蓮花寺

November 07, 2018

2018年関西の旅<2> 近江鉄道

 その日は一日かけて近江鉄道沿線の古い木造の駅舎を訪ねるのが目的でした。しかし、朝起きるのが遅くなり、出発もずるずると遅くなってしまいました。JR京都駅に着いたが10時頃か、これでは近江鉄道の始発の駅、米原に着くのが昼前になってしまいます。これでは終着駅、貴生川駅での友人との待ち合わせ時刻16時までわずか4時間しかありません。米原,泙嚢圓ず、一つ手前の彦根駅△ら近江鉄道の旅を開始しました。これで、予定していた本命の一つ、鳥居本駅舎をはずすことになりました。
181107近江鉄道
 近江鉄道の一日乗車券を買って、やおら時刻表を見ると、地方なので当たり前と云えば当たり前なのですが、1時間に1本の運転しかありません。彦根口駅で降りたのは間違いないのですが、 その駅舎の姿さえ憶えていません。私の勘違いかも知れませんが、写真を撮っていないところから見ると、少なくとも期待した木造駅舎はなく、駅周辺にもこれと云ったものもおらず、次の電車が来るまでの1時間をどう過ごすか途方に暮れてしまいました。

 他にすることもなく、沿線に関する知識をいくつかご披露しましょう。現在も交通の要衝である湖東地方、かつては北陸道・東山道(近世の中仙道)・東海道の三道の結節点であり、歴史の舞台でした。

 すでに鎌倉が新田義貞軍に滅ぼされた(1333年5月8日)のも知らず、京を落ちて鎌倉を目指す六波羅探題、北条仲時軍は近江国番場宿蓮花寺(現在の米原市 砲肪り着くも、前を佐々木道誉の軍勢に阻まれて万事休す。仲時は一族432人と共にここで自刃しました(5月9日)。哀れです。

 次の尼子駅ざ瓩、近江国犬上郡藤堂村には、戦国時代、藤堂高虎(1556-1630)が生まれています。信長・秀吉そして家康に仕え、外様ながら伊勢・伊賀国を支配しました。旅の目的地はこの伊賀上野ですが、近江にも甲賀があり、両者は間の山を県境に隣接しており、共に忍者の里として知られています。面白いことに、戦国期の伊賀国と甲賀では、守護大名(甲賀の六角氏)の支配は緩く非常に限定的で、「惣」と呼ばれる連合体が形成されるほどに、地侍(小領主)に依る自治がなされていました。 余談ついでに、小松左京の「敦賀・加賀・滋賀・多賀・甲賀・伊賀の「賀」の連なり…」を渡来文化に関する著作の中で読んだ記憶がありますが、湖東は大陸から伝わった文化が大和国地方へと広がる幹線ルートであったことは間違いありません。

 次ぎに立ち寄ったのが五箇荘駅ァ4儻客向けに、それらしい装いの駅舎ですが、絵に描いてみようという気持ちにはなりません。当地は近江商人発祥の地。西武グループの創業者:堤康次郎(1889 - 1964)も、一つ手前の愛知川駅の在る愛荘町で生まれました。私の乗る近江鉄道も西武グループの一員で、鉄道車両は西武鉄道のお下がり、県南部を走る近江鉄道の路線バスにも関東を走る西武バスのカラリングが施されて、関東に住む私は不思議な感覚に陥ります。本当かどうか知りませんが、滋賀県で一番人気のプロ野球チームは「西武ライオンズ」だそうです。

 街並みが保存されているようなのですが、そこまで歩いて往復するだけで1時間は必要、街並みを見て回るとなると…、次に乗る電車は2時間後になってしまいます。周辺を廻っただけで駅舎に戻ります。誰もいない駅舎で、一人、作戦の練り直しです。次はレトロな駅舎の新八日市駅、メンソレータムの近江兄弟社で有名な近江八幡駅を予定していたのですが、これだけでも一日は必要と理解して、今回は断念することにしました。まだ一枚の絵も描けず、時間だけが過ぎていきます。 …と、駅に置いてあるパンフレットに『厳選!近江鉄道本線こだわり旅』とあり、見所の一つに、私が予定していた桜川駅Гあります。

 八日市駅Δ乃生川行きに乗り換え、いくつか駅を過ぎ、桜川駅Г嚢濕屬靴泙靴拭2りを散策など…の余裕もなく、次の電車が来るまでの1時間、スケッチに没頭しました。陽が落ちるのも早く、影が長く感じられます。貴生川で畑を借りている友人から電話の一報、「今、何処?」、畑作業は間もなく終わるそうで、予定を変更して、貴生川より手前の水口駅で拾ってもらうことになりました。
181104_近江鉄道桜川駅駅舎_2
  予定していた日野駅┐蘯崛襪ら見るだけに終わりました。もう一つの近江商人、日野商人の拠点、蒲生郡日野町です。戦国時代、蒲生氏郷(1556 - 1595)が生まれた地でもあり、何故か…、彼に愛着を感じています。2012年、会津若松に旅行し、街中に偶然、氏郷のお墓を発見(興徳寺 遺髪のみ)して感激したことがあります。千利休の一番弟子で、千利休切腹後は彼の息子を会津若松に招いて千家存続、茶道発展に尽くしました。彼は名護屋布陣中に病死、京都大徳寺にある黄梅院に葬られています。彼は熱心なキリシタンでしたが、彼の死後、会津地方でキリスト教がどうなったのか大いに興味があります。

181107_日野菜 水口駅で降車、陽は西に傾き、駅舎の長い影に見入っていると、友人の車がやって来ました。私とは大いに異なり、彼には「食」に対するこだわりがあります。その一つが「京野菜を使った漬け物」です。先ほどの日野、此処が原産かどうかは知りませんが、「日野菜(ひのな)」というカブの一種の漬け物です。近江国が発祥、「千枚漬け」と並ぶ京漬け物の一つです。

 旅行から帰ると、約束通り、彼が自分で漬けた「日野菜漬け」が届いています。さすがに…、こだわりの彼が漬けた「日野菜漬け」、上品なおいしさで、ごはんが進みます。どうも、おおきに!また、よろしくお願いします。

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June 24, 2016

鎌倉新仏教(2) 聖と遊行僧

 私が育った兵庫県の南東に位置する伊丹という町、その北部に昆陽寺(こんようじ 地元では「こやでら」あるいは「行基さん」と呼ばれる)があります。731年、行基が灌漑用の「昆陽池」を建設、これに従事する貧民の救済を目的とした「昆陽施院」に始まります。行基(668-749)は寺院外の布教を禁じた「僧尼令」に違反して托鉢して民家を回ったとして弾圧されましたが、行基に対する民衆の支持が大きいと見た朝廷は、東大寺大仏造営の勧進役に起用しました。律令制度の下、国家鎮護のための仏教に反して民衆の救済を説いた行基の行いは後に空也(903-972)に引き継がれ、抑揚・高低・曲調を付けた「南無阿弥陀仏」を唱えながら念仏踊りを行うもので、民衆の大きな支持を得ました。

 法然、親鸞に始まる、中世の宗教改革と言うべき、鎌倉新仏教に連なり、行基・空也の後を継いだのが一遍でした(教団:時衆の結成は室町時代)。どんなに穢れていようと、いかなる不信心者であろうと阿弥陀如来の力で必ず救われると全国を旅し、空也上人に倣って各地で念仏踊りを催しました。こうして、「一切往生・平等往生」を説いた法然の思想は民衆に広がりました。
160622一遍聖絵より
 南都六宗、比叡山、高野山の僧侶は得度僧と呼ばれ、民衆の中に入って布教することを禁じられていたが、民間で布教した僧侶:私度僧は民衆の中を奔走して、無許可で僧侶になった者で、彼らは「聖(ひじり)」と呼ばれました。この「聖」に属する僧には大きな幅があって、上は、貴族の出身でありながら、得度僧の堕落に見切りをつけて…、日々の生活から逃れて…、下は、その日の食べ物を得る為に僧形をして物乞いし…、隠遁・放浪生活をした。平安末期の西行も僧形をしていたが(実は「高野聖」)、見方によっては…、貴族の道楽・風流、日常生活を捨てたようで…、その実、片足はきちんと俗世に置いたようにも見えます。

 民俗学者の五来重(ごらいしげる)はその著:『高野聖 』の中で「聖」を下記のように説明しています。
『聖』の属性
 美辞麗句に、抑揚・高低・曲調を付けた語り、伴奏も付けて、聴衆を説話の中に引きずり込み、いや、没頭させ、恍惚とさせなければなりません。聞き惚れる唱導が芸術に変わって行ったのは極めて自然ななり行きです。寺社のために勧進をやっているのか、自らが食べていくために唱導をやっているのか…、琵琶法師によって口承されていた『平家物語』は語られる毎にその芸術性を高めていったことを思えば、日本の文学・芸能の代表作品は多くの「聖」達によって造られたものであると言えるでしょう。
 
 鎌倉中期、法然から70年後、伊予国河野氏を出自とする一遍が依るべき階層は自分の出身階層である地方武士でした。「無縁(むえん)」、「公界(くがい)」を、主従の縁、親子の縁、賃貸関係等、世俗の縁が切れた「自由」を保証する場所(中世西欧における「アジール(避難場所)」)とし、「公界」の寺の僧はそれにふさわしい能力=「芸能」を身に付ける必要がありました。能役者、連歌師、太平記読みなどの芸能民は「公界衆」と呼ばれ大名など権力者の宴席に並び、彼らは後の「同朋衆」につながります。山伏、時衆僧、禅僧は戦に於いても敵味方と縁の切れた「公界」の人、戦場における死者の供養、負傷者の救援など、時衆僧と武士との間には深い絆が生まれました。

 14世紀、南北朝動乱期から室町時代にかけて、北陸・近畿・東海など産業文化の先進地域では連帯性と自立性を持った「惣村と呼ばれる新しい農村共同体が生まれ、村民全員参加の信仰組織:「講」が結成され、村々に道場が置かれました。後の「一向一揆」につながります。当時の農村は閉鎖的な共同体、これを横へ広げたのは諸国を渡り歩く<職人>、商業・運送業を営む<ワタリ>でした。

 元弘3年(1333)六波羅探題の北条仲時は光厳天皇と花園上皇を奉じて関東に逃れようと、都を落ちて近江国へと敗走するが、番場宿蓮花寺にて進退窮まり、命運尽きたことを悟った北条仲時は六波羅軍の解散を命じて自刃、彼に従った北条一門432人が彼の後を追って自刃します。この敗走する六波羅探題軍の前に立ちはだかったのが佐々木道誉(1306-1373)でした。楠正成とともに討幕運動に参加、足利高氏と密約して連携、この馬場宿で天皇・上皇を捕らえて三種の神器を強奪しました。武家政権樹立を躊躇する高氏に積極的な反旗を働きかけた道誉はいわば足利政権の立役者でした。運送の拠点となる大津始め琵琶湖沿岸の津・泊などの商業・流通・運送の拠点となる地を所領とし、一般的な武士からかけ離れて、流通・商業からなる<ワタリ>的な生活をしていたのでしょう。

 道誉は婆娑羅大名と呼ばれ、暴力と風流のアンビバレンス、和歌・連歌、立花・茶・香などの芸道にも造詣が深く、多くの芸術家を経済的に援助するなど、いわば中世文化のパトロンでした。三代将軍:義満(1358-1408)の同朋衆:海老名南阿弥(なあみ)とともに「猿楽=能」観阿弥のスポンサーとなります。現代にも生きる義満が築いた北山文化、その代表は観阿弥・世阿弥の「猿楽=能」でしょう。注目すべきは、道誉と共に討幕運動に立ち上がりながらも最後には敵味方に分かれる正成ですが、彼の姉か妹(?)が観阿弥の母親、観阿弥は正成の甥、正成は観阿弥の叔父に当たります。

 この時代から戦国時代にかけて、個性的な生き方をした人、傾いた人は、阿弥号の有無は別に、どこかに一遍、時衆、遊行僧のにおいを感じます

※ 参考:五来重(ごらいしげる)著:『高野聖  』
 
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November 08, 2012

2012年近江の旅 Episode 2 〜 番場宿蓮華寺

「KENさんに似た人も居るんだなあ…」と米原駅のベンチにぽつんと一人座る男性を見ていました。すみません。メールをもらいながら、一本早い電車に乗る、という部分を見落とし、彼を待たせていました。大阪で会って以来の半年ぶりの再会、彼を乗せて『2012年近江の旅』出発!

田舎道で車の数も少なく快適、たびたび対向車線に「西武バス(路線バス)」が現れ、ここは東京の池袋か…?、堤一族はこの近江出身なのですからごく当たり前な風景ですが…。西明寺に向かう左前方に広がる大きなコスモス畑で休憩、そこで彼が描いたのが下の絵。この旅が終わって帰宅すると、この絵はがきが届いているではありませんか。非日常の体験が未だ覚めやらぬ、旅の余韻が色濃く残る間にこんな絵手紙をもらって喜ばない人はいないでしょう。ありがとうございました。
DSC01435

『古事記』には「淡海の多賀に坐すなり」と記される多賀神社、その門前、お店の屋根瓦のハロウィン(?)です。彼のようにさらっとは描けません。
多賀神社 門前の店
鎌倉末期、同じ時期ではあるが全く別個に、一向と一遍は、浄土宗の影響を受けて自己の教義を確立、ともに「南無阿弥陀仏」を唱え、遊行や踊り念仏を行儀とする念仏勧進聖として教団を開きます。一遍上人を祖とする藤沢の無量光院清浄光寺(遊行派 遊行寺の名で有名)は自転車で訪れたことがありますが、今回は一向上人を祖とする近江番場蓮花寺(一向派)を訪れます。

元弘3年(1333年)2月24日、隠岐島から脱出した後醍醐天皇は2月28日、伯耆国船上山(現在の鳥取県)で挙兵する。これを追討するため幕府から派遣された足利高氏(尊氏、当時は高氏)は、寝返って後醍醐方に味方、4月27日、丹波篠村八幡にて挙兵、5月7日、一挙に京に侵攻する。六波羅探題の北条時益と北条仲時は光厳天皇と花園上皇を奉じて関東に逃れようと、都を落ちて近江国へと敗走するが、途中、野伏の襲撃に遭い北条時益は殺され、光厳天皇は逢坂にて矢傷を負う。5月8日、都を遠く離れた上野国新田庄(現在の群馬県)では、新田義貞が挙兵します。

蓮花寺 北条仲時の墓六波羅敗走軍はここ番場宿に辿り着くも、蓮華寺にて進退窮まり、命運尽きたことを悟った北条仲時は六波羅軍の解散を命じて自刃、享年28歳、彼に従った北条一門432人が彼の後を追って自刃します。蓮華寺前庭は流れる鮮血で赤く染まり「血の川」と呼ばれ、死体の山で埋め尽くされ、その一部始終を目撃した光厳天皇は、気を失わんばかりに、ただ茫然とするだけであったという。

彼等が逃れようとした鎌倉は、5月21日、新田義貞の「稲村ヶ崎」突破、府内への突入を許します。5月22日、最後の執権、北條高時以下の一族郎党の8百余人は自刃、ここに鎌倉幕府は滅亡します。

鎌倉幕府の滅亡が壮絶な死で終わることは、まだ…判らないでもないですが、鎌倉を遠く離れた近江番場宿、蓮花寺での北条仲時以下432人の死は一層哀れで悲しくなります。平維盛の息子、「六代」は1199年、都から遠く、相模国逗子で切られたのが思い出されます。

時の住職:同阿常人が深く哀れんで彼等を過去帳に留め、彼等の墓を建て丁重に弔ったそうです。

蓮華寺と遊行寺の共通点、もう一つありました。何故か…ともに、「やくざもの」、「股旅もの」大衆演劇につながります。『赤城の子守唄』板割浅太郎の墓が藤沢遊行寺にあって、『瞼の母』の主人公:番場忠太郎が蓮華寺にゆかりがあります。どちらも、一世を風靡した大衆歌謡・演劇でした。

※ 訪問の順番が違うじゃないか…って?はい、順番は無視しています。

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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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