」と呼んだり、 「尊皇・勤皇」、場合によっては「尊王・勤王」…、これが「天皇家の権威をおとしめる…」とは思いませんが…。
漢倭奴国王金印
東アジアの諸国王は、中国に朝貢し、中国の皇帝から「王」のお墨付きをもらう必要がありました。これを冊封関係といい、冊封関係を受けた国の君主は、「王」や「侯」という中国の爵号を授かり、中国皇帝と君臣関係を結びます。57年、倭国の古代王権も後漢の光武帝より「倭奴国王印」を授かって冊封を受けていました。

607隋煬帝年、倭王から隋の煬帝に宛てた「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや云云」に始まる国書は中華皇帝の概念を否定して、それまでの冊封関係からの離脱、対等外交の姿勢を表明したものでした。663年「白村江の戦い」で、唐・新羅連合軍に敗れるも、その戦争目的は唐との対等な独立国家を主張するためのものだったと言えるでしょう。

以来、日本人は「天皇」を中国「皇帝」と同格に位置づけています。

時代が下って平安時代、日本は中国の影響から脱し、武家政権の誕生で天皇の役割・機能は変化します。天皇は、今や、神々と対話できる唯一の存在、他方、統治権を授与できる唯一の存在となったのです。これは権威者が権力者に「正当性」を与え、見返りに「保護」を受ける、西ローマ帝国崩壊( 476年)後のローマ教皇の存在と同じです。
Augustus
古代ローマに於いて、インペリウム(Imperium) は「命令権」や「支配」を意味し、共和政期には「軍指揮権」を意味した。インペラートル(Imperator)はこの語に由来、「命令者」を意味し、「エンペラー(Emperor)」の語源となりまし た。その意味で、政軍両面の最高指導者であった征夷大将軍の方が「Emperor」の概念に近いのではないかという議論もあり、いわんや江戸時代…、地上に唯一無二のはずの中国「皇帝」や日本の「天皇」の訳語にどちらも「Emperor」が用いられたり、幕末から明治にかけて、将軍・天皇ともに「Emperor」、将軍が「Emperor」、天皇が「Mikado」と訳されるなど混乱が生じましたが、日英同盟締結(1902)で天皇が「Emperor」として認知されました。因みに、今日、征夷大将軍は「Shogun」と訳されています。

今日の外交上、Emperorと訳されるのは日本の「天皇」のみで、その家系を遡ると国家誕生・天地創造の神話の世界に辿り着くことができる唯一の存在であることは間違いないようです。

『龍馬伝』もそうでしたが、テレビドラマらしくない、映画フィルム画面のような映像に好感を持っています。前回の『江〜姫たちの戦国〜』があまりにもスカ(=ハズレ)、今回は大いに期待しましょう。

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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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