Music

August 16, 2020

この曲<34> Galveston

 コロナ禍で、じじーバンド(The KAYA Band)の練習を少なくとも半年以上は自粛、中断しています。喫茶「嵐が丘」でのクリスマス・ライブ・コンサートを終えた今年初めの練習で、これからの練習曲を決める候補曲の披露がありました。我々のレベルでは、聴いて好きなだけでなく、加えて、上手いか下手かは別に…、演奏できる(あるいは、練習すれば出来るであろう)ことが重要です。

 私だけが一曲も提案できず、あれから半年が経ちました。Amazon Prime Musicで、いくつかの気に入った曲を見つけたのですが、何れもスローな曲、歌唱力のない私には難しいようです。

Glen Campbell 辿り着いたのが、Glen Campbellの「Galveston」(1969)です。彼のヒット、「By the Time I Get to Phoenix」、「Wichita Lineman」と並ぶご当地ソングの一つで、Jimmy Webbの作です。やるからには…、ということで勉強しました。

 突然ですが…、懐かしのポピュラーの一曲、「Tiny Bubbles 」(1966)は聞いたことがあるでしょう。これを歌ってヒットさせたのが Don Ho という人で、ハワイ出身の歌手として一世を風靡したそうです。元々、この「Galveston」は彼の為に書かれ、彼が歌ったのですがパッとせず(1968)、The Glen Campbell Goodtime Hourにゲスト出演した彼がGlen Campbellに薦めたのが事の始まりでした。この曲にまつわる二つの秘話、私は今まで知りませんでした。

 もう一つ、これらの曲はジャンルで云えばカントリー。理由は、ただ、カントリー出身のGlen Campbellが歌っているからで、もし他のジャンルに属する歌手が歌っていたならばカントリーではなかったことでしょう。作者Jimmy Webbの特徴はオーケストラ(ストリングス)で、どう見てもカントリーではありません。

 Jimmy Webbは、本来は「自分が理解できないことに巻き込まれて、どこか他の場所に行きたいと思っている男の話」と述べており、現にDon Hoの「Galveston」2番の歌詞はこうでした。…「〜Phoenix」の通り少しきざな主人公ですが。

Galveston, oh Galveston 
Wonder if she could forget me
I'd go home if they would let me
Put down this gun
And go to Galveston.

ガルベストンよ,ガルベストン
僕を忘れてくれるかどうか
もし彼らが許すなら僕は家に帰る
銃を置いて
ガルベストンに行く

 Glen Campbell の「Galveston」では、米西戦争(1898)に従軍する一兵士をイメージしたとも言われているが、1969年当時、この曲は多くの人にベトナム戦争の抗議だと認識されていました。

 果たして、私は「Galveston」をマスターすることが出来るでしょうか?

“Galveston” written by Jimmy Webb 
covered by David Nail & Lee Ann Womack

ガルベストンよ,ガルベストン
まだ海風が吹いているのが耳に残る
まだ彼女の黒い目が輝いているのが目に浮かぶ
僕がガルベストンを出た時 彼女は21だった

ガルベストンよ,ガルベストン
まだ波が砕ける音が耳に残る
大砲の閃光を見ながら
銃を磨き
そしてガルベストンを夢見る

まだ海辺に立っている彼女が目に浮かぶ
海を見ながら立っているのが
そして僕のことを待っているのだろうか
昔二人で走った浜で

ガルベストンよ,ガルベストン
僕は死んでしまうのが怖い
彼女の涙をふく前に
太陽を背に海鳥が飛ぶのを見る前に
ガルベストンよ,ガルベストン

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July 04, 2020

この曲<33> I can see Arkansas

 このアーティストは他にどんな曲をやっているの…、検索するとAmazon Unlimited(追加料金が必要)ならこんな曲も聞けます…と、アップグレードを促すAmazon Primeは、ビデオ(映画)も音楽も中途半端であまり役に立つとは思えません。そんなAmazon Primeを聞いていて、「ピィーン!!」と来たのがこの曲でした。

Welcome to Arkansas Sign 「I Can See Arkansas」はAnne Murray(アン・マレー)の1992年のヒット、オリジナルは1990年、Steve Wariner(スティーブ・ワォリナー)が歌ったそうですが、全く知りませんでした。私は60〜70年代の古く、かび臭いカントリーソングしか知りませんでしたが、この曲は90年代のヒット、私にしては最新ヒットです。

 曲のタイトル、歌詞の中にも出て来る「アーカンソー」がアメリカ合衆国50州の一つであることはかろうじて知っています。しかし、いきなり「Arkansas」の単語が出てきたら、「Kansas」は「カンザス」ですから、頭に「Ar」が付くのだから「アーカンザス、アーカンサス」と読んでしまいます。皆さんは如何ですか?我々が外国人だから混乱するのかと思いきや、現に地元においても、「アーカンソー(AR-kən-saw)」あるいは「アーカンザス(ar-KAN-zəs)」なのか大論争があり、1881年、州議会は「Arkansas」の公式発音を、(フランス語のように)最後の「s」を無音にすると定義しました。

 カンザス州と同じ語源で、カンザ族の類縁であるクアポー族(Quapaw)の言葉で「下流の人々の土地」を意味し、同地を探検したフランス人がフランス語風に発音したのが「アーカンソー(AR-kən-saw)」でした。

 ミシシッピ川はミネソタ州を源流とし、メキシコ湾へと注ぐ全長約3千8百キロの大河、アメリカ文化の母なる河です。後のウィリアム・フォークナー(William Faulkner1897 - 1962)やアーネスト・ヘミングウェイ(Ernest Hemingway、1899 - 1961)等、現代アメリカ文学はミズーリ州出身のマーク・トウェイン(Mark Twain, 1835 - 1910)に始まります。 

 文学に限らず、アメリカ音楽に話を持って行くと、アパラチア山脈を越えようと山地に定着したヨーロッパ移民はヒルビリィ(Hillbili)、彼らの音楽がマウンテン・ミュージック(Mountain Music)となります。山地を越えた彼らは次の難所、ミシシッピ川東岸、テネシー州ナッシュビル、メンフィスに定着、彼らの音楽がカントリー・ミュージック(Country Music)に発展していきます。一方、アフリカから連れて来られた黒人奴隷が持ち込んだブルース(Blues)はルイジアナ州に上陸、メンフィス、セントルイス、シカゴと、ミシシッピ川に沿った「ハイウエィ61」を北上します。

 北上する黒人のブルースと西進する白人のカントリー・ミュージックが、ぶつかり、融合したのがテネシー州メンフィス、サン・レコード(Sun Record)におけるエルビス・プレスリーの出現、ロカビリー(Rockabilly)あるいはロックンロール(Rock’n’Roll)の誕生でした。
 
 ミシシッピに架かる偉大なメンフィス・ブリッジをメンフィスからアーカンソーに向けて走る車が目に浮かぶようです。
 

I can see Arkansas
written by James Nihan and wood Newton

二人の間には自然な不思議がある
でも私には自然とは思えない 
二人で育てた愛を捨てて 
テネシー州を離れて 

二人で作り上げたすべてを捨てて
新しい人生を始めるなんて
あなたの車がメンフィス・ブリッジを渡って行くのが見えたわ 
でも私の目が信じられない

ミシシッピの向こうにアーカンソーが見える 
ニューオリンズに下っていく大きな艀(はしけ)が見える 
反対側には綿花畑が見えて 
そしてまた日が落ちる 

アーカンソーは見えるけど
まだ分からない 
何故二人の愛が終わったのか

あなたをどれだけ愛しているか証明できるなら 
今夜この古い河を泳いでもいい 
私は引き波に魂を賭けてもいい 
あなたを抱きしめるチャンスに 

でも私たちの間には川以上のものがある 
私はそんなに遠く泳げない 
懸命にやってみたが
あなたがいる場所の記憶を溺れさせられない 

ミシシッピ川の向こうにアーカンソーが見える 
ニューオリンズに下っていく大きな艀(はしけ)が見える 
反対側の綿花畑が見えて 
そしてまた日が落ちる 

アーカンソーは見えるけど
まだ分からない 
何故二人の愛が終わったのか

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June 26, 2020

もう一人の大佐 Colonel Thomas Parker(その2)

Colonel Tom Parker & Elvis もう一人の「大佐」とは、エルビス・プレスリーのマネージャーとして有名なトム・パーカー大佐(Colonel Thomas Parker)です。1948年、彼は元カントリー歌手のジミー・デイビス、ルイジアナ州知事から、知事選挙キャンペーンに協力したパーカーへの報奨として、その名誉称号が与えられました。以降、彼は生涯を通じて「大佐」と呼ばれることを好みました。

 広く知られている限りでは、大佐はThomas Andrew Parker、1900年以降間もなくウェストバージニア州Huntingdonで生まれたと云われていました。彼はカーニバルのツアーに参加して、象と一緒に仕事をしたり、手相を読むブースを経営したりしていましたが、1950年代初めに、今までに何の経験もない音楽プロモーターの職を得ます。

 もし誰かが、わざわざ、市の戸籍係に問い合わせをしていたら、Huntingdonにパーカーの出生記録がないことはとっくの昔に判明していたでことでしょう。そして、パーカーは米国のパスポートを持ったことがなく、米陸軍に二等兵として在籍していたことも判明したかもしれません。実際、パーカーの短い軍歴は不名誉な結末を迎えました。彼は1932年に無断欠勤し、脱走の罪で数ヶ月間軍事刑務所に服役していました。彼は精神崩壊に苦しんだ末に釈放されました。サイコパス(精神病質)と診断され、彼は除隊します。数年後、第二次世界大戦中に徴兵制が導入されますが、パーカーは故意に過食して体重を規定以上に肥満し徴兵を逃れています。

 これらの詳細が明らかになったのは、A.C. van Kuijk 19271980年代に入ってからで、エルヴィスの死 (1977)から数年後、パーカーが引退するまでのことでした(1997年死亡)。最大の謎は、パーカーがパスポートを持っていなかったことでした。エルヴィスはロンドン、ベルリン、東京でも同じく有名でしたが、30年近くのキャリアの中で、外国でのコンサートは1957年のカナダでの3回だけでした。実は、パーカーはオランダで生まれたアンドレアス・コルネリス・ファン・カウク(Andreas Cornelis van Kuijk)であることが明らかになりました。パーカーはプレスリーが海外で活動するという考えを否定し、会場は彼のような大スターには不向きと主張しました。これは、彼がパスポートを持っていなかったこと、いや、持てなかったことに関連します。彼がオランダを後にしてアメリカに渡った理由、不法移民だった等、それまで多くの謎に包まれていた秘密が明らかになり、彼はアメリカを離れることに深い拒絶感を抱いていました。

 パーカーの故郷のオランダ、ダーク・ヴェレンガ(Dirk Vellenga)というジャーナリストが30年に及ぶパーカーの真実を探っていました。当初はファン・カウク(Van Kuijk)一家の昔話ばかりでしたが、1980年タレコミを受け、彼の調査はさらに不吉な方向に向かったのです。パーカーは1929年5月、家族や友人に行き先を告げず、身分証明書も持たず、お金もなく、給料の大半を費やした高価な服さえも持たず、忽然と姿を消していたことがわかりました。ヴェレンガ(Vellenga)は、彼の新聞の特集の最後に、合理的な質問を投げかけました。「パーカーが1929年の夏に出発する前に何か深刻なことが起こったのか?」

 しばらくして彼の新聞に匿名の手紙が届きました。「パーカー大佐について 19年前に言われたことを話しておきたい。 義母が私に言ったのは、「もしこのパーカーについて 何か分かったら、彼の名前はファン・カウク(Van Kuijk)、ボッホストラートの 八百屋の奥さんを殺した。」その夜、彼はアメリカに旅立ち、偽名を付けていた理由がわかるだろう。だから彼は知られたくないのだ。」

 急いで過去の新聞のファイルに目を通したヴェレンガ(Vellenga)は、1929年5月にブレダで未解決の殺人事件が起きていたことに驚きました。23歳の新婚のアンナ・ファン・デン・エンデン(Anna van den Enden)は、ボッホストラートの八百屋の裏の居間で殴り殺されていました。

 当初の捜査は大失敗に終わり、目撃者は全員死亡しています。残されたのは、パーカーが急に失踪したという不思議な偶然の一致、彼がサイコパス(精神病質)であったという証拠、そして彼を知る人々の証言、全てが状況証拠のみで、パーカーがこの殺人事件にどう関与したかの謎は未だ解明されていません。

 パーカーは親の代からカーニバルのツアーに参加して、象と一緒に仕事をしたり、手相を読むブースを経営したりして興行に熟達、後の音楽プロモーションに繋がっていきます。プレスリーのマネージャーになると、彼はプレスリーのキャリアを非常に厳しく管理、プレスリーを「調教」して世紀の大スターにのし上げました。同時に、10代の青春期、プレスリーの人格形成上最重要な時期に、パーカーから象使いの調教を受け、食い物にされ、最後には精神障害に陥り、薬物乱用で亡くなりました。振り返れば、パーカーのサイコパス(精神病質)がそうさせたと云えるでしょう。

 ※因みに、3月に俳優のトム・ハンクスがオーストラリアで新型コロナ・ウイルスに感染、隔離生活を送っていたというニュースを耳目にされたことはないでしょうか?彼は、バズ・ラーマン(Baz Luhrmann,)監督、エルビス・プレスリーの伝記映画「Elvis」(2021年公開予定)の中でパーカー大佐を演じます。クィーンズランドでの撮影中に感染したとの報道ですが、パーカー大佐はカナダを除いては外国に行ったことがないはず。これは、オーストラリア出身であるラーマン監督の創作かも知れません。

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June 19, 2020

もう一人の大佐 Colonel Thomas Parker(その1)

200621_Colonel Sanders カーネル・サンダース(Colonel Sanders)、本名ハーランド・デーヴィッド・サンダース(Harland David Sanders、1890 - 1980)はケンタッキーフライドチキン(KFC)の創業者。「秘密のレシピ」を開発、特許を取得した圧力フライヤーで鶏肉を調理する方法を開発しました。1935年(?)、彼の人気は高まり、ケンタッキー州知事から「Kentucky colonel(ケンタッキー大佐)」に任命されたのです。後に、全米、海外へ急拡大、1970年、日本にも進出しました。

 日本国内の店舗に立つFRP製の立像は、「カーネル・サンダース(Colonel Sanders)」と呼ばれていますが、ほとんどの人はこの「カーネル(Colonel)」を名前(given name)と誤解、姓:Sanders 名:Colonelと誤解しているようです。実は、カーネル(Colonel)は名誉称号「大佐」の意味で、おそらく日本では「名誉市民」はあっても、「名誉大佐」という言葉にはなじみがないことがその理由なのでしょう。1906年、デーヴィッド・サンダース(David Sanders)は16歳の時に年齢を詐称して陸軍に入隊、キューバにて輜重隊に勤務しました。しかし、彼は、大佐はおろか、一兵卒のままで除隊することになりました。

 アメリカにおいて 「大佐」という名誉称号を授与されたのは17世紀半ば(1600年代)の13の英国植民地に遡ります。「大佐」は、これらの13の植民地で暮らす貴族の称号として使われ、20世紀に入ってからは、知事が業績の在った民間人に使う名誉的、儀式的な地位として知られるようになりました。  ベンジャミン・フランクリン、ジョージ・ワシントン等、歴史上著名な人物の多くは、尊敬を集め、新しい砦や街(コミュニティ)を設立するには、政治家としてのキャリアの中で、民間人または民兵の「大佐」であることが重要でした。  独立戦争以前、それ以降を通して、「大佐」になることは非常に重要なことであり、特にアパラチア山脈を越えた未踏の地域でコミュニティを創始するには、「大佐」になることが非常に望ましいことでした。

 この名ばかりの「大佐」の地位は、当時、地主・領主階級は実際の指揮権(colonelcy)を持つこともなく、地元の民兵に資金を提供する名誉称号でした。「大佐」という肩書きの社会的使用には貴族的な色合いがあり、今日では南部の紳士を指すことが多く、昔からの南部の貴族に典型的なものです。今日でも、この称号を栄誉として授与する州は、ケンタッキー州、テネシー州、ミシシッピ州、サウスカロライナ州、ジョージア州、オクラホマ州、ルイジアナ州、ニューメキシコ州、ノースダコタ州、アラバマ州などです。

 ※ 因みに、現下の新型コロナ禍の中、ミネソタ州ミネアポリス市における白人警察官による黒人殺人事件に端を発して、アメリカの古傷のかさぶたが剥がれてしてしまい、一挙に「Black Lives Matter」運動に爆発しています。カントリーバンドLady Antebellum(レディー・アンテベラム)はグラミー賞(2010-2012)を受賞していますが、その名前Antebellumはラテン語の「ante(beforeの意味)」+「bellum(warの意味)」から「戦前の 戦争前の」、米国では「南北戦争前の」意味です。今回の事件でその名前が南北戦争前の黒人奴隷制度に蹂躙されたアメリカ南部を賛美する考えと関連していると批判されていました。今日、人種差別についての国民的な話題が高まっていることを受けて、レディーAに改名すると発表しました。しかし、この新バンド名が、シアトルのブルース歌手のAnita White(アニタ・ホワイト 61)が20年以上にわたって使ってきた名前と同じになってしまいました。現在、両者の間で話し合いが持たれていることがRolling Stone誌に報道されています。

 どうも、「大佐」も「人種問題」も、そしておそらく「カントリー・ミュージック」にも、南部諸州により色濃く昔の影響が残っているように思えます。

『もう一人の大佐 Colonel Thomas Parker(その2)』に続く。

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May 29, 2020

この曲<32> That's All Right, Mama

20200515_イサオ自画像
 60年代から70年代前半にかけて、世界の潮流はBeatles あるいはBob Dylanに代表されるSinger-Song Writerの時代でした。これを知った洋楽ファンが作り出した現象が邦楽の「グループサウンド」であり「フォーク」ブームでした。洋楽の世界では「Rock」及び「Folk」と呼ばれるもので、この約10年間に、人々のポピュラー音楽を聴く方法を変革し、様々な社会的および政治的分野でのボヘミアン活動を促進しました。「Rock」か「Folk」か…、単純化すれば電気楽器が含まれるかどうか、黒人音楽の要素が入るかどうかの問題に過ぎず、そんな新しいポピュラー音楽が登場する以前はどうだったのでしょう。

 1950年、エルビス・プレスリー(Elvis Presley)は「That’s All Right, Mama」で劇的なデビューを果たします。ロカビリー(Rockabilly)の誕生でした。「R&R」+「Hillbilly」、黒人音楽Rock & Roll(「揺らす」& 「転がす」)と白人音楽Hillbilly(Countly, Bluegrass/田舎者、カッペ)の融合で、プレスリーが黒人音楽を身近に、一方では白人のカントリー音楽を聴いて育った中から生まれた音楽です。

 この「That’s All Right, Mama」のオリジナルは、1946年、黒人ブルースマンArthur Crudupによって書かれ、そして歌われたもので、歌詞は"Blind(盲目の)" Lemon Jeffersonが1926年に録音したブルースに依るそうです。このように、黒人ブルース(Blues)を起源にして、1950年代に黒人音楽(Rock and Roll, Rock ’n’ Roll) に発展、これを真似た(導入した)白人カントリー歌手がロカビリー(Rockabilly)を誕生させたということでしょう。

 下は、1954年、エルビスが初めてマイクを握ったSUN Studio、Arthur Crudupがエルビスのバックコーラスとリズムギター、Scotty Mooreのリードギター、Bill Blackのアップライトバス、そしてエルビスの才能を見出したSam Philipsプロデュースのセッションシーンです

 ロックンロールとロカビリーは厳密には異なりますが、ほとんど同じ意味です。敢えてその代表する歌手の名を上げるとすれば、ロックンロールではLittle Richard(1932- 2020)そしてChuck Berry( 1926 – 2017,代表曲は「Johnny B. Goode(1958)」)、一方のロカビリーでは、Elvis Presley(1935 –1977)そしてCarl Perkins(1932 - 1998、代表曲は「Blue Suede Shoes (1956)」)でした。

 1958年、ロカビリーの波は日本にも上陸、カントリーの平尾昌晃、ミッキー・カーチス、山下敬二郎等が「ウエスタンカーニバル」に出演、「ロカビリー・ブーム」に発展します。

 しかし、1960年代になると、エルビスが兵役に就き、ツイストがブームになり、ロックンロール(あるいはロカビリー)は衰退します。1962年には、そのロックンロールを自分のものとした、ビートルズがデビュー、1964年以降のイングリッシュ・インベイション(English Invation)は従来のロックンロール(あるいはロカビリー)を今日云う「ロック(Rock)」に変革しました。これを境にして、ビートルズ以前を「オールディーズ(oldies)」と呼ぶようになりました。

 呼応するように、日本においてはタイガーズ、テンプターズ、スパイダーズが「ウエスタンカーニバル」のステージに上がり、「グループサウンド」ブームが始まりました。 

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May 14, 2020

がんばれ!「嵐が丘」

 日本人にとって「自粛」は「強制」とほとんど同じ効果を発揮するらしく、5月大型連休時の「外出自粛」の効果が現れたのか、この1週間の新型コロナの感染者数が2桁台と、第二波のピークは過ぎたようで、3月中旬のレベルまでに下がって来ました。

 スーパーなどの食品売り場ならともかく、歩道、散歩する野道でさえ、マスクを付けないで歩くようなものなら前からやって来る人から冷たい、刺すような視線を感じることがあります。公園で遊んでいた親子が近所の人間に通報され、警察官がやって来た話、他府県ナンバーの車へのいたずら…等、善人の善意で発せられる言葉や行動が功を奏したようです。

 市美展案内 今年に入り、新型コロナウイルスの暗雲が徐々に垂れ込み、その暗さを増してきました。2月末〜3月初め、町田市立国際版画美術館での「市美展」へ初めて私の絵を出展したのですが、残念ながら来場者は想像の通り。3月末の「尾根道桜祭り」会場隣接の個人宅での展示会への出展も、お祭り自体が中止になってしまい残念な結果でした。
20200508_嵐が丘ファザード

 喫茶店「嵐が丘」がお休みの月曜日に開催の「(歴史)雑談会」、参加費用4百円(コーヒー&お菓子付き)、「歴史」から始まるのが原則で3時間の雑談会。2019年5月に4人で開始、12月には忘年会(ピザパーティ)、会の存続も心配しましたが年を越すことが出来、会員も6人から8人に安定しました。それまでは、面倒なことに一人ひとりにドリップコーヒーをいれていたのですが、会員の一人からコーヒー・メーカーの提供があり、袋入りの豆を買って一度にコーヒーをいれます。心配された毎回の話題も、これだけの人数になれば何ら困ることもなく、余裕さえも出て、新規会員募集の案も出ましたがそれには及ばず、会員総数10名(9名)の立派な同好会に成長して来ました。「政治と(皆さん得意な)健康(薬)」の話は禁句、最初は「グー」ではなく、「歴史」から始めることを条件に、何をしゃべっても良いのです。ちょっとは「知的な」、あくまでも「遊び」です。

 コロナ渦中に在りながら、「(歴史)雑談会」は依然として「嵐が丘」のドアに「CLOSE」のサインを掲げ、店内では怪しげな年寄り連中が談笑している様は、外部から見れば「この非常時に…、非国民的な!」と映ったはずです。参加者全員は少なくともこの団地に住む人間で、身元もはっきりしているし…と、同じ村落共同体の仲間意識も芽生えて、続けようとの声もありましたが、万が一感染発生となればお店にも迷惑をかける、ということで継続を断念しました。

 4月、「嵐が丘」にて『小山田の有重』絵画展をさせてもらうことになっており、月初めに作品を搬入、壁に掛ける作業を完了したのですが、コロナ禍の状況悪化を受け、お店も閉鎖せざるを得なくなってしまいました。

 あれから1か月が過ぎ、「自粛」・「自粛」で、新型コロナが原因ではなく、それ以外の疾病・精神障害を理由に死に至る人が現れるのではないかと危惧してしまいます。素人考えは危険かもしれませんが、ここまで来れば、ウイルス感染防止というよりもこのウイルスと共存してく(私の年になれば感染すれば、抗体を作ると云うよりも即、死ですが…)ことを考えるべきでしょう。いつまでも無菌状態を保つのは不可能です。ということで、「(歴史)雑談会」の有志3人、他人の目を盗んで、近くの公園の東屋を会場に、臨時革命(亡命)政府を樹立、禁を犯しての、楽しい3時間でした。190201_絵画展案内状

 普段の「嵐が丘」は主に中高年女性のたまり場にて、さすがの私にもその敷居は低いものではありません。ひょんなことから私の絵を気に入ってもらい、これまでに私の『小山田有重』絵画展を2回、交換条件に図々しくも、私がメンバーの一人のバンド『The K.A.Y.A Band』のミニ・コンサートを2回やらせてもらThe K.A.Y.A. Band Live DMっています。エルビス・プレスリーに例えるならSUN RECORDS、ビートルズのCAVERN CLUB、私の絵と音楽の原点とも言うべきお店です。

 そんな「嵐が丘」が非常事態宣言で3密を理由に閉店を余儀なくされているのを座視している訳には行きません。お店のママに進言しています。

「シャッターを上げ、ドアの前にテーブルを置き、テイクアウトのコーヒー&サンドイッチ・クッキーをやろう!」

しおり_1 大した売り上げにはならないとは思いますが、お店には多くの中高年女性ファンがおり、その方法さえ示しさえすれば、溜まり場であるお店へのカンパも集まります。外出自粛で、皆さんが自宅に籠ってやれることと云えば「読書」、その読書に欠かせない「栞(しおり)」を作りました。しおり_2

 外に出て、美味しい空気を吸えば元気も出てきます。テイクアウトを求めに来てくれたお客様に使っていただこうと考えています。よろこんでんでもらえるでしょう。

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April 25, 2020

この曲<31 >  Made In Japan

 以前からAMAZONを利用していましたが、最初の1か月は無料の宣伝文句に騙されて(?)、Primeサービスとやらに入りました。条件付きですが、映画だけでなく、音楽も楽しめるということで大いに期待しました。「Prime Video」は全くの期待外れ。「Prime Music」は、このアーティストをさらに深く聞こうとすると…「AMAZON Music Unlimited」へのお誘いが入り気に入りませんが、個人的には、何とか許容の範囲にあると云えるでしょう。

 私は「Prime Music」で主にカントリー・ロックとブルース・ロックを聞いているのですが、これがAIのすごいところでしょうが…、聞けば聞くほど、時間が経過すればするほど、自分の好みの傾向の曲が流れるようになって来ます。毎日、聞くとはなしに、流していただけなのですが、何十年ぶりかにその曲を聞いてびっくりです。

Buck Owens in Japan その曲とは「Made In Japan」。Buck Owens(1929-2006)が歌って大ヒット、1972年アメリカおよびカナダのカントリーチャートNo.1の大ヒットでした。「Bakersfield sound」という言葉をお聞き耳にしたことがおありでしょう。60年代、ナッシュビルから遠く離れたカリフォルニア州ベーカーズ・フィールドにおいて、それまでの伝統的なホンキートンク音楽を電気楽器多用のロックぽぃカントリーが生まれ、Buck Owensが、Merle Haggardと共に、その先導役を果たし、1963〜1967年の間に彼は15のNo.1ヒットを飛ばしました。60年代のGram Parsons(元The Byrds)そして80年代のDwight Yoakamは彼の大きな影響を受けました。1965年Beatlesのアルバム「Help!」でRingo Starrは「Act Naturally」をカバー、John Fogertyは「Lookin' Out My Back Door」で彼のことを歌っています。

 ※昔、バンドのNobuさんとウエストコーストを旅行、ベーカーズ・フィールドでBuck Owensが造ったCrystal Palaceを訪れたことがあります。
 
 何十年ぶりに私が耳にした「Made In Japan」はThe Kentucky Headhuntersがカバーした曲で、彼らは1968〜1982年、一時中断の後1986〜現在と活躍しているとは、メンバー交代はあったにせよ、若くはないバンドです。実は彼らがカバーするThe Everly Brothersの「So Sad ( To Watch Good Love Go Bad)」を、それまた我々がカバーしたことがあります。

 今でもあまり変わっていないと思いますが、オリエンタルな(異国趣味丸出しの)「Made In Japan」 をお聞きください。単純ですが、いや、シンプルですが、いいいですよ。


Made in Japan

私のトランジスターラジオは遠くからやって来る
こちらが夜の時、向こうは夜が明ける
私には砂の中を散歩した良い思い出がある
日本で生まれた美しい少女と

彼女の顔の美しさは私の粗野な想像を超え
春の初め、山中の桜の花が揺れるように
二人は川岸を歩き、彼女はそっと私の手を取り
その時、日本で生まれた彼女と深い恋に落ちた

夜の暗闇の中、二人は東京湾に身を委ね
夜が明け、鳥たちの声で二人は目覚める
彼女の微笑む瞳は理解しようとするよう
日本で生まれた彼女への私の全ての愛を

私のトランジスターラジオは遠くからやって来る
こちらが夜の時、向こうは夜が明ける
彼女は別の男と既に約束されていると云って泣いた
これは日本で生まれた彼女と過ごした懐かしい思い出
私の心は、いつも、日本で生まれた彼女と共に

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January 25, 2020

オールディーズ Oldies


IMG_2429 上は昨年12月25日、地元の喫茶店「嵐が丘」で我々K.A.Y.A. Bandがライブ演奏した楽曲です。今回で3回目ともなれば、我々の好み一辺倒な曲だけでなく、お店に来てくれるお客が好きそうな、あるいは聞いたことがあるような曲を選びました。ご披露した14曲を眺めてみると、比較的新しい「Every River(1997)」でも20年以上前、最古の「Bye Bye Love(1957)」になると60年以上も昔の話。2020年の現在から見れば全ての曲は「オールディーズ(oldies)」です。東京オリンピック(1964)の時が中学3年生、それから2年後にビートルズが来日(1966)した時が高校2年生と、ほとんど私の青春時代と重なります。本当に私と同時代の曲と云えば「Surfin USA(1963)」以降の曲で、それ以前の「Bye Bye Love(1957)」はSimon & Gurfankelのカバーで、「Johny B. Goode(1958)」は後年、「Let's Twist Again(1961)」に至ってはさらに後年で、20年前、中高年の溜まり場、「六本木ケントス」で初めて聞きました。

 私の青春時代の洋楽にはプレスリー(Elvis Presley)は入っていません。プレスリーと云えば、当時、「ドーナツの穴を食べ過ぎて(冗談ですが)」中年太りした彼が、フリルの付いた白いステージ・コスチュームで歌う「Elvis On Stage」しか記憶になく、それ以前の彼、デビュー当時の彼の歌を聞いたのはつい最近、Youtubeのお陰です。もう一つの伝説、ビートルズ(The Beatles)は私と全く同時代のバンドで、何枚かのレコードを買い、人並みにファンとなったのですが、世間の動きとは逆に、私はビートルズを含めた英国からアメリカ音楽、特にカントリーぽぃロックにその好みが変わって行きました。今回のライブでもビートルズの曲は「ノルウェーの森(Norwegian Wood 1965)」一曲のみで、一般的には、マッカートニーのキーが高いこともカバーを難しくしている理由の一つです。

 こうして振り返って見ると、洋楽に目覚めた中学時代、ラジオの深夜放送にヒット曲を追いかけた高校時代、私は洋楽の変遷における大きな節目、歴史的転換期に遭遇したことになります。ポピュラー音楽(POPs)はラジオ放送が始まって以来のものですが、私がレコード、ラジオを聞いたその時代には「オールディーズ(oldies)」という単語は存在しませんでした。1920年代から、米国はハリウッド映画、ジャズ、ブロードウェイと「Tin Pan Alley」音楽、そして後にメンフィスに登場したロックンロール(プレスリー等)を介して、世界の大衆娯楽文化を支配して来ましたが、ビートルズはアメリカへの「British Invasion」を引き起こしただけでなく、世界に革命的な衝撃を与えました。1965年、彼らの「ノルウェーの森(Norwegian Wood)」収録のアルバム「ラバー・ソウル Rubber soul」が、続いて1966年にアルバム「リボルバー Revolver」がリリースされたことは大きな節目でした。これを境に、彼らは先ずアルバム・コンセプトを定めてからその収録曲を制作、アルバム・デザインもコンセプトを表現したより芸術性の高いものになり、「5番目のビートル」と呼ばれるジョージ・マーティン(George Martin) のリードでクラシックとの融合等極めて実験的なものとなり、自ずとスタジオ録音に傾倒して行きました。ヒット曲を出すと、その他の曲の寄せ集め(Filler)でアルバムを作るのが従来の一般的な手法でした。

 これを背景に、1968年、ニューヨークのあるラジオ局が「ビートルズ以前」の音楽を「オールディーズ(oldies)」と呼んだことが、良かれ悪しかれ、最初であったと聞きます。ビートルズを境に、それ以前と以降、「オールディーズ(oldies)」という新語が生まれたのです。もちろん、「オールディーズ(oldies)」には否定的な意味だけではなく、肯定的なファンも多く、1973年には、ジョージ・ルーカス(George Lucas, 1944)監督の映画「アメリカン・グラフィティAmerican Graffiti」は挿入された「オールディーズ(oldies)」は多くの挿入歌と共に大ヒットとなりました。最近、ものによっては「クラッシク・ロック」とか、そのような表現方法もあるようですが、冒頭の14曲などはさしずめ「古典芸能」なのでしょうか。

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December 31, 2019

第11回 かってにHKX紅白歌合戦

 最近の ミラーレスデジタルカメラの進歩には著しいものがあり、プロの映画撮影にも使われています。スティルカメラとビデオ(ムービー)カメラとの境界がなくなったということです。しかし国際間の貿易関係ではそうではないようで、日本とEUとの間では両者は厳然と区別されています。EU側のビデオ(ムービー)カメラを保護を目的に、「スティルカメラは30分以上の動画撮影ができない。30分以上はビデオ(ムービー)カメラに分類される」ということのようです。前回の『Rock 'n' Roll Christmas Live at 嵐が丘』(2018/12/22)では、写真ではセミプロの腕前を持つ友人に動画の撮影をお願いしたところ、結果は…、鴨居に設置したスティルカメラはリハーサルでほとんど30分を費やしてしまい、その後はズーッと停止状態で、それに気づいたのは演奏が終了してからの事でした。後の祭り…、とはこのこと。今回はその雪辱を果たすべく、オープン2時間前からから始めたアンプ/マイクの設営、リハーサルからスタンバイ、バンドの前に陣取っています。その動画のファイルサイズが60ギガ・バイト、ポータブルHDDで頂きました。

 大晦日、2019年も残り時間がわずか、この辺で「第11回 かってにHKX紅白歌合戦」を始めましょう。
第11回HKX紅白歌合戦
 
 既にご存知の通り、私は町田市小山田桜台という団地(1千5百世帯)に住んでいます。御多分にもれず、高齢化が進んでおり、当団地も例外でなく、団地商店街にはかろうじて「スーパー三和」があり、商店街の何軒かはシャッターが閉まっています。

 その一角にありながら、時には画廊となり、時には歴史雑談会・サロン、今回はコンサート会場となる、ローカル文化の発信局、コーヒーハウス「嵐が丘」があります。その「嵐が丘」を会場に『Rock 'n' Roll Christmas Live』が催されました。
 
 「Rockin ' All Over The World」はJohn Fogertyの曲ですが、私は本来ならばロックンロールは余り好きではなかったのですが、Nobuさんの歌で好きになってしまいました。因みに、英国のStatus Quoというバンドが歌ってヒットしました。もう一つ因みに、Status Quoとはラテン語で「現状維持」の意味。

 「Be My Baby」、The Ronettes、1963年のヒットです。

 「Let's Twist Again」、Chubby Checker、1961年のヒットです。実を云うと、私は当時この曲を知りませんでした。1990年頃(?)、転勤で東京に来た頃、友人に連れて行ってもらったOldiesばかり聞かせる中年向けのクラブ「Kentos」で初めてこの曲を聞きました。因みに、Chubby CheckerのChubbyとは「太っちょの」と云う意味。

 そろそろお時間ですね。

 どうぞ、良い年をお迎えください。

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July 19, 2019

この曲<30-2> "Islands In The Stream" その2

※「Bee Gees その1」から続きます。Wikipediaを参照してBee Geesの歴史を振り返ってみましょう。

Bee Gees_2 Barry(1946-)、Robin(1949-2012)、 Maurice Gibb(1949-2003)三兄弟は英国マン島で誕生。1958年、一家はオーストラリアに移住。1960年、ブリスベンに在るラジオ局のDJ、Bill Gates(ビル・ゲイツ MSの彼とは別人)を紹介され、彼の名前に因んで、バンド名を「BGs(ビージーズ 後にBee Gees)」としたそうです。1963〜66年、シドニーに居住、最初のメジャーヒット、『Spicks and Specks』が誕生したのはこの頃でした。しかし、それ以上の成功には恵まれず、1967年、三兄弟は英国へ帰ります。

 1967年、NEMSと契約、最初のシングル『New York Mining Disaster 1941』は全英・全米トップ20入りを果たします。1968年、最初の全英No.1シングル『Massachusetts』(全米No.11)を収録するファースト・アルバム『 Horizontal』は全米No.12、全英 No.16を記録、その頃が1960年代におけるビージーズのピークでした。一方では、兄弟間に亀裂が生じ、1969年、Robinがグループを離脱、残ったBarryとMauriceも別々な道を歩くことになります。1970年初めになると、ビージーズは終わったものと認識されていました。<<最初の高揚と凋落>> ※私も同じ認識で、以来、『Islands in the Stream』を耳にするまで彼らを毛嫌いしていました

 1970年、再結成。アルバム『Trafalgar』が1971年末にリリースされ、シングル『How Can You Mend a Broken Heart』はまず全米No.1を達成、初めてグラミー賞Best Pop Performance by a Duo or Group with Vocals部門にノミネートされました。その後、彼等の楽曲が映画『Melody』のサウンドトラックに採用され、1972年、『My World』が全米No.16、『Run to Me』は過去3年で初めて全英トップ10の地位に返り咲いたりしましたが、それもつかの間、彼らはマンネリ化してしまい、1974年になると、彼らは各地の小さなクラブで演奏する、ドサ周り状態に落ち込んでしまいました。<<二度目の高揚と凋落>>

 ビージーズは溺死寸前の状態で、ワラをも掴むかのように…、リズム&ブルースへのめり込んで行きました。これが、またもや、幸運が巡って来るきっかけになるとは…。1975年始め、録音を目的にマイアミに移住、全米No.1『Jive Talkin』やNo.7『Nights on Broadway』等のダンス志向のディスコソングが制作されました。アルバム『Main Course』がチャートイン、収録の2曲が同時に全米トップ10入りを達成、新しいR&B/ディスコ・サウンドは一部の熱心なビージーズ・ファンには全く不人気でしたが、このアルバムは彼等を、かつては全米で達成しえなかったスターダムの地位に押し上げることになります。
Movie Starday Night Fever 『Saturday Night Fever』サウンドトラック作成は彼らのキャリアにとって大きなターニング・ポイントでした。映画とそのサウンドトラックは世界に大きな衝撃を与え、3枚のシングル、『How Deep Is Your Love』『Stayin' Alive』『Night Fever』は英米はじめ世界各国でチャートの高位置に付け、ディスコ時代の絶頂期が始まりました。映画の成功とともに、サウンドトラックは4千万枚以上を販売、史上最も売れたアルバムになりました。『Saturday Night Fever』は歴代トップ5に入るサウンドトラック・アルバムとなり、グラミー賞各部門を総なめにします。しかし、今までのパターンを繰り返すかのように、1979年末までには、絶頂だったディスコは急激にその人気を失い、全米各地のラジオ局ではキャッチ・コピー『Bee Gees Free Weekend(ビージーズなしの週末)』も現れる始末でした。<<三度目、空前絶後の絶頂と凋落>> 

 1980年、Barryは  Barbra Streisandのアルバム『Guilty』制作に参加、結果は全米・全英ともにNo.1を獲得。収録の『Woman in Love』は今日に至るまで、彼女の最も成功した曲であり、デュエット曲『Guilty』及び『What Kind of Fool』は全米トップ10を達成します。1982年、 Dionne Warwickの名を冠したアルバムの収録曲の多くがビージーズの作であり、Barryとの共同プロデュースによる『Heartbreaker』は全米アダルトコンテンポラリーNo.1ヒットを達成。1983年、 ビージーズ作の、Dolly PartonとKenny Rogersの『Islands in the Stream』は全米No.1、全英トップ10入りを達成。Rogersの1983年のアルバム『Eyes That See in the Dar』の全曲がビージーズ作であり、Barryとの共同プロデュースによるもので、アルバム全米トップ10ヒットとなり、ダブル・プラチナに認定されました。
 
 1987年、ビージーズの『You Win Again』は多くの国で1位になり、60年代、70年代、80年代、それぞれの期間において全英No.1ヒットを記録した最初のグループとなりました。1987年、英国アカデミーのIvor Novello賞を受賞、1988年、Brit Award( Best British Group部門)を受賞。<<四度目、奇跡の復活>>

 1990年初めから、Mauriceはアルコール依存症でしたが、Barryも深刻な腰痛と関節炎に悩まされていました。1997年、ビージーズはラスベガスにてライブ・コンサート「One Night Only」を開催、このコンサート名はBarryの深刻な健康問題を反映したものでした。

 2003年、音楽的なリーダーであったMauriceは腸捻転の緊急手術を待つ間に、心臓発作で死亡。「Bee Gees ビージーズ」の名前は、グループ名から離れ、三兄弟を表すものとして残されることになり、ビージーズはグラミーLegend Awardを受賞、21世紀における最初の受賞者となりました。2011年、Robinは肝臓がんと診断され、2012年、肺炎に感染して健康状態が急激に悪化、肝・腎不全で死亡。Barryは兄弟唯一の生存者となり、音楽グル-プとしてのビージーズは解散となりました。

 ビージーズは自らパーフォーマーとして全世界で2億2千万枚以上のレコードを販売したというだけでなく、他の多くのミュージシャンに楽曲(その多くが大ヒットとなる)を提供するという、偉大なソングライティング・ユニットでも在りました。ここまでビージーズの歴史を振り返ると、英国マン島に生まれ、ブリスベン、シドニー、ロンドンそしてマイアミへと移住を重ね、その音楽は3人のハーモニーを基本に、フォーク、フォークロック、ロック、リズム&ブルース、ディスコ(ダンサブル(踊れる)・ミュージック)、カントリーと変遷、そして60〜70〜80〜90年代、現在に至るまで、何時の時代をもリードしてきました。好き嫌いは別に…、ビージーズはLennon/ McCartneyを超えた存在であると言えるでしょう。

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July 12, 2019

この曲<30> "Islands In The Stream" その1

 先日、ストリームラジオのカントリーを聴いていたら、カントリーらしからぬ…と云うか、ディスコぽぃ曲が流れて来るではないですか。

 Emily Ann RobertsとBlake Sheltonのデュエットが歌っており、さらに調べるとオリジナルはDolly PartonとKenny Rogersの『Islands In The Stream』、カントリー界の大御所が歌うれっきとしたカントリーで、日本で云うならば石川さゆりと北島三郎のデュエット演歌のようなものです。この曲がカントリーとは思いもよらず、ましてや1983年の二人のAcademy Of Country Music賞 Single Of The Year賞を受賞していたことを知って、カントリー好きの私には大きなショックでした。詰まるところ、カントリーはカントリー歌手が歌っているからカントリーであって、リズム&ブルースやディスコの曲でも、カントリ歌手が歌えば、カントリーになるということでしょう。それぐらいいい加減なジャンルと云えるのでしょう。

Bee Gees_1 それもそのはず…、1977年(日本公開1978年)の映画『Saturday Night Fever 』は世界中で空前の大ヒット、そのサウンドトラックを作り、演奏したのがビージーズでした。彼らの『How Deep Is Your Love』『Stayin' Alive』『Night Fever』はいずれも全米No.1始め、世界各国でチャートの高位置に付け、ビージーズ・ディスコ時代の絶頂期でした。あれ以来、長らく、私はビージーズを聴いたことがありませんでした(▶「アーバン・カウボーイ」)。

 あれほど盛り上がったディスコ時代は1979年末までに急激に凋落、ビージーズはディスコ路線を修正できず、全米はじめとする各国のチャートでは影が薄くなっていました。そのころから、ビージーズは、自らのためというよりも、他のアーティストの為に曲を提供することが多くなり、この『Islands In The Stream』も本来、R&BのMarvin Gaye(マービン・ゲイ)に提供すべく書かれたもので、曲自体がディスコぽぃのはこのことが理由か…、急遽カントリーの Kenny Rogers  and  Dolly Partonに変更されたそうです。

 嫌味な言い方をすると、ディスコで全盛期を迎えたビージーズは、時代が一転 ディスコからカントリーに180度変わると、ビージーズは節操もなくカントリーに乗り換えたとも言えなくもありません。多くの人がそうでしょうが、私とビージーズとの出会いは、1967年の『マサチューセッツ(Massachusetts) 』でした。時代はピーター・ポール&マリー、ブラザーズ・フォアなどのフォークからB.ディラン、バーズなどのフォーク・ロックへ、ビートルズの『ノルウェーの森(Norwegian Wood)』及びその曲が収録されているアルバム『『ラバー・ソウル(Rubber    Soul)』が発売されたのが1965年でした。

 ※「Bee Gees その2」に続きます。

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May 22, 2019

この曲<29> "Let's Twist Again"

「無事です」 災害発生時、家族に異常が発生した場合は「SOS」を、異常なしの場合は「無事」を示すマグネット・カードを玄関ドアに貼ることになっています。

 関西の友人から、安否を気遣う「LINEもご無沙汰、Blogの新たな投稿もなく、だいじょうぶ?」のメッセージあり。遠隔の友人にはこのブログが安否確認カードです。

 日曜日、私も組合員である管理組合総会に出席しました。同じ団地に住みながら、今まで話したことさえなかった者どうしが、2015〜2016の2年間、組合理事として種々難題(?)への対処を通じて、相互の団結が強まり、今回の総会においても同窓会の様相です。久しぶりの再会に「元気でしたか?」の挨拶。そういえば、最近は、外で会うことが少なくなった人もおられ、何らかの事情で外出する機会が減ったようです。洋楽ファンの皆様はよくご存じでしょう。昔(1970頃)、クロスビー・スティルス・ナッシュ&ヤング(Crosby, Stills, Nash & Young)の歌う『Teach Your Children』、アメリカでは小学生のキャンプでも歌われるそうですが、その歌詞に"their father's <health> did slowly go by"、”父親たちもゆっくりと老いて行く”、というフレーズがありました。若い時には、長く感じられる一生から見ると老化は「ゆっくりと」進行するように思うのですが、この歳になってみると、「ゆっくりと」ではなく、階段を一段一段、ガクン・ガクンと下るようなもので、場合によっては足を踏み外してしまう例が周りを見回しても多く見られるようになりました。

 ※因みに、若い時の思いを『Teach Your Children』に寄せて語ろうと思ったのですが、調べてみると「health」が「hell」に変わっているではありませんか。ネット上でもちょっとした論争になっているようです。"their father's <hell> did slowly go by"は、”父親たちの地獄(の記憶も)もゆっくり失われて行く”という意味なのでしょうか…。「hell」とはベトナム戦争(の記憶)?。

 一寸先は闇。お金をかけないで…という条件は付くものの、人には迷惑をかけないことは言うまでもなく、やりたいことをやる。できれば、それが皆さんに喜んでもらえるのであれば尚よし…、とばかりに、夏の団地際のステージに出ようと考えています。我々のバンド、The K.A.Y.A. Bandは本来カントリー・ロックバンド。ドラム、ギター・アンプ、ボーカル・アンプ等のPA、出来ればこれらを調整するミキサーが欲しいところ、これらを主催者側が用意してくれることを条件にしています。団地住民で、先日、喫茶店『嵐が丘』でミニコンサートを実施したジャズ・デュオ(ほとんどセミプロ)がおられるなど、PAさえ用意してもらえば、団地内には1千5百世帯(4千人?)が居住、他にも出演するバンドがあるように思います。

 昨年11月、The Queenの映画『ボヘミアン・ラプソディ(Bohemian Rhapsody)』公開時の熱狂は、普段ロック、カントリー、ポップス等、いわゆる洋楽に興味がない人さえも巻き込んでの大騒ぎで、私には信じがたい風景でした。この「洋楽に興味がない人さえも巻き込んで…」が私にとっては重要、ステージに上がるかどうかは別にして、どこかで聞いたことのありそうな曲、「ノリ」のよい、あるいは「ノリ」だけのロックン・ロール、そして誰もが耳にしたことのあるオールデイズを中心にやろうと計画しています。

 今回は練習中の曲、チャビィ・チェッカー(Chabby Checker)の『 Let's Twist Again』(1961)をご紹介します。曲間のセリフは難題、バックコーラスは一部がずれており、完成度は高くはないのですが、ブログ更新(「無事」を知らせること?)を優先して公開します。上述のCrosby, Stills, Nash & Youngのズーッと前、さらにはビートルズの出現する数年前、私も同時代ではなく、三十数年前、東京に転勤した時、よく行った中高年の溜まり場『KENTOS』で聴いたのが印象に残っています。

 ※またまた因みに…、『マサチューセッツ(Massachusetts 1976) 』や映画『サタデー・ナイト・フィーバー( Saturday Night Fever 1977)』でおなじみのビージーズ( Bee Gees)は当時、オーストラリア在住、1962年、このチャビィ・チェッカーのシドニー公演で彼の前座を務めたそうです。

 「ノリ」だけの曲、歌詞を訳そうか…とも思いましたが、アホらしくて…止めました。私の時代、そう『Teach Your Children』の時代に比べると、歌詞にひねりがありません。


Chubby Checker – Let's Twist Again

Come on everybody!
Clap your hands!
All you looking good!

I'm goona sing my song
It won't take long!
We're gonna do the twist
And it goes like this:

Come on let's twist again,
Like we did last summer!
Yeaaah, let's twist again,
Like we did last year!

Do you remember when,
Things were really hummin',
Yeaaaah, let's twist again,
Twistin' time is here!

Heeee, and round and round and up and down
We go again!
Oh, baby, make me know you love me sooooo,
And then:

Twist again,
Like we did last summer,
Come on, let's twist again,
Like we did last year!

Twist! Yo!

Who's that, flyin up there?
Is it a bird? Noooooo
Is it a plane? Noooooooo
Is it the twister? Yeaaaaaaahh!

Twist again, like we did last summer,
Come on, Let's twist again,
Like we did last year!

Do you remember when,
things were really hummin',
Come on, let's twist again,
Twistin'time is here

Heeee, and round and round and up and down
We go again!
Oh, baby, make me know, you love me sooooo!
And then:

Come on, twist again, like we did last summer,
Let's twist again, like we did last year!

Come on, let's twist again,
Twistin'time is heeeere! 

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May 01, 2019

この曲<28> "Tube Snake Boogie"

  お世話になっている喫茶店「嵐が丘」で面白い人と知り合いにった。ある時は仁平さんを羽織り手には扇子、ある時はカウボーイハットにジーンズ…、変わらないのはサングラス。私より一回りぐらい若いか…?、背が高く、昔は不良だったであろう、悔しいが…、カッコいい男。今は知らないが、昔はバイクを乗り回していたらしい。団地の住人ではなく、「在」の人。「嵐が丘」のママに花を届ける、それも、かなりサマになる男である。今のご時世に珍しく、彼はタバコを吸い、お店の外で雑談すると、ジャズは判らないがロックは好きと云う。録音したバンドのノブさんが歌う『Tube Snake Boogie』を聞いて、ZZ Top(ズィー・ズィー・トップ)は好きだと云う。

ZZ Top いつもの口調に戻って…、ロックンロールついでに、その『Tube Snake Boogie』をいってみましょう。1981年の大ヒット、ビルボードで最高4位。歌詞を訳そうか…、とも思いましたが、どうも日本語にすると卑猥になりすぎる感あり、歌詞の大意のみ記すことにしましょう。

 「チューブ・スネイク」とはサーンフィン用語(スラング)で、〜 snaking a wave 〜とは「いい波に乗る」という意味らしい。

 しかし、しかし…、この曲は三人の彼女を持つ男の話。一人目は街の向こうに住む娘、二人目は一つブロック先に住む娘、三人目は丘の上に住む娘。一番目と二番目の二人は「チューブ・スネイク」が大好き、それも、一晩中。三番目の娘は「チューブ・スネイク」が好きではないが、その妹は大好き。キワドイ、性的な隠喩に満ちている、とは私の考えすぎ?今回は和訳せず、原語のままにしましょう。


 
Tube Snake Boogie

I got a girl she lives cross town,
Shes the one that really gets down.
When she boogie,
She do the tube snake boogie.
Well now boogie little baby,
Boogie woogie all night long.

I got a girl she lives on the block,
She kinda funky with her pink and black socks.
She likes to boogie,
She do the tube snake boogie.
Well now boogie woogie baby,
Boogie woogie all night long.

I got a girl, she lives on the hill.
She wont do it but her sister will,
When she boogie,
She do the tube snake boogie.
Well now boogie little baby,
Boogie woogie all night long.
Blow your top blow your top blow your top.

 彼に似合う一曲です。

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April 26, 2019

この曲<27> "Rockin' All Over The World"

 『Rock'n Roll Christmas Live at 嵐が丘』以降、我々バンドの新曲はまさにロックンロール一色になって来ました。ブルースから派生したもので、3コード・12小節が基本。私のように長年ギターはやっているが、コードしかたたけない人間にとっては単純に「ノリ」の良さだけ。「リフ」の真似事は出来るのですが、本当の意味の「リフ」は小指がフレットに届かず、やっと届いたとしても、曲はさらに前を行っています。歌詞はコードに輪をかけたように単純、日々の生活の一こまを歌っただけのもの。単純なメロディ、リズムと歌詞、それの繰り返しは原始的な音楽と言えるでしょう。しかし、単純だからこそ、アフリカのブードゥー教や櫓の周りを回る盆踊りのように、人を狂わせ、恍惚・トランス状態に没入させるのです。

status quo 英国に「ステイタス・クオ(Status Quo)」というバンドがあり、Youtubeで見るも、単なるコピー・バンドと思っていたのですが、英国ではかなり有名で人気のあるバンドとは、バンドのノブさんの言。かつて、クリーデンス・クリア・ウォーター・リバイバル(Creedence Clear Water Revival)のメンバーの一人、ジョン・フォガティ(John Fogaty)が作った『Rockin' All Over The World』の歌詞を少し変えてカバーしています。歌詞の2番目、(※)内にジョンのオリジナルの歌詞を載せておきます。今では、ジョンのオリジナルよりも、「ステイタス・クオ」版の方が、少なくとも、英国では人気が高いようです。因みに、「Status Quo」とは「ラテン語 現状・現状維持」の由。

 本当のリフが出来ない私は、バックコーラスをするわけでもなく、やはりこの曲はThe KAYA Bandノブさんのギターソロが聞かせどころ、「ノリ」がすべての曲です。

 


さあ、ここらで、行ってみよう
みんな乗った 出発しよう
さあ行こう 世界中をびっくり仰天させよう

さあ行こう こんなところを抜け出して
俺たち気分が良くなって 今日のうちには出発だ
さあ行こう 世界中をびっくり仰天させよう

いい気分だ
最高だ
さあ行こう 世界中をびっくり仰天させよう

今からやろうとしていること お前のママに言っとくよ
(※ お前のパパがやっていること お前のママに言っとくよ)

早く出て来いよ ダンシングシューズを履いたままでいいから
(※ 彼は夜な夜な飛び出してやって来る お前のダンシングシューズを履いて)
さあ行こう 世界中をびっくり仰天させよう

いい気分だ
最高だ
さあ行こう 世界中をびっくり仰天させよう

いい気分だ
最高だ
さあ行こう 世界中をびっくり仰天させよう

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February 09, 2019

この曲<26> "Desperados Waiting For The Train"

  友人の一人、大学時代はワンゲル部員、その彼が軽四をネグラに全国を放浪、津軽海峡冬景色いや計画的に旅行しています。あれは3年前(?)…、箱根の峠を、最初は三島から東へ、二回目は箱根湯本から西へ越えようとして、いずれも時間切れで踏破出来ませんでしたが、その箱根峠に連れて行ってくれたのが彼でした。その彼からLINEメッセージ、「ご覧あれが竜飛岬北のはずれと〜♪」。厳寒の中、彼はワンゲル時代の友人と二人で東北地方を旅行中で、本州の北端、竜飛岬に到達したのです。

 「上野発の夜行列車降りた時から〜♪」の『津軽海峡冬景色』もそうですが、「汽車を待つ君の横で僕は〜♪(ここまで一気に…」の『なごり雪』等の楽曲は「鉄道ソング」と呼ばれるそうですが、アメリカでは「トレイン・ソング Train Song」と呼ばれます。私の好きなトレイン・ソングと云えばグラディス・ナイト(Gladys Knight)の『夜汽車よジョージアへ Midnight Train to Georgia(1974)』、R&Bの最高傑作の一つですが、これには元歌があります。 ジム・ウェザリー(Jim Weatherly)の『The Midnight Plane To Houston(1972)』、ペダル・スチールの入ったれっきとしたカントリーでしたが、残念ながらヒットしませんでした。

Guy Clark もう一曲、昔、『ミスター・ボージャングル Mr. Bojangles』『L.A. フリーウエイ L.A. Freeway』とともにジェリー・ジェフ・ウォーカー(Jerry Jeff Walker)が歌った『Desperados Waiting For The Train』です。ガイ・クラーク(Guy Clark)が書いた曲です。



"Desperados Waiting For The Train"written by Guy Clark

僕がレッドリバーバレーを歌うと
彼は台所に腰掛けて一緒に演奏し、そして泣いた
七十年の人生を振り返って指を走らせ
「神よ、俺が掘った井戸はどれも枯れるのか?」
二人、僕と老人は友達
汽車を待つならず者のよう

かつて彼は放浪者そして石油掘り
そして世界を教える年寄りの先生
酔っぱらって運転できなくなると、運転の仕方を教えてくれ
片目をつぶって、女の子と遊ぶ金をくれた
二人の日々は古い西部劇映画のよう

僕が歩けるようになると、彼は僕を連れて
グリーン・フロッグ・カフェという名の酒場に行った
そこにはビール腹の年寄り達と、そしてドミノ
彼らが遊んでいる間、辺りをゴロゴロ寝そべる
僕はまだ子供で、彼らは僕を爺さんの「相棒」と呼んだ

ある日、僕が見上げると、彼はもうすぐ八十
そして、タバコの茶色いシミがあごまで広がっていた
そう、僕にとって彼はこの国のヒーローの一人
名のある老人のように彼は全身をドレスアップして
ビールを飲み、「ムーン&42」で遊んだ

彼が亡くなる前日、僕は彼を見舞った
僕は大人になり、彼は間もなく逝ってしまう
二人は目を閉じ、あの日の台所を思う
あの古い曲の違う歌詞を歌った
「しっかりしろ! ジャック! ヤツがやって来るぞ」
二人は汽車を待つならず者のよう
汽車を待つならず者のよう
汽車を待つならず者のよう

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January 21, 2019

この曲<25> "Rainy Night in Georgia"

 最近、この曲『Rainy Night in Georgia』をよく耳にします。去年10月、高校時代の4人BJ Thomasと久しぶりに再開したのですが、そのうちの一人が当時、この曲を好きだったというのを思い出し、誰が歌っていたのかを尋ねました。BJトーマスの由で、今でもそのアルバムを持っているらしく、写真を送ってもらいました。私も、同じ頃にこの曲を聴いたのですが、BJトーマスではなかったように思います。

 カントリー歌手のクリス・ヤング(Kris Young)、少し古くてコンウェイ・ツウィティ(Conway Twitty 1933-93)がカバーしているのは知っていますが、実は恥ずかしながら…、この曲を作ったTony Joe Whiteの存在を知ったのはつい最近のこと、高校時代から50年以上もたっていました。

Tony Joe White トニー・ジョー・ホワイト(Tony Joe White 1943 - 2018)はルイジアナ州の綿花農家の7人兄弟の末に育ちました。彼が初めて演奏したのは高校のダンスパーティ、卒業後はテキサス、ルイジアナのナイトクラブで演奏します。1967年、ホワイトはモニュメント・レコードと契約、ロックン・ロール、カントリー、R&Bなど多種にわたる音楽をプロデュースしました。次の3年間に、彼は4枚のシングルをリリースするも、アメリカでは商業的に失敗でした。1969年7月、『Polk Salad Annie』がUSチャート入りし、8月にはTop10に入り、最終的にはNo.8に達し、ホワイト最大のヒットになりました。私はエルビスの歌う『Polk Salad Annie』をよく覚えています。彼が、ドーナツの穴を食べ過ぎて…、今でいうメタボになる前の話です。1967年、彼は『Rainy Night in Georgia』を書き、1969、年自らの手でリリースしますが鳴かず飛ばず、1970年、エルビスが『Polk Salad Annie』をヒットさせていた頃、R&B歌手、ブルック・ベントンによって本格的なヒットとなりました。ホワイトが若干24歳の時に書いた『Rainy Night in Georgia』がその後、その後50年、100人以上の歌手に歌い継がれているのは驚くべきことです。

 同窓生から『Rainy Night in Georgia』の入ったBJトーマスのアルバムの写真を受け取った同じ月、ホワイトは2018年10月、75歳でこの世を去ったと報道されています。


"Rainy Night in Georgia" by Tony Joe White

スーツケースの周りをうろうろしながら
夜を過ごせる暖かい場所を探す
ひどい雨が降っていて
お前の声が「大丈夫よ」と呼んでいるように聞こえる

ジョージア、雨の夜
ジョージア、雨の夜
きっと、世界中で雨が降っているのだろう
世界中で雨が降っているみたいだ

ネオンサインが眩しく
タクシー、トラック、バスが夜通し過ぎ去る
遠くに聞こえる列車のうなりは
夜への悲しいリフレインの演奏

ジョージア、雨の夜
ジョージア、こんな雨の夜
きっと、世界中で雨が降っているのだろう
世界中で雨が降っているみたいだ

何度思ったことだろう
答えはいつも同じ
お前がどんな風に見ていようと考えようと
人生、これでやって行くしかないのさ

貨車の中に居場所を見つけ
ギターを手に暇をつぶす
眠れない夜は
お前の写真を胸に抱きしめる
おれは大丈夫

ジョージア、雨の夜
ジョージア、こんな雨の夜
世界中で雨が降っている


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December 30, 2018

第10回 かってに、HKX紅白歌合戦

coffee 2_2
 「紅白」と云えば、最近『平家物語』を読み直しています。後白河法皇は朝廷政治の衰退を目の当たりにして、平家政権に抵抗、源氏を支援、源氏の勢いが強まるとその内部分裂を計り、台頭する武家の切り崩しを画策、彼は朝廷政治の延命にもがき苦しみますが、武士の台頭には抗しきれず、鎌倉武家政権の成立を許してしまいます。平家は「赤」、源氏は「白」を旗印に、東北から九州まで、日本全土を舞台にした大乱、源平合戦、「治承・寿永の乱(1180-85)」は終焉、新しい世の中が開かれたことを意味しました。以降、「赤」と「白」、「紅白」は階層・地域を越えて「ハレ」を現し、今日、運動会の赤白帽・横断幕・紅白の水引・紅白まんじゅう、そして紅白歌合戦に、身近なところに受け継がれています。

第10回HKX紅白歌合戦

 講釈はこれぐらいに、今回の『第10回 かってに、HKX紅白歌合戦』は先日の『Rock'n Roll Christmas Live at 嵐が丘』の続きです。12月5日のブログ『Rock 'n' Roll Christmas Live at 嵐が丘』で元歌を参考にお聴き下さい。カメラが大好きな友人が動画(ムービー)撮影に、 まさかの…失敗をしたために、代打としてドラムのKunさんがMP3レコーダーで録音した音源を使うことにしました。

 私はLivedoorでBlogを書いていますが、実は、音楽再生に大きな問題があります。HTML5のAudio要素を使えば簡単にブログ上で音楽の再生ができるものと聞くのですが、Livedoorでは出来ません。今回の動画撮影失敗を機に、三日三晩…ウソです、まる一日、色々私なりにやってみました。過去のページを振り返ると、Adobe Flash Playerを使って音楽の再生をしていますが、いちいちブログ読者の再生許可が必要で、これでは誰もFlash Playerの存在すら気付いてくれません。こういう訳で、Livedoorブログ上で音楽の再生を断念しました。どなたか、音楽再生の良い方法をお教え願えないでしょうか?

 仕方なく、このMP3音源に写真(スティル)を載せてスライドショウにしました。以下の3曲だけを作りました。どうもカメラ大好き友人の撮った動画の方が音が良く聞こえるのは、「逃がした魚は大きい…」の類いなのでしょう。

<1> Runaway

<2> Pretty Woman

<3> Johny B Goode

  良い年をお迎え下さい。Happy New Year!

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December 28, 2018

唯一の動画 "Rock'n Roll Christmas"

181016_Rock 'n' Roll Xmas At 嵐が丘_Post Card クリスマス・イブ・イブの12月22日、地元団地内の喫茶店『嵐が丘』にて、ミニ・ライブ・コンサートを開催しました。題して『Rock'n Roll Christmas Live at 嵐が丘』。今年の3月、私の絵画展と同時に実施したミニ・コンサートの続編で、クリスマスの時期にやらせてもらったのは光栄なことです。定員15人のところに、16人が来場しました。左がその時のポスター、「50's 60's 70's」とは、曲が流行った年代なのか、それともお客の年齢なのか…、迷うところです。この団地も御多分に洩れず、60%以上が65歳以上、ほとんど限界集落です。

 2回目だからなのか、あるいはロックンロールが多く、ほとんど「ノリ」だけでで嵐が丘正面きるからか、リラックスして演奏することができました。ライブ前の数週間、脚腰の痛みから始まって最後は喉、咳に悩まされる夜もあり、やっと「これは風邪!ひょっとしたらインフルエンザ?」と慌てて病院に行った次第です。単なる風邪との診断結果でしたが、のど飴を買うやら…、1弦の「ソ」の音が出るか心配でしたが、本番では何とかなったようです。

Live_1  大した演奏のチョンボもなく、Nobuさんの司会も好評、満員のお客様にも大いに楽しんでもらったようで、今回のライブ・コンサートは、今までの練習・数少ないライブの中では最高の出来映えだったのではないでしょうか。興奮冷めやらぬその夜、関西に住む友人に、「ライブは大成功、そのビデオが出来次第ご覧にいれます」と、自慢気に報告しました。久しぶりの心地よい疲労感でよく眠ることが出来ました。

 カメラが趣味の友人に写真(スティル)だけでなく、動画(ムービ−)の撮影を依頼。彼は動画だけでなく良い音を撮ろうと、このコンサートの為に外付けのマイクまで購入する入れ込みようで事に臨んだのです。店内には三脚を広げるスペースもなく、鴨居にクランプを付けてカメラを固定、彼自慢の手元のタブレットで操作する…、というものでした。

 …が、翌朝、スマホを見ると、LINEメッセージ曰く「ごめん!面目ない!」。肝心要の、コンサート本番の様子がほとんど撮影できていないことが判明しました。さぞかし本人はショックだったはずで、慰める言葉も見つかりません。

 唯一動画の撮影に成功したのがこれ、『Rock'n Roll Christmas』です。

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December 05, 2018

Rock 'n' Roll Christmas Live at 嵐が丘

181016_Rock 'n' Roll Xmas At 嵐が丘_Post Card

 お店のママに頼み込んで、むりやり恒例にしてしまった感のある、題して『Rock 'n' Roll Christmas Live at 嵐が丘』、開催日、12月22日(土)まで、考えてみれば3週間を切ってしまいました。ご披露する曲目が決まったのが1ヶ月前、前回(今年3月17日)演奏した14曲から7曲を引き継ぎ、新しく8曲(7曲+1曲)を加えました。

<1> Lodi
 我々K.A.Y.A. Band のルーツはと云えばC.C.R.にあります。ストレートなロックなのですが、<カントリーぽさ+南部ぽく>て好きです。今回も、この曲を含めて3曲を歌います。

<2> Black Is Black by Los Bravos
 非英語国(ポルトガル)出身で一時は英米のヒットチャートを席巻しました。我々の選曲からすれば異端ですが、皆さん知っている曲でもあり、レパートリーに加えました。<10>Del Shannonが亡くなる前、彼のオーストラリア公演で歌っていました。

<3> On The Road Again by Wllie Nelson
大御所、ウィリー・ネルソンの曲です。

<4> Peaceful Easy Feeling by The Eagles
 この曲が今回のライブの最大の難所の一つで、先ずは、ドラムKunさんの歌、私のバックアップコーラスに不安があり、次ぎにNobuさんのギターによる間奏がまだ安心して聞けるまでには至っていません。それに、好きな曲なのですが、やたらと長いのです。

<5> Proud Mary by C.C.R.


<6> Tequila Sunrise by The Eagles
 ギターのNobuさんが歌って、私がバックアップコーラスをいれます。私のセミアコギターのルンバ(?)ぽぃリズムにコードG6が効いています。何よりも救われるのは、曲が短いと云うことです。これも<4> Peaceful Easy Feelingと同じくThe Eaglesが当初、カントリーぽぃ路線を走っていた時期の曲です。 後に、彼等はジョー・ウォルシュを迎え、カントリーから離れていきます。


<7> Rock'n Roll Christmas by George Thorogood and The Destroyers
 唯一、クリスマスの曲。私はNobuさんの歌でこの曲を知ったのですが、どうも、ロックンロールが全盛の50年代の曲のようです。

ここで30分の休憩。

<8> Pretty Woman by Roy Orbison
1964年、全米・全英で第一位、1990年映画『プリティ・ウーマン』の主題歌として大ヒットしました。皆さんに楽しんで頂ける、今回の目玉の一つです。

<9> Who'll Stop The Rain by C.C.R.
 彼等の初期のヒット「Have You Ever Seen The Rain」のアンサーソングと云われていますが…。

<10> Runaway by Del Shannon
 目玉中の目玉。日本では飯田久彦(?)が歌って大ヒットしたことを知る人は今や70歳代です。本当は私が歌いたいのですが、サビの裏声が高くて出ません。名曲です。Nobuさんが歌って、私がバックコーラスをやります。

<11> Sister Golden Hair by America
 もう一つの難所です。Nobuさんの歌に、Kunさんと私がバックコーラスを付けるのですが、何回もやっているにも拘わらず、どこか不安の残る曲です。私がバックからはずれた方が良いかも…。

<12> Surfin' USA by The Beach Boys
 チャック・ベンリーの『Sweet Little Sixteen』の盗作、失礼、改作と云われています。



<14> Take It Easy by The Eagles
 やはり、これは名曲です。

<15> Johny B. Goode by Chack Berry
 誰がアメリカでロックンロールを始めたかは判りませんが、この人・この曲がすぐその近くにいた事だけは事実です。1985年の映画『Back To The Future』の高校のパーティ、マイケル・Jフォックスがギターの演奏を披露しています。

 バンドメンバー個々人の練習に加え、1週間前の16日、全員での練習日があり、なんとか難所を乗り越えたいと思っています。

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November 23, 2018

映画『ボヘミアン・ラプソディ(Bohemian Rhapsody)』

Bohemian Rhapsody 自分で漬けた「日野菜漬け」を送ってくれた彼は、「食」に対してだけでなく、音楽・映画にも強いこだわりがあります。私の様に、BS放送で古い映画の再放送の録画すれば、15分おきに画面の左下1/4に現れる現れる受信料云々のお知らせを気にしないで映画を楽しんでいるだけとは大いに異なります。彼は京都市北区在住、市内には「京都シネマ」、最近は「出町座」という新しい映画館が出来た由にて、各地のシネコンで公開されるメジャーな作品だけでなく、マイナーな(「コア」な」)作品を観ている彼が、私に観るように薦めてきたのが『ボヘミアン・ラプソディ(Bohemian Rhapsody)』でした。

 私の音楽の好みは「カントリーぽぃロック」で、クィーン (Queen)のデビューが1973年。73年と云えば、私の好みの極めつけ、イーグズ(The Eagles)の『ならず者(Desperado)』がヒット、その時期、イーグルズ以外に感心が移るはずもなく、クィーンというバンド名は知っていても、その彼等ががどんな曲を歌ってヒットしているのかを知るはずもありません。

 今回も、彼の事だから…と、「コアな」、「ツウ好み」で上映館も限られているものと勝手に思い込んでいましたが、ネットを検索すると、全国各地のシネコンで上映されています。ついでに彼等の曲を聴いてみると、多くの曲を知っているではありませんか、私でも知っているとは…、恥ずかしい話しですが、これらのヒット曲がクィーンの曲であるのを始めて知りました。
         
 クィーンのリード・ボーカリスト、フレディ・マーキュリー(Freddie Mercury 1946 - 1991)は、映画ではパキスタンで生まれ、父親は英植民地政府の会計士で、ペルシャ系インド人、ゾロアスター教徒でしたが、Wikiによると、当時英領タンザニア、ザンジバル島に生まれ、父親の仕事のつながりでイングランドに移住したと云う。この頃、彼等にとって乗り越えるべき存在であったビートルやストーンズ始め、多くのロック・アーティストは概ねハイスクールを出ただけの、言わば不良音楽少年上がりでしたが、彼は専門学校で美術・グラフィック・アートを学び、彼が参加するバンド、スマイルのメンバーは何れも、歯科医学・天文学を学ぶ大学生です。映画のタイトルにもなっている『ボヘミアン・ラプソディ』を筆頭に、彼等が高学歴故か、曲の多くにクラッシク音楽(?)の要素が見られます。フレディの父親がペルシア系インド人、ゾロアスター教徒であったことも影響したのでは…。

 これが私のあまり好きではない理由の一つなのですが…、ある時はフリルネック・リザードのような、ある時はマッチョなタンクトップ姿等、フレディのステージ衣装、ステージ(舞台)造りは独創的でした。彼等の音楽そのものよりも、フレディの格好を毛嫌いしていたのです。アルバイト先の仲間で、昔小学生の頃(?)、このクィーンの大ファンだったご主人と一緒にこの映画を観に行った人がおられます。当時、クィーンは「変態バンド」と呼ばれ学校内でも白い目で見られたそうです。振り返ってみると、英米を除いて、日本において、クィーンはダントツの人気、「変態」と呼ばれながらもです。私にとっては、クィーンもキッス(Kiss)も、ほとんど同じ括りのバンドでしたが…。

 フレディの事にあまり興味がなかったのですが、映画を観て…、やはり彼は両性・同性愛者だったということです。当時からこの病気と同性愛との因果関係が疑われていましたが、1991年、彼はエイズ(HIV)が原因で亡くなります。あのマッチョなタンクトップとタイツ姿、世間的で云う「変態」ないでたちは、その種の人達に特徴的なものに映りました。

 フレディが両性・同性愛者であることは、今の段階の私には理解しがたいのですが、彼の、あるいは、クィーンの音楽は素晴らしいの一言です。戦国時代の武将、例えば信長も、元禄時代の芭蕉も、近くは、三島由紀夫も実は両性・同性愛者であったと云われています。その人の才能・能力とその人が両性・同性愛者であることが明らかになって低められることはありません。従来、その種の人間は一般社会(異性愛=正常)から軽蔑され、日陰者(「性的マイノリティ」と否定的・限定的)扱いされて来ましたが、近年、「LGBT(Lesbian 女性同性愛者, Gay 男性同性愛者, Bisexual 両性愛者, Transgender トランスジェンダー)」が肯定的に使われることが多くなり、そんな中での映画公開となりました。今の私には、まだ理解しがたい、と云うのが正直なところです。しばらくすれば、陽が当たるようになるのかも知れません。

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October 09, 2018

この曲<24> "Ashes By Now"

 私の新曲発掘方法はWinampから流れるストリーム・ラジオを百〜2百曲をそのまま録音、iTuneで重複した曲を削除、こうして収集した曲を一曲ずつ再生します。本当は流しっぱなしにして、気に入った曲があれば、これをプレイリストに保存すれば良いのですが、膨大な曲数でそんな訳にも行かず、各曲、イントロと中間、特にサビの部分だけを聞いただけで「好きか・嫌いか」を判断しています。もちろん、失敗もありますが…。

lee ann womack ashes by now この曲のイントロ、「8時だョ!全員集合」の「ちょっとだけよ…タブー」を思わせるコンガのリズム、を聴いただけで、普段の私ならばこの時点でパスしてしまうのですが、何故か聞き流しているうちに気になってしまい、サビ→ブレイクの部分では、一変して気に入ってしまいました。ブレイク部分では何故か石川さゆりの『天城越え』に通じるものを感じます。それもそのはず、カントリーの大御所の一人と言うべき、 歌唱力のあるリー・アン・ウーマック(LEE ANN WOMACK)が歌っているのです。Rodney Crowell and Emmylou Harris_2この曲、『Ashes By Now』はロドニー・クロウエル(Rodney Crowell)の曲、1980年にリリースされ、エミルー・ハリス(Emmylou Harris)など多くのミュージシャンによってカバーされています。

 ウーマックの『Ashes By Now』は2000年にリリースされ、US Hot Country Songs (Billboard)で4位、US Billboard Hot 100で45位を記録、商業的にも、クロウエルのオリジナルに比べて格段の成功でした。クロウエルの伝統に忠実なカントリーとウーマックの新しいカントリーの融合を好意的に評価する論評だけでなく、私がパス、スルーしようとしたコンガのリズムを「プロデューサー、マーク・ライトとウーマックの紡ぎ出す魔術の始まり」と表現するなど極めて高い評価を受けています。 二人の『Ashes By Now』を聴き比べてみれば判りますが、ウーマックの成功は、歌詞(バース)の思い切った削除、歌詞(バース)の順序入れ替え、効果的なブレイクの挿入等、卓越した編集力と本人の絶大な歌唱力にあったと云えるでしょう。

 これまでは、Wikipediaを読めば判ることです。それじゃ、歌詞の意味は…?、と聞かれたら、その答えに窮します。参考にすべく、インターネットで探しましたが、和訳はもちろんのこと、歌の内容に関する記述を見つけることは出来ませんでした。独自の恋愛論を持つ人間を歌った歌、それは二人に災いをもたらしかねない、という意味でしょうが、私の和訳には全く自信がありません。詩人・小説家は多くの単語・語彙を持っていて、此処と云った時に頭の引き出しを開けて、なるほどと思わせる言葉を引き出し、詩文を紡いでいきます。  私は、音楽、 この場合は洋楽(Countryぽぃ音楽)、そして英語を一般の人よりも、身近に親しんで来ただけで、ほとんど直訳に過ぎません。『天城越え』の作詞者:吉岡治だったら果たしてどう訳したのでしょうね。誰か、挑戦してみて下さい!
   
"Ashes By Now" by Lee Ann Womack

今朝は月曜
あなたは何処にいるの?
私の記憶を引き出して
私がそうしたくない時
おとなしくする方法を教える
 
あなたの愛は理解しにくい
今になってそれが解る
私を狂わせる
私がそうしたくない時
皆の前で私を一人にする

ベイビィ 二度とこんな目に遭いたくない
思い出したくもない
もうこれ以上
ちょうど、野火が広がるように
あなたは街中を走り廻る
あなたが私を燃やしただけ
今まで、私は灰になっていた

楽しい時は
長続きはしない
あなたの過去が詰まった
スーツケースの様に行ってしまった
とっくに、そして、足早に

ベイビィ 二度とこんな目に遭いたくない
思い出したくもない
もうこれ以上
ちょうど、野火が広がるように
あなたは街中を走り廻る
あなたが私を燃やしただけ
今まで、私は灰になっていた

あなたは街中を走り廻る
あなたが私を燃やしただけ
今まで、私は灰になっていた

あなたが私を燃やしただけ
今まで、私は灰になっていた


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August 23, 2018

この曲<23> "Beautiful Goodbye"

Jennifer Hansonこれも古い曲なのですが、久しぶりに聞いても、やはり良い曲です。『I Know A Heartache When I See One(1979)』のヒットを飛ばしたジェニファー・ウォーンズ(Jennifer Warnes 1947年生まれ)の2枚目のヒット…?、それにしては1枚目から時間がかかりすぎの感がありましたが…、今回ご紹介する彼女の名前はジェニファー・ハンソン(Jennifer Hanson 1973年生まれ)、単に、ジェニファー(Jennifer)の名前が一緒だったと云うだけで、前者は私と同世代、後者は2世代以上も若く、全く別世代のシンガー・ソングライターです。見た目から入った訳ではないのでしょうが…、ジェニファー・ハンソンは1994年ミス・カリフォルニアを務めたほどの美貌と教養を備え、ミュージシャンだった両親のもとに育った彼女は、進むべくして音楽の道に入ったと云えます。1996年レット・アトキンス(Rhett Akins)『Somebody New』のバッキング・ボーカリストとしてデビュー、2002年、キャピトルレコードよりセルフタイトルのデビューアルバムをリリース、自身の音楽活動を開始しました。収録の『Beautiful Goodbye 』がBillboard Hot Country Songs Chartのトップ20を記録することになります。

Beautiful Goodbye

あなたが今までに見た中で最も素晴らしい夕日の様な
全く同じものが他にあるはずがない
それはちょうど深い永遠の海に落ち
あなたを泣かせる映画のラストシーンの様な
終わって、あなたは悲しい、だが、終わりを迎えるのは嬉しい
あなたの内面を深く動かす瞬間

美しいさようなら、恋人よ、さようなら
ドライブを楽しみ、いつも二人は本当に一緒でした
それはある種奇妙な高揚
美しいさようなら

ここに一人立って、あなたが車で去って行くのを見ている
二人は成長して知りすぎたのか
日の光の中にどのように見えるのでしょう?
あなたが居なくてつらい、あなたは戻っては来ない
どうやって、もう上手く行かないことを知ったのか不思議
どうやって、甘い響きを共鳴させたのか不思議

美しいさようなら、恋人よ、さようなら
ドライブを楽しみ、いつも二人は本当に一緒でした
それはある種奇妙な高揚
美しいさようなら

それはあまりに皮肉、あまりに面倒
正しい事をやって、失ってしまうのは
私はいつも選択すべきところで立ち往生
それは人生と同じなの?
ヘィイェ、ヘィイェ

美しいさようなら、恋人よ、さようなら
ドライブを楽しみ、いつも二人は本当に一緒でした
それはある種奇妙な高揚
美しいさようなら

さようなら、イェ
ナナナンナナンナ、さようなら

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July 29, 2018

この曲<22> "Sister Lost Soul"

Alejandro Escovedo 好きな曲が流れて、思わずボリュームを上げてしまいました。『Sister Lost Soul』がそれなんですが、ご存じですか?私の好きな曲と云っても、ほとんどの場合、知らない人の方が多いのが事実です。この場合もそれに当たるのでしょう。オリジナルはAlejandro Escovedo(アレハンドロ・エスコヴィードウ 1951年生まれ メキシコ系)が、Chuck Prophet(チャック・プロフェット)と共同で作り、2008年の彼のアルバム『Real Animal』に修められています。彼はカントリーというよりは、パンク(?)・ロック・ミュージシャンとして活躍していたようで、これは彼の友人、ロック・バンド、The Gun Clubの Lee Pierce(1996年、37歳で脳出血で他界)を追悼して作られた曲です。

今回は、 カントリー・バンド、Micky & the Motorcarsがカバーします。
 



"Sister Lost Soul"

誰も壊れずにはいられない
誰も無傷ではいられない
誰も此処ではしゃべらない
世の中とは正にこんなもの

あなたは行かなければならなかった、私を置いて
一人で彷徨ってしまった
そしてネオンの光が
歩道に映る
我が家が気付かせてくれる
あなたはもう戻っては来ない

[Chorus]

姉妹、失われた魂
兄弟、失われた魂
あなたはなくてはならない人
姉妹、失われた魂
兄弟、失われた魂
あなたはなくてはならない人

全ての最後の心は許され
全ての最後の涙は嘆き
外の通りでは水が凍っている
そして私一人だけが生きていると感じる

[Chorus]

私はあなたの側に横たわりたい
あなたの息を私の耳元で感じたい
あなたが最初でも、最後でもない
側に横たわったのは
私はたった今、身を横たえよう
あなたはまだ此処に居る


[Chorus: x2]


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June 26, 2018

この曲<21> "Chevy Van"

 その車のブランド自体を知らない人もおられるかもわかりませんが、アメリカのGM( ジェネラル・モーターズ)のブランドの一つに『シボレー』があります。 では、この『シボレー』を英語で書いて、あるいは発音して下さい、 と云われてさっと出来る人は少ないことでしょう。正解は『Chevrolet   [ʃɛvrəˈleɪ]』、 フランス語に由来し、英語圏の人にも発音が難しいそうで、『シェビ−(Chevy)』と略されています。  このブランドで、1964年から1995年、発売されていたキャブオーバータイプのバンは2回のモデルチェンジがあり、特に第三世代(1971〜1995年)がシェビー・バン(Chevy Van)と呼ばれています。

chevy van ストリ−ミング・ラジオ(Winamp)でカントリー・ミュージックを聞き流していると、懐かしい曲が流れてきます。 サミー・ジョーンズ(Sammy Johns)の『シェビー・バン(Chevy Van )』は1975年、ビルボードチャートで最高5位、年間でも46位を記録した大ヒット曲で、彼の曲は後にも先にもこれしか知りません。1975年とは、サイゴンが陥落してベトナム戦争が終結し、1960年代から続いたヒッピー・ムーブメントが急速に衰退に向かう時期でもありました。当時、フォルクスワーゲン・トランスポルター(ワーゲンバス)と並んで、ヒッピーのアイコンとしての役割も担っていたのがシェビー・バン(Chevy Van )でした。時代は、自然回帰・反体制・ドロップアウト・放浪・反抗・女性解放を濃厚に引きずっていました。

 私にとって、好きな曲の一つであることは変わりないのですが、曲のイメージがどうも今まで持っていたものと違います。 歌詞の一字一句をを吟味すれば、今日で言えばとんでもない歌になってしまいそうなので、それは止めるとして…、一番で「僕の手を取って 僕を誘った シェビー・バンの中で 僕もそうしようと思っていたのさ」そして三番で「彼女を小さな町で降ろした 石を投げれば端から端まで届く様な小さな町 未舗装のメインストリート 裸足で立ち去っていく彼女 これを横目に 通り過ごす事なんて出来はしない」と歌う。

 如何に放浪・自由・フリーセックスの時代であろうが、「少女(a girl)に誘われたと言え、終わった後は、裸足で車外に追い出した」とは、極めて「反道徳的」であり、ましてやこの曲が全米No.5の大ヒットとなったことにシェビー・バンを製造するGMは頭を痛めたことでしょう。現にYoutubeでは、この曲の「健康的」なイメージのミュージックビデオが多い多く、もしかすると、「反道徳的」イメージを払拭しようとする、GMの意向あるいは操作があったのでしょう。sammy johns_2

 見知らぬ人の車なんかに乗ってはいけません。

 その後はカントリ−のソングラーターとして、ウエイロン・ジェニングス(Waylon Jennings)、サミ−・カ−ショウ(Sammy Kershaw)、コンウエィ・トゥィッティ( Conway Twitty)に曲を提供、2013年没、66歳でした。 

Sammy Johns -  "Chevy Van"

女の子を僕のワゴンに乗せた
彼女は這い上がって 運転しようとした 
彼女は疲れて 何故って 最悪の気分だったから
僕は言った 少し眠ってロックンロールの夢でも見たら

だって 女王のように 彼女はそこに横になって
彼女の髪の辺り 月の光が踊っている
彼女は起きると 僕の手を取って
僕を誘った シェビー・バンの中で
僕もそうしようと思っていたのさ

彼女の若い顔は天使の様
彼女の長い脚は茶色に日焼けして
道路の方を見ていなきゃ
車のスピードを落とさなきゃ

だって 女王のように 彼女はそこに横になって
彼女の髪の辺り 月の光が踊っている
彼女は起きると 僕の手を取って
僕を誘った シェビー・バンの中で
僕もそうしようと思っていたのさ

彼女を小さな町で降ろした
石を投げれば端から端まで届く様な小さな町
未舗装のメインストリート 裸足で立ち去っていく彼女
これを横目に 通り過ごす事なんて出来はしない

だって 女王のように 彼女はそこに横になって
彼女の髪の辺り 月の光が踊っている
彼女は起きると 僕の手を取って
僕を誘った シェビー・バンの中で
僕もそうしようと思っていたのさ

だって 女王のように 彼女はそこに横になって
彼女の髪の辺り 月の光が踊っている
彼女は起きると 僕の手を取って
僕を誘った シェビー・バンの中で
僕もそうしようと思っていたのさ

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June 08, 2018

この曲<20> "I Know A Heartache"

Jennifer Warnes 昔好きだった曲に再び出会うのは嬉しいことです。ましてや、好きだった曲を最近の歌手が歌っているのを聞くと、単に昔に比べて音が良いと言うことだけでなく、私に比べれば若い…、その歌手の歌う最近の曲はもちろん、その彼女が古い私の好きな曲を歌っているのは余計に嬉しいことです。昔から同じ傾向の曲、カントリーぽぃロックを聴いていおり、もうこの歳になれば、こんな事が在るのは当然でしょう。

 ジェニファー・ウォーンズ(Jennifer Warnes)の『I Know A Heartache When I See One』がヒットしたのは1979年でした。今から39年前の話で、ジャクソン・ブラウン、イーグルス、リンダ・ロンシュタット以降、久しぶりの好きなタイプの曲だったように思います。ジェニファー・ウォーンズ(1947年生まれ)はカントリー、フォーク系の歌手でしたが、レナード・コーエンのバック・ボーカルで活躍しました。確かアルバムを持っていたはずですが、この一曲しか覚えていません。

  BS放送で観たのですが…、リチャード・ギアの主演の、ちょっとアホらしい…青春映画『愛と青春の旅立ち An Officer and a Gentleman(1982)』の主題歌『Up Where We Belong』をジョー・コッカーとデュエットしたのを知って驚きました。1987年には『ダーティ・ダンシン グ Dirty Dancing』の主題歌が再び全米No.1の大ヒットの由で、一般的には80年代の青春映画の主題歌を歌った女性ボーカリストとして有名なようです。

   この曲をカバーしているのがジョージ・ディ・メッシーナ( Jo Dee Messina1970年生まれ)です。
 

I Know A Heartache (When I See One)

見てご覧 台無しにしてしまった誰かさんを
北極星みたいに輝いて
私の願いの全てに応える様なふりして
だけど わかってるわ 貴男が本当はどんな人だか

じゃ 私のドアをノックしてみない
私は家にはもう居ないから
私が日の光を浴びて歩いているのがわかるはず
貴男はそれをうまく隠している
言うのは簡単じゃないけど
心の痛みを知っているわ
人と出会う時には

本当の信者 そんな時もあったわ
貴男の愛が唯一の道だった
全ての甘い言葉はとっておいてあげなさい
誰か他のおバカさんの為に
おバカさんだけが貴男の言うことを信じるのよ

じゃ 私のドアをノックしてみない
私は家にはもう居ないから
私が日の光を浴びて歩いているのがわかるはず
貴男はそれをうまく隠している
言うのは簡単じゃないけど
心の痛みを知っているわ
人と出会う時には

時は教師 よく教えてもらったわ
敗者は泣く人間の事よ
貴男が赤ん坊みたいに泣いた時 地獄に落ちたのを感じたよね
顔つきからして 悪魔がわかるでしょう

じゃ 私のドアをノックしてみない
私は家にはもう居ないから
私が日の光を浴びて歩いているのがわかるはず
貴男はそれをうまく隠している
言うのは簡単じゃないけど
心の痛みを知っているわ
人と出会う時には

じゃ 私のドアをノックしてみない
私は家にはもう居ないから
私が日の光を浴びて歩いているのがわかるはず
貴男はそれをうまく隠している
言うのは簡単じゃないけど
心の痛みを知っているわ
人と出会う時には

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May 19, 2018

この曲<19> "There Is No Arizona"

180523_Arizona on Billboard
 ※WELCOMEの「O」が抜けていました。ごめんなさい。
現代、それとも西部劇の時代なの? ミュージックビデオは思い切り現代なのに、歌の内容は古風です。絵はがきの消印はアリゾナ州、トゥーム・ストーン、映画「OK牧場の決闘」は此処が舞台です。彼女をおいて去って行った男からのよい知らせを待つ女の姿はどこか古風です。1880年代始め、アメリカ陸軍の鉱山技師、エド・シフェリン(Ed Schieffelin)はアリゾナの荒野を貴重鉱石を探し求めて旅をしていました。近くの鉱山で三人がインディアンに殺される事件があったことを受け、「この辺で見つけられる石はお前の墓石ぐらいなものさ」と、友人からからかわれていました。その彼がついに銀鉱石を発見、その所有権・鉱山採掘権を宣言するに際して、その土地を仮に「トゥーム・ストーン(Tomb Stone 墓石)」と名付けたのです。その後トゥーム・ストーンは銀鉱山の町として急激に発展、新しく誕生したコチセ郡(Cochise County)の郡庁所在地にもなりました。しかしこれが絶頂、元来、砂漠地帯で水が不足、急激な人口増加もあって、二度の大火をきっかけに街は凋落の一途を辿り、1880年代中頃には、銀鉱は掘り尽くされ、ついにゴーストタウンとなってしまいました。今や年間45万人が訪れる一大観光地です。

 いつもとは少し違うメロディライン、歌の内容も男にだまされた女性の話で、少し古風に感じてしまいます。トゥーム・ストーンの消印…、墓石の…、既に死んでしまった彼と一緒に見た夢を追いかけていたのかも、…ふと思ってしまいました。

 ジェイミー・オニール(Jamie O'Neal)はオーストラリアのカントリー・シンガー・ソングライター。「There Is No Arizona」は彼女の2001年のヒット曲です。なかなか良い曲でしょう?


"There Is No Arizona"

彼はアリゾナでの新しい、ましな生活を約束した
永遠の青空の下で、迎える準備が出来たら連絡すると誓った
彼女を後に出て行ってしまった時には、思いもよらなかった

アリゾナなんてない
ペインテッド・デザートも、セドナもありはしない
もし、グランド・キャニオンがあるのなら
彼が言った嘘で満たすことができた
しかし、彼の言ったそんな夢はありはしない
彼女は夢から覚めて
アリゾナなんてないことに気付くだろう

差出人住所のない、ただトゥーム・ストーンの消印があるハガキ
「次に何処に行くかはわからない、そうする時はまた知らせる」
五月、六月、七月、何故待ち続けるのかわからない。

アリゾナなんてない
ペインテッド・デザートも、セドナもありはしない
もし、グランド・キャニオンがあるのなら
彼が言った嘘で満たすことができた
しかし、彼の言ったそんな夢はありはしない
彼女は夢から覚めて
アリゾナなんてないことに気付くだろう

来る日も太陽は西に沈み
彼女の心も深く沈む 
いつ彼を追いかけていくのかと友達は聞く
終いには言ったの あんたたちは知らない

アリゾナなんてない
ペインテッド・デザートも、セドナもありはしない
もし、グランド・キャニオンがあるのなら
彼が言った嘘で満たすことができた
しかし、彼の言ったそんな夢はありはしない
彼女は夢から覚めて
アリゾナなんてないことに気付くだろう

彼はアリゾナでの新しい、ましな生活を約束した

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May 07, 2018

この曲<18> レナウン"ワンサカ娘"

 最近、特に高齢者向けの広告が目立つ新聞ですが、私の目をとらえたのがこれです。
シルビィ・バルタン広告
『シルビィ・バルタン 〜最後の来日コンサート〜』、特に「最後の…」の言葉には何故か現実味みを感じさせます。シルビィ・バルタンは1944年生まれ、今年73歳、「最後の来日コンサート」と形容されるのも致し方ないことですが、彼女の大ヒット曲と言えば『アイドルを探せ La plus belle pour aller danse (1964)』でした。当時、私は中学生で、洋楽に夢中、ラジオからこの曲が流れてていたのを覚えています。時代は東京オリンピック前後、高度成長の時代、一般家庭にもテレビが普及していました。彼女の姿をブラウン管に観て、この世にこんな綺麗な人がいるのかと思ったのは、私がまだ少年だったから(?)かも知れません。当時彼女はまだ二十歳、もちろん綺麗なのですが、愛嬌の乏しい、笑みの少ない、少し冷たい感じに見えたのは私だけではなかったようです。子供心に合点したその理由は、歯並びが悪くて、それを隠すために出来るだけ唇を開かない、笑わないということでしたが、その真偽のほどはわかりません。
 一方、1960年代、「みゆき族」とともに成長したVANジャケットに並んで、レナウン(Renown)という会社がファッションだけでなく、そのTVCMが、サントリー、雑誌『平凡パンチ』と並んで、当時の若者文化を引っ張っていく役割を果たしました。弘田三枝子の歌う、小林亜星の出世作、yeye64『ワンサカ娘』のレナウン・プロモーションは国際的に高い評価を受け、これに勢いづいて、次にシルビー・バルタンを起用、彼女の日本語で歌う『ワンサカ娘』がさらなるヒットとなります。振り返ってみれば、弘田三枝子・シルビー・バルタンの歌う『ワンサカ娘』がTVCMで流れていた時代が「レナウン(Renown)」ブランドの絶頂で、その後は徐々に凋落、2013年、ついに中国資本、山東如意グループの傘下に入ってしまいました。シルビー・バルタン二人の消息は、少なくとも私にとって、はたと途絶えてしまいました

 我々のバンド、The K.A.Y.A. Bandは主にエバリィ・ ブラザーズ(The Everly Brothers)、クリーデンス・クリアウォター・リバイバル(CCR)、イーグルズ(The Eagles)の曲をやっていますが、一曲だけ日本語の曲が入っています。一曲とはこの『ワンサカ娘』、TVコマーシャルを目的に作られたので曲が短くあっという間に終わってしまうので、『ワンサカ娘』の前(イントロ)・1番と2番の間(間奏)・ 曲の後に『Copper Kettle』を入れているのは、Nobuさんの昔からの手法で、私も大いに気に入っています。もちろん、日本製の楽曲ですが、当時としてはメロディもどこか洋楽風、歌の内容もドライブウエイ、プールサイド、テニスコート、ロープウェイと今までになかった欧米風の生活スタイルが感じられ、日本語…と云うだけで、他の楽曲と比べてそれほどまでに違和感はありません。やはり名曲です。

 シルビィ・バルタンは一昔前のテレビ番組「あの人は今…(?)」の取材対象のようなもの、フランスで幸せな余生を送ってきたのであろうと思いきや、その後はアメリカに移住、フランスとロサンゼルスを行き来しながら現役でステージ・ツアーを続けて来たそうです。ポール・マッカートニー、E.クラプトンと、ここ数年の大物ミュージシャンが、 昔の大ファンで、好きなことにはお金に糸目を付けない日本の富裕老人を目当てに来日していますが、ミュージシャンもいつまで来日してステージに立てるのか、昔の大ファンもいつまで会場に足を運べるのか…、両者にとって「最後の…」が現実味を帯びて来ました。

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April 11, 2018

この曲<17> "A Thousand Miles from Nowhere"

Urban Cowboy  空前のディスコ・ブームはジョン・トラボルタ主演の映画『サタデーナイト・フィーバー Saturadynight Feever(1977)』で絶頂を迎えます。カントリーの復権を狙って1980年、同じトラボルタを主役に、『アーバン・カウボーイ Urban Cowboy』をヒットさせ、音楽の流れはディスコからカントリー・ミュージックに変わりました。 楽曲を例に取れば、「Night Fever(1977)」「Stayin' Alive(1977)」の大ヒットを放ったビージーズは、まだディスコ路線でいけるとばかりに…、1979年、『Islands In The Stream』を出しますが不発に終わります。『アーバン・カウボーイ Urban Cowboy(1980)』で音楽の潮目がまるっきり変わってしまった1983年、カントリーのドリー・パートンとケニー・ロジャースがカバーでこの『Islands In The Stream』が大ヒットとなります。「アーバン・カウボーイ・ムーブメント」、「ヒル・ブギィ」と呼ばれるポップ・カントリーの1980年代の流行はこの映画に始まったと言われています。

 因みに、1972年、『Take It Easy』でデビューしたイーグルス(The Eagles)は1977年、最高傑作『Hotel California』を世に出し,これの出来があまりにも良すぎたのか…、これをピークに、残念ながら彼らは急速に衰退して行きますが、奇しくも、この時期はディスコ・ブームに重なります。「アーバン・カウボーイ・ムーブメント」の1980年代、日本では周回遅れのようなディスコ・ブーム、バブル経済のまっただ中でした(1986 - 1992)。個人的には、大げさですが…、イーグルスで私の音楽の進化は終わったようなもので、以降、新しい音楽には全く興味を見いだすことが出来ず、60〜70年代の「カントリーぽぃロック」に退行していきました。歌謡曲ファンの友人は「ピンク・レディで終わった」、ある人は「昔は洋楽、今はカラオケでど演歌」と言います。多くの人が学生時代あれだけ音楽を聴いていたのに、いつの頃か、大人になるとほとんど聞かなくなってしまいます。

 私にとって、80〜90年代は、ロック、カントリーなど、それらしい曲を聞いてもどうもピンとくるものがありませんでした。自ずと、歌手・バンド名、曲名が記憶に残らず、たまたま「これは!」というメロディーを耳にしたとしても、その曲や歌手の名前とが結びつかない状態が長く続いておりました。インターネット・ブロードバンドが発達、光回線が自宅にも繋がるようになった21世紀に入ると、事態は一変、Youtube・ストリームラジオなどの新しいメディアが誕生、音楽はダウンロードして聴くもの、しかも「タダ」です。CD並みの音質でアーティスト名・アルバムジャケットはもちろん、必要であれば歌詞さえも取得できます。

Dwight Yoakam そんな歌手の一人がドワイト・ヨーカム(Dwight Yoakam、1956年生まれ )です。大学を中退して音楽キャリアを歩み始めた頃、ポップな「アーバン・カウボーイ」的な音楽を指向するナッシュビルでは大した評価も受けず、1977年、彼はロサンゼルスに転じ、1980年代に向けてNew Honky Tonk Musicを打ち出して行きます。自ら曲を書き、伝統的なカントリーミュージック系以外の店、ロサンゼルス近辺のロック、ロックンロール・クラブで演奏しました。バック・オーエンス、マール・ハガードにDwight Yoakam_3代表されるベイカーズフィールド・サウンドの後継者と見なされています。カントリーの歌手・バンドは概してデブの、いかにも農業・工場労働者風の無骨な大男が多いのですが、彼はカウボーイハットのかぶり方からも違います (実は…、「帽子命!」)。個人的には…、あの…幻が脚の動きが、カッコ付けすぎでイヤミなのですが、良い曲です。
 
A Thousand Miles from Nowhere

何処からか、1000マイルもやって来た
俺には時間は問題じゃない
何処からか、1000マイルもやって来たからさ
落ち着きたい場所なんてありはしない

ポケットには心の痛みが
頭には木霊が
聞こえるのは
お前の口にしたむごい、むごい言葉

何処からか、1000マイルもやって来た
俺には時間は問題じゃない
何処からか、1000マイルもやって来たからさ
落ち着きたい場所なんてありはしない

Oh, i

<くり返し>>

記憶の中の傷
手に残る涙の跡
鏡の中には
かつては男だった幻が

何処からか、1000マイルもやって来た
俺には時間は問題じゃない
何処からか、1000マイルもやって来たからさ
落ち着きたい場所なんてありはしない

<くり返し>>


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March 20, 2018

小山田有重絵画展特別企画 K.A.Y.A. Band Live at 「嵐が丘」

連合会掲示板 コブシ、モクレンが既に満開、例年より早いようですが、桜の開花もはじまり、当地、武州小山田ノ荘にも春がやって来たようです。そんな陽気の先日の土曜日、私の絵の発表会、『小山田有重 絵画展』を開催中の団地商店街に在る喫茶店「嵐が丘」を会場に、ライブコンサートを実施しました。「嵐が丘」は小さなお店で、ドアの外でも聴いて頂いた方がおられるなど、14人の予約客で満員でした。

 小山田有重 絵画展管理組合理事を務めた時に、組合員(住民)向け月刊の会報を担当したのですが、余白を埋めるために『小山田荘を歩く』を連載しました。ほとんど当ブログでご紹介している『散歩の途中』の焼き直しに私の描いた挿絵を添えたコラムなのですが、これが思いのほか好評で、同じく理事の一人から彼の奥さんが『嵐が丘』を運営されているので、そこで展示会をやればという話をもらったのがきっかけでした。ダメ元で、「ついでに…、ここでライブをやらしてもらえないでしょうか」と、バンド練習を録音したデモCDを聴いてもらい、快諾して頂いた経緯があります。
複数展示
 
 壁に飾るべき12点の作品(もっともらしく、絵をそう呼びます)を選定、「馬子にも衣装」の額縁・ガラスと作品の間に入れる窓の開いたマット台紙を用意、全てを額装して搬入・展示…と、初体験故か…、絵画展準備だけでも少々疲れ気味です。音楽に馴染みが薄い人でもクラッシクやジャズと云えば、ただ聴いているだけで一端の趣味人に見えるのですが、聴く人によっては…下品で、うるさいだけのロック、ロックンロールを主なレパートリーとする我がバンドのライブが地域住民に受け入れられるものか…、一抹の不安がもたげてきます。「絵」だけにしておけば良かったのに…と、一時は、ライブをお願いしたことを後悔したりもしましたが、とうとう3月17日(土)、ライブ当日がやって来ました。  Nobuさんは埼玉県熊谷から、途中Maruさんを拾って、2時間半をかけて、Kunさんは府中から1時間、いずれも私の住んでいる小山田桜台は始めて、ナビがあるにせよ、遠路を上手く辿り着けるのか…、事故にでも会ったら…とは心配のし過ぎ、メンバー全員は無事到着、重い機材を搬入・設置してくれました。お店側も前日から料理の仕込みをして、予約客の来場に備えます。

モモ 午後2時にオープン、お店の外にカメラを設置ライブの模様を録画してYoutubeに乗せようと計画していたのですが、撮影するためには、窓を開かなければならず、残念ながら昨日は窓を開くほどは暖かくなく、 これを断念せざるを得ませんでした。私は音楽の準備に追われ、いつものように、全く余裕がなく、会場の様子をカメラで撮影するのをコロッと忘れてしまいました(※残念ながら、当日の写真は全くありません)15人で満員のところを、14人が来場、60代〜70代(当団地も高齢化の波が…)、男女半々。これにお店の人5人、我々バンド4人、合計23人のパーティです。
 
 前半30分(7曲)+休憩30分(飲食)+後半30分(7曲+アンコール1曲)、歌は私とNobuさんが交互にリードを歌い、片方がバックのハモを担当します。開演早々、何の紹介もなく「Proud Mary」〜「Have You Ever  Seen The Rain」のメドレーもうまく終わり、住民である私が挨拶して、それからはNobuさんが曲間にしゃべりを入れて、大きな演奏のチョンボもなく、無事全曲を終えることが出来ました。Kunさんが録音してくれた何曲かをご紹介しましょう「Norwegean wood」「Memphis」「Luceil」「Black is Black」 と続き、最後はアンコールに応えて、Nobuさんの「Match Box」で終わりました。皆さん、あっけにとられた…?のか 、立ち上がって大きな拍手をもらったのが印象的でした。 ※ 「Pretty Woman」は皆さんにお聞かせするレベルまでには達しておらず、残念ながらボツとなってしまいました。

山ノ端橋辺り 前日、不安な私はお店を訪れたのですが、カウンターの横に座った年長の女性と話が弾み、「壁の絵を描いたのは、あなたでしたか…」と真顔でびっくり、ビッグバンド・ジャズが好きだったとか…、「明日のライブには来ます」と言ってくれた彼女が、当日、最後の曲が終わると、わざわざ前まで来てくれて「よかった」と言ってくれました。 救急車のお世話になる事態(?)も発生せず…、結果は「大成功」だったと言えるでしょう。

 テニス、理事同窓会の仲間を始め、お金を払って聞きに来て頂いたお客様、ライブを受け入れてくれたお店の方々にはもちろん、私の絵画展を応援するために 遠路はるばるやって来てくれたバンドの仲間に大感謝です。私が現役を退いて始めた絵、大阪に住む友人ご夫婦と私の二人の姉に絵はがきにして送っているのですが、彼らからは機会がある毎に好意的な助言をもらい、今回の「嵐が丘」における絵画展・ライブの原点は彼らの応援にあるものと感謝しております。ありがとうございました。
 
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February 19, 2018

最近聞いたこの曲<16> "Pretty Woman"

 前回ご紹介した14曲はご披露してもさほど差し支えない曲ばかりなのですが、バンドメンバー4人の選には漏れたものの、個人的に是非やりたい曲が、ロイ・オービソン(Roy Orbison)の『Pretty Woman』です。『プリティーウーマン、長い前段ですが…』がそれ、日付を見てみると2010年とあり、8年も前の事です。まだMaruさんのBa.(ベース)が未だ参加しておらず、コードを刻むことしか出来ない私は2nd Gt.+Vo.、NobuさんがLd Gt.+Vo.、そしてDr.のKunさんの3人でした。

 ロイ・オービソン、1964年の大ヒット曲『Pretty Woman』は私も良く知っているのですが、私には、リズムを正確にとっているはずなのに、どうも上手く入れないというトラウマのようなものがあって、ずっと避けてきた曲です。しかし、この時はNobuさんがこれを取り上げ、リード、本メロを歌うことをなり、私はバックコーラスを担当することになりました。バックコーラスの場合、仮に上手く入れなかったとしても、途中からでもそれなりの体裁を維持することが出来るからです。歌うだけならまだ大丈夫なのですが、私がNobuさんのLd Gt.(リードギター)を代われる技量を持っているはずもなく、この曲の印象的なイントロ、ドラムソロから始まるギターのリフ、エンディングまで、歌いながら一人でやらなければなりません。これは大変なことで、今回この曲が候補から外れたのもこの辺に理由がありました。
 
 結論から言えば、私がリード・ヴォーカルを歌うことが出来れば、前回と違い、今回はMaruさんBa.(ベース)という強い味方もあり、Nobuさんはイントロからエンディングに至り連続するリフに専念することができます。「嵐が丘」でのミニライブが3月17日、それまでに残された4人全員での練習日は2日のみ、次回に復活折衝をして、もし採用されるならば、何とか皆さんにご披露できるまでに持って行きたいと思っています。

 ブルース・スプリングスティーン(Bruce Springsteen )とジョン・フォガティ(John Fogerty)のデュエットによる『Pretty Woman』、私はこれでジョンのバックハモをマネしました。とにかく、かっこいい2人です。

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February 09, 2018

発表会

IMG_0564 喫茶店「嵐が丘」における絵の「展示会」、ご大層に云えば「個展」、個人的には数十年ぶりの「発表会」も3月初めから始まることが決まり、最終的にどの絵を展示すれば皆さんに喜んでもらえるかを決めるまでにはもうしばらくは時間があるのですが、それ以外の準備はほぼ完了しました。私にとっては、作品の内容はともかく、小学生時代の以来初めての「発表会」です。 スチレンボードを加工した台紙マットもほぼ満足、 ネットで探したお気に入りの額縁も手元に届き、馬子にも衣装です。

 もう一つの「発表会」、 バンドのミニライブの日程が3月17日(土曜日)午後2時開始と決まりました。
171127_Rock'n'Roll Tea Party
  ほぼ(?)…皆様にご披露して差し支えない14曲を選びました。

<1>&<2>  Proud Mary / Have you Ever Seen The Rain 5:31
  長い間、Creedence Clear Water Revival(CCR 1968-76)はルイジアナか何処かアメリカ南部出身のバンドと思っていましたが、実はカリフォルニア出身、『Proud Mary』はミシシッピ河を行く船の写真を見ながら情景を想像して書いた由で、後にTina turnerなど多くのR&Bミュージシャンが歌う。2曲をメドレーにしたところがミソですが、その引継が上手くいきますでしょうか…。

<3> Let Your Love Flow  3:04
 Bellamy Brothers、1976年のヒット曲。数年前、九州熊本のCountry Goldに出演のBellamy Brothersが歌っているのを見て思い出しました。

<4> Norwegian Wood 2:17
 The Beatles、1965年の曲。「ノルウェー産松材の(家具)」よりも誤訳の「ノルウェーの森」の方が趣があります。

<5> Copper Kettle 〜 レナウンわんさか娘 3:12
 「Copper Kettle」、ジョーン・バエズの1962年の曲だそうですが、私はバンドのNobuさんのギターで覚えました。銅製のやかんではなくて、密造酒を造る蒸留釜の意味。「わんさか娘」は今や中国企業に買収されてしまったレナウンのコマーシャルソング。小林亜星の作詞・作曲(1961)によるもので、弘田三枝子シルビー・バルタンが歌うTVCMは人気がありました。短すぎ、すぐ終わってしまうので、「Copper Kettle」を挿入しています。

<6> Yellow River 2:46
 Christie、1970年のヒット。Nobuさんのバックハモを長年やって来ましたが、今回のバックが一番良いかも…。ついでに…、<4> <5><6> の曲順は、いずれも同じカポ2の曲でそれらをまとめただけの話です。

<7> Surfin' USA 2:35
 ご存じThe Beachboys、1963年のヒット。Chuck Berryの「Sweet Little Sixteen」の改作。大阪のフェスティバル・ホールで来日した彼らの公演を見て感激、七十を目前にして、まだ歌っています。

<8> Memphis 2:32
 昔はJohnny Riversの曲と思っていましたが、Chuck Berryの曲であると教えてくれたのはやはりNobuさんでした。Chuck Berryついでに、彼は「Johnny B. Goode」をやりたかったのでしょうが、私がどうも…ロックンロールが苦手で、ボロがでないようにとこの曲は採用されなかったのでしょう。

<9> Bye Bye Love 2:12
 The Everly Brothers、1958年のヒット。彼らと同時代ではありませんが、1970年、Simon & Garfankelがこの曲をカバーするのを聴いて、彼らを知りました。

<10> Who'll Stop The Rain 2:35
 <1>&<2>と同じくCCRの1970年のヒット。

<11> Sister Golden Hair 3:12
 Americaの1975年のヒット。

<12> Lucille 4:01
  Little Richardの1957年のヒットで、ロックンロールそのもので、The Everly Brothersもカバーしています。

<13> Take It Easy 3:39
 本当は、「Peaceful Easy Feeling」、「Tequila Sunrise」もやろうかとも思ったのですが、「 Take It Easy」のみに変更です。案内状にThe Eaglesと書いてしまったばかりに…、皆さんはイーグルズと聞けば十中八九「Hotel California」を想像してしているのでしょうが、正直言って、残念ながら我々には出来ません。

<14> Black Is Black 2:57
  Los Bravosは1966年、カナダで1位、UKで2位、USで4位とそれぞれのヒットチャートを独占した非英語国、スペインのバンドでした。それ故、気のせいか…歌詞が分かりやすいのですが、難点はキーが高過ぎます。

 バンドのライブは3月17日(土曜日)、それまでに、全員でのバンドの練習日は残り2日しかありません。万が一…、来られる場合は喫茶店「嵐が丘」への予約が必要です。

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December 31, 2017

第9回 かってに、HKX紅白歌合戦

 我が家にとって今年最大の出来事は、この夏、愛犬のモモが肝炎を発症したことです。9.2キロあった体重が急激に落ち、見る間に7キロまで落ち、肝臓が悪くなると腎臓も悪くなるらしく、かかりつけの開業医ではこれ以上の治療は無理と云われ、12歳を直前に最悪の事態を覚悟しました。開業医の紹介で獣医大学を紹介してもらい、かみさんは、毎週、彼女を連れて大学へ通い、治療を受けました。あれだけ食い意地のはった彼女ですが、治療食を受け付けず、食べても直ぐもどす有様。栄養補給のために皮下注射を打つのですが、もう刺すとことがないぐらいに痛々しい針の跡でした。かみさんが大学の指示通りの食事を作り、それを食べるようにようになると、体重が次第に増え、今では、腎臓の数値はともかく、体重だけは9キロと、体型だけは本来の姿に戻ったようです。今日も、モモと夫婦の三人で小山田緑地まで散歩に出かけたのですが、歩いた距離は8.2km、約12千歩を歩きました。犬の12歳と云えば老齢、昔はくっきりとしたブラック・タン・ホワイトでしたが、今や顔は真っ白、その三色の境目もぼけてきましたが、頭のボケはまだの様です。かみさんの献身的な介護でモモは元気を取り戻しました。もうしばらくは元気でいてくれることでしょう。

 こんな訳で毎年恒例の関西に行けるような我が家の雰囲気ではありませんでした。関西に住む姉弟、友人には会うことが出来ず残念でしたが、いい話もありました。というのは、団地内に「嵐が丘」と云う名の喫茶店があるのですが、残念ながらその名前の由来は未だ聞いていません…、そこで私の描いた絵の展示会をしていただけることになりました。展示会と云われても、小学校以来の話で…、皆さんに観てもらうにも額縁もなく、その展示方法は喫茶店のオーナーに任せるしかありません。

 先日、その喫茶店で奥さん4人組の「ウクレレ・ミニコンサート」があり、コンサートを見学させてもらいました。4人によるウクレレの演奏が主、演奏30分・休憩30分・演奏30分、客は15人(?)、男性は私のみ、他は全て女性(主婦)、喫茶店の常連客か出演者の友人の様子でした。内容的には良いコンサートでしたが、入場料が1千5百円(喫茶・軽食付き)とは安くはありません。

 絵の展示会だけでも感謝なのですが、我々バンドのコンサートをさせてもらえないだろうか…と、予め作成のデモCDを聴いてもらいました。毛色が違うと拒否されるかも知れないと危惧しましたが、去年、団地住民の一人が、サックス+リズム・マシンで、独演奏会をやったとかで…、我々の音楽も歓迎してくれるそうです。

 お店にはPAの設備は全くなく、私はギター2本のみ、ボーカルマイクは使わないデュオをイメージしていたのですが、バンドの皆に相談すると…、ボーカルアンプ、マイク3本、それぞれ楽器用のアンプを用意、今のバンドのままで出演することになりました。演奏45〜60分・休憩30分・演奏45〜60分、1曲3分と見て、前・後半10曲ずつ、予備に5曲ぐらいを用意しておけば、残りはしゃべりで埋めることができるだろう、というのが、私を除く、ライブ経験豊かな3人の意見です。

 持ち歌からすれば、The Everly Brothers(エバリー・ブラザーズ)、Creedence Clearwater Revival(クリーデンス・クリアウォター・リバイバル)からThe Eagles(イーグルズ)まで、と云うことになるのですが、ストレートにRock 'n' Roll Partyにしようという意見もあります。コンサートは3月に予定しているのですが、残り2ヶ月、皆で練習できるのはわずか3回か4回しかありません。

第9回紅白歌合戦 on 紅白幕
 これを機に、新曲をマスターすべく、次の2曲を今年の紅白の1位・2位に決定しました。

第2位 Everly Brothers - "Lucille "
Little Richardの1957年録音が
オリジナルで、1960年代のロックミュージックの先がけと云われます。ビートルズ始め多くのミュージシャンがカバーしていますが、今回は我々の路線の一つ、Everly Brothersのそれをお聴かせします。
 
 
第1位 The Eagles - "Peaceful Easy Feeling"
 1971年、彼らはデビュー、 "Take It Easy"の大ヒットを飛ばします。1972年、最初のアルバムに入っていたカントリーぽぃ曲です。
 
 
 これで何とかこの1年を終え、新しい年を迎えられます。ありがとうございました。来年もよろしくお願いします。良い年をお迎え下さい。

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December 09, 2017

最近聞いたこの曲<15> "You're Not in Kansas Anymore"

grapes of wrath 『怒りの葡萄(The Grapes of Wrath 1939)』はJ・スタインベック(モンタレー郡サリナスに生まれる)の作、大恐慌の時代、大干ばつで土地を奪われたオクラホマを捨て、ルート66を西へ、カリフォルニアを目指す農民の物語ですが、1940年、ヘンリー・フォンダ主演で映画化され2つのオスカーを獲得して彼の名声を不動のものにします。

   映画『怒りの葡萄』から30年後、ヘンリー・フォンダの息 子、ピーター・easy riderフォンダは、父親とは逆に、同じルート66を東へ、ニューオーリンズのマルディグラ(謝肉祭)に向けて走ります。映画『イージー・ライダー(Easy Rider 1969)』は、ベトナム戦争への懐疑的傾向を社会的背景にした「アメリカン・ニュー・シネマ」の傑作の一つに数えられています。挿入歌が全てロック・ミュージックだったことも衝撃的でした。

 ベトナム戦争も終盤の時代,60〜70年代、にはロック・ミュージックが興隆します。プレスリー、ビートルズ、ビーチボーイズが現れたのもこの時代です。ジョニー・ミッチェル『California』を歌ったように、グラム・パースン、ママス&パパス、リンダ・ロンスタート、ジム・モリソン、ニール・ヤング、デビッド・クロスビー、スティーブン・スティルス、グラハム・ナッシュ、ジャクソン・ブラウンがその後の成功を獲得する以前に住んだロサンゼルス、ローレル・キャニオン(Raurel Canyon)は東のウッドストック(Woodstock)と並んで若いミュージシャンが多く集まり住んだ場所でした。ヒッピー対抗文化の音楽コミューン的性格を持つ場所でした。

 時代の終焉では…、ヒッピィー対抗文化の体験から抜け出せない人間を歌った(?)『ホテル・カリフォルニア Hotel California(1976)』、イーグルズ自らもこの枠を抜け出すことが出来ないままに終わってしまいました。ホテル・カリフォルニアとはこの対抗文化の音楽コミューン、ローレル・キャニオン(Raurel Canyon)のことかも知れません。
 
 ビーチボーイズに始まる私のカリフォルニアへの思い入れは『ホテル・カリフォルニア』以降も何ら代わることがありません。ストリーム・ラジオをリッピングしているのですが、私が好きになる曲はカリフォルニアに対するあこがれ、カリフォルニアを好意的に歌う傾向にあり、リトル・テキサス(Little Texas)の『Amy's Back In Austin』如きは歌詞の内容だけでなく、メロディラインもウエスト・コースト風に仕上がっています。最近は聞いたビッグ&リッチの(Big and Rich)の『California』はカントリーなのですが<<ど>>カントリーではなくなりました。

 今回、ご紹介するのもそんな曲の一つ、ジョージ・ディ・メッシーナ( Jo Dee Messina 1970年生まれ)の「You're Not in Kansas Anymore(1996)』です。

oz このタイトル〜もうここはカンザスじゃないわ〜は、初めての所にやって来てカルチャーショックを受ける、の意味です。映画『オズの魔法使い(1939)』の中の台詞、「Toto, I've a feeling we're not in Kansas anymore.(トト、ここはカンザスじゃないみたいよ)」に由 来、「There's no place like home.(お家が一番だわ)」と併せてアメリカ人の慣用句となっているそうです。先日、知り合いのカナダ人とイギリス人の二人に聞いてみると、アメリカ人だけでなく、英語を母国語とする人はこの慣用句を知っていると云います。※因みに、最近では、『ホテル・カリフォルニア』の「You can check out any time you like, But you can never leave!」も慣用句になっているようです。
  

You're Not in Kansas Anymore
メイベリーのようなウイチタに在る小さな街で育った、と彼は言う
上下つなぎの作業服を着て、日が沈むまで干し草を引っ張るのはうんざり
一日中、ジョン・ディアのトラクターに乗り土地を耕しているのでLAに憧れる、と言う
南カリフォルニアには高速鉄道が走っているよ、と教えて上げた

[Chorus]
もうここはカンザスじゃないわ
用心し過ぎることはないのは確か
街の灯があなたを誘い
朝が来ると消えてしまう
だから、壁に私の電話番号を控えておいて
何時でもいいから電話してきて
今、私は幸せ
もうここはカンザスじゃないわ

「カーソンがどこに住んで居るか知ってる?」それでマリブまでドライブしたの
サンセット通りを走り、キスの1回や2回は許してあげたの
ハリウッドの標識の下、にんまりしたのを気付かれないように、私は低くささやいた
ロデオじゃなく、ここはロデオ・ドライブ、こんなこと云うのは始めて

[Chorus]


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November 03, 2017

最近聞いたこの曲<14> "Something Like A Broken Heart"

Hanna-McEuen ハナ-マッキューエン(Hanna-McEuen)というカントリー・ミュージック・デュオの『Something Like A Broken Heart』が好きでした。これは2005年のヒットですからもう12年前の話です。内の一人、McEuenの発音が判らず、あのマックイーン(McQueen)でもなく、マッキューエンかマックユエン…(余談ながら「Mc」は「Son of 〜、〜の息子」の意味)、デュオの名前を覚えられないうちに、次のヒット曲にも恵まれず、この曲名さえも私の記憶から消え去ろうとしていました。いつものストリーム・ラジオ:Country4Youを流していると、この『Something Like A Broken Heart』が聞こえてくるではなにですか。久しぶりに聴いたこの曲、やっぱり良いのですが、名前の発音だけでなく、もう少し彼等のことを調べてみました。

 ジェイム・ハナ(Jaime Hanna )とジョナサン・マッキューエン(Jonathan McEuen)は従兄弟同士、驚いたことに、彼等の父親はジェフ・ハナ(Jeff Hanna )とジョン・マッキューエン(John McEuen)、二人は1970〜80年代に活躍したカントリー・ロック・バンド:ニッティ・グリッティ・ダート・バンド( Nitty Gritty Dirt Band)結成当時来のメンバーでした。The Byrdsと並んで、私が「カントリーぽぃロック」ミュージックに入り込むきっかけになったバンドの一つです。

Something Like A Broken Heart
(あまり自信がありませんが…)

千回も試み、百万回も言い方を変えて
説明しようとした
決して癒やされない傷のようなものに
一言もないので

それを考える時、全てがあなたに戻ってくる
どうして別れがそんなに理解出来ないのか
感じている痛みが本当であり、どんな感じなのか教えよう
機会があれば

孤独な金曜の夜の街のよう
知っている人は皆外へ出てしまって
回りにはラジオだけが友達
ただあなたの事だけを思ってしまう

ちょっとそれは古い悲しい歌のよう
あなたは打ちのめされ、一人で歌う
あなたを引き裂いてしまうそのメロディ
それは壊れた心のようなもの

100マイルも車を走らせた ずっと同じラジオ局のまま
放送が聞こえなくなるまで
聞こえるものは何もなく
こぼれ落ちる言葉を明確にするだけ

考えれば考えるほど、あなたのことを思ってしまう
どうして別れがそんなに理解出来ないのか判らない
あなたには決して会えないだろう いつも心の中に在るだけ
私がどこに居ようと

孤独な金曜の夜の街のよう
知っている人は皆外へ出てしまって
回りにはラジオだけが友達
ただあなたの事だけを思ってしまう

ちょっとそれは古い悲しい歌のよう
あなたは打ちのめされ、一人で歌う
あなたを引き裂いてしまうそのメロディ
それは壊れた心のようなもの

 セルフタイトルのアルバムがビルボードホットカントリー・チャートで最高42位(シングル:『Something Like A Broken Heart』は38位)を記録、このアルバムだけを残してデュオは解散してしまいます。

 父親のニッティ・グリッティ・ダート・バンドは今も健在。このバンドで二人も活躍いるようです。
50 years of NGDB

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October 13, 2017

『Surfin’ USA』 と『平家物語』その2

その1から続く、井沢元彦著『逆説の日本史 16』にある「識字率」に関する記事の抜粋です。

 13世紀初(?)、『平家物語』の時代、出版などはなく、本は全て肉筆の写本、身分の低い人間には入手困難で、盲目の琵琶法師にはそれを「読む」ことすら不可能。慈円は怨霊を鎮魂して、国の平和を実現することを第一目的に、藤原行長をして盲目の生仏に「教えて語らせ」、鎮魂の巡回僧は地方の津々浦々まで巡り、都の一流の作者が作った面白い物語を、琵琶の伴奏で語る(歌む)。「読み」さえ頭に入っていれば、すぐに読めるようになり、読むことが出来れば「書く」こともできるようになり、こうして「読み書き」ができるようになる。「音曲(音楽)」に乗った言葉ならなおさらである。このようにして、全国津々浦々での、盲目の琵琶法師による『平家物語』の興行は、「怨霊鎮魂の意図」とは別に、日本語習熟度の驚異的な向上をもたらし、室町時代には「太平記読み」という職業を生み、これが「講釈」・「講談」に引き継がれ、江戸時代の日本人の驚異的な識字率に繋がっていく。「門前の小僧、習わぬ経を読む」の通り、子供は難しい言葉でも、小さい頃から節・音曲(音楽)と共に聞かされれば、そしてそれが興味のあることであればいくらでも覚える。まさに「マイ・ルィジアナ・ママ フォム・ノリオリン」です。

 もう一つ日本で特徴的なのは、自国の最高レベルの文芸作品を上流階級及び庶民階級が「共有」しており、国家形成期の『万葉集』は今日の皇室の年頭行事、「歌会始め」に続いている。例えば、近松門左衛門、当時の最高レベルの劇作家の台詞を庶民が暗唱するというのは他国では考えられないことである。ヨーロッパでは『聖書』が古典として「共有」されているが、「読み書き」と「ラテン語」という二重の暗号に縛られていた。これが各国語に訳されたのは14〜16世紀、キリスト教成立から一千年以上経ってから(カトリック教会が聖書を独占するために翻訳を嫌った)、日本の慈円、『平家物語』から3世紀遅れた16世紀、ルターが聖書を讃える賛美歌を作って『聖書』を「音曲(音楽)化」、庶民向けの布教、これが「識字率」の向上を促し、宗教改革をおこなうことになる。

 以上で引用を終わります。

Beach Boys Classics 話は戻って、英語の話。 私は『Surfin’ USA』をバンドで歌いますが、Youtubeのカラオケのカラオケを見ると、英語の歌詞の上にはフリガナがうってあります。50年以上前の曲ですから、「マイ・ルィジアナ・ママ フォム・ノリオリン」と同じく、カタカナで覚えた人もおられたかも知れませんが、「洋楽」好きな私からすれば、見栄を張って、英語の歌詞を読んで歌うのは当然。…が、しかし、あれっ、私の使い古したレパ帳にある『Surfin’ USA』、下の歌詞の部分には、<歌い方>、<言い回し>をカタカナで記入しているではありませんか。

“Surfin’ USA”
Verse1
If everybody had an ocean / across the USA,
Then everybody'd be surfin' / like Califor-ni-a.
You'd see 'em wearing their baggies / huarchi sandals, too.
  ユ        シエム    ウェアリン
A bushy, bushy blond hairdo / surfin' USA.

You'll catch 'em surfin’ at Del Mar / Ventura County Line,
  ユ       キャチエム サーフィン
Santa Cruz and Tressels / Australia's Narabine,
All over Manhattan / and down Doheny way,
Everybody's gone surfin' / surfin' USA.

  『Surfin’ USA』はブライアン・ウイルソン(Brian Wilson)の作とされるが、実際はチャック・ベリー(Chuck Berry1926 - 1972) の『Sweet Little Sixteen』が本歌。ロックンロールは16小節の繰り返し、演歌・歌謡曲の様に「七五調」とは行かず、学校で学ぶ英語と違い、一小節内の単語数が多く、やたら「(アポストロフィー)」で省略されています。2分少しの8ビートの曲、英語の字面(じづら)を追っかけたら、目で確認している間に、曲は流れ去ってしまい、曲に歌詞がついて行けないことになってしまいます。どのような言い回しで歌っているのか頭にたたき込む(覚えさせる)為に、カタカナでメモ(注意書き)しておくのです。

 中学生と言えば、子供から大人へと変わる頃、かっこいいと感じ、「音楽(音曲)」から「洋楽」にはまり込みました。意味の判らない英語の歌声も伴奏と同じく、単なるかっこいい音色でしかなかったのです。「学習」を分解すると、「学ぶ」は「まねぶ」そして「習う」とは「倣う」の意味、特に「語学」は「まねてならう」ことが重要です。好きな「音楽=洋楽」から「英語」を学習できるのですから、これ以上の方法はありません。中学の英語の授業が始まると、ビートルズやビーチ・ボーイズが何を歌っているのか、知りたくて勉強し、授業が楽しくなるのは当然。高校生から大学生になると、自分なりに理解した歌詞の内容から、歌に歌われるアメリカの社会・歴史に興味を持つようになります。日本史は入試目的に丸暗記したのですが、世界史は、アメリカ→その先祖の国、イギリス及びヨーロッパ→その先祖、ローマに及び、次第に日本史も世界史の一つと考えるようになりました。きっかけは「洋楽」との出会いでした。

 外国人とコミュニケーションを取る場合、特に非英語国圏の場合、概ね、英語が多くの国の第一外国語の地位にあり、その意味で英語が順当な言語手段であることは間違いのないことです。英語をしゃべるからと云って、何を共通の話題にするのでしょうか?私の現役時代、仕事柄、英語そのものは不可欠でしたが、「洋楽」の知識はいろいろな国籍の人々との会話を盛り上げるのに大いに役立ちました。彼等も知っている曲を一緒に歌うことができるのです。これが、歌謡曲・演歌が趣味では、ほとんど役に立たないでしょう。

 ごく希に、美空ひばり、北島三郎ファンの外国人もいるかもしれませんが…。

 ※参考資料:『逆説の日本史 16』

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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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