観阿弥

December 14, 2018

2018年関西の旅<3> 伊賀上野 〜忍者と芭蕉の街〜

181118_伊賀鉄道猪田道駅舎
▲伊賀鉄道 猪田道駅

 伊賀上野の街、この忍者と芭蕉の街は、平成の大合併で伊賀市に変更されましたが、個人的には何故か伊賀上野の方が好きです。現在では、伊賀市の中心地、旧上野市の地名を表す言葉として残されています。
181221_伊賀上野桑町駅
▲伊賀鉄道 桑町駅

161101伊賀上野「一の湯」
▲一之湯
 古代律令制の時代(7C〜10C)の広域行政区画「五畿七道」でそこを通る7本の幹線道路のうち、平城京・藤原京、後の平安京を起点に、東山道(近世の中仙道)は草津で東海道へ、  守山・関ヶ原辺りで北陸道へ、3本もの幹線道路が湖東(近江国)から分岐していきます。その古代三街道をなぞったように走る近江鉄道、その南端の終着駅:貴生川(きぶかわ)でJR草津線と接続します。そこが甲賀郡(近江国)、その南に隣接するのが伊賀国です。伊賀国上野盆地(現在の伊賀市)「四十九(しじゅうく)町」は奈良時代の僧、行基に由来します。行基((668 - 749)は、修験道(道教、山伏)の開祖,
(えんのぎょうじゃ =役小角, 7C〜8C)の弟子にて、この地には山伏の修験道場「四十九院」があり、後の伊賀流忍術に発展して行く、者発祥の地でした。伊賀国及び近江国甲賀は隣接(「甲伊一国」)、都にも近いが、それほど高くはない山々に取り囲まれ、伊賀国の郡、名張(なばり)、ナバルは隠れるを意味し、は東大寺の荘園、黒田荘の住民は黒田悪党と呼ばれ、伊賀上忍三家(服部・百地・藤林)を指し、東大寺の支配に反抗した。彼等は河内の悪党、楠木正成(1294 - 1336)ともも呼応、後醍醐天皇に与して倒幕運動に参加、後に南朝側につくことになります。
181125_10月20日午前4時上野茅町駅
▲伊賀鉄道 茅町駅
 1962年、伊賀市の旧家から発見された「上嶋家文書」(江戸末期の写本)によると、服部家の上嶋元成の三男が観阿弥で、その母は楠木正成の姉弟で、観阿弥は正成の甥にあたるという。これに従えば、楠一族と服部一族は婚姻関係であるだけでなく、楠木正成は修験道に起源する伊賀忍者を家来にしていたということです。申楽(猿楽)師は「七道の者」と呼ばれ、定住民からは差別的に見られていた。服部一族は一説では秦氏の末裔、養蚕・機織りの機織部(はたおりべ)が服部(はっとり)に変化したものです。

 徳川の時代に入ると、藤堂高虎は伊勢国と伊賀国を持ち、伊賀上野城には、伊賀忍者の上忍(じょうにん、頭目)だった保田采女(服部半蔵の甥)を養子に迎え藤堂新七郎家を造り、城代家老に据えました。1644年、芭蕉は、伊賀上野において、柘植(つげ)出身の無足人であった父、松尾与左衛門と、百地氏の出の母との間に生まれております。無足人とは一種の郷士、苗字帯刀は許されるが無禄であり、芭蕉は藤堂新七郎家、藤堂良精の三男、良忠(俳号:蝉吟)に台所用人・料理人として仕えました。主従共に忍者・山伏に繋がる一族出身、大道雑芸・文学・猿楽などの芸・術の素養の一つに、連歌、その最初の三句を「発句」、後の「俳句」を創造する素養があったのでしょう。最大のスポンサーである藤堂良忠(俳号:蝉吟)を亡くした芭蕉は、西鶴・近松など既に元禄文化の爛熟する大坂だはなく、処女作「貝おほひ」を上野菅原神社に奉納して、新天地、江戸に向かいます。江戸での最初の仕事は神田上水工事の監督でした。何故、単なる俳諧師である彼に治水工事の監督が出来たのか?大きな謎ですが、やはり彼の出身一族、雑芸(猿楽)>治水治山・土木>伊賀忍者・修験道に繋がります。

 少し時代は異なりますが、関ヶ原戦い(1600)に勝利した家康は江戸城及び関東の地を本格的に整備します。旧武田の家臣、猿楽師上がりの大久保長安が江戸城半蔵門から家康の脱出ルートである甲州街道、武蔵国の西端に八王子の街を建設、滅亡した武田・後北条の旧臣を組織して「八王子千人同心」を作り上げます。後に一族は家康に抹殺されることになるのですが、一介の猿楽師にすぎない大久保長安が治水治山・金山開発を行い、一時は金山奉行までに上り詰めました。彼は、伊賀国の南隣大和国出身、自の先祖を観阿弥と同じく秦河勝と述べており、猿楽・大道芸と鉱山・治水治山・養蚕・機織り、一方では修験道・山伏など山岳宗教集団、技術者集団の甲賀・伊賀忍者にも繋がって行きます。

 藤堂高虎が造った城下町、伊賀上野、外様でありながら津・伊賀の二カ国を手にし、一方では惣と呼ばれる伝統的な自治制度を温存、町衆による自主的な祭「上野天神祭」を保護、小堀遠州を師として茶の湯を広めました。その為か、街の大きさの割には多くの和菓子屋さんが存在します。
181207_上野湖月堂店内
▲和菓子屋「湖月堂」
 友人の奥さんの奨めで、 今回は「湖月堂」さんの最中「高虎」をお土産に買って帰りました。

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October 04, 2015

大久保長安_その

東京都といっても西の端、町田市に住んでいます。明治初期には、神奈川県に入ったり東京都に編入されたり、どっちつかずの、早い話が、どうでもよい地区だったのでしょう。南に横浜市、西に相模原市という2つの政令指定都市に、北には武蔵野国多摩郡の面影を色濃く残す八王子市に隣接しています。横浜、相模原は幕末・近代以降の町ですが、八王子は、ここを統治していた後北条氏滅亡し、家康の関東移封を契機に大いに発展しました。すぐ北に隣接、関東地方の天気予報では、東京都内と並んで、八王子市の天気が表示されることもあって、近すぎる・身近すぎるのか、古いですが…、かといって、洗練された古さでもなく、あまり興味の持てる街ではありませんでした。

 そんな八王子を、ウォーキングが趣味のIkeさんを誘って歩きました。JR八王子駅の北側を甲州街道に平行して歩きます。 そこで見つけたのがこの、イメージ通りの八王子の風景です。
八王子街中の風景_2

産千代稲荷 元へ。20分ぐらい歩くと産千代(うぶちよ)稲荷神社に至ります。
 1590年、後北条氏が滅亡、関東に入封した家康の命を受け、大久保長安(ながやす)は江戸城を守る重要拠点として八王子に陣屋を設けて、関東十八代官の代官頭として関東全体の統治を行いますが、その際に創建されたのが「産千代(うぶちよ)稲荷」です。実は大久保長安という人間を知りませんでした。八王子、甲州街道そして千人同心を作った人…、それ以上の興味を持つこともなかったのですが、彼の出自、もう一つの側面を知って興味が沸き、今回の八王子行きに繋がりました。

大久保長安_1 長安は、大蔵流猿楽師の子として大和国(奈良)に生まれ(1545)、祖父は春日大社で奉仕する金春流の猿楽師で、父の信安の時代に大和国から播磨国に流れて大蔵流を創始した。「能・猿楽」は観阿弥・世阿弥父子により南北朝時代から室町時代にかけて大成されますが、戦国時代になると将軍家や寺社の勢力が低下、座は分裂、各流派は勃興する各地の武将を頼って地方へ流れて行くことになります。観世流は駿河へ落ちたために、 今川義元の人質だった家康が観世流に親しむことになり、 江戸開幕以降も観世流が筆頭の地位が与えられることになります。同じように、大蔵流の父兄とともに甲斐国に落ち、武田信玄に父は猿楽衆、長安と兄は同見習いとして仕えました。武田家滅亡(1582)の後、長安は家康家臣となり、大久保忠隣(1553-1628)の与力に任じられるが、この際に名字を賜り、姓を大久保に改めます。驚くべき事に、長安の本当の姓は、観阿弥・世阿弥と同じく「秦(はた)」で、その先祖は秦川勝に繋がるというのです。

 信玄の配下、長安は猿楽衆見習いだけでなく、治水・治山・鉱山・設計・工事を行う蔵前衆となり、黒川・湯の奥金山の経営に参加、戦時には後方支援・兵站を担当した。武田家滅亡の後、家康家臣となり、交通・産業など広範囲に渡り徳川幕府創業期に大きく貢献する。見地を全国的に展開して財政力を高め、東海道・中仙道に里塚・宿駅を設け、甲州街道を新設、紀州新宮から佐渡までの航路を整備し、石見・佐渡・院内・伊豆金山を開発・経営、「アマルガム法」と呼ばれる南蛮精錬法を導入して生産力を飛躍的に拡大した。八王子を領地とし、敗れた今川・武田・後北条の浪人対策・治安維持・西の重要地点守備を目的に開発・整備され、それを担ったのが旧武田家家臣からなる「八王子千人同心」でした。 超人的な活躍です。

 浄土信仰が大流行した平安末期・鎌倉の再来か、戦国時代から江戸時代にかけて人々は明日の命も知れず、浄土真宗は一向宗の門徒集団として政治力を持つようになり、伝来のキリスト教が大名から庶民まで、身分に関係なく浸透、日本は史上最大の宗教の世紀を迎えます。農業中心の世界から商業・工業重視する世界への移行、それに付随して芸能の発展、「非農民」=「芸能人」=「道々の者」の興隆が見逃せません。長安の超人的な才能は猿楽師、いや、その先祖としての秦氏に関係するものでしょうか…、次回はこのあたりを探ってみることにしましょう。

※ 参考資料:川上隆志「江戸の金山奉行 大久保長安の謎 」 村上直「千人のさむらいたち 〜八王子千人同心〜」
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express01 at 19:32|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

April 15, 2015

「芭蕉」を振り出しに

芭蕉 今日は、関西の友人から、ブログの更新がないのを心配して、安否確認の電話をもらったりしたのですが、もう月半ば、前回のブログ更新から2週間も過ぎていますが、何を書こうか…、全くキーボードが進みません。実は、先週にはアルバイトも終わり、今日あたり、今年のテーマの一つである「芭蕉」にゆかりの江戸(東京)深川辺りに行ってみようか…などと思っていましたが、この長雨で出かけることも出来ません。しかたがないので、今までに読んだ本、聞いた話、テレビ・新聞からの知識をできるだけノートに残しているのですが、私のテーマ:「芭蕉」を振り出しに手繰ってみることにしましょう。

 気になったのが、芭蕉の出自は伊賀国の「無足人」だった、ということです。古代、荘園制度の崩壊に連れて、伊賀国では、村々の自治が「惣」という共同体で行われるようになり、戦国期には「伊賀惣国一揆」を持って守護大名の支配に抗したが、織田信長の二度に渡る伊賀討伐で壊滅します。「本能寺の変(1582)」、堺に逗留していた家康はわずかな供回りとともに決死の逃避行を敢行、その際、彼等「伊賀衆」は家康を護衛して無事岡崎まで送り届けます(「伊賀越」)。
 
 諜報活動、破壊活動、浸透戦術、暗殺等、「忍者」の能力を鍛錬、この「惣」を担ってきた彼等「伊賀衆」を、藤堂藩は、禄はないが苗字帯刀を許すという、「無足人」という特権農民制度を設け、治安維持、有事の補助的防衛力として活用しました。因みに、「服部半蔵」としてよく知られる服部半蔵正成は家康に仕えた伊賀同心の支配役の武士にて、蛇足ながら半蔵門は彼の名前に由来、彼もまた伊賀服部氏の出自でした。徳川幕府が江戸に開かれ、下級の「伊賀衆」は御庭番・公議隠密として重宝されることになります。芭蕉=忍者説はこの辺りから出たのでしょう。

傀儡士 観阿弥(1333-1384)は南北朝時代から室町時代にかけての猿楽師にて、息子の世阿弥とともに、「能」を大成した人物ですが、彼の祖父は伊賀の服部氏一族の出自であると云う説があります。「猿楽」は操り人形を使い、例えば、武庫川の船着場に屯する河原者の木偶(でく=人形)遊びが散所に移り、西宮神社のえびす人形劇が後の人形芝居の源流となり、芭蕉と同時代の元禄時代には、近松門左衛門の人形浄瑠璃に発展、他方では能楽、歌舞伎へと発展して行きます。逆に遡ると、平安時代には傀儡(くぐつ)として人形劇を行い、女性は劇に合わせて詩を唄い、男性は奇術や剣舞などの大道芸や相撲を行っていた大道芸人でした。「傀儡(くぐつ)」はガラクタを入れる袋、この袋を背負って旅する芸人。傀儡女は歌と売春を主業とした遊女の一種で、後白河法王は喉を潰すほどに彼女たちの歌う「今様」を好み、『梁塵秘抄』を遺したことで知られています。

 「忍者」と「猿楽」をさらに遡ると、6世紀頃に渡来した渡来人集団:秦氏に辿り着きます。大陸の機織りを伝えてヤマト朝廷に仕えた「ハタオリベ」が、後に「ハットリ」に転化しますが、服部氏と秦氏は同根でした。秦河勝(かわかつ 生没年不詳)は秦氏の族長であったとされ、聖徳太子の側近として活躍しました。彼等は機織り・鉱山・土木・稲作・醸造・養蚕・陶磁器・冶金の技術に優れた技術者集団であったし、音楽・舞踊・操り人形・軽業・催眠術・医術・占い・手品・幻術・奇術・魔術を行う集団でもありました。彼等は一度に大挙して渡来したのではなく、初期の渡来人は技術者集団として迎えられて高い地位に付いたが、渡来を重ねるごとにその職種は多義に渡るようになった。遅れてやってきた渡来者は東国に開拓民として移住させられた例もあり、もはや収容しきれなった者は各地を放浪するか、権力の及ばない所に逼塞せざるを得なかったのでしょう。彼等が、「人々を欺瞞し、時には魅了する」能力とは、言葉を換えれば「忍術」や「芸能・芸術」ということになります。ついでながら、芭蕉の姓「松尾」も秦氏に繋がります。

 431年、東ローマ帝国のコンスタンチノープル、「マリアは神の容器であったかも知れないが、神の母ではない」と主張するネストリウスは神学論争に破れ、異端とされた。ネストリウス派(=東方教会)はペルシャ帝国へ逃れ、ゾロアスター教とも交じり合い、後にはペルシャ文化の中核となる、7世紀ごろには中国へと伝わり、唐代(618-907)の中国においては景教と呼ばれた。秦氏は古代キリスト教であるネストリウス派(景教徒)でした。漢民族はローマを中心とする勢力圏を「大秦」と呼び、後に秦氏が秦・始皇帝の子孫と称したのは、こうした経緯があったのでしょう。洛西、太秦広隆寺にある秦河勝像は明らかにモンゴル系の造作ではない、とは司馬遼太郎の言。キリスト教・ユダヤ教・ゾロアスター教・仏教・道教、この地に至るまで各地の土着信仰に加えて日本の神道と、ここに至る長い旅路のフィルターを経ており、その原型を探るのは極めて困難です。
 
 インド北部に生まれたとするジプシー、西へ向かうとヨーロッパ、スペインのフラメンコもそう、彼等が移住したアルゼンチンではタンゴという文化が生まれました。ネストリウス派と出会って、あるいはその後を追いかけるように、東へ向かったジプシーは唐の時代の中国に入り、秦氏一族とともに、東の果て、倭国に到達、傀儡(くぐつ)、今様、大道芸人、忍者、西宮神社のえびっさん、近松、芭蕉につながりました。

 以前も紹介しましたが、最後に、スペイン人、サラサーテが作った「チゴイネル・ワイゼン(Zigeunerweisen ドイツ語で「ジプシーの旋律」の意味)」をお聞きください。どこか…、近松、芭蕉につながって聞こえませんか。
  参考資料:広瀬久也『人形浄瑠璃の歴史 』、司馬遼太郎『ペルシャの幻術師 (文春文庫)

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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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