鬼界ヶ島

November 13, 2017

火薬を巡る世界史そして日本史

 平安末期、平清盛の時代(1118-81)、日本の東(北)の端は津軽半島東部の「外ヶ浜」、 西(南)の端は鬼界ヶ島(=薩摩硫黄島)でした。清盛政権の転覆を謀った(『鹿ヶ谷の陰謀(1177)』)ことを理由に俊寛以下3人はこのこの鬼界ヶ島に流されますが、この鬼界ヶ島は硫黄の産地、積み出し港として、清盛政権の財政的基板である日宋貿易、朝鮮半島・琉球を結ぶ交易ルートにおける最重要拠点の一つでした。摂津国福原で奥州産の金・銀を積み、博多を経由、鬼界ヶ島で硫黄を積んで 宋(寧波)へ,宋からは大量の宋銭・香料・陶磁器などを持って帰るという貿易ルートを実現、 輸入された大量の宋銭は、従来の国産の貨幣を駆逐、貨幣経済の革命的な発展をもたらします。清盛に依る政権奪取、引き継いだ頼朝が開いた鎌倉幕府に始まる700年に及ぶ武家の時代となります。
てつはう
 当時の文明国、中国の宋(960 - 1279)は異民族の圧迫を受けて南下します。唐の時代(618年〜907年)に発明された黒色火薬(硝石+木炭粉+硫黄)の実戦兵器への応用が急速に拡大しますが、女真族:金により、華北・東北地方の領土を失った南宋(1127 - 79)は、火薬の原料である硫黄の国内における産地を失い、日本にその供給を求めるようになった訳です。清盛が輸出した硫黄が中国で何に利用されるかを探った様子はありません。金そして南宋を滅ぼしたモンゴルは元を建て(1271 - 1361)、フビライの時、日本にもモンゴルへの服属を求めたが鎌倉幕府はこれを拒否したため、1274年(文永の役)・1281年(弘安の役)の二度、モンゴル(元)と高麗の連合軍を日本へ送るがいずれも失敗に終わります。モンゴル軍の「てつはう(炸裂弾)」は絵にも残されているように、大いに驚いた鎌倉武士でしたが、この最新兵器がどのようなものか、炸裂・爆発するメカニズムを解明しようという思いには至らなかったのは清盛の時代と同じです。全く興味を示さなかったのは、当時の中華文明国に比べその一周辺国に過ぎない日本の文明度が格段に低かったということです。

Battle of Sarhu  ヨーロッパへの火薬の伝来は、モンゴルのバトゥのヨーロッパ遠征(1236 - 1241)の時、あるいは十字軍遠征(1096 - 1291)の時代に、既に火薬が伝来していたイスラム軍との戦闘を通じてヨーロッパに知られたとも言われる。1252〜56年カラコルムでの活動していたフランシスコ会伝道師が見聞した火薬の知識を当時ヨーロッパの最高学府で学んでいたロジャー・ベーコン(1214 - 1294)に伝え、後にベーコンは火薬に関して書物に著し、そこには硝石についての記述があるそうです。 1333年に鎌倉幕府滅亡、その頃までにヨーロッパでは火薬が研究され、如何に硝石を人工的に作るかが研究されていたということです。1378年にはニュルンベルクにおいて初めて、糞尿などをかけて硝石を人工的に生産する施設が作られたが、効率も品質も悪く、増加する一方の火薬の需要を満たすには至りませんでした。

 一方の日本、文永・弘安の役という二度の痛い経験をしながら、これを原因に鎌倉幕府は滅亡するのですが(1333)、モンゴル軍が用いた「てつはう」のメカニズムを解明しようとはしていません。当時、ヨーロッパはルネッサンス前の、いわゆる中世の暗黒時代、同時代の日本はこと「火薬」に関してはヨーロッパに大きく遅れをとっていた事になります。火薬の発達の背景には戦争があるのは当然の話、火薬の実戦配備は中国宗時代の金・モンゴル等の対北方異民族戦、モンゴルのイスラム・ヨーロッパ遠征、これがヨーロッパに持ち込まれた14世紀からの500年にわたり、これらの地域では戦争の絶え間がなく火薬兵器が発達がしました。

 モンゴル元寇の「てつはう」から種子島「鉄砲」までの262年間、日本が鎌倉幕府滅亡→南北朝動乱→室町幕府の無力化→応仁の乱と戦乱が続いたのはヨーロッパ中世と同じ、ましてや戦争のプロ、武家の時代のはずですが、歴史上では、火薬兵器・硝石の研究開発がなされた事実がありません。2度の元寇でぎくしゃくあったにせよ日元貿易あり、足利室町幕府は朝貢という形を取ってでも日明貿易を行っており、朝鮮半島経由でも、何らかの形で火薬・硝石の情報が入って来ているはずです。例えば、中国では、唐・宗の時代から爆竹があったらしく、かなり早い段階で火薬は日本にも入っていたのではないかという疑問がわくのは当然です。

 262年間無関心であったものが、種子島を機に、それこそ爆発的に関心度を高め、重要度に目覚め、わずか60年の間にそれまでの空白を埋めるかのように、一気に、少なくとも量的には、関ヶ原で世界の頂点に達します。ところが、家康が江戸に徳川幕府を開き平和が訪れると、一挙に軍縮が急激に進み、火薬兵器の発達はばったり停止、銃把(=グリップ)の装飾に贅をこらすなど、兵器=道具としてよりも意匠・工芸美術品に成り下がっていきます。その間、難渋して獲得した最重要技術の一つ、銃底の強度確保のための尾栓の雄ネジ及びそれがねじ込まれる銃底の雌ネジの製造技術(ネジは中国の発明ではない)は火薬兵器の発達停止とともに、 銃底 ネジ他の産業技術に応用されることもなく、歴史の中に埋没してしまいます。不思議です。

 尾栓のネジの切り方に難渋した末に国産銃を完成させますが…、火薬を調達・製造できなければ、鉄砲が出来たとしてもそれは単なる鉄パイプ。火薬製造に、木炭・硫黄は入手出来たとしても硝石の入手は難しく、今井宗久・千利休等の堺商人による輸入に依存せざるを得ません。つまりは、火薬は堺でしか作れず、ヴェニスと並び賞される堺の自治は火薬の独占により実現したことになります。

 長くなりました。この続きは次の機会に譲るとしましょう。

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express01 at 16:24|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

August 30, 2014

箱根の山は天下の嶮

 アフリカ大陸の東岸を離れて北上したインドは、4千万年前、ユーラシア大陸に衝突、現在のインド亜大陸になり、その北側には衝突で出来上がった幾重にも刻まれた深い皺(しわ)、大きな隆起:ヒマラヤ山脈が誕生しました。〜箱根の山は天下の嶮 函谷關も ものならず〜とは、その函谷關に行ったことがないので判りませんが…、箱根が難所要害の地であることには間違いなく、その南に位置する伊豆半島は地質学的、動植物学的にも他地域とは大いに異なっているそうです。遠く、太平洋の沖合、現在の八丈島・三宅島等(伊豆諸島 余談ながら、今は東京都)の位置に在った伊豆は火山島でした。フィリッピン海プレートに在った伊豆を含む火山島・海底火山は北に向かって移動、60万年前についに本州に衝突、現在の伊豆半島になり、その北側に大きな隆起:箱根が出来上がったのです。フィリッピン海プレートは伊豆半島を北端にユーラシアプレートの下に潜り込んでいきます。かつて、ウェーゲナーの「大陸移動説」のファンだった私は、箱根・伊豆半島にヒマラヤ山脈・インド亜大陸誕生と同じ現象が発生したのを知って驚いてしまいました。伊豆半島から途切れることのない箱根は、さらに北上して丹沢・秩父そして碓氷峠につながる大きな山塊を形成しました。

 地球の歴史のほんの一幕、大陸が移動した時代からすればほとんど現在と同じ、たかだか14百年前、百済滅亡(660)と白村江の戦の敗北(663)で唐・新羅による侵攻の危機に直面した大和朝廷:天智天皇は律令制を本格化します。「五畿七道」とは律令制下における地方行政区分ですが、その内の一つ:東海道は機内の東:伊賀国(三重県)から本州太平洋岸に沿って常陸国(茨城県)に至る諸国で、それぞれの国府は行政区と同じ名の幹線官道:東海道で結ばれていました。680年、駿河国より分離されて伊豆国が誕生、駿河国沼津から足柄峠を越え、相模国関本に至る「足柄路」が取られていたが、平安時代初期の富士山の噴火(貞観大噴火 864-866)によって通行不能となり、代替として、三島から箱根を縦貫する「箱根路」が開かれることになりました。

旧東海道西坂 律令制下において、伊豆諸島は隠岐・佐渡・鬼界ヶ島と並んで辺境の島、その入り口である伊豆半島も遠流(おんる)の地でした。「平治の乱(1159)」で清盛に敗れた頼朝は伊豆国蛭ヶ小島に流されます。伊豆半島〜箱根(箱根関・足柄関)〜丹沢・秩父〜碓氷(碓氷関)に至る山塊の東、「坂の東」=「坂東」に在る、新田・馬牧場の開墾・開発して、「一所懸命」という単純明快な論理と「名こそ惜しけれ」という精神と表裏一体して、実力をつけた牧場主のような彼等は、都の貴種:頼朝を征夷大将軍には担ぎ上げて鎌倉幕府を開きます。鎌倉幕府は険しいが距離の短い「箱根路」の開発を進め、鎌倉と京都を結ぶ最重要道路、鎌倉街道上の道と位置付けて整備しました。

 時代はさらに下って、江戸幕府(徳川家康)は沿道松並木や一里塚を整備(1603)、日本橋から三条大橋に至る「東海道五十三次」を設けたのですが、「箱根路」の雨水による泥濘に旅人は難渋しました。幕末の1860年、孝明天皇の妹:和宮が十四代将軍:徳川家茂に降嫁が決まり、嫁入りに備えて石畳の大補修がなされましたが、実際の花嫁行列は、東海道ではなく、中仙道が使われることになりました。

一里塚 その難所要害の「箱根路」に挑戦してきました。一人では不安…、と友人の友人:Akiraさんに付き合ってもらい、まずは7月、始発のバスで町田まで、小田急に乗り換え小田原に着いたのが7時過ぎ、その彼と待ち合わせますがJRへの接続に失敗、次の列車で三島へ向かいました。三島駅前のコンビニを出発したのが08:30で既に太陽の位置は高く炎天下、もちろん休憩も入れて6時間/17.4kmを歩いて芦ノ湖まで、峠を越えて箱根湯本まではたどり着けませんでした。1か月後の今週、同じ二人で今回は東坂、JR小田原駅を07:30出発、前回ほど暑くもありません。箱根湯本を過ぎて本格的な山道は前回の西坂よりも急峻で息も荒くなり、4時間半/12km、旗宿で昼食となりました。156年前に補修された石畳道の多くは、雨で沢となり、石の回りの土が流されてしまい、今や苔むした石が障害物として散乱、うっかりすると滑って捻挫、駿河国(静岡県)西坂に比べると相模国(神奈川県)東坂の遊歩道としての整備はお粗末です。当時いくら石畳が補修されていたにせよ、この道を乗馬で越したとは考えにくく、江戸を目指す新政府軍は、あくまでも馬をひいて、前で大砲・荷馬車を引っ張り、後ろから押す、人海戦術で峠を越したのではないでしょうか。

 幕末、若き英国人外交官:アーネスト・サトウも京からの帰路この箱根坂を歩いており、その印象を書き残しています(「一外交官の見た明治維新〈上〉 (岩波文庫) 」。156年前に補修された西坂の石畳を、紀元前後の「ローマの道」:アッピア街道と比較されると唖然として脚も萎えてしましますが、気を取り直して、元ワンゲルの彼についてここまで来ることが出来たことに満足することにしましょう。

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April 16, 2012

ここは地の果て〜♪

ここは地の果てアルジェリア〜♪…、この歌詞が好きです。

人は「果て」、「端」と言う言葉に惹かCabo_da_Rocaれるようで、『ユーラシア大陸の最西端』と言えば、ポルトガルのロカ岬が、ユーラシア大陸の西の最果ての地、石碑には叙事詩の一節「ここに地終わり海始まる」が刻まれています。「最果ての地」、「最端の地」、と言えば辺境の地と同意義であると勝手に思いこんでしまいますが、このロカ岬、地図で見ると首都:リスボンから西へわずか20kmの距離です。

時代は、またもや、NHK大河ドラマ『平清盛』の時代、平家に莫大な富をもたらした日宋貿易、日本からの主要輸出品の一つが硫黄、その産地が鬼界ヶ島(=薩摩硫黄島)でした。日本の東の最果ては津軽半島東部の「外ヶ浜」、そして西の最果てが硫黄の産地と同じ「鬼界ヶ島(=薩摩硫黄島)」でした。国の辺境を指す代名詞であり、前者は蝦夷の住む土地、穢れを放逐する土地=流刑地と考えられていました。一方では、同時代の西行を始めとする多くの文化人が強い郷愁や憧憬を抱くのも不思議です。

1177年、後白河上皇を黒幕として、僧都俊寛(そうずしゅんかん)らが 謀反を企て 、『鹿ヶ谷の陰謀』と呼ばれます。事に及ぶ間もなく鎮圧され、首謀者の3人は西の最果て:鬼界ヶ島(=薩摩硫黄島)に流されます。…と言っても、3人にとって鬼界ヶ島は、決して絶海の孤島・辺境ではなかったはずです。硫黄の産地、積み出し港として、日宋貿易、朝鮮半島・琉球を結ぶ交易ルートにおける重要拠点の一つでした。朝鮮王朝初期の政治家:申 叔舟(シン・スクチュ1417−75)が著した『海東諸国紀』(1471年)には、この交易ルート上に鬼界ヶ島が明記されています。
海東諸国紀 鬼界が島marked

後に恩赦により平康徳、藤原成経は釈放されますが、俊寛だけは許されず島に留め置かれます。同じ不遇の身であった3人のうち2人が救われて、たった1人残される、これはもはや絶望です。2人を乗せた船が出るに及んで、俊寛は舟にすがって海の中まで追ってきて、終いには渚に倒れ伏し、幼児が母を慕うように、足摺(じだんだを踏むこと)して、泣き叫んだが、舟は遠ざかって行くだけでした。後白河法皇の側近で法勝寺執行の地位にあった僧侶、打倒平家を合い言葉に、謀反を企てた首謀者の一人、…にしては、俊寛の取り乱し様はあまりにも哀れ・惨めです。硫黄島港ライブ映像 「置き去りにしないでくれーっ!」、 遠ざかる舟を追いすがって渚を走る俊寛の後ろ姿(彫像)が見られます。

『カスバの女』、私は1970年頃のリバイバルでしか知りません。1955年、映画の主題歌あるいは挿入歌として、エト邦枝の歌として発表されたが全く売れなかったそうです。おそらく、 「アルジェリア独立戦争」 を意識して作られたのでしょうが、その映画も頓挫し、歌が復活するのは70年学生運動の頃でした。その後の俊寛に、この曲:『カスバの女』を贈りましょう。カントリーではありません。



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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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