雨森芳洲

April 12, 2013

ガラケー

iPhone 5「ガラケー」…、「アキバ系」と同じく、新しく生まれたアイドル、ゲーム、お笑いのジャンル、領域なのか…、と思いきや、これが「ガラパゴス・ケータイ」の略で「日本で独自に進化したケータイ」の意味だそうですが、もう少し上品な響きにして欲しいものです。スマート・フォンの普及で、それまでのi-モード初め日本における独自の進化と区別するための新語です。

日本の独自の進化=ガラパゴス化、これは別にケータイに限ったことではありません。日本の歴史・文化そのものが独自の進化をして来たガラパゴスで、その中核・核心をなすのが日本語という言語です。地理的にはユーラシア大陸の東端、東アジアに在って、巨大な中国文明の恩恵を被り、恩恵は被りながらも中華冊封体制から離脱、以降、独自な文明を築いて来ました。

中国文明の恩恵は、朝鮮半島を経由して、中国の文字と書物である、漢字と漢文という形でもたらされました。実際に日本人が日本語の表記に漢字を使用し始めたのは6世紀に入ってからのことです。言語学的には、中国語は孤立語で日本語は膠着語(膠(にかわ)でくっつけるの意)、全く言語体系が異なります。日本人は、行きつ戻りつ、日本語に作りなおして読むという方法は日本語史上最初の大発明でした。千数百年にも渡り、この方法で、欧米人にとってラテン語に当たる中国の古典を学んだのです。「読み下し文」という方法は文章としての日本語を誕生させ、ついには日本文学史上最高の傑作とされる『源氏物語』を生むことになります。

「一所懸命」の通り、開拓者・耕作者に依る土地所有は合理主義を産み、鎌倉幕府による武家社会が始まった。以来、明治、近代国家に至るまで、この武士社会は約7百年続くことになります。朱子学者にして、対馬藩に仕えた雨森芳洲(1668〜1755)は新井白石(1657〜1725)を相手に、王のもとに、文官が支配する朝鮮は「王道」であるが、徳川幕府(中央)と藩(地方)、武官が支配する体制は「覇道」である、と喝破した通り、日本は中国・朝鮮とは全く異なる武家社会を作り出し、江戸時代にはそれが決定的となりました。

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神識字率は70%〜80%に達し、商品経済の発達はさらなる合理主義、現実主義を生み、文学ではこれを反映して井原西鶴(1642〜1693)が登場、学問は実証的となります。「覇道」の主体、人口の7〜8%を占める武士階級が租税徴収及び行政を担い、幕府・大名はともかく、農民・商人よりも貧しい中下級武士が多く存在した。知識階級である彼等は清貧で、自律的、潔く、下の階級からも尊敬されていました。武士だけではなく、多くの商人が知識階級として、自律的に、公共へ奉仕する、という現象が見られるのは、マックス・ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』に通じるところがあります。

ペリーの黒船来航、それ以降を幕末と呼びますが…、は日本の歴史においてまさに驚天動地。西洋の文明・学問が怒涛のように押し寄せ、アヘン戦争に負けた中国のように、日本も西洋の植民地になるのでは、という恐怖に怯えました。その対抗策である富国強兵の為には西洋文明:学問・法律・制度等々、日本には存在しなかったもの、概念など、広大な領域をカバーする多くの新しい語彙を造語しなければなりませんでした。津和野藩の蘭学者:西周(にし あまね 1829〜1897)は、例えば…、芸術・理性・科学・技術・心理学(では意識・知覚・感覚・理性)・論理学(では帰納・定義・総合・分解)・哲学(では客観・主観・抽象・概念)…を造語しました。西を始めとする先人たちは怒涛のように押し寄せて来る西洋語の意味を深く吟味し、それを日本語に訳することを思いついた。日本語史上二番目の大発明でした。これは、千数百年前中国から漢字を取り入れて以来、「訓読み」で文字の持つ意味、「読み下し文」で文章の意味を理解する日本人ならではの発想でした。

「Republic」は、日本製漢語では「共和国」ですが、中国語では「民国」と訳されました。「辛亥革命(1911))で「中華民国」が建国されますが、これは中国語訳です。ところが、1945年、日本の敗北によって第二次大戦は終了、中国共産党は国民党に勝利して、1949年、「中華人民共和国」を建国、採用された「人民」、「共和国」は日本製でした。日本からの独立を果たした朝鮮半島では、北側は「朝鮮民主主義人民共和国」、「人民」、「民主」、「主義」、「共和国」と、長い国名のほとんどが日本製漢語です。南の韓国では、台湾に逃れた「中華民国」と同じく、「大韓民国」と中国訳を使っています。

以前にも書きましたが、中国系マレーシア人の知り合いから、「日本人はどうやってハリウッド映画をみるのか?」と聞かれて私にはショックでした。インドネシアではマレー語で書かれた書物も少なく、インド、東南アジアでも似たようなことが言えるようで、高度な概念を表す自国語が存在しないのか…、大学に於いてその内容を自国語では講義出来ず、英語に頼らざるをえないという事情があるようです。

幸いなことに、二度の言語上の大発明を経て、日本人は大した抵抗もなく近代社会に入ることが出来ましたが、同時にその大発明はあくまで「読み書き」、優れた言語故に残念ながら「聞く・しゃべる」能力を退化させたようです。東南・東アジア文明にも入れてもらえず、百年前に福沢諭吉の唱えた「脱亜入欧」も実現せず、孤立する日本、友人もいません。日本語が如何に優れた言語にせよ、残念ながら、英語のように世界言語にるのは不可能でしょう。

暗い話になって行きそうで…、もう止めます。私も、最近、あこがれのiPhone5を手に入れました。

プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神〈上巻〉 (1955年) (岩波文庫)

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December 27, 2012

2012年近江の旅 結び 〜 雨森芳洲生誕の地 高月

雨森芳洲(あめのもり ほうしゅう1668〜1755)、私は今回の旅行まで、その名前さえ知りませんでした。勉強を始めたばかりですが…、1668年、高月雨森村の町医者の子として生まれ、京で医学を学び、後に江戸へ出て朱子学者:木下順庵門下に入ります。彼は、新井白石と同門となり、秀才を唱われ、1689年、順庵の推薦で対馬藩に仕官します。雨森芳洲

李氏朝鮮との国交を回復した徳川幕府ですが、はるばる対馬から江戸まで、朝鮮通信使一行を往還半年以上も接待するのは大きな出費でした。第6代将軍:徳川家宣( いえのぶ  在職 :1709〜1712年)は綱吉の残した『生類憐れみの令』を廃止、側用人:柳沢吉保を解任、芳洲と同門の新井白石を登用して財政改革を試みます。経費節減のため、白石はこの朝鮮通信使一行の接待を簡素化を断行、これを期に、徳川将軍と李氏朝鮮国王との間の往復書簡、国書の書式を変更しました。徳川将軍の称号を、「日本国大君」をやめて、「日本国王」にしたのです。

「大君」の称は、中国では天子の異称であるからわが国の場合もその称は天皇に当たる疑いがあり僭越である、というのが白石の考えだったのであろうが、これに異を唱えたのが雨森芳洲でした。王のもとに、文官が支配する朝鮮は「王道」であるが、徳川幕府(中央)と藩(地方)が支配する体制は「覇道」であり、よって徳川将軍は「日本国王」ではない、というものでした。

称号問題は国の基本に関することであり、この年の通信使は、帰国するや、朝鮮国王を日本の将軍と同格にされた責任を問われて処罰されました。「日本国王」の称号が元の「日本国大君」に戻されたのは第7代将軍、吉宗の時代でした。

雨森芳洲の仕官する対馬藩は李氏朝鮮との交易・親善があって成り立つ藩、そこに高給を持って召し抱えられているのですから、対馬藩・李氏朝鮮寄りになるのではないでしょうか?この称号問題、今日に至るまで尾を引いています。そもそも、朱子学は林羅山によって武家政治の基本理念として再構築され、徳川幕府の正統学問となったものです。幕府の正統学問:朱子学の最高峰に在る雨森芳洲が、…上に挙げた芳洲の論理に私の誤解でなければ…、徳川幕藩体制を「覇道」としたのは全く正しいものでした。徳川幕府:武家政権は「王道」に反する「覇道」であり、朱子学による幕府の正統化の論理は最初から成り立っていないことになる。これでは最初から論理の破綻する朱子学を幕府の正統学問としたのは何故なのか…、芳洲・白石の時代になってもその矛盾が解決されていません。矛盾の先送りは、幕末の『尊皇攘夷』、そして、『尊皇倒幕』まで続きます。

607年、倭王から隋の煬帝に宛てた「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。」に始まる国書は、中華皇帝の概念を否定して、それまでの冊封関係からの離脱、対等外交の姿勢を表明したものでした。663年「白村江の戦い」で、唐・新羅連合軍に敗れるも、その戦争目的は唐との対等な独立国家を主張するためのものだったと言えるでしょう。以来、日本人は「天皇」を中国「皇帝」と同格に位置づけています。白石の考えもこれと全く同じで、天皇=中国(清国)皇帝は対等/同格、それぞれの臣下が、徳川将軍(日本国王)=朝鮮国王、というものでした。

一方の李氏朝鮮は自らを中華に並ぶ文明国とする一方、中国明王朝に事大する冊封関係にあり、それまでは「北狄、オランケ」(蛮族)と軽蔑していた女真:満州族が、あろうことかその明を倒して清王朝を建国するに至っては、何をもって李氏朝鮮の政治・文化の拠り所とすればよいのか…、かたくなまでの『小中華』しかなく、日本側の「天皇=中国(清国)皇帝は対等/同格」は到底受け入れられないものなのでしょう。それ故か、今日の韓国では天皇を『日王』と呼ぶそうで、これは新鮮な驚きでしたが、その『小中華』を率いる第18代大統領に朴槿恵さん(彼女の父は朴正煕が決まりました。おめでとうございます。

はるか古代から、近江に東山・東海・北国の三街道が始まり、遠く東山道の奧には、道の奧、陸奥(みちのく むつ)が広がり、東海道を行くと、頼朝がその後の日本を決定づける鎌倉幕府を開き、若狭国小浜、越前国敦賀、越国につながる北国街道を遡って斑鳩・大和国にもたらされた先進の技術や思想にあらためて驚かされます。

雨森芳洲庵ケヤキ古代、大陸・朝鮮半島からの渡来人が多かった地に、近世、李氏朝鮮との外交に尽力した雨森芳洲が生まれたのは不思議な縁と言わざるを得ません。遠くその源をインド・ペルシャに求められる『十一面観世音菩薩像』、戦国時代には住民が信長の焼き討ちから守り、秀吉が長浜の街を作り、江戸時代には雨森芳洲を生んだ高月、この地を結びの地としましょう。KENさん、『2012年 近江の旅』をありがとうございました。

東アジア交流ハウス:雨森芳洲庵の横には大きなケヤキ、古くはこの地、ケヤキに因んで高槻と呼ばれていたそうです。

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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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