西行

March 14, 2016

陸奥(みちのく)

 
 東日本大震災から5年、新聞・テレビでは特集が組まれ、初めて公開された事実にあらためてその日に起こった事実に驚愕してしまいます。あの日、私は歴史上の「ポツダム宣言受諾」、玉音放送で日本の降伏発表を聞いて泣き崩れる姿(1945年8月15日)が頭に浮かび、日本の「第二の敗戦」を直感しました。何か取り返しのつかないことになってしまったのではないか、個人的にも、今までとは全く違う人生がやって来たものと感じたのです。上手くは言えないのですが、5年経った今でも、基本的にはこの思いは変わりません。
白河関跡
震災から1年後の白河の関
 少々突き放した言い方になりますが、災害の記憶は新しい災害が起こる毎に、その記憶はなくならないまでも、次第に風化していくでしょう。解剖学者:養老孟司曰く「東北大震災は人々の記憶から消去されざるを得ない。その背景には東北の人たちの”温厚さ”もありはしないか。苦渋があまりに大きすぎて、お上に従えば悪いようにはならないと信じたいのでしょうか。(朝日新聞)」 東北人から主体的な声が上がらない。ふと、気がついてみると、お役所発注の巨大防波堤ばかり…

 同じく日曜版、大きな挫折、胸が張り裂けそうになる別離のような苦難に打ちのめされたとき、そんな傷心を抱えた旅先には、北と南、どちらがふさわしいか?55%が北、45%が南へ、「北で悩み、南で忘れる」ようで、「北」と答えた人の最も多くの人が「北東北」を目指すそうで、さらに北に位置する北海道ではありません。雪の舞い散る寂寥たる冬景色の中で悩みを深め、そんな冬景色の中にも「東北の人たちの”温厚さ”」・暖かさを求めているようにも思えます。

 果たせなかった恋や夢、「傷心旅行」だけではなく、そのBGMとしての「演歌」にも注目しなければなりません。ここで云う演歌とは別離・失恋・悲恋・喪失をテーマにした曲の多くはこれに重なります。少し例えが古くて申し訳ないのですが…、同じ演歌でも、南の国:九州出身の水前寺清子、北、それも北海道まで行って北島三郎と、どちらも明るく、賑やか、彼らの持つ地域・方角性はこれの対局にあるもので、全く対象にはなりません。

 平安時代(794年 - 1185年/1192年頃)、イメージ的にも南西から東北に弓なりにつながる日本国ですが、「西の鬼界ヶ島(喜界島)」と東端、陸奥国「外が浜」は国の辺境を指す代名詞とされ、都人(みやこびと)にとっては東山道白河の関の向こうにある陸奥(みちのく)は彼方の異国の地、異国情緒を大いに感じる地域だったようで、山城・大和に次いで多く歌に歌われています。「唐の詩人がときに憧憬した西域までも、平安貴族は好んだ。ただ、どう想像していいかわからず、レールが転轍するように、関東のかなたにひろがる陸奥の天地を連想した、と私は考えている。」 とは司馬遼太郎の言(『北のまほろば―街道をゆく』)。 

 陸奥(みちのく)への憧憬・陸奥趣味は、最初の征夷大将軍:坂上 田村麻呂(758-811)の遠征からの凱旋(801-804)に始まりました。『源氏物語』の主人公:光源氏のモデルの一人といわれる、源融(みなもとのとおる 822 - 859)は陸奥国塩釜の風景を模して六条河原院を造営、塩釜を模すための塩を毎日、難波の海(大阪湾)の汐を汲んで運ばせたとは全くあきれた話です。平安中期、能因( 988-1058?)が、平安末〜鎌倉初期に、能因の跡を追って西行は二度、そして江戸期に入ると、芭蕉陸奥を旅し、紀行文『おくのほそ道』を残すことになります。江戸後期、三河国に生まれた菅江真澄(1754 - 1829)は、本草(薬草)学者にして旅行家、膨大な量のスケッチ画を残しますが、陸奥の最深部、津軽・下北だけでなく海峡を渡り、ロシアが周辺をうかがう北海道へ向かいます。黒船来港、ぶっそうな幕末はもうすぐ目の前です。

 平安貴族の風流は全く理解できませんが、彼らの抱くロマン・妄想には興味をひかれます。平和が確立された元禄の芭蕉、平和にひびが入り始めた時代の菅江真澄にも興味をひかれます。ほとんどボランティアの管理組合理事の仕事も5月で終わります。もちろん、雪の舞い散る寂寥たる冬の季節が終わったら…、彼らの痕跡を訪ねて、東北、かつての陸奥(みちのく)を訪ねようと思っています。

 東北支援、私に出来るのはこれぐらいです。

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August 30, 2015

行く夏の…、金売り吉次

 8月も末になり、あの異常までのな暑さはどこへ…、気配どころか、一挙に秋本番を迎えてしまいました。あまり乗り気でもない団地内の「夏祭り」も終わって、今年の夏もこのまま終わるかと思えばどこか妙に寂しく、なにかを残さねば、と言う気持ちが沸き上がってきます。予定していた中仙道、馬籠・妻籠宿行きが、Akiraさんの膝の故障で急遽取り止め、それに代わる…かどうかは判りませんが、念願の「金売り吉次」の墓を訪れました。

 Akiraさんと知り合ったのは、二人共通の友人:Toshioさんの住む伊賀上野で催される「伊賀上野天神祭」でした。伊賀上野と云えば芭蕉の出身地、地元では「芭蕉さん」と親しみを持って呼ばれ、小学生の時から俳句を作るという土地柄だそうです。残念ながら、私には文学・詩歌を鑑賞する、ましてや創作する能力はこれっぽっちもありませんが、10月の伊賀上野訪問までには芭蕉のことを勉強しなければなりません。 

 芭蕉西行、義経の足跡を辿って奥州を紀行して『おくのほそ道』を残します。最初の目的地である「日光」、記録上現れるのは鎌倉時代以降であり、それ以前は「二荒神」と表記され、「二荒(ふたあら)」を「にこう」と読み、これに「日光」を当てたものといわれています。芭蕉は舟で「深川」を出発、千手観音が川中から発見された事に因む「千住」、それは浄土教の補陀洛渡海を暗示する船旅で、観音浄土:「日光」を目指します。「死」を暗示、象徴する道程です。

室の八島 けぶりたつ「室の八島」と呼ばれ、平安時代以来東国の歌枕として知られる大神(おおみわ)神社、五畿七道の時代には下野国国府が在り、その真北に鎮座します。大和国(奈良県)三輪にある、別名:三輪神社を勧請して創建されました。都から赴任してきた役人の多くが歌人だったのでしょう、多くの句碑が建てられています。今回、テニスの仲間の一人、Aさんとご一緒だったのですが、彼は顕彰碑・句碑・古文書の解読を講義する先生であり、今回はまさに「フィールドワーク中の先生と生徒」といった趣です。

吉次の墓 さらに北へ、車で10分、「金売り吉次」の墓が在ります。紀行の随行者:曾良の旅日記に、「吉次ガ塚、右ノ方廿間バカリ畠中ニ有」、と記された場所は栃木県鹿沼市壬生町上稲葉1603−5、今も3百年前とほとんど変わらない、収穫を前にした稲田の中にあります。

 1174年、「金売り吉次」の案内で、牛若(遮那王、元服して義経)は奥州に下向したとされます。「治承・寿永の乱(1180〜1185)」後、頼朝に疎まれて、頼朝に出した釈明書:「腰越状」の内容とは矛盾するのはこの話が作られたからなのでしょう。奥州の砂金(などの産物)と京の産物を交易して、奥州・京を往還した商人は存在したと考えられており、「金売り吉次」はその総称と云われています。吉次は三人兄弟の一人、父親は「炭焼き藤太」と呼ばれ、これまた奥深い話があるようです。

吉次の墓_2 壬生町の芭蕉が訪ねた「金売り吉次」の墓他に、もう一つ吉次の墓が踏切横にありました。近所のお年寄り(90歳)の話では、別の場所に在った墓が東武の鉄道工事により移転させられたそうです。この地域には他にも「金売り吉次」の墓や「義経の〜」と称する塚が複数あるそうです。 

 行く夏の…、過ぎ去ってしまえば、あっという間の夏でした。おそらく、人生も…。

参考書:芭蕉 おくのほそ道−付・曾良旅日記 おくのほそ道の旅 身体感覚で「芭蕉」を読みなおす 義経伝説−判官びいき集大成 怨霊になった天皇

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express01 at 09:57|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

March 11, 2015

平安末期末法の世 山城国日野

深い森 2012年6月、わずかながらも復興に寄与すればと思い、白河関を通って会津若松に旅しました。 平安中期、能因が、平安末〜鎌倉初期、彼の跡を追って西行が、そして江戸期には、二人を追って芭蕉が通過した白河関、私にとってはこれが二度目の訪問でした。その年の大河ドラマが『平清盛』だった故か…、空堀が巡らされた古代の砦・柵の跡に一人立つと、そこは『平家物語』の世界です。

 「一ノ谷の戦い(1184)」で捕虜となった平重衡は、 鎌倉からの帰路、同じく「壇ノ浦の戦い(1185)」で捕虜となった妻:輔子(ほし/すけこ)が姉の居所に隠棲していると耳にします。「もしや…、会えるかも…?」と、待っている妻。 果たして、一行が日野に差し掛かった時、「この近くに妻がおりますので、今一度対面したく〜」と重衡、警護の武士は涙して夫婦つかの間の再会を許します。『平家物語』、感動的な場面の一つです。

 重衡夫婦が再会を果たした山城国日野、奈良の春日野の地に似ているという理由で当初、「春日野」と名付けられました。日野氏の始祖:藤原真夏を祀った萱尾神社の前に「春日野」と記した標識を建てたが、ある日、一匹の鹿が現れ「春」の一字を喰いちぎって行ってしまいました。以来「日野」のニ文字だけが残り、そのまま地名となったと云います。

 保元・平治の乱(1156/1159)、安元の火災(1177)、治承の辻風(1180)、福原遷都(1180)、治承・寿永の乱(1180〜1185)、養和の飢饉(1181)、元暦の大地震(1185)…、立て続けに起こった天変地異と戦乱、人々は世界の終末:「末法」の到来に怯え、極楽浄土への往生を求める浄土信仰が大流行します。朝廷・貴族が衰退して武家が台頭、一方では、既存の仏教に対抗する新しい仏教勢力が増大、価値感が一変する大変動の時代でした。

 朝廷と姻戚関係を結び、 摂関政治を続けてきた藤原氏にすれば、重衡はその藤原氏の氏寺:奈良「興福寺」焼き討ちを指揮した重罪人、その重衡が藤原氏日野家の拠点:日野を通るのも因縁があったのでしょう。「法界寺」は真夏の孫:家宗が建立した日野家の氏寺ですが(薬師信仰)、この時代、末法思想の大流行を受けて阿弥陀堂が建てられ(阿弥陀信仰)、浄土真宗の開祖:親鸞は日野有範の子としてこの「法界寺」に生まれました(1173 〜1262)。

 仏教で云う「無常」とは、宇宙・万物の哲理・原理であり、「奢れる・奢らざるに拘わらず、全てに等しく永遠ではない」のですが、『平家物語』では「奢れる者は久しからず」になってしまいます。前者は感情の入る余地のない根本原理・宇宙の法則、日本の「無常」は極めて情緒的、桜は散り際が美しいなど、桜の花を愛でるにもその美しさだけでなく、変わりゆく=うつろいゆく=「無常」に愛惜を感じるのです。

 下鴨神社の神事を司る神官の次男として生まれた鴨長明(1155 〜 1216)は、 和歌・音楽(琵琶)を学び、歌人として活躍していましたが、神職としての出世の道を閉ざされ大原にて出家(1204)、後にこの日野「法界寺」の奥に「方丈庵(一丈四方の庵)」を結びます。既に武家の時代、鎌倉幕府三代将軍:源実朝に面談して帰国後、『方丈記』を完成します(1212)。

 この時代、日野が何かと重要な舞台の一つでした。『方丈記』に関して書こうと思いましたが前段の時代背景だけに終わってしましました。私の書斎

 私の部屋はほとんど長明の方丈庵と同じ、音楽もほとんど同じで、上手くはありませんが、ギターを彈きます。残念ながら和歌、文学の素養はありません。
 

 東日本大震災で亡くなられた方々の御冥福を心からお祈りします。

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June 15, 2012

白河の関

平安時代、都人(みやこびと)にとっては陸奥(みちのく)ははるか彼方の異国の地、異国情緒を感じる、唐突ですが…、言わば『カスバの女』(演歌調でありながらエキゾチック)のような地域だったようで、山城(京都近郊)、大和(奈良)に次いで多く歌われています。

西域_2『街道をゆく − 北のまほろば』で、司馬遼太郎が言うには…、「唐の詩人がときに憧憬した西域までも、平安貴族は好んだ。ただ、どう想像していいかわからず、レールが転轍するように、関東のかなたにひろがる陸奥(みちのく)の天地を連想した、と私は考えている。」 

平安貴族は教養が高かったのですが、どうやって彼等は「西域」と「陸奥(みちのく)」を重ねて連想することが出来たのでしょうか?彼等の学んだ中国語(漢文・漢字)でく西域の情景・イメージを理解し、それを自らの和歌で伝えたのでしょうか?出来たとしたら、どの歌がそれなんでしょうか?和歌の知識は全くないのですが、彼等の憧れた「西域」が「陸奥(みちのく)」に投影されているのであれば、彼等の歌に何らかの形で反映されているはずですが…、そんなことでもないようです。

陸奥(みちのく)への憧憬・異国情緒、陸奥(みちのく)趣味は、征夷大将軍:坂上 田村麻呂(758-811)は蝦夷討伐の遠征から凱旋(801-804)し、多くの陸奥(みちのく)情報が京にもたらされたこともその背景にあったと思われます。あきれた話ですが、『源氏物語』の主人公:光源氏のモデルの一人といわれる、源融(みなもとのとおる 822 - 859)は陸奥国塩釜の風景を模して六条河原院を造営、塩釜を模すための塩を毎日、難波の海(大阪湾)の汐を汲んで運ばせたと伝えられます。かと言って、如何に平安貴族に陸奥(みちのく)への憧憬・異国情緒があるにせよ、陸奥国塩釜の風景を模したり汐を汲んで運ばせることが、唐の詩人が憧憬したことに繋がるなど想像も出来ません。「西域」への憧憬・異国情緒と「陸奥(みちのく)」へのそれは全く別物ではないでしょうか。

平安中期、能因(のういん 988-1058?)が、平安末〜鎌倉初期に、能因の跡を追って西行は1147年と1186年の二度、そして江戸期には、二人の足跡を追って、芭蕉は1689年、陸奥(みちのく)を旅します。
古代東海道
平安時代の彼等は京を発ち、鈴鹿峠、 小夜の中山(遠江国) 、足柄山を越えて坂東(相模国)に入り、横山(武蔵国 ※筆者:イサオの住む町田市と多摩市との境)を北上、府中を通って、安中(上野国)にて東山道に入り、白河関(下野国)を越えて陸奥(みちのく)へ入りました。ある役人の日記では、9月15日に京を出発、11月17日に白河関を越えて陸奥へ入ったそうで、赴任地である多賀城(陸奥)に到着したのが年の暮れ、その間3ヶ月半、さぞ困難・難渋の旅だったでしょう。

その白河の関、芭蕉の訪ねた江戸期(1689)には関の役割はかなり前に終わっており、その関所跡を特定することさえ困難でした。陸奥(みちのく)は、もはや未知の国ではなくなっていました。白河藩主:松平定信は、白河の関の場所を研究して、旗宿という地に在る白河神社を白河の関跡と断定して今日に至っています。空堀が巡らされており、8〜9世紀頃まで蝦夷の南下を防ぐ「砦・柵」、平安末期までの奥州藤原氏の領土の境、としての白河関の役割から言えば妥当な決定でした。
白河関 sketch_2
白河関(境の明神 陸奥側)しかし、個人的には、旧陸羽街道(国道294号)に沿って並ぶ「境の明神」二つ、下野国側の関東明神(住吉神社)と陸奥国側の奥州明神(玉津神社)、これこそが白河関跡にふさわしく見えてしまいます。

深い森

『陸奥(みちのおく)』へ、『未知の世界』へ、『別の世界』へ、自分の『内部世界』へ通じる入り口が『白河の関』でした。
※新世界(New World)へ通じる入り口は地中海の西の端:『ヘラクレスの柱』

何が平安貴族を陸奥(みちのく)への憧憬・異国情緒・趣味に駆り立てたのかは判らず仕舞いです。『カスバの女』は判るのですが…。

※ Amazon: 「北のまほろば―街道をゆく」 「カスバの女」

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May 26, 2012

「趣味」と「数奇」

この歳になり、仕事もほとんど午前中には片付くようになり、残りの時間、それは単に一日の残りの時間という事だけではなく、人生の残りの時間=「人生の黄昏」とは少々抵抗があるところですが…、を如何に過ごすか、これが一大関心事となりました。

先日の金環食、友人と二人で撮影すべく前もってリハーサルまでして準備したのですが、前日の夜、彼からメールをもらいました。 「申し訳ない。当地曇りの予報にて、晴れている赤城山に行きます。」 

写真を趣味としている人はこれぐらいでないといけません。彼は、日々、天気予報に気を配り、どこが最適ポイントかを判断します。当日の朝、満天の(?)曇りがフィルター代わり、結果的には、肉眼で十分でした。事前に用意した観測サングラスは曇天下では無用の長物、生きている間に二度と使うことはないだろう…と、全く別なことを悔やむ私でした。

※彼が赤城山で撮った写真がこれ。意図とは違ったらしく、失敗の由。
Annular Eclipse

写真、音楽、あるいはスポーツにせよ、暇が出来たからと行って、急に出来るものではありません。趣味を「楽しめる」レベルに達するまでにはそれ相当の時間と環境が必要です。私はお音楽が好きで、ジャンルを聞かれれば、「カントリーぽぃロック、ウエス・トコースト風、あるいはルーツ・ミュージック」と答えるでしょうし、これが理由で「カントリーミュージック人気ランキング」に参加しています。

私が今、音楽経験豊かな他の3人と一緒に楽しめるのも、高校生の時代、それなりにギターを練習したからでしょう。「少年老いやすく〜」はその通りですが、それ以上に言えることは、当時そんな仲間=環境があれば、また違った人生になったかも知れません。欲は言いますまい。ギターのコードを弾けるだけで十分、満足です。

視聴率、少しは回復したのでしょうか?…NHK大河ドラマ:『平清盛』、佐藤義清(さとうのりきよ 後の西行)は出家(1140)してしまい、そんな場面も亡くなりましたが、彼は「弓馬の道」だけではなく、帝・院の要請に応じて即興の歌を披露する、和歌・今様・けまりの名手でした。専門業とはせず、何らかの芸事に打ち込む様を「すき」と称し「数寄」の字を当てるのですが、彼は当時随一の「数寄者」であり、彼の出家の原因をこの「数寄」に求める説もあるようです。

宮廷貴族という限られた世界に広まった和歌は、室町時代には連歌に、桃山時代には富裕な町民層及び武士の間に広がります。江戸時代になるとその裾野はさらに一般庶民に広がり、俳句を使った「三笠付け」と呼ばれる賭博が流行、幕府はその取り締まりに手を焼いたそうです。ほんの一握り人たち:貴族の遊びだったものが、それから5百年後の江戸時代には一般庶民の遊びになっていました。これは江戸時代の識字率の高さ、ひいては文化の高さ、庶民の豊かさを示すものでした。

西行はその人生で二回奥州に、そして四国に旅しますが、決して放浪ではありませんでした。揺るぎない経済基盤を背景に熊野に庵を構えますし、庶民層と係わることもなく、況わんや決して乞食(こつじき)やホームレスなんかではありません。旅に出ながらもいつかは都に帰って世俗との関わりを維持する、鼻持ちならない金持ちの道楽者、ということも言えるでしょう。

音楽といえば聴くだけのもの。自分で演奏するなど夢の又夢、楽器と言えばプロの演奏者が弾くものと思っていた私が最初にギターを弾く事ができたのが『君といつまでも』、続いてベンチャーズが空前のエレキブームをもたらし、一気にギターを庶民の楽器にしてしまいました。戦後、大衆文化としてのアメリカ音楽が日本に入ってきてから僅か15年、文化の高さはともかく…、庶民の急激な豊かさの実現を示すものでした。

西行の生き方と比べるのもおこがましいのですが、揺るぎない経済基盤を築く間もなく、「人生の黄昏」に突入してしまった私です。

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March 11, 2012

『3.11』が巡って来ました

西行NHK『平清盛』、北面の武士:佐藤義清は、待賢門院璋子(たまこ)への片思いが原因(?)で…、23歳で出家、以降『西行』を名乗り、1143年、26歳の時、何故奥州なのかは不明ですが、最初の奥州の旅に出ます。

それから40年後、戦乱:『治承・寿永の乱、 あるいは、源平の戦い(1180 - 1185)』を避けて伊勢の国に庵を組んでいました。戦乱で焼け落ちた東大寺大仏復興のための寄進が捗らず、再建の責任者:俊乗坊重源(ちょうげん 1121 - 1206)に依頼されて、大仏を鍍金(金メッキ)するために必要な砂金を寄進する旨約束してくれていた藤原氏を訪ねて、1186年、70歳を前に再び奥州へ旅立ちます。

今日、『3.11』がやって来ました。メディアの多くは『東日本大震災からの1年』を特集していますが、被災地そして日本の今後を考えると暗澹たる気持ちになってしまいます。言いたくはないのですが…、この1年を振り返ると、政治、官僚はもちろんのこと科学・技術、報道、教育、宗教…等、どれをとっても『日本の〜界のリーダー』(あるいは『専門家』)には本当にがっかりさせられてしまいました。

しかし、西行の奥州行を調べていると、偶然、ちょっと古いのですが、約1年前のニュースにぶつかりました。2011年4月8日付の産経新聞に…

『1300年前の縁…東大寺が1億円寄付 銀行借り入れ「宮城の文化財修復に」』…とあります。

宮城県涌谷(わくや)町は日本で初めて金(砂金)が採れた所。奈良時代、聖武天皇によって東大寺の大仏が建立されました。大仏は銅で鋳造された後、金で鍍金(メッキ)されるはずでしたが、その金が不足し、 大仏の完成が危ぶまれていました。そこへ749年、日本で初めて産出した砂金900両が陸奥国守百済王敬福(くだらのこにきしけいふく)によって献上され、大仏は無事完成しました(752)。

「白村江の戦い(663)」で唐・新羅連合軍に敗れ、半島での足場を失い、百済からの難民を受け入れ、唐の侵攻も恐れられる中、断固たる決意で律令国家を目指し、唐(中国)との冊封関係を断ち切った日本。その国家安泰・人々の幸福・五穀豊穣を祈願して建立されたのが東大寺大仏。奈良時代のみならず、鎌倉時代の西行による勧進に応え、2度までも(…実は3度)奈良東大寺大仏建立・再建を支えたのが奥州、今の東北地方でした。

これに応えたのが『東大寺の1億円寄付』。ちょっと…、古いのですが、「ほっ」とさせられたニュースです。

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November 18, 2011

「遊行寺」、なんと盛りだくさんな…

友人に誘われて、歴史ネタを探すべく、大和から自転車道を南下、藤沢に在る「遊行寺」に行って来ました。

 ★より大きな地図で 遊行寺 を表示
恥ずかしいことに、「遊行寺」に関する知識は皆無、以下は家に帰ってきてからの後知恵です。藤沢という街は東海道五十三次の3番目の宿場町、と言うだけにとどまらず、遙か鎌倉時代より、「遊行寺」、正しくは「藤沢山無量光院(とうたくさんむりょうこういん) 清浄光寺(しょうじょうこうじ)」の門前町として栄えたようです。時宗は一遍上人(伊予国に生まれる1239−1289)を開祖とする浄土宗の一流で、阿弥陀如来を信仰、「南無阿弥陀仏」を唱え、広く全国を遊行したことに「遊行上人」や「遊行寺」の名は由来します。「踊り念仏」は盆踊りの原型ともいわれる。

本堂の方へ歩いていくと、年配の婦人が話しかけてきます。見るからに上品な女性ですが、闘病生活を送っておられるらしく、80歳、この寺にあるかも知れぬ「柳」の木を探して、大船から訪ねて来られたそうです。彼女は『謡(うたい)』を趣味としているそうで、ハンドバッグから何やら『遊行柳』の演題の書き物を見せてくれます。彼女の年齢によるものか、どうも話の内容を把握するのが難しく…、というよりは、私には彼女を理解するだけの教養がなかった、と後で知ることになります。
遊行寺本殿












彼女の捜している「柳」はこの寺ではなく、遠く、那須芦野(栃木県)にありました。

平安時代末期、漂白の歌人:西行は陸奥平泉に旅しこの地を訪れます。そして、室町時代後期、観世信光(1435〜1516)は、この「柳」をテーマに創作した演目が『遊行柳(ゆぎょうやなぎ)』でした。

「時宗の僧、遊行上人が一遍上人の教えを広めようと奥州へ向かいます。白河の関を越えた所で老人に呼び止められます。老人は古道にある名木:「朽木の柳」を案内しますが、上人の念仏を授かって古塚の陰に消えます。(中入)不思議に思い念仏を唱えまどろんでいると、柳の精が烏帽子狩衣の姿で現れ、柳の故事等を聞かせ、報謝の舞を舞い、そして消え失せる」、という筋立てとなっています。→ 喜多能楽堂

西行の後、江戸時代には芭蕉、そして蕪村が、追いかけるように芦野の『遊行柳』を訪れます。
熊野に惹かれて
浄瑠璃や歌舞伎で有名な『小栗判官と照手姫』の墓、近年新しく発見された『晩年の空也上人立像』、経緯は判りませんが、歴史の教科書で見る「後醍醐天皇の肖像」が重要文化財として所蔵されています。『熊野に惹かれて』をテーマに、熊野信仰に因む多くの絵画や彫刻、絵・物語が展示されていますが、敷地内の大きな資料館は如何にこのお寺にまつわる話が東海林太郎多いかを物語っています。
淺太郎鴉2
一世を風靡した歌手:東海林太郎の大ヒット曲に歌われる、国定忠治の子分、板割浅太郎(いたわりのあさたろう)の墓があります。
その彼がやおら…『赤城の子守唄』を口ずさむのは当然のこと。私が舟木和男の『高校三年生』を諳んじているのと同じです。まだまだ「遊行寺」にまつわることが書けそうです。

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さすがにタグも盛りだくさんです。▼

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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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