里山

August 12, 2017

散歩の途中<<23>> お盆の頃

 天気予報でよく見かける関東地方の地図、町田市の位置は判りやすい。単に自分の住む街だからという理由だけでなく、盲腸のように神奈川県側に垂れ下がっており、川崎市・横浜市・相模原市に囲まれ、かろうじて北側を「多摩の横山」で多摩丘陵、東京都八王子市・多摩市と接続する、丘陵と谷戸が複雑に入り組んだ土地です。地形的に相模国・武蔵国の境は「境川」なのですが、実は、市の北側に横たわる「多摩の横山」なのかも知れません。現に、町田は武蔵国にありながら「武蔵野」には含まれていません。

 新宿を出た小田急線は西進、多摩川を渡ると神奈川県(川崎市)、柿生駅を過ぎると東京都(町田市)に入り、町田駅を過ぎると、また神奈川県(相模原市)に入ります。町田駅で八王子と横浜を結ぶJR横浜線と交差しているのですが、市の中央部の地形が複雑で高低差が大きいためか…?、小田急線は市の南部を東西に走り、JR横浜線は西隣の相模原市をほとんど市境に沿って、北西から南東に走っており、交差する町田駅も極端に市の南端に偏って位置しています。おまけに、昔はもっとひどかったらしいのですが…、両町田駅間の乗り継ぎの連絡が悪く、今でも5分はかかってしまいます。明治の一時期、町田が神奈川県に属していた名残なのか、市内を走るのは神奈川中央交通バス、 ついでに…、電話番号も市外局番が神奈川県相模原市と同じ「042」です。その神奈川中央交通バスに乗って約30分、ようやく私の住む小山田桜台に到着です。

精霊馬 お盆の時期、提灯は死祖者を迎える目印の意味は判りますが、関西で育った故か、胡瓜と茄子で作る「精霊馬(しょうりょうま)」(死者を早く迎える馬・ゆっくり送る牛)の風習は知りませんでした。これに関連して、主に関東・東北地方では「端山信仰」といわれるものがあり、端山(葉山・羽山)とは村の周囲にある小高い山(里山)、そこに棲む祖霊は農業神であり、春には里に下りて農耕を手伝い、秋の収穫の後、祭に送られて山に帰って春を待ちます。正月や盆には家に帰り、子孫と共食して歓をつくすとされます。※ 岩崎敏夫『東北民間信仰の研究』 宗教以前に土俗的な、日本人の魂の根底に在る祖先崇拝の観念であり、これを仏教は上手く取り込んだのでしょう。
朝の下小山田桜台
 鉄道駅からは遠く、バスで30分もかかりながら、地理的には、あくまでも地理的には…、町田市の中心に位置する小山田地区は武蔵国(東京都)に於いても異端の地。都心に近い、里山だらけの「端山信仰」の舞台です。昨今の「里山ブーム」・「自然保護運動」の高まりで、多くのそれらしい格好をしたハイカーが都心からやって来るのを見かけます。要は、幸いなことに…と云った方が良いのか、ここは開発の遅れた、取り残された地域で、何も計画・意図して里山を保存した訳ではありません。遅ればせながら、これ幸いに…、「多摩の横山」には丘陵に沿って「横山の道」があり、町田市によって「尾根道」が、東京都によって広大な「小山田緑地」が整備されています。

 この地にやって来たのは20年前か、JR淵野辺駅のバス停のみすぼらしかったこと、市を縦貫する幹線道路:町田街道は片側一車線で右折レーンが設置されたのはつい昨日、当時関西では既に見られなくなったバキュームカーがやたら目についた記憶があります。今や「住めば都」なのですが、最近開発された多摩境では広い道幅にもかかわらず、相変わらず右折レーンはなく、市の道路行政のお粗末さは相変わらずです。

 去年、初めて見た小山田神社の祭は雨の中、幻想的でした。今年の祭はもうすぐ、先祖にも喜んでもらって、あの世へ帰る土産話にしてもらいましょう。

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express01 at 13:36|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

August 23, 2012

小山田の谷戸田(やとだ)

関西で育った私が、この地に引っ越してきた当初は、その地名:「小山田、小さな山の田んぼ…」、何と想像力の乏しい、単に、田んぼの風景を描写しただけ、またそう呼ばれる地域の広いこと…、その名前の付け方に「おおざっぱさ、いいかげんさ…」を感じたものでした。しかし、歳とともに、今まで全く見過ごしてきたものに、ハッと、気付くことが多くなってきました。

隣の横浜市に住む彼は山口県出身です。同じ西日本に住んでいた、ということで、「この辺には『〜谷戸(やと)』という地名が多いが、関西では聞いたことがない。」と、暗に同意を求める私の発言に、「そんなことはない、ありますよ。」とあっさりと否定されました。ご夫婦で山登りを趣味としている彼は「谷戸」の意味は把握しているはず、その彼が言うことなので間違いないものと…、話もそれで終わりました。

小山田の風景
…が、やっぱり真相はこうでした。東京都多摩地域及び神奈川県東部では、丘陵地が雨や川によって浸食されてできあがった谷が谷戸(やと)と呼ばれます。雨は丘陵や尾根を伝って谷戸に流れ込み、湿地を作ります。人々は谷戸の湿地を利用して水田を作ってきました。同時に、谷戸は多種多様な生き物を育み、豊かな農作物と美しい里山の景観を創り出しています。ちょっと昔なら、単なる田舎、で終わりましたが…。
※奇特な方が居られ、地名・バス停名として今に残る「谷戸コレクション」を紹介されています。

小山田神社低迷が続くNHK大河ドラマ:『平清盛』の時代、関東八平氏の一派、埼玉県嵐山町畠山荘、秩父桓武平氏:平有重がこの地にやって来て小山田別当有重と名乗った。頼朝挙兵時(1159)には京に在り、平家の忠実な御家人として各地に転戦、木曽義仲追討にも加わりました。平家西国落ちの際に許されて東下し、遅れて鎌倉御家人となった。平氏に続いて、源氏政権に於いても重要な地位についた小山田有重は農民を動員して土地を開発、現在の町田及び川崎・横浜の一部を支配する大土地所有者・開発領主となります。当初は単に土地の名前でしたが、その名前を冠した彼の勢力圏とともに拡大したのでしょう。

小山田一族は「谷戸田」を開発して「小山田」という水田を拡げ、その稲作の優れた生産力が一族の勢力拡大に大きく寄与しました。「谷戸田」の多い多摩丘陵地帯は「田方(たかた)」と呼ばれ、水田があり、コメが穫れるところ、の意味です。一方、南の相模台地地帯は「岡方(おかがた)」と呼ばれ、水田のない、コメの穫れないところです。相模台地は火山灰土、乾燥が激しく酸性が強いため大豆・粟さえも育たなかったそうで、安定的な農業が可能になったのは土壌・品種改良等の農業技術が発達する近世を待たなければなりません。
小山田の案山子_2
中世までは、町田の中心は小山田・小野路であり、原町田・中町などの繁栄は幕末以降、とりわけ横浜線・小田急線が開通してからの、たかが百年ちょっとのことではないでしょうか。

秋になると、小山田の谷戸田では豊かな稲穂に案山子が映える収穫の時期がやって来ます。

※参考資料:「道」白州正子 新潮社  「町田の歴史をたどる」 町田市
  DVD:「平清盛」


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