頼朝

December 03, 2012

2012年近江の旅 Episode 5 〜 篠原 宗盛胴塚

元暦2年/寿永4年3月24日(1185年4月25日)、「壇ノ浦合戦」に勝利した義経は京に凱旋、これを賞して後白河法皇は義経とその配下の御家人達を任官させます。これを知った頼朝は激怒、義経以下の東国への帰還を禁じます。その命令に反して、義経は兄:頼朝への弁明を目的に、5月?日、平宗盛・清宗父子を護送するという名目で鎌倉に向かいます。

鎌倉は、東海道を東へ、足柄峠を越えた坂東の地、相模国の小さな一寒村に過ぎませんでしたが、急に表舞台に登場します。当時は揖斐川・長良川・木曽川の河口の幅が広くて渡河出来なかったのか…、京を出てすぐ東海道を行くのではなく、東山道(近世における中山道)を美濃国に入り、加納で木曽川を渡り、尾張国を迂回するように南下、東海道に入って東進、14〜16日間の旅程だったそうです。

義経 宗盛護送経路?_2
甚目寺町歴史民俗資料館の地図を拝借しました。

それは平家全盛の承安4年3月3日(1174)、鞍馬寺で「遮那王」と名乗っていた牛若は、金売り吉次と陵助頼重(みささぎのすけよりしげ)を同道して奥州の藤原秀衡の館を目指して京を脱出、東山道を「篠原」から「鏡宿」(現滋賀県竜王町)に至ったところで、追手が稚児姿の牛若を探しているのを知り、急ぎ髪を切り烏帽子を着けて元服しました。

感慨深く…、義経はこの地を通り過ぎたに違いありません。鎌倉の手前:腰越に至るも、義経は頼朝の命令で鎌倉へ入ることを許されず、そこで5月15日から6月9日までの間留め置かれます。6月5日、大江広元を通じて頼朝宛に異心のないことを書状で送ったのが『腰越状』でした。

これが、あの清盛の息子…?、平家の総大将だった…?、とみんなが呆れる宗盛は頼朝との対面を終え、鎌倉入りさえも許されなかった義経に護送されて元来た京への路を戻ることになります。義経の失意は、京への帰路、何時どこで兄:頼朝との決別の決意に変わったのでしょうか?変わったのは義経だけ…、宗盛は相も変わらずとぼけたまま…、「ここで斬られる」、「ここだろうか」、「きっとここだ」と、恐怖に顔が引きつる毎日です。いつの頃からか、「ひょっとしたら助かるかも…」と、宗盛は淡い希望を取り戻しますが、息子の清宗は父への返答を声に出す気にもなれません。「首が腐らないように京の近くで斬られるだけですよ。」

またもや、11年前に義経が元服した「鏡宿」を通り過ぎ、京を目前にした6月21日、宗盛を「篠原」、清宗を「野路口(滋賀県草津市)」にて斬首。

現在の国道8号線と東山道(=中山道)が奇妙に交差しています。近くまで来ているはずですが、どうも場所を特定できません。Kenさんが街道沿いの何軒かのお宅を訪ねてやっと判りました。今や営業されず廃屋になっているガソリンスタンドの横の脇道を入っていくと、その廃屋もさることながら、朝から雨、妙にうらさびしく、哀れな胴塚です。
平宗盛胴塚_2

宗盛・清宗父子は捕虜となって京六条通りを引き回され、本来ならば、後は静かに斬首を待つだけであったはずでしたが、兄:頼朝の命令に背いた義経は父子を利用、頼朝の歓心を買うために、命じられてもいない父子護送で京・鎌倉を往復、40日間を徒労してしまいました。父子の首が、今度は、三条通りを西へ引き回されるに至っては、義経の失敗のとばっちりを喰うようなもので、父子はそこまでの辱めを受ける必要はなかったように思います。6月23日、父子の首は六条河原で獄門に晒されます。

文治5年(1189年),藤原泰衡は義経主従を衣川館に襲い、義経は自害します。首は酒に浸して43日間かけて鎌倉に送られ、6月13日、その首実検が行われたのが、何故か…腰越、やはり鎌倉へは入れませんでした。

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November 14, 2012

2012年近江の旅 Episode 3 〜 大津義仲寺

義仲は『倶利伽羅峠の戦い(1183)』では捕虜にした平氏の瀬尾太郎兼康を「失うには惜しい武士」と助命、しかし瀬尾は再び敵に回って抵抗、怒り心頭の義仲は彼を攻めて自害に追い込みます。最後まで善戦したと聞くと、「やはり、殺すには惜しい男だった」と悔やんだという。

5万の軍勢で都入りした当初は、義仲は日の出の勢いで上洛し、「旭将軍」と都人に喝采を持って迎えられたのもつかの間、義仲軍の駐屯は飢饉を悪化させるだけで、都・殿上人の習慣・礼儀・作法を知らない厄介者、田舎者と蔑すまれます。

一時はクーデターを成功させ、征夷大将軍の地位につくも、やがて頼朝の命で鎌倉から上ってきた源義経・範頼の軍に『宇治川の戦い(1184) 』で破れ、散り散りにになりながらも、「死なば一緒」と誓い合っていた今井兼平と共に、粟津ヶ原での最後の戦いに挑み、幾度かの突撃でその数はわずか5人、その中に兼平の妹、義仲の愛妾:巴(ともえ)御前も入っていました。最後の最後、巴御前を逃した後、死地を目指すべく馬を走らせるが敵の矢を受け即死、享年31歳、それを見て、兼平も馬上で太刀を口にくわえ頭から飛び降り自刃します。

数年が過ぎ、いつしか、美しい尼がこの墓所の畔に草庵を結び、日々の供養に努めていました。この尼こそが義仲の愛妾:巴御前の後身でであったという。

芭蕉は、一説には、好きだった義経の足跡を訪ねて、『奥の細道』を旅したのですが(1689)、旅から帰って間もなく、それもまた旅先の大坂で亡くなります(1694)。「骸は木曽塚に送るべし」とは彼の遺言、不思議なことに、彼の故郷:伊賀上野ではありませんでした。

義仲・巴・芭蕉墓・義仲寺門前
義仲は、人懐っこい人情家、人を信じて受け入れるが、これが過ぎて裏切られる、無骨で粗野な田舎者、男女を問わず、人を惹き付ける人間的魅力のある人間…、裏を返せば、どこか滑稽さが漂う、無教養な、ぱっと出の(成り上がりの)人間。怜悧な頼朝、酷薄な作戦の義経という源氏、関東武者の中にはない存在で、英雄として非業の最期を遂げた義経ではなく、どこか、おっちょこちょいで人間味が感じられる義仲に強く惹かれるものがあったのでしょう。

又玄(ゆうげん)の有名な句:「木曽殿と背中合わせの寒さかな」には芭蕉の思いが伝わって来ます。

我々の『2012年近江の旅』は、『奥の細道』の「結びの地」:美濃大垣から始まり、二人の「結びの地」:『義仲寺』を訪問することになりました。粟津ヶ原も今は昔、『義仲寺』は大津の街中に在り、寺というより、集会所あるいは庭園の趣です。晩年、芭蕉はここの「無名庵」と京都嵯峨の「落柿舎」を往来することになります。
義仲寺バナナ

10月23日、今日は雨、まだ肌寒いというほどでもなく、庭のあちこちにバナナの大きな葉、何と居心地の良い処なのでしょう。

eyecatch_amazon_2おくの細道

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November 03, 2012

2012年近江の旅 1(序章) 〜 美濃国不破郡青墓

中仙道青墓宿いつもブログにコメントをもらうKENさん。その彼にご一緒する『近江国』を巡る二泊三日の旅が始まるのは翌朝、競技開始前の様に自然とアドレナリン分泌が高まっているようです。歴史を遡る旅行は既に始まっています。

下野国から白河関を越えて東山道(近世の中仙道)の奥、陸奥国(道の奥→みちのく、むつ、奥州)に入ったのは5月のことでした。今回はその東山道を遡って近江国に至りますが、あっさりとお国入りすることは許されません。その中間の道程ははしょっるものの…、通過儀礼・儀式としてに「不破関」のあった美濃国不破郡(現在の岐阜県大垣市)を訪れなければなりません。

20年も前だったでしょうか、数人でこの地に来たことがあります。自炊しなければならず、料理の上手い友人の指図で、料理の出来ない私は朝の買い物に出かけることになりました。その小さな商店に入って、「納豆下さい」、というと、「甘納豆でしょうか、それとも濡れ納豆?」とはお店の人の反応。そうです、ここで食文化が東西に別れるのです。ついでに、エスカレーターの立つ位置がここから西は右側となるそうです。

「関東」の概念は、大和朝廷の勢力範囲が東方に及んで行くにつれ、時代と共に東方に移って行きます。まずは、「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも〜」の「逢坂の関」、これが東進して「不破関」、東海道なら「鈴鹿関」、さらに東進して、「碓氷峠」あるいは「足柄山、富士山噴火以降は箱根関」を越えた地域を「坂東」、「関東」、「東(あづま)←吾妻」と呼ぶようになり現代に至っているようです。それじゃ…「関西」は? 「関東」ほどには東へ移動していません。「関西」と並んで「近畿」と言う言葉がありますが、都のある地域:「畿内」に由来するもので、その東の端が山城国、「逢坂の関」の西が「関西」だったのでしょうか…、それが東進、いつ頃からか?…、明治政府は「畿内」に滋賀県・三重県を加えて「近畿地方」としました。現代の「関ヶ原」以西、「不破関」と「鈴鹿関」を結ぶ線より西が関西になり、この関ヶ原を境に日本の文化、特に食文化は東西に大きく別れるそうです。新聞・テレビ初めとするマスコミ、交通網の発達で全国の平均化は進行して、昔ほどではないにしろ、まだまだ、そこには東西を別ける境界があるようです。

散々なNHK大河ドラマ:『平清盛』の筋書きにかろうじて付いて来ている私ですが…、白乙前 後白河 青墓河法皇の愛妾:祇園女御は宮中を去って、今度は、後白河法皇の『今様』の師匠、「乙前」と名を変えて彼の側に使える、という作者独自の設定らしいのですが、その間30年は過ぎて80歳ぐらいの役か?…松田聖子のメイクは全く変わらず、化け物か?…というぐらいにきれいで(?)、彼女だけが歳をとっていません。外務省を「伏魔殿」と呼んで大臣を辞した田中真紀子が、あれっ…、こんどは文化省大臣に返り咲いて一悶着、老若美醜はともかく、宮廷世界も外務省も伏魔殿・魑魅魍魎の世界、そこに登場する化け物、どこか似ています。

「傀儡女(くぐつめ)」は、売春を生業としながら、人形を廻しながら集団で諸国を往来、各地の宿駅を活動の場としたが、「乙前」は美濃国不破郡の宿駅:青墓が居所の「傀儡女」でした。
平治物語
『平治の乱(1159)』で敗れた源義朝、嫡男:義平、次男:朝長、三男:頼朝以下の一行は東国に逃れようと、都を大原から北に若狭街道(鯖街道)に出ます。竜華越(りゅうげごえ)で叡山僧兵の襲撃を受け朝長が腿に重症を負い、近江国では頼朝(当時13歳)は疲労のため一行に脱落、既に平家方に抑えられている不破の関を避けて北側に迂回、義朝の妾:「延寿」という名の大炊長者(おおいのちょうじゃ)を頼って美濃国不破郡青墓に辿り着きます。重症を負った次男:朝長は足手まといになることを恐れ、父の義朝に頼んで自分を殺してもらいます(当時16歳)。嫡男:義平は平家に一矢報いようと都に引き返すも、途中捕縛され六条河原で処刑(当時20歳)、義朝はその後も逃避行を続け尾張国野間(現愛知県知多郡美浜町至るも、謀られて入浴中に殺害されます。
源朝長の墓_for Blog 
※ 明るい色調になってしまいましたが、実は朝長の墓所は山中の木々に覆われた暗い処です。人魂でも出てきそうな雰囲気、『耳なし芳一』になった気分です。耳はちゃんとついていますが…。

義朝の側室:「延寿」も大炊長者呼ばれる「傀儡女」で「今様」の名手でした。その二人の間に生まれたのが「夜叉姫」で、平治の乱の敗北により、父:義朝以下多くの兄弟を失い、源氏の行く末を悲観、杭瀬川に身を投げて自殺してしまいます。「今様」の母娘相伝を受けたはずの「夜叉姫」は惜しい結果となり、後白河の「今様」の師匠「乙前」の死(1168)をもって歌謡の芸術としての評価は終わることになります。

納豆を載せた炊きたてのご飯、友人の作ったみそ汁、…その朝食の美味かったことが思い出されます。

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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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