関八州

August 03, 2012

「あづま」「坂東」「関東」

嬬恋群馬県嬬恋村はキャベツの産地、地名がヤマトタケルの東征に由来することを知ったのは5年前でした。その地で彼の東征は終わったのですが、今回は、彼が東国に最初の一歩を踏み入れた地、足柄峠です。

峠の相模側(神奈川県南足柄市)、ヤマトタケル軍によって滅ぼされた「坂の神」を祀る「足柄明神」はなかなか趣のある風情です。これに比べると、駿河側(静岡県小山町)に移設された、映画:『乱』のセットは全く陳腐です。

足柄大明神_1

西暦110年、実在の人物かどうか疑わしいそうですが、彼は『足柄峠』を越えて相模に入り、相模→上総→下総→常陸→上野→甲斐と、関東地方の外縁部を反時計回りに辿りました。中心に位置する武蔵は彼の関心の外であったようです。東国の平定を終え、東国を望みながら、なおも亡き妻を追慕して「ああ、吾妻はや(わが妻よ…)、恋しい」と嘆いたことから東国を「あづま」と呼ぶようになったそうです( 『日本書紀』 )。

ヤマト政権の律令制において東海道の足柄峠(駿河と相模の境)以東及び東山道の碓氷峠(信濃と上野の境)以東を合わせて、坂の東:『坂東』と呼ぶようになりました。また畿内防衛のために、逢坂、後には鈴鹿(東海道)・不破(東山道)・愛発(北陸道)に関が置かれました。

この時代、『坂東』の地はヤマト政権に対して半独立国家(?)、白河関以東の『陸奥(むつ)』は元々国家統一に組み込まれなかった、俘囚長:安部氏の支配に始まる地、金産・駿馬を産することを背景にヤマト政権からの独立性が高かった。文化的に、前者は荒削りの文化(『なた彫り像』の仏像・観音像)なのに対し、後者は中尊寺金色堂に見られるように「京都の文化への憧憬と模倣」でした。まさに、ヤマト政権:律令制日本の「唐の文化への憧憬と模倣」と同じです。

源平争乱の時代、源氏は東山道(美濃・尾張・木曽・甲斐・信濃・越後)、上野(こうずけ)の新田の庄及び下野(しもつけ)の足利の庄に、対する平氏は東海道に分布していました。東海道が地盤であった平氏が、その中核である「関東八平氏」の裏切りにあい、血縁の薄い西国で闘わざるを得なかったのは大いに不利でした。
大泉寺
ついでながら、私の住んでいる東京都町田市、『小山田の庄』の別当:小山田有重は、「関東八平氏」の一派:秩父氏でしたが、頼朝挙兵時には在京しており、平家の忠実な家人として各地で転戦、木曽義仲追討にも加わりました。平家西国落ちの際に許されて東下し,遅れて鎌倉御家人となりました。

鎌倉幕府を開いた頼朝の軍は北陸道・東山道・東海道の三道の全てから平泉を攻め、奥州藤原氏を滅ぼし、奥州を幕府に取り込みます。畿内・近畿・西国に対して、『関東』を正式に標榜、幕府の血縁・支持基盤である遠江・信濃・越後以東を意味するようになりました。

室町幕府では「関東管領」が、相模、武蔵、安房、上総、下総、常陸、上野、下野の坂東8カ国と伊豆、甲斐、後には陸奥、出羽をその管轄下に置いた。

徳川家康は政権の軸足をさらに東へ移動、ヤマトタケルの時代には見向きもされなかった武蔵国、江戸に幕府を開きました。江戸防衛のために、箱根(東海道)、小仏(甲州道)、碓氷(中仙道)に関を設け、以東を『関東』、それらの国は「関八州」と呼ばれるようになりました。

因みに、『関東軍』とは中華民国からの租借地であった関東州(遼東半島)及び満州(中国東北部)に駐留した旧日本陸軍の部隊名。万里の長城の東端:山海関の東の意味、ここで言う『関東』とは全く無関係です。念の為…。

Momo holding sign board-HKX Radio※今までの曲は左サイド、Music Player でお聴きになれます。 
Your Support, Please. ▼ ボタンを押して下さい。このサイトの順位がわかります。
にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 人気ブログランキング


Profile

ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

Back Issues At A Glance
Comments
ISAO's Bookshelf
人気ブログ ランキング
NINJA
Search