December 03, 2021

松木庄左衛門 その2

 その1から続く。  

 寛永11年(1634)、新たに若狭藩主として川越から酒井忠勝(1587-1662)が赴任、始めて見る小浜城に天守がないとかすかな失望を味わいます。忠勝は幕府「老中」職にあり、江戸城勤務、留守家老安藤帯刀に天守造営を命じました。京極高次が制定した郷士、百姓の掟はそのまま受け継がれ、貢租一俵五斗の京桝秤は撤廃されず、百姓は京極時代以上に、辛酸をなめることになります。

 「関ヶ原の戦い(1600)」、「大坂の陣(1614-1615)」以降、多数の大名が減封・改易され、鎖国政策により日本国外で活躍の道も閉ざされ、巷には浪人が溢れ、大きな社会不安となっていました。「由井正雪の乱(1651)」、家光の他界(1651)等、忠勝は多忙を極めています。忠勝は、幕府の立場として、「百姓の騒動禁止」、「強訴に及んだ首謀者は死刑」としており、留守を預かる家老は、老中職の主人忠勝に「早く城を持たせたい」、「領国の心配はさせたくない」の一心で「忖度」したのでした。

 寛永17年(1640)、若狭二百五十二村の庄屋代表が、もちろん藩主に無断で集会を開き、これが「若狭一揆」と云われる百姓強訴の発端でした。庄屋は武士に次ぐ位、帯刀は許されないが、かつては三十二谷の砦を持った郷士の後裔、彼らには武士の品格を許されていました。この集会の結論を年貢の軽減とし、全員の中から総代を選び、これをお上に陳情するとしました。

 集会をまとめたのは、多くが年配者の中で、15〜16歳にしか見えない新道村の庄屋、松木庄左衛門でした。公卿中御門中納言(くぎょう なかみかどちゅうなごん)藤原宗藤(ふじわらむねとう)の寵愛を受けた祖母が若狭に帰り松木家をなし、庄左衛門はその曾孫にて、父の庄助の早死により、14歳で庄屋になりました。弁舌さわやかで、若輩であることに危惧を覚えても、妻子のいない身軽さが得点に繋がり、選出総代の最高点を得ました。
 
 各村から大石を集め、石積みの作業は近江坂本の穴太衆が、複雑な構造の天守造営となれば優秀な技術を持つ大工が集められ、多くの労働力によって工事が進められましたが、寛永19年(1642)に至っても完成していません。そんな中、庄左衛門はじめ20人の総代が郡代奉行所に赴いて減税の嘆願書を提出しました。

 寛永19年(1642)常陸国で検地反対の一揆、羽前飽海郡で集団離村も発生など諸国の情報は忠勝の耳にも入っていましたが、国元、若狭国の百姓町人の窮状、ましてや250人もの庄屋が年貢軽減の哀訴に及んだことなど知る由もありません。国元では逃散(国外逃亡)が多発、大地震(1645)や大暴風雨(1647)等の自然災害に伴い、築城の為の森林の乱伐が原因の大水害が発生します。そんな中、遂に庄左衛門が逮捕され、以降、彼は4年間獄中に在り、承応元年(1652)、徒党の罪で日笠河原にて磔刑に処せられました。

 当時、「若狭一揆」と云われる百姓強訴から庄左衛門の逮捕・磔刑に至る伝承があっただけで、書物に依る記述はずっと後のことで、小浜の豪商木崎α(きざきてきそう)は『拾椎(しゅうすい)雑話』(1757)を著し、京極家か酒井家の初めに小浜藩で起こったとしており、藩士嶺尾信之(みねおのぶゆき)の『玉露叢(ぎょくろそう)』(1720)もほぼ同じにて、これを忠勝の時代に起こった、忠勝自身大失政の一つと認めているとします。

 時代は下って、明治4年(1871)、「廃藩置県」が施行される中、二の丸櫓から出火、大きな犠牲を強いた若狭国の「城」は燃え、石垣だけが残りました。「安政の大獄(1858-1859)」、「天狗党の乱(1864)」鎮圧を勧めた京都所司代、酒井忠義が第14代(最後)の藩主となり、新政府への恭順を示すために放火したのではないかと云われているそうです。

 明治15年(1882)、自由民権運動家、古沢滋・城山静一が地元伝承を聞いて松木庄左衛門顕彰運動をおこし、小室信介(こむろしんすけ)著『東洋義人百家伝』で庄左衛門は全国的に知られるようになり、自由にものが言えなかった封建時代でも、正義を求めて声をあげ続けた人物として称えられました。

 さらに下って、平成24年(2012)10月、私は伊賀上野で初めて大学時代の同窓会に参加しました。彼らの同窓会の意味は同じ下宿先に寝起きした者の集まりということでした(偶然にも皆同じ大学)、私の参加理由は今、伊賀上野に住むホスト役の友人Tと2年間同じゼミで過ごしたというだけのことで、この下宿先には関係がありません。

 その彼、Mは当初から同窓会のメンバーで、話をしているうちに親しくなり、徐々にM本人のこと、MTとの関係が解って来ました。Mは関西フォークが華やかだった60年代京都で活躍したそうで(?)、実は彼の歌を聞いたことはありませんが…、当時、彼が最大の影響を受けたのがBob Dylanの由。今から思えば、私の友人TはこのMから大きな影響を受け、ゼミの2年間に私に接したのでした。祖先を題材にした本があるからとMに紹介されたのが今回紹介した水上勉の「城」でした。

 当時、学生の多くは京阪神以外の出身、国公立落ちの一浪、どこか田舎臭いところがありました。今日、同窓生の中で唯一Mだけが、若い女性羨望の、如何にも京都という市内(ほとんど洛中)に住み、ウォーキングと映画三昧、週末には隣の近江国貴生川の畑で日野菜などの京野菜を育てています。彼の長女は老舗店で修業後、独立、和菓子店「おやつaoi」を開店、多くのマスメディアの取材を受け、このコロナ禍でも健闘しています。
おやつAOI_2


 彼の畑では、お店に供給する小豆を生産、付けた名前が「貴生川大納言(きぶかわだいなごん)」とは、さすがに、公卿の流れです。



express01 at 11:33|PermalinkComments(0) History_Japan | Lifestyle

November 28, 2021

松木庄左衛門 その1

熊川宿
 西(兵庫県伊丹市)に住んでいた頃、きれいな海、海水浴と云えば、日本海の若狭湾を指し、兵庫県綾部市を経由して、後には琵琶湖の西岸を走る湖西線も既に開通、2時間半〜3時間で行くことが出来たように思えます。古くは奈良、飛鳥時代には「御食国」と呼ばれ、朝廷に税として塩や塩漬けした魚介類を納め、さらには京に都が遷り、若狭小浜では「京は遠(とう)ても十八里」と云われる土地でした。

 狭湾はリアス式海岸が発達、のこぎり状に岬が海に突き出、谷は深く海を入れています。戦国時代、若狭は「若狭三十二谷」と呼ばれ、32人もの郷士が夫々勝手に狭隘な自領を支配するだけで、若狭一国を統治するまでの力を有する者が現れませんでした。若狭国は有力な領主を得なかった為に百姓は塗炭の苦しみを味わうことになります。

 以下、水上勉著「城」より。

 能寺の変で信長を殺した光秀の天下はわずか三日、またたく間に秀吉が天下を統一してしまいました。京極高次(1563-1609)は信長の家臣でしたが、「山崎の戦い」では高次の妹、竜子の夫、武田元明と共に光秀に通じて挙兵するも敗退。秀吉の追捕を受ける身となり、市(高次の叔父である浅井長政の妻)が再婚した柴田勝家のもとに逃れますが、翌年、勝家は「賤ヶ岳の戦い」で秀吉に滅ぼされます。高次は再び流浪の身となったのです。秀吉の天下統一が成り、その側室となった妹、竜子の嘆願などにより、高次は許されて、秀吉に仕えることになりました。光秀に加担した多くが三条河原に首をさらされた中、高次一人だけが生き残り、後に重用されます。…が、豊臣家の衰微を察知した高次は「関ケ原戦い」で再び寝返り、その功賞で若狭国を拝領しました。高次は、淀君の妹、はつを妻にしており、家康への忠誠心を示さなければならず、そのためにも若狭での築城が急務でした。

 次は小浜の築城を開始すると同時に、妻の常高院(はつ、淀君の妹)、嫡子の熊丸を家康の居城、伏見に預けます。家康は、将軍秀忠に初姫が生まれると、これを常高院に預け、熊丸の部屋で養育させ、後に熊丸(後の忠高)の嫁として若狭国に嫁がせます。

 丸は秀忠から「忠」の一字をもらい「忠高」と名乗り、高次が他界(1609)すると、家康の命で、17歳の時若狭国を継ぎます。しかも近江高島郡を合わせて一国一城の主となったものの、肝心の城は未だ石垣積みの段階、居館の建築にはかかっていませんでした。父、高次の奨励で、後に海鮮問屋など商港として栄えますが、当時は未だ藩財政を潤すまでには至っていません。徳川幕府は開いたばかり、江戸城建て直し(1606)、禁裏の修築、加えて江戸大地震、駿府城建て直し(1607)、「大坂夏の陣(1614)」と、天下はまだ騒々しく、幕府は諸藩に対し資材調達・工事・出兵命令を出し、諸国藩主の財政負担は莫大なものでした。

 永7年(1630)忠高の妻、初姫が急逝。同年、若狭は百年に一度の大洪水に見舞われ、河川は氾濫、山崩れ、大出水が発生、田畑は泥水につかりました。原因は築城の為に大量の木材が切り出されたことに依るものでした。この頃までには、「若狭三十二谷」の百姓は疲弊し、米等の穀類はおろか豆類さえも食べることが出来ず、困窮のどん底にありました。

 のあらかたの完成は寛永11年(1634)、この年、皮肉なことに忠高は家光から移封の命を受け松江城主に栄転することになりました。※松木庄左衛門 その2に続きます。



express01 at 22:42|PermalinkComments(0) History_Japan | Lifestyle
Profile

ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

 ブログのURL QRコード
QRコード
Comments
Back Issues At A Glance
人気ブログ ランキング