おくのほそ道

August 24, 2019

武蔵国比企郡大蔵館

 お盆もとっくの昔に終わり、8月も終わりに近づいて来ました。日中はまだまだ暑いが、朝方などはシーツを引っ張り出したり、数日前には24時間エアコンのお世話にならなければならなかったことがウソのようです。いつもの事ながら、この時期になると、何かやり残したという思いになります。当初、今年の夏は奥州、東北に…と考えていたのですが、旅の道連れに予定していた友人が春先に既に東北を旅行していたので、彼を誘うわけにも行かず、加えて、梅雨の長雨が終わり8月に入ると、いきなり猛暑日、出かける気力さえなくなってしまいました。

 10月末にはその友人と一緒に関西に行く予定です。中山道(古くは東山道)を行き、木曽、飛騨・高山から日本海側に抜け、倶利伽羅峠から篠原を経由して近江国(湖東)を南下して、伊賀上野に至るルートを考えているのですが、実際これができるかどうかは判りません。これは、木曽(源)義仲が以仁王の令旨を奉じて木曽で挙兵、倶利伽羅峠・篠原で平家軍を破り京に入ったのとほとんど同じルートです。滅んだ義経の鎮魂を目的に「おくのほそ道」の旅を続けてきた芭蕉は月山・象潟を日本海に沿って越後・越中を南下、越前に至り、義仲の鎮魂を目的に倶利伽羅峠・篠原を辿るまでは義仲の進軍ルートにほとんど同じなのです。芭蕉は越前敦賀を発つと「おくのほそ道」結びの地、美濃大垣に向かいます。

 芭蕉が「おくのほそ道」の旅を実施したのが1689年(元禄2年3月27日江戸深川発〜8月21日頃大垣着)、西行500回忌に当たる年でした。その5年後の1694年(元禄7年)、旅の途中、大坂御堂筋、門人が設けた座敷で死去。遺言で、墓は義仲の墓の隣に建てられました(近江国大津「義仲寺」)。

 多くの人が木曽(源)義仲は「木曽」とある通り信州木曽で生まれたと思っていますが、恥ずかしい話ですが私もそのうちの一人、武蔵国比企郡(埼玉県嵐山町)で生まれたことを知ったのはつい最近のことです。それも私の住む町田市からそう遠くないところです。義仲の挙兵から京入りまでの道程を辿るまでに、一度嵐山を訪れてみようと思い立ったのです。

 バンドの練習だけを目的に、過去数年間、ほとんど隔週末、武蔵(埼玉県)川越まで50km、2時間かけて行きます。関東平野の南西に位置する町田市からは北東に向けて、関東平野の中央に向かって進むのですが、後ろに見えた大山をはじめとする丹沢山系は徐々に見えなくなり、四方を見回してもほとんど変化のない、延々と平坦で単調な風景が続きます。騎馬術に優れた関東武士が鎌倉街道網を整備したのですが、それなら、既に大陸からもたらされたであろう去勢など馬の飼育技術を高め、馬車の活用をしなかったのでしょうか。武蔵野(関東平野)こそ、運送手段としての馬車の活用に最も適した地域であり、どうしてこれに気づかなかったのか不思議です。

 そんな事に思いながら、武蔵国比企郡(嵐山町)への道を走ります。ほとんど鎌倉街道上ノ道と並行あるいは交差しながら(ほぼJR八高線のルート)、伊豆箱根・丹沢・大山から秩父・榛名山に連なる山系を左(西)に臨みながら北上する70kmです。すると、また違う妄想が頭に浮かびます。水稲技術は大和政権と共に東進、当初は灌漑技術と云えば、水は高きから低きに流れるという自然の理を利用した重力灌漑であり、私の住む武蔵国小山田荘(町田市北部の谷戸田)もそうなのですが、広大な水田が平野部で開発されるのは近世以降の話であり、丹沢・大山から秩父・榛名山・赤城、日光の山塊、東は筑波の山塊は円弧状の地殻皺をなし、それぞれの山塊が多くの扇状地を形成、そこに、(京(中央)政府から派遣された源氏・平氏が関東に土着して水田(谷戸田)を作り、馬の放牧するなどして土地を開拓したのではないでしょうか。彼らが関東へ入植した当時は、武蔵は、雑木林を蒸す「ムス」 + 焼畑農地を作る「サシ」に由来(柳田國男説)の通り、当時、関東平野は重力灌漑による水稲耕作は困難であり、山塊の扇状地でしか不可能であったのではないでしょうか。彼らは東山道を辿り碓氷峠を超えて関東に入りますが、安中・高崎辺りから南下した武蔵国秩父郡では秩父氏が大いに栄え、武蔵国各地に散った一族は在地豪族と婚姻関係を結んで勢力を拡大、秩父平氏(秩父党)を形成していった。当地、小山田荘の別当、小山田有重(生誕・死没不詳)も秩父平氏の一党、1180年、頼朝挙兵に際しては京に在住、平家の忠実な郎党として、北国戦線にて木曽義仲軍と戦い、戦後は頼朝に服従します。

 
大蔵館 河内源氏の当主であった源為義は摂関家を後ろ盾としたのに対し、彼の長男義朝は院近臣を後ろ盾とし東国へ下り、鎌倉を本拠に南関東へ勢力を伸ばします。度重なる不祥事で河内源氏の評価は下がり、一方では内部抗争が激化、為義は義朝を廃嫡、次男義賢を嫡男に改め、義朝の勢力の希薄な北関東に進出させます。義賢は武蔵国最大の武士団、秩父重隆の娘を娶り、「武蔵国比企郡大蔵(埼玉県嵐山町)に館を構えます。秩父重隆は家督を巡って内部抗争、外には新田氏や藤姓足利氏と抗争、彼らは義朝・義平父子と結んでいました。秩父氏の家督争いと河内源氏内部の同族争いはついに1155年(久寿2年)大蔵合戦の結果となり、源義朝の長男、悪源太義平が叔父の(義朝の弟)義賢を急襲、義賢と秩父重隆を滅ぼします。

 義賢の次子、当時2歳の駒王丸は畠山重能(しげよし)に助けられ齋藤別当実盛鎌形神社_2により木曾の中原兼遠に預けられた。これが後の旭将軍・木曽義仲となり、命の恩人である斎藤実盛とは大蔵合戦から28年後の篠原の戦いにおいて首実検の場で悲劇的な対面をすることになります。

 鎌形八幡神社には駒王丸の産湯に使った湧き水があります。境内は名前は判りませんが、小さな花をつけた植物で覆われています。
190820_鎌形八幡神社境内に群生する?

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August 30, 2015

行く夏の…、金売り吉次

 8月も末になり、あの異常までのな暑さはどこへ…、気配どころか、一挙に秋本番を迎えてしまいました。あまり乗り気でもない団地内の「夏祭り」も終わって、今年の夏もこのまま終わるかと思えばどこか妙に寂しく、なにかを残さねば、と言う気持ちが沸き上がってきます。予定していた中仙道、馬籠・妻籠宿行きが、Akiraさんの膝の故障で急遽取り止め、それに代わる…かどうかは判りませんが、念願の「金売り吉次」の墓を訪れました。

 Akiraさんと知り合ったのは、二人共通の友人:Toshioさんの住む伊賀上野で催される「伊賀上野天神祭」でした。伊賀上野と云えば芭蕉の出身地、地元では「芭蕉さん」と親しみを持って呼ばれ、小学生の時から俳句を作るという土地柄だそうです。残念ながら、私には文学・詩歌を鑑賞する、ましてや創作する能力はこれっぽっちもありませんが、10月の伊賀上野訪問までには芭蕉のことを勉強しなければなりません。 

 芭蕉西行、義経の足跡を辿って奥州を紀行して『おくのほそ道』を残します。最初の目的地である「日光」、記録上現れるのは鎌倉時代以降であり、それ以前は「二荒神」と表記され、「二荒(ふたあら)」を「にこう」と読み、これに「日光」を当てたものといわれています。芭蕉は舟で「深川」を出発、千手観音が川中から発見された事に因む「千住」、それは浄土教の補陀洛渡海を暗示する船旅で、観音浄土:「日光」を目指します。「死」を暗示、象徴する道程です。

室の八島 けぶりたつ「室の八島」と呼ばれ、平安時代以来東国の歌枕として知られる大神(おおみわ)神社、五畿七道の時代には下野国国府が在り、その真北に鎮座します。大和国(奈良県)三輪にある、別名:三輪神社を勧請して創建されました。都から赴任してきた役人の多くが歌人だったのでしょう、多くの句碑が建てられています。今回、テニスの仲間の一人、Aさんとご一緒だったのですが、彼は顕彰碑・句碑・古文書の解読を講義する先生であり、今回はまさに「フィールドワーク中の先生と生徒」といった趣です。

吉次の墓 さらに北へ、車で10分、「金売り吉次」の墓が在ります。紀行の随行者:曾良の旅日記に、「吉次ガ塚、右ノ方廿間バカリ畠中ニ有」、と記された場所は栃木県鹿沼市壬生町上稲葉1603−5、今も3百年前とほとんど変わらない、収穫を前にした稲田の中にあります。

 1174年、「金売り吉次」の案内で、牛若(遮那王、元服して義経)は奥州に下向したとされます。「治承・寿永の乱(1180〜1185)」後、頼朝に疎まれて、頼朝に出した釈明書:「腰越状」の内容とは矛盾するのはこの話が作られたからなのでしょう。奥州の砂金(などの産物)と京の産物を交易して、奥州・京を往還した商人は存在したと考えられており、「金売り吉次」はその総称と云われています。吉次は三人兄弟の一人、父親は「炭焼き藤太」と呼ばれ、これまた奥深い話があるようです。

吉次の墓_2 壬生町の芭蕉が訪ねた「金売り吉次」の墓他に、もう一つ吉次の墓が踏切横にありました。近所のお年寄り(90歳)の話では、別の場所に在った墓が東武の鉄道工事により移転させられたそうです。この地域には他にも「金売り吉次」の墓や「義経の〜」と称する塚が複数あるそうです。 

 行く夏の…、過ぎ去ってしまえば、あっという間の夏でした。おそらく、人生も…。

参考書:芭蕉 おくのほそ道−付・曾良旅日記 おくのほそ道の旅 身体感覚で「芭蕉」を読みなおす 義経伝説−判官びいき集大成 怨霊になった天皇

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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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