角倉了以

February 26, 2020

日本海に至る大運河 - 淀川(その2)

日本海に至る大運河 - 淀川(その1)から続く

保津川下り 丹波亀岡を出て16km、保津峡を経て京都嵐山渡月橋に至る「保津川下り」。木材のいかだ流しが行われていましたが、京都の豪商、角倉了以(すみのくら りょうい 1554-1614)は、丹波から京への物流拡大を意図して河川改修工事を行い(1606)、喫水の浅い高瀬舟による輸送ルートを完成しました。しかし、急峻なため遡行して物資を京都から丹波に輸送することは不可能で、保津川に沿った道から長い綱を用い、人力で高瀬舟を曳い航行する「曳舟」が行なわれました。現在の「保津川下り」では30人乗りの川船はトラックにより陸路、亀岡に搬送されます。余談ですが、保津川は渡月橋の手前で「大堰川(おおいがわ)」と呼ばれ、5世紀、ここに古代秦(はた)氏が「葛野大堰(かどのおおい)」を造り、水量を調節、嵯峨野・桂川右岸の灌漑を実施。その功労に因んで彼は「秦河勝(はたかわかつ)」と名付けられたといいます。渡月橋を境に再び桂川と呼称が変わります。

 ヤマト政権はその誕生以来その成長を育んできた、「国のまほろば」、奈良盆地を後にします。南都(奈良)仏教勢力の拡大、森林・水資源の枯渇、水・陸交通の諸問題を解決するために、桓武天皇(737 - 806)は長岡京(784-794)に遷都します。従来の大和川から淀川水系に代わったのです。桂川・瀬田川・木津川の三川が山崎で集まり、呼称を淀川と変えて大阪湾に注ぎます。一方、山崎は山陽道(西国街道)と山陰道が結節する水陸交通の要衝であり、長岡京はその山崎の北に位置しました。

 その長岡京もわずか10年で、さらに北に位置する平安京に遷都(794)します。その間、長岡京建設の責任者が暗殺、それに加担したとして早良親王が拘束され後に死亡、皇后の死、天然痘の流行…、「早良親王の怨霊」とも云われる災害・事件に嫌気がさしたとも云われますが、それだけでは納得できる理由にはならないでしょう。その頃、多賀城が陥落(780)するなど、東北の各地では蝦夷の反乱が続発、桓武天皇は守旧勢力の反対を押し切って実行した遷都を成功させ、同時に、頻発する蝦夷の反乱に対処しなければなりませんでした。遷都と対蝦夷戦争を遂行するには税収確保と輸送路の確保が最重要課題であり、その2つの課題解決の為に、日本海側へ通じ、山陰道・北陸道そして日本海沿岸海上ルートにより近い、平安京遷都(794)となったのではないでしょうか?802年、アルテイ、征夷大将軍坂上田村麻呂に降伏、胆沢城が建設されます。旧仏教勢力の押さえとして、最澄を唐に送り(遣唐使 空海も一員 804)密教を学ばせ、平安遷都は完成、806年、桓武天皇は崩御します。

淀川の源_3 平安京は一山超えるだけでそこは大津、淀川水系全体を見ると、大阪湾を発し、山崎で集合する三川の一つ、瀬田川は琵琶湖に繋がり、これを縦断して、対岸の梅津から日本海若狭湾の敦賀、あるいは今津から小浜に出ることができます。淀川水系は日本の河川の中で、東北から南西に弧を描く脊梁山脈を、瀬田川の部分で横切る、言わば地峡、日本海側と太平洋側を繋ぐ唯一の河川です。ここまで考えて桓武天皇は平安遷都を実施したのでしょう。

 平安遷都から3百年後の平安末期、平清盛(1118-1181)は寵愛した祇王の故郷(近江国江部荘)に灌漑用水路(祇王井)を建設(1173)、宋との貿易の為に瀬戸内海航路の整備、行基(668-749)が開いた大輪田泊を拡充するなど、大型土木工事の実績を積み重ねてきました。そして清盛は琵琶湖北岸の塩津(滋賀県長浜市)から若狭湾に面した敦賀(福井県敦賀市)に至る運河(約36km)を建設、脊梁山脈を横切って、大阪湾と日本海を結ぶ「淀川水系大運河」を構想したのです。息子の宗盛がその意思を継ぎますが、当時の土木技術では実現困難、残念ながら実現しませんでした。

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express01 at 16:05|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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