鎌倉

September 23, 2012

逗子田越川の畔

祖父、藤原成親は、平家一門を滅ぼさんとした「鹿ケ谷の陰謀(1176)」の主犯の一人として、備前国に配流、後に殺されます。、平維盛は、その父は重盛(その妻は成親の妹)、祖父は清盛に繋がる平家一門の嫡流、「富士川の戦い(1180)」で頼朝に、「倶利伽羅峠の戦い(1183)」で義仲に敗れ、京、六波羅を後に都落ちします(1183)。一門の中で苦しい立場の維盛は、「自分が死んでも出家などせず、再婚して子供たちを育てるよう」と告げ、追いすがる妻子(若君10及び姫君8歳)を京に残して西国に逃れますが、妻子への強い愛情を振り切ることが出来ず、とうとう屋島の戦線を離脱して京に戻ろうとします。…が叶わず、滝口入道を頼って高野山へ逃れ、最期は、熊野にて入水自殺を遂げます。六代御前まえバス停(看板)_2

「六代」、正盛から数えて六代目、維盛の幼名が「五代」だったので子供を「六代」と呼んだという、本名は「高清(たかきよ)」、一般的には「六代」と呼ばれます。もちろん一門の嫡流です。親子は、平家が「壇ノ浦の戦い(1185)」に滅んだ後も、嵐山に密かに隠れ住んでいましたが、鎌倉の代官:北条時政の残党狩りの探索の網に捕まり、愛しい我が子さえも捕らえられたことに気が狂わんばかりに悲観してしまいます。「六代」の命も風前の灯火…、そこに文覚上人が現れ、「六代」助命の為に猶予を申し出ます。挙兵を奨めた文覚に恩を感ずる頼朝に 助命 を直訴に鎌倉へ向かいます。すでにその猶予期間も過ぎ、足柄の峠の手前、駿河国で今まさに処刑が執行されようとする、その時、文覚の弟子の僧が馬にむち打って駆けつけて来ます。頼朝の赦免状が届き、間一髪のところで救われます。悲観のどん底から希望へ、と思ったら、悲観のどん底へ、と思ったら、希望へ…、まるでジェットコースターに乗っているようなテンポの速い舞台回しです。

1189年「六六代御前 墓標代」は剃髪して妙覚と号し、1194年には頼朝に謁見、異心無く出家したことを伝えます。僧として、まずは高野山に滝口入道を訪ね、父:維盛出家の様子を聞き、父の最期の地:熊野へ、諸国を訪ねて父:維盛の菩提を弔っていました。1199年頼朝死去。文覚が謀反を企てたとして隠岐国に流罪となり、「六代」も捕らえられ、鎌倉への護送の途中、今度は足柄の峠を越えて相模国、逗子田越川の畔にて斬首、「六代」=妙覚26歳でした。

「それよりしてぞ、平家の子孫は絶えにけり」の一文は「平家物語」冒頭の、「諸行無常」、「盛者必衰の理」を実感させる重要な結びとなります。

父を、夫を、息子さえも失った女、維盛の北の方は夫の遺言通り吉田経房(つねふさ)と再婚、娘と共に経房の屋敷に住んでいましたが、1193年、娘を18歳で藤原実宣に嫁がせます。

源頼朝の血統は、「壇ノ浦」から50年後の1234年、「竹御所(たけのごしょ)」、母子共に死亡をもって断絶しますが、平清盛のそれは花山院(かさのいん)家、四条家、宗家に、そして、後深草天皇、亀山天皇を通じて今日の皇室に伝えられているそうです。

男達は、絶望から自殺する人も含めて、次から次へと死んでいきますが、どっこい、女達は、入水自殺しても海中から救い上げられたり、子孫を残しながら、しぶとく生きて来たようです。

そんなことを思いながら「六代御前」の墓を逗子田越川に訪ねました。源氏ファンが圧倒的な関東、いわんや鎌倉の隣の逗子…、とは全くいらぬ心配、きれいに整備されており、お参りの方も多いようで、地元住民により手厚く守られています。
六代御前の墓_2

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                 「平家後抄」〜落日後の平家 上・下 角田 文衛著 講談社

 
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November 29, 2010

憧れの地、湘南 〜 ミーハーですが…

私は高校時代を伊丹(大阪空港が在るのですが、兵庫県です)ですごしました。北に川西市が隣接していますが、失礼ながら当時は田舎、阪急宝塚線「川西能勢口」駅から、あくまでも当時ですが、牛が線路に寝そべっていてもおかしくない「能勢電鉄」に乗り換え、猪名川に沿って行くと源氏発祥の地、清和源氏を祀る「多田神社」にたどり着きます。

清和天皇(850-881)を祖とす鶴ヶ丘八幡宮る清和源氏の一流、河内源氏が東国(関東)に勢力を伸ばし、頼朝の代に武家の棟梁として、「征夷大将軍」の位を得、初めての武家政権、鎌倉幕府を開きます(1192)。

葉山海岸その高校時代の友人が鎌倉に遊びにやって来たので、…牛は引いて来ませんでしたが…、町田に住む私にとってはそう遠くない所、鎌倉近辺を付き合うことにしました。京都を見慣れた関西人にとっても鎌倉は魅力、相模湾に面したいわゆる「湘南」は憧れの地です。

明治以降、東京近郊の海水浴場として整備され、富裕層によって別荘が建てられたことに由来します。富裕層の流入はそのパトロンとして芸術・文化を興隆させることになりますが、鎌倉を中心とする「湘南」はその集積地となります。戦後、石原慎太郎の『太陽の季節』、『狂った果実』に描かれた『太陽族』は映画化され「湘南」文化の大衆化が始まりました。
裕次郎の碑
私のお目当ては葉山、裕次郎の遊んだ葉山海岸の近くにそれはあります。『日影茶屋』、ここは映画:『エロス+虐殺(1970 吉田喜重監督)』で描かれた『日陰茶屋事件(1916、大正5)』の舞台です。

日陰茶屋2無政府主義者:大杉栄は妻:堀保子との結婚生活に在りながら、女性文学集団:『青鞜社』主幹の伊藤野枝と、さらにもう一人、新聞記者:神近市子と四角・恋愛関係に在りました。『日陰茶屋』に大杉栄と伊藤野枝が逗留、そこに嫉妬に狂った神近市子が短刀を持って乱入、大杉栄を刃傷に及びます。この男女の関係だけでも十分スキャンダラスなのですが、この刃傷事件は極めつけでした。結果、神近市子は服役、妻:堀保子とは離婚、最終的に伊藤野枝が勝利しますが、その後関東大震災が発生(1923)、その混乱時に大杉栄と伊藤野枝は憲兵大尉:甘粕正彦に殺された、とする『甘粕事件』が起きます。

『日陰茶屋事件』とは…、名前に罪はありませんが、その内容からしても、「輝く太陽と青い海」の湘南にはどうもしっくり来ません。やはり、戦後の大衆文化:『湘南ブランド』路線で行きましょう。この『日陰茶屋』、現在は一字が変わって『日影茶屋』、昼食のお弁当がホストの私には高すぎます。残念というより、幸いなことに定休日で断念、近くある『LA MAREE DE CHAYA』に入りました。ここの総料理長だった熊谷喜八さんさんが、1987年に南青山に最初の無国籍料理:『KIHACHI』を開き、今や全国ブランドです。

石原慎太郎の『太陽族』はその弟:裕次郎主演で映画化。それに続く加山雄三はエレキブームに続くフォークブームにも多彩な才能を発揮します。因みに私が最初にギターを覚えたのは彼の『君といつまでも(1965)』、以降私のギターの技量はほとんど進化していません。そして、桑田佳祐(サザンオールスターズ)。1978年の歌番組:『夜のヒットスタジオ』で聞いた彼らのデビュー曲:『勝手にシンドバッド』は強烈でした。

お金持ちの「不良息子」→同じくぼんぼんの「好青年」→どこにも居そうな「音楽馬鹿息子」、と変遷を辿りながらも、根底には「輝く太陽と青い海」という「湘南」大衆文化としての『湘南サウンド』の系譜があるようです。「都会的な明るさ」は大いに魅力なのですが、明るいだけの「軽さ」につながっているようにも思えます。『日陰茶屋事件』に違和感があるように、石川さゆりの『天城越え』が「湘南」の地から生まれることは決してなかったでしょう。



ps: 関ヶ原の戦い(1600)に勝利した徳川家康はを頼朝を踏襲、江戸に幕府を開きます。「源氏」を名乗った彼は、祖先への感謝のために…、かどうかは知りませんが、猪名川の河口、尼崎に在った漁村:佃の漁師に舟を引かせて猪名川を遡上、「多田神社」を参詣します。後に江戸に幕府を開くと、その労に報いて、彼らの江戸進出を許します。佃煮(つくだに)で有名な佃島(つくだじま)の始まりでした。

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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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