芭蕉

February 02, 2019

第2回絵画展のご案内 

190201_絵画展案内状

 見慣れたと云うか、最近、少々見飽きた小山田荘の風景を後に旅に出ました。見飽きたとは言いすぎ…、見る目を変えてみようと、リフレッシュを目的に関西に行ってきました。芭蕉は150日をかけて「おくのほそ道」を歩いたと云います。それに比べれば、私の4泊5日の旅行はつましいものです。

181026_司馬遼太郎 初めて、東大阪にある司馬遼太郎記念館を訪れました。館内は写真撮影禁止。訪問者は数えるほど、安藤忠雄設計の地上1階から地下2階まで吹き抜けの館内を、無謀にも2時間以上もかけてスケッチ、建築を志す学生気分に浸ることが出来たのは幸運でした。

 多くの近江商人を輩出した東近江、西武グループの創設者 堤康二朗も近江鉄道愛知川(あちがわ)出身でした。このこともあって、近江鉄道はれっきとした西武グループの一員です。米原からJR東海道線の内陸側を平行して、彦根・多賀神社・愛知川・五箇荘・近江八幡・日野そして貴生川(きぶがわ)でJR草津線に連絡します。

沿線の日野は信長・秀吉時代のキリシタン大名、 洗礼名 レオン、利休七哲の一人、蒲生氏郷(がもううじさと1556 – 1595)が生まれています。

彼の5代前の当主 蒲生貞秀(さだひで1444 – 1514)は武将としてだけでなく、日野菜歌人としてもすぐれた人物でした。 日野の地に発見された根が淡紅色の野菜(カブ)を漬けたところ非常に美味で、京に住む公家に献上すると、その美味であること天皇にまで知られるようになりました。このカブは「日野菜」、日野菜の漬物は「日野菜・桜漬け」と呼ばれ、蒲生氏上洛の際は必ず献上したそうです。

私を、貴生川駅で拾ってくれた友人は京都人、近くで畑を借りて、日野菜を育て、日野菜漬けを作るのが彼の趣味の一つ、頂いてみると、なるほど…、ご飯がすすみます。

もう一つは伊賀鉄道、城下町 伊賀市中心部とJR関西線 伊賀上野・近鉄大阪線 伊賀神戸(いがかんべ)を結ぶ、全長16.6kmの第三セクター鉄道です。駅名にもある「四十九(しじゅうく)町」は奈良時代、行基(668 – 749)に由来、修験道の開祖 役行者(えんのぎょうじゃ =役小角 7 – 8世紀)の弟子にて、この地に山伏の修験道場 「四十九院」があり、伊賀流忍術発祥の地でした。

芭蕉は、最大のパトロン 藤堂新七郎 良忠(俳号 蝉吟 せんぎん)を亡くします。彼は、処女作 「貝おほい」を故郷 上野菅原神社に奉納、決意を新たにして、当時、新興の江戸に向けて出発しました。

「おくのほそ道」への旅立ちは、それから14年後のことです。
第2回絵画展画像
楽しんで頂ければ幸いです。

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March 14, 2016

陸奥(みちのく)

 
 東日本大震災から5年、新聞・テレビでは特集が組まれ、初めて公開された事実にあらためてその日に起こった事実に驚愕してしまいます。あの日、私は歴史上の「ポツダム宣言受諾」、玉音放送で日本の降伏発表を聞いて泣き崩れる姿(1945年8月15日)が頭に浮かび、日本の「第二の敗戦」を直感しました。何か取り返しのつかないことになってしまったのではないか、個人的にも、今までとは全く違う人生がやって来たものと感じたのです。上手くは言えないのですが、5年経った今でも、基本的にはこの思いは変わりません。
白河関跡
震災から1年後の白河の関
 少々突き放した言い方になりますが、災害の記憶は新しい災害が起こる毎に、その記憶はなくならないまでも、次第に風化していくでしょう。解剖学者:養老孟司曰く「東北大震災は人々の記憶から消去されざるを得ない。その背景には東北の人たちの”温厚さ”もありはしないか。苦渋があまりに大きすぎて、お上に従えば悪いようにはならないと信じたいのでしょうか。(朝日新聞)」 東北人から主体的な声が上がらない。ふと、気がついてみると、お役所発注の巨大防波堤ばかり…

 同じく日曜版、大きな挫折、胸が張り裂けそうになる別離のような苦難に打ちのめされたとき、そんな傷心を抱えた旅先には、北と南、どちらがふさわしいか?55%が北、45%が南へ、「北で悩み、南で忘れる」ようで、「北」と答えた人の最も多くの人が「北東北」を目指すそうで、さらに北に位置する北海道ではありません。雪の舞い散る寂寥たる冬景色の中で悩みを深め、そんな冬景色の中にも「東北の人たちの”温厚さ”」・暖かさを求めているようにも思えます。

 果たせなかった恋や夢、「傷心旅行」だけではなく、そのBGMとしての「演歌」にも注目しなければなりません。ここで云う演歌とは別離・失恋・悲恋・喪失をテーマにした曲の多くはこれに重なります。少し例えが古くて申し訳ないのですが…、同じ演歌でも、南の国:九州出身の水前寺清子、北、それも北海道まで行って北島三郎と、どちらも明るく、賑やか、彼らの持つ地域・方角性はこれの対局にあるもので、全く対象にはなりません。

 平安時代(794年 - 1185年/1192年頃)、イメージ的にも南西から東北に弓なりにつながる日本国ですが、「西の鬼界ヶ島(喜界島)」と東端、陸奥国「外が浜」は国の辺境を指す代名詞とされ、都人(みやこびと)にとっては東山道白河の関の向こうにある陸奥(みちのく)は彼方の異国の地、異国情緒を大いに感じる地域だったようで、山城・大和に次いで多く歌に歌われています。「唐の詩人がときに憧憬した西域までも、平安貴族は好んだ。ただ、どう想像していいかわからず、レールが転轍するように、関東のかなたにひろがる陸奥の天地を連想した、と私は考えている。」 とは司馬遼太郎の言(『北のまほろば―街道をゆく』)。 

 陸奥(みちのく)への憧憬・陸奥趣味は、最初の征夷大将軍:坂上 田村麻呂(758-811)の遠征からの凱旋(801-804)に始まりました。『源氏物語』の主人公:光源氏のモデルの一人といわれる、源融(みなもとのとおる 822 - 859)は陸奥国塩釜の風景を模して六条河原院を造営、塩釜を模すための塩を毎日、難波の海(大阪湾)の汐を汲んで運ばせたとは全くあきれた話です。平安中期、能因( 988-1058?)が、平安末〜鎌倉初期に、能因の跡を追って西行は二度、そして江戸期に入ると、芭蕉陸奥を旅し、紀行文『おくのほそ道』を残すことになります。江戸後期、三河国に生まれた菅江真澄(1754 - 1829)は、本草(薬草)学者にして旅行家、膨大な量のスケッチ画を残しますが、陸奥の最深部、津軽・下北だけでなく海峡を渡り、ロシアが周辺をうかがう北海道へ向かいます。黒船来港、ぶっそうな幕末はもうすぐ目の前です。

 平安貴族の風流は全く理解できませんが、彼らの抱くロマン・妄想には興味をひかれます。平和が確立された元禄の芭蕉、平和にひびが入り始めた時代の菅江真澄にも興味をひかれます。ほとんどボランティアの管理組合理事の仕事も5月で終わります。もちろん、雪の舞い散る寂寥たる冬の季節が終わったら…、彼らの痕跡を訪ねて、東北、かつての陸奥(みちのく)を訪ねようと思っています。

 東北支援、私に出来るのはこれぐらいです。

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December 03, 2015

隠居の道楽

 ブログのジャンルを「洋楽」としながら、一年を振り返ってみると、洋楽(=音楽)ネタはわずか3件、うち我々前期高齢者バンドの演奏をお聞かせできたのは、一人が抜けたままでどうも喪失感のぬぐいきれない「Woodstock, Back To The Garden」だけでした。

 メンバーの一人、Nobuさん(guitar、pedal steel)は仕事をしなくても好きな音楽活動三昧、もう一人のKunさん(drum)は現役にて仕事が楽しいらしく、遊んでいるわけにはいかない私からすればうらやましいお二人です。現役のKunさんに合わせて週末に練習するのですが、私が管理組合の仕事をするようになり、今年に入ってNobuさんがペダル・スチールで参加しているもう一つのバンドが演奏料をもらうようになりそのカントリーバンドの練習・公演を優先せざるを得なくなり、3人の日程の調整が難しくなりました。日程の調整が出来ず月一回の練習になると、張り合いも気も失せてしまいます。

伊能忠敬 江戸時代(元禄・化政)は町人の時代、「現役」の次にある「老い」という新しい人生を楽しむために「隠居」という「道」に入り「道楽」に没頭しました。それぞれ若くして家業を譲り、西鶴は俳諧・芝居(脚本)の世界に、広重・若冲は浮世絵・絵画に、伊能忠敬は天文・地図作りの世界に、 見方によっては、芭蕉も日本橋の平穏な暮らしを捨て、深川での隠遁・俳諧の世界に入りました。そこには今日で言う「老後」、老いた後の死ぬまでの間、という後ろ向きの意味は全くありません。

 その他多くの貧者達は、好むと好まざるにかかわらず生涯現役で在り続けなければなりません。老いるにつれて正月・節句・花見・お盆・月見など地域・村落社会の祭祀を執り行う「長老衆」という役回りを得ることは名誉であり、住民の尊敬を得ました。私の管理組合副理事長職もこれに当たるのでしょうかね…、ただ順番が巡って来ただけで、名誉でも尊敬でもなく、だれも好んではやりません。柳田国男の言う日本人の「ハレ」と「ケ」の世界観、日常生活を営むためのエネルギー:「ケ=気(生命力)」が枯れる、すなわち「ケガレ=気枯れ」は「ハレ=晴れ」の祭事・催事を通して回復するとされるといいます。

 話がわき道にそれますが、「ホモ・ルーデンス(遊ぶ人)」を著したホイジンガの説では、「遊び」の本質は「面白さ」、「面白さ」はそれ以上分解のできない根源的なものである。必要・不要の利害関係から離れ、善悪や美徳・背徳の価値の外にあり、非日常的な時間・空間にある。文化の中に遊びが含まれるのではない。遊びの中から文化が生まれ、文化は遊びのなかにある、という。「遊び」という言葉には、一般的に広く使われる本来の意味に加え、娯楽、時間つぶし、気晴らし、リラックス、見物、浪費、賭け事、怠惰、無職、の意味に加え、劇を演ずる、楽器の演奏する、歌を歌う意味を持つが、これは西欧言語に酷似し、例えば英語の「play」は演劇・演奏に限らずスポーツにも及び、日本語の「遊び」は工学上の「ゆとり」、遊学、外遊、漫遊など、本来ならば対立する「まじめ」な言葉にも用いられて興味深いところです。「遊び」は最高の「ハレ」ということが言えるのでしょうか。

 都市・町人に富が蓄積され、かつては一握りの貴族・富裕層が独占していた「教養」が「読み書き算盤」と出版の発展とともに一般化する「教養」大衆消費社会でした。勤勉と禁欲を持って奢侈への誘惑に耐え、自らの欲望を自ら律して家業に励む、西洋資本主義揺籃期のピューリタン精神と倫理観に酷似した倫理観を持つ町人社会が成立しました。つつましく(浪費を押さえ)、知恵を絞り、努力し、分別をわきまえ…、加えて、もし幸運に恵まれれば成功するが、好事魔多し…で、遊里・芝居・遊芸(趣味)の誘惑に負けてしまうのです。遊里・芝居は別の機会に譲るとして、遊芸は学問・芸術・文学・科学・技術・剣術…と極めて広範囲に渡り、社交・より良き人付き合いのための手段なのですが、深入りするとそれ自体が目的化、破滅・町人失格に繋がります。「分別」「分相応」が肝要です。隠居」は「遊芸」を「老いの楽しみ」に封じ込めてしまうのが本来の機能でしたが、芭蕉は「旅」という「遊び=?ハレ」に開眼、後に「おくのほそ道」という最高傑作を残すことになります。

 Maruさん(base)も復帰しました。私も来年には理事会を引退、日程だけは土日だけでなく、いつでも練習、もし声がかかればステージに上が上がり、日々のたまった「ケガレ=気枯れ」を落とさなければなりません。

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November 22, 2015

女流俳人 五十嵐浜藻

  昨日は、柄にもなく、「いま蘇る江戸の俳人、五十嵐浜藻・梅夫の旅と俳諧」と題する研究員発表会に参加しました。もちろん、研究成果を拝聴する側です。たまたま、研究員の一人が私のテニス仲間、その彼と歴史の話をするという間柄だけで、私には俳諧・連歌、いわんや彼の研究する五十嵐浜藻・梅夫父娘はその名前すら聞いたことがありませんでした。

 五十嵐浜藻(いがらしはまも)は、1773年、町田市南大谷の名主:五十嵐梅夫を父に長女として誕生、祖父:祇室に始まる俳諧連歌の家に育った。 時代は「田沼意次の時代(1767- 1786)」、米を中心とする重農主義から重商主義的政策への転換がなされ、商業資本・高利貸などが大いに発達、「粋」・「通」・「洒落」など江戸文化が確立、江戸が都会に変貌した時代です。その反動として、松平定信が幕政を担って「寛政の改革(1787)」を行うも失敗、その失敗を立て直すこともなく幕末を迎えることになります。

 五十嵐浜藻1806年、俳諧連歌に入れあげた浜藻(当時33歳)・梅夫父娘は、家業の札差(米の購入・販売・金融)を入り婿の夫に任せ、6年にも渡る西国行脚の旅に出ます。結婚して何年目だったのでしょうか? ご主人との間の子供は?お金に関する不自由はないにせよ、旅に残してきた家庭はどうなったのでしょうか?そんなことを心配した、気遣った一句でも残しているのでしょうか、下流老人である私は心配になってきます。

 しかし、古今東西、芸術家は裕福な権力者の家に生まれるか、裕福な権力者をパトロン、庇護者が不可欠です。飲まず食わずの人間に時代を突き破る芸術は生まれるはずはないでしょう。浜藻父娘のように、単に裕福な家に生まれただけではなく、見方によっては常軌を逸した行動こそ時代を突破する力になり得たのでしょう。商品経済の高度化は、手紙による通信および出版産業を発展させ、各地のプロの俳人やそのファン、アマチュアに援助を頼んで旅をすることが可能になったことを意味し、地方に住む彼らは都会からの情報としてこれを歓迎しました。

 おそらく「芭蕉没百年」を記念して、芭蕉縁の地を訪ねて関西・四国・九州に旅し、各地で俳諧連歌の「座」、今日で言えば「セッション」に参加します。「俳諧」の本来の意味は、宮廷・貴族的な「雅」に対して、「冗談・ユーモア・たわむれ・ふざけ」でした。五・七・五からなる17音の発句に始まり、七・七の14音の第二句、五・七・五の第三句、次の14音の第四句…、と交互に繋いでいく、「鑑賞」と同時に「創作」の能力が不可欠な芸術です。「わび茶」を完成した利休とならび、俳諧連歌の「座」は近代を、特に女流俳人:五十嵐浜藻による俳諧連歌の「座」はやってくる近代をも越えて、多分に今日的な意味を持っているのかも知れません。

1年目(1806) 江戸⇒尾張⇒大津⇒四国⇒御手洗⇒小倉⇒博多⇒久留米⇒長崎⇒博多(越年)
2年目(1807) 筑前⇒下関⇒広島⇒横路⇒庄原⇒上下の里⇒笠岡⇒讃岐津田(越年)
3年目(1808) 高松⇒小豆島(京都で越年か)
4年目(1809) 京都⇒近江⇒伊勢⇒尾張⇒上有知⇒京都(越年)
5年目(1810) 京都⇒摂津兵庫⇒難波⇒河内⇒伊賀上野⇒伊勢⇒大津⇒京都(越年)
6年目(1811) 京都⇒丹後⇒越後⇒信州⇒江戸帰着(12月11日)
 
 フランス革命勃発(1789)でオーストリア領ネーデルランドをも戦場となり(1792)、国元に戦火が及んだオランダの日本市場独占の手薄を突いて、ロシアが南下、1792年、日本人漂流民:大黒屋光太夫らの返還と交換に日本との通商を求めてラクスマンが来航します。

 革命戦争後、オランダは従来の日本市場独占を再構築する必要に迫られ、1823年、日本再研究のためにドイツ人、シーボルトを日本に派遣します。彼の研究は、動植物・鉱物に始まり宗教・風俗習慣・法律・政治・地理・芸術・学問・言語等広範囲におよび、1826年には、オランダ商館長の江戸参府に随行しています。 

 一行は、1826年2月15日に長崎を出発、下関を経て3月18日に京都に到着、3月25日京都を出発し、4月10日に江戸に到着しているが、その京都滞在中に、彼は浜藻が編集した俳諧連歌集:『八重山吹』を資料として購入しています。その書はライデン大学「シーボルト・コレクション」の一つとして今も保存されているそうです。

※ 参考資料:倉本一宏「旅の誕生 」 池上英子「美と礼節の絆

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August 30, 2015

行く夏の…、金売り吉次

 8月も末になり、あの異常までのな暑さはどこへ…、気配どころか、一挙に秋本番を迎えてしまいました。あまり乗り気でもない団地内の「夏祭り」も終わって、今年の夏もこのまま終わるかと思えばどこか妙に寂しく、なにかを残さねば、と言う気持ちが沸き上がってきます。予定していた中仙道、馬籠・妻籠宿行きが、Akiraさんの膝の故障で急遽取り止め、それに代わる…かどうかは判りませんが、念願の「金売り吉次」の墓を訪れました。

 Akiraさんと知り合ったのは、二人共通の友人:Toshioさんの住む伊賀上野で催される「伊賀上野天神祭」でした。伊賀上野と云えば芭蕉の出身地、地元では「芭蕉さん」と親しみを持って呼ばれ、小学生の時から俳句を作るという土地柄だそうです。残念ながら、私には文学・詩歌を鑑賞する、ましてや創作する能力はこれっぽっちもありませんが、10月の伊賀上野訪問までには芭蕉のことを勉強しなければなりません。 

 芭蕉西行、義経の足跡を辿って奥州を紀行して『おくのほそ道』を残します。最初の目的地である「日光」、記録上現れるのは鎌倉時代以降であり、それ以前は「二荒神」と表記され、「二荒(ふたあら)」を「にこう」と読み、これに「日光」を当てたものといわれています。芭蕉は舟で「深川」を出発、千手観音が川中から発見された事に因む「千住」、それは浄土教の補陀洛渡海を暗示する船旅で、観音浄土:「日光」を目指します。「死」を暗示、象徴する道程です。

室の八島 けぶりたつ「室の八島」と呼ばれ、平安時代以来東国の歌枕として知られる大神(おおみわ)神社、五畿七道の時代には下野国国府が在り、その真北に鎮座します。大和国(奈良県)三輪にある、別名:三輪神社を勧請して創建されました。都から赴任してきた役人の多くが歌人だったのでしょう、多くの句碑が建てられています。今回、テニスの仲間の一人、Aさんとご一緒だったのですが、彼は顕彰碑・句碑・古文書の解読を講義する先生であり、今回はまさに「フィールドワーク中の先生と生徒」といった趣です。

吉次の墓 さらに北へ、車で10分、「金売り吉次」の墓が在ります。紀行の随行者:曾良の旅日記に、「吉次ガ塚、右ノ方廿間バカリ畠中ニ有」、と記された場所は栃木県鹿沼市壬生町上稲葉1603−5、今も3百年前とほとんど変わらない、収穫を前にした稲田の中にあります。

 1174年、「金売り吉次」の案内で、牛若(遮那王、元服して義経)は奥州に下向したとされます。「治承・寿永の乱(1180〜1185)」後、頼朝に疎まれて、頼朝に出した釈明書:「腰越状」の内容とは矛盾するのはこの話が作られたからなのでしょう。奥州の砂金(などの産物)と京の産物を交易して、奥州・京を往還した商人は存在したと考えられており、「金売り吉次」はその総称と云われています。吉次は三人兄弟の一人、父親は「炭焼き藤太」と呼ばれ、これまた奥深い話があるようです。

吉次の墓_2 壬生町の芭蕉が訪ねた「金売り吉次」の墓他に、もう一つ吉次の墓が踏切横にありました。近所のお年寄り(90歳)の話では、別の場所に在った墓が東武の鉄道工事により移転させられたそうです。この地域には他にも「金売り吉次」の墓や「義経の〜」と称する塚が複数あるそうです。 

 行く夏の…、過ぎ去ってしまえば、あっという間の夏でした。おそらく、人生も…。

参考書:芭蕉 おくのほそ道−付・曾良旅日記 おくのほそ道の旅 身体感覚で「芭蕉」を読みなおす 義経伝説−判官びいき集大成 怨霊になった天皇

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April 15, 2015

「芭蕉」を振り出しに

芭蕉 今日は、関西の友人から、ブログの更新がないのを心配して、安否確認の電話をもらったりしたのですが、もう月半ば、前回のブログ更新から2週間も過ぎていますが、何を書こうか…、全くキーボードが進みません。実は、先週にはアルバイトも終わり、今日あたり、今年のテーマの一つである「芭蕉」にゆかりの江戸(東京)深川辺りに行ってみようか…などと思っていましたが、この長雨で出かけることも出来ません。しかたがないので、今までに読んだ本、聞いた話、テレビ・新聞からの知識をできるだけノートに残しているのですが、私のテーマ:「芭蕉」を振り出しに手繰ってみることにしましょう。

 気になったのが、芭蕉の出自は伊賀国の「無足人」だった、ということです。古代、荘園制度の崩壊に連れて、伊賀国では、村々の自治が「惣」という共同体で行われるようになり、戦国期には「伊賀惣国一揆」を持って守護大名の支配に抗したが、織田信長の二度に渡る伊賀討伐で壊滅します。「本能寺の変(1582)」、堺に逗留していた家康はわずかな供回りとともに決死の逃避行を敢行、その際、彼等「伊賀衆」は家康を護衛して無事岡崎まで送り届けます(「伊賀越」)。
 
 諜報活動、破壊活動、浸透戦術、暗殺等、「忍者」の能力を鍛錬、この「惣」を担ってきた彼等「伊賀衆」を、藤堂藩は、禄はないが苗字帯刀を許すという、「無足人」という特権農民制度を設け、治安維持、有事の補助的防衛力として活用しました。因みに、「服部半蔵」としてよく知られる服部半蔵正成は家康に仕えた伊賀同心の支配役の武士にて、蛇足ながら半蔵門は彼の名前に由来、彼もまた伊賀服部氏の出自でした。徳川幕府が江戸に開かれ、下級の「伊賀衆」は御庭番・公議隠密として重宝されることになります。芭蕉=忍者説はこの辺りから出たのでしょう。

傀儡士 観阿弥(1333-1384)は南北朝時代から室町時代にかけての猿楽師にて、息子の世阿弥とともに、「能」を大成した人物ですが、彼の祖父は伊賀の服部氏一族の出自であると云う説があります。「猿楽」は操り人形を使い、例えば、武庫川の船着場に屯する河原者の木偶(でく=人形)遊びが散所に移り、西宮神社のえびす人形劇が後の人形芝居の源流となり、芭蕉と同時代の元禄時代には、近松門左衛門の人形浄瑠璃に発展、他方では能楽、歌舞伎へと発展して行きます。逆に遡ると、平安時代には傀儡(くぐつ)として人形劇を行い、女性は劇に合わせて詩を唄い、男性は奇術や剣舞などの大道芸や相撲を行っていた大道芸人でした。「傀儡(くぐつ)」はガラクタを入れる袋、この袋を背負って旅する芸人。傀儡女は歌と売春を主業とした遊女の一種で、後白河法王は喉を潰すほどに彼女たちの歌う「今様」を好み、『梁塵秘抄』を遺したことで知られています。

 「忍者」と「猿楽」をさらに遡ると、6世紀頃に渡来した渡来人集団:秦氏に辿り着きます。大陸の機織りを伝えてヤマト朝廷に仕えた「ハタオリベ」が、後に「ハットリ」に転化しますが、服部氏と秦氏は同根でした。秦河勝(かわかつ 生没年不詳)は秦氏の族長であったとされ、聖徳太子の側近として活躍しました。彼等は機織り・鉱山・土木・稲作・醸造・養蚕・陶磁器・冶金の技術に優れた技術者集団であったし、音楽・舞踊・操り人形・軽業・催眠術・医術・占い・手品・幻術・奇術・魔術を行う集団でもありました。彼等は一度に大挙して渡来したのではなく、初期の渡来人は技術者集団として迎えられて高い地位に付いたが、渡来を重ねるごとにその職種は多義に渡るようになった。遅れてやってきた渡来者は東国に開拓民として移住させられた例もあり、もはや収容しきれなった者は各地を放浪するか、権力の及ばない所に逼塞せざるを得なかったのでしょう。彼等が、「人々を欺瞞し、時には魅了する」能力とは、言葉を換えれば「忍術」や「芸能・芸術」ということになります。ついでながら、芭蕉の姓「松尾」も秦氏に繋がります。

 431年、東ローマ帝国のコンスタンチノープル、「マリアは神の容器であったかも知れないが、神の母ではない」と主張するネストリウスは神学論争に破れ、異端とされた。ネストリウス派(=東方教会)はペルシャ帝国へ逃れ、ゾロアスター教とも交じり合い、後にはペルシャ文化の中核となる、7世紀ごろには中国へと伝わり、唐代(618-907)の中国においては景教と呼ばれた。秦氏は古代キリスト教であるネストリウス派(景教徒)でした。漢民族はローマを中心とする勢力圏を「大秦」と呼び、後に秦氏が秦・始皇帝の子孫と称したのは、こうした経緯があったのでしょう。洛西、太秦広隆寺にある秦河勝像は明らかにモンゴル系の造作ではない、とは司馬遼太郎の言。キリスト教・ユダヤ教・ゾロアスター教・仏教・道教、この地に至るまで各地の土着信仰に加えて日本の神道と、ここに至る長い旅路のフィルターを経ており、その原型を探るのは極めて困難です。
 
 インド北部に生まれたとするジプシー、西へ向かうとヨーロッパ、スペインのフラメンコもそう、彼等が移住したアルゼンチンではタンゴという文化が生まれました。ネストリウス派と出会って、あるいはその後を追いかけるように、東へ向かったジプシーは唐の時代の中国に入り、秦氏一族とともに、東の果て、倭国に到達、傀儡(くぐつ)、今様、大道芸人、忍者、西宮神社のえびっさん、近松、芭蕉につながりました。

 以前も紹介しましたが、最後に、スペイン人、サラサーテが作った「チゴイネル・ワイゼン(Zigeunerweisen ドイツ語で「ジプシーの旋律」の意味)」をお聞きください。どこか…、近松、芭蕉につながって聞こえませんか。
  参考資料:広瀬久也『人形浄瑠璃の歴史 』、司馬遼太郎『ペルシャの幻術師 (文春文庫)

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March 11, 2015

平安末期末法の世 山城国日野

深い森 2012年6月、わずかながらも復興に寄与すればと思い、白河関を通って会津若松に旅しました。 平安中期、能因が、平安末〜鎌倉初期、彼の跡を追って西行が、そして江戸期には、二人を追って芭蕉が通過した白河関、私にとってはこれが二度目の訪問でした。その年の大河ドラマが『平清盛』だった故か…、空堀が巡らされた古代の砦・柵の跡に一人立つと、そこは『平家物語』の世界です。

 「一ノ谷の戦い(1184)」で捕虜となった平重衡は、 鎌倉からの帰路、同じく「壇ノ浦の戦い(1185)」で捕虜となった妻:輔子(ほし/すけこ)が姉の居所に隠棲していると耳にします。「もしや…、会えるかも…?」と、待っている妻。 果たして、一行が日野に差し掛かった時、「この近くに妻がおりますので、今一度対面したく〜」と重衡、警護の武士は涙して夫婦つかの間の再会を許します。『平家物語』、感動的な場面の一つです。

 重衡夫婦が再会を果たした山城国日野、奈良の春日野の地に似ているという理由で当初、「春日野」と名付けられました。日野氏の始祖:藤原真夏を祀った萱尾神社の前に「春日野」と記した標識を建てたが、ある日、一匹の鹿が現れ「春」の一字を喰いちぎって行ってしまいました。以来「日野」のニ文字だけが残り、そのまま地名となったと云います。

 保元・平治の乱(1156/1159)、安元の火災(1177)、治承の辻風(1180)、福原遷都(1180)、治承・寿永の乱(1180〜1185)、養和の飢饉(1181)、元暦の大地震(1185)…、立て続けに起こった天変地異と戦乱、人々は世界の終末:「末法」の到来に怯え、極楽浄土への往生を求める浄土信仰が大流行します。朝廷・貴族が衰退して武家が台頭、一方では、既存の仏教に対抗する新しい仏教勢力が増大、価値感が一変する大変動の時代でした。

 朝廷と姻戚関係を結び、 摂関政治を続けてきた藤原氏にすれば、重衡はその藤原氏の氏寺:奈良「興福寺」焼き討ちを指揮した重罪人、その重衡が藤原氏日野家の拠点:日野を通るのも因縁があったのでしょう。「法界寺」は真夏の孫:家宗が建立した日野家の氏寺ですが(薬師信仰)、この時代、末法思想の大流行を受けて阿弥陀堂が建てられ(阿弥陀信仰)、浄土真宗の開祖:親鸞は日野有範の子としてこの「法界寺」に生まれました(1173 〜1262)。

 仏教で云う「無常」とは、宇宙・万物の哲理・原理であり、「奢れる・奢らざるに拘わらず、全てに等しく永遠ではない」のですが、『平家物語』では「奢れる者は久しからず」になってしまいます。前者は感情の入る余地のない根本原理・宇宙の法則、日本の「無常」は極めて情緒的、桜は散り際が美しいなど、桜の花を愛でるにもその美しさだけでなく、変わりゆく=うつろいゆく=「無常」に愛惜を感じるのです。

 下鴨神社の神事を司る神官の次男として生まれた鴨長明(1155 〜 1216)は、 和歌・音楽(琵琶)を学び、歌人として活躍していましたが、神職としての出世の道を閉ざされ大原にて出家(1204)、後にこの日野「法界寺」の奥に「方丈庵(一丈四方の庵)」を結びます。既に武家の時代、鎌倉幕府三代将軍:源実朝に面談して帰国後、『方丈記』を完成します(1212)。

 この時代、日野が何かと重要な舞台の一つでした。『方丈記』に関して書こうと思いましたが前段の時代背景だけに終わってしましました。私の書斎

 私の部屋はほとんど長明の方丈庵と同じ、音楽もほとんど同じで、上手くはありませんが、ギターを彈きます。残念ながら和歌、文学の素養はありません。
 

 東日本大震災で亡くなられた方々の御冥福を心からお祈りします。

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January 11, 2015

一年の計?

早朝の神明神社

 一年の計? 今まで実行出来た例がなく、考えることすら時間のムダです。

 昨年は「官兵衛」に始まり「利休」、友人の住む伊賀上野は「芭蕉」生誕の地、話を合わせるためにも、「芭蕉」を勉強しなければなりません。そこで知り合った友人のまた友人に連れられ、箱根峠を東西から挑戦しました。元ワンゲルの「スジがいい」の一言に乗せられてトレッキングシューズを買ってしまいました。

面白いと思ったのは…、箱根から碓氷に至る山塊の東に「一所懸命」と「名こそ惜しけれ」、極めて合理的な論理とその行動を支える倫理観を備えた、牧場開拓者:独立自営農民:「武士」が誕生、後に鎌倉幕府という半独立国家が誕生したのは日本史上の奇跡ですが、その後の歴史の中で、この精神性が出現するのは、関東ではなくて、遠く離れた…よりによってと言うか、利に敏い上方:摂津(今日の大阪・神戸)に近い播磨国だったというのは興味深いことです。母里友信を歌った「黒田節」の真偽はともかく、黒田官兵衛、大阪夏の陣(1614)の後藤又兵衛の去就はその後も日本人男性の理想像とされ、もうひとつ、安土・桃山から引き継がれ元禄文化として開花する上方町人文化、その中で武士階級衰退の歯止めの作用を果たすことになる、「赤穂浪士事件」は明治維新の到来を遅らせた可能性があり、その後の歴史に大きな影響を与えました。例えば、「桜田門外の変(1860)」、雪の朝、その情景がそっくりじゃないですか…。現に、浪士は「赤穂浪士事件」を参考に襲撃を計画、実際の事件は登城途中を襲撃したのですが、事件後、当時の幕府は井伊彦根藩による復讐、水戸藩襲撃を警戒したのです。

 利休はキリスト教信者だったのか? 堺という町はイタリアのフィレンツェ、ベニスのような町で、利休はキリスト教信者だけではなく、ルネサンスの影響があったのでは?歌会でふるまわれた茶が発展したのが茶の世界、利休は芸術家ではあったが、どうも彼が創りだしたものは何もないのでは…?彼は鑑賞眼を芸術までに高めただけではないのしょうか?

 伊賀上野が生誕地であるが故か…、芭蕉という人間が面白そうです。利休・芭蕉のどちらも僧形、禅宗を学んでいますが、この鎌倉時代に入った禅宗というのがどうも曲者のように思えます。俳句など文芸には全く興味がないのですが、人間:芭蕉には興味があります。友人の奥さんは生まれも育ちも伊賀上野、愛着を込めて「芭蕉さん」と呼ぶそうです。これに同じく、好々爺のイメージを持っていたのですが、実は全くちがった芭蕉像があることを知って驚き、このほうがより人間臭いと好感を持った次第です。彼はかなり「やばい」人間のようです。元禄7年(1694)芭蕉が51歳で没して8年後、「赤穂浪士事件」が発生します。
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 たぶん、今年もダメでしょうが、トレッキングシューズも買ったことですし…、少しでも、彼等の跡を辿りたいものです。

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November 14, 2012

2012年近江の旅 Episode 3 〜 大津義仲寺

義仲は『倶利伽羅峠の戦い(1183)』では捕虜にした平氏の瀬尾太郎兼康を「失うには惜しい武士」と助命、しかし瀬尾は再び敵に回って抵抗、怒り心頭の義仲は彼を攻めて自害に追い込みます。最後まで善戦したと聞くと、「やはり、殺すには惜しい男だった」と悔やんだという。

5万の軍勢で都入りした当初は、義仲は日の出の勢いで上洛し、「旭将軍」と都人に喝采を持って迎えられたのもつかの間、義仲軍の駐屯は飢饉を悪化させるだけで、都・殿上人の習慣・礼儀・作法を知らない厄介者、田舎者と蔑すまれます。

一時はクーデターを成功させ、征夷大将軍の地位につくも、やがて頼朝の命で鎌倉から上ってきた源義経・範頼の軍に『宇治川の戦い(1184) 』で破れ、散り散りにになりながらも、「死なば一緒」と誓い合っていた今井兼平と共に、粟津ヶ原での最後の戦いに挑み、幾度かの突撃でその数はわずか5人、その中に兼平の妹、義仲の愛妾:巴(ともえ)御前も入っていました。最後の最後、巴御前を逃した後、死地を目指すべく馬を走らせるが敵の矢を受け即死、享年31歳、それを見て、兼平も馬上で太刀を口にくわえ頭から飛び降り自刃します。

数年が過ぎ、いつしか、美しい尼がこの墓所の畔に草庵を結び、日々の供養に努めていました。この尼こそが義仲の愛妾:巴御前の後身でであったという。

芭蕉は、一説には、好きだった義経の足跡を訪ねて、『奥の細道』を旅したのですが(1689)、旅から帰って間もなく、それもまた旅先の大坂で亡くなります(1694)。「骸は木曽塚に送るべし」とは彼の遺言、不思議なことに、彼の故郷:伊賀上野ではありませんでした。

義仲・巴・芭蕉墓・義仲寺門前
義仲は、人懐っこい人情家、人を信じて受け入れるが、これが過ぎて裏切られる、無骨で粗野な田舎者、男女を問わず、人を惹き付ける人間的魅力のある人間…、裏を返せば、どこか滑稽さが漂う、無教養な、ぱっと出の(成り上がりの)人間。怜悧な頼朝、酷薄な作戦の義経という源氏、関東武者の中にはない存在で、英雄として非業の最期を遂げた義経ではなく、どこか、おっちょこちょいで人間味が感じられる義仲に強く惹かれるものがあったのでしょう。

又玄(ゆうげん)の有名な句:「木曽殿と背中合わせの寒さかな」には芭蕉の思いが伝わって来ます。

我々の『2012年近江の旅』は、『奥の細道』の「結びの地」:美濃大垣から始まり、二人の「結びの地」:『義仲寺』を訪問することになりました。粟津ヶ原も今は昔、『義仲寺』は大津の街中に在り、寺というより、集会所あるいは庭園の趣です。晩年、芭蕉はここの「無名庵」と京都嵯峨の「落柿舎」を往来することになります。
義仲寺バナナ

10月23日、今日は雨、まだ肌寒いというほどでもなく、庭のあちこちにバナナの大きな葉、何と居心地の良い処なのでしょう。

eyecatch_amazon_2おくの細道

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June 15, 2012

白河の関

平安時代、都人(みやこびと)にとっては陸奥(みちのく)ははるか彼方の異国の地、異国情緒を感じる、唐突ですが…、言わば『カスバの女』(演歌調でありながらエキゾチック)のような地域だったようで、山城(京都近郊)、大和(奈良)に次いで多く歌われています。

西域_2『街道をゆく − 北のまほろば』で、司馬遼太郎が言うには…、「唐の詩人がときに憧憬した西域までも、平安貴族は好んだ。ただ、どう想像していいかわからず、レールが転轍するように、関東のかなたにひろがる陸奥(みちのく)の天地を連想した、と私は考えている。」 

平安貴族は教養が高かったのですが、どうやって彼等は「西域」と「陸奥(みちのく)」を重ねて連想することが出来たのでしょうか?彼等の学んだ中国語(漢文・漢字)でく西域の情景・イメージを理解し、それを自らの和歌で伝えたのでしょうか?出来たとしたら、どの歌がそれなんでしょうか?和歌の知識は全くないのですが、彼等の憧れた「西域」が「陸奥(みちのく)」に投影されているのであれば、彼等の歌に何らかの形で反映されているはずですが…、そんなことでもないようです。

陸奥(みちのく)への憧憬・異国情緒、陸奥(みちのく)趣味は、征夷大将軍:坂上 田村麻呂(758-811)は蝦夷討伐の遠征から凱旋(801-804)し、多くの陸奥(みちのく)情報が京にもたらされたこともその背景にあったと思われます。あきれた話ですが、『源氏物語』の主人公:光源氏のモデルの一人といわれる、源融(みなもとのとおる 822 - 859)は陸奥国塩釜の風景を模して六条河原院を造営、塩釜を模すための塩を毎日、難波の海(大阪湾)の汐を汲んで運ばせたと伝えられます。かと言って、如何に平安貴族に陸奥(みちのく)への憧憬・異国情緒があるにせよ、陸奥国塩釜の風景を模したり汐を汲んで運ばせることが、唐の詩人が憧憬したことに繋がるなど想像も出来ません。「西域」への憧憬・異国情緒と「陸奥(みちのく)」へのそれは全く別物ではないでしょうか。

平安中期、能因(のういん 988-1058?)が、平安末〜鎌倉初期に、能因の跡を追って西行は1147年と1186年の二度、そして江戸期には、二人の足跡を追って、芭蕉は1689年、陸奥(みちのく)を旅します。
古代東海道
平安時代の彼等は京を発ち、鈴鹿峠、 小夜の中山(遠江国) 、足柄山を越えて坂東(相模国)に入り、横山(武蔵国 ※筆者:イサオの住む町田市と多摩市との境)を北上、府中を通って、安中(上野国)にて東山道に入り、白河関(下野国)を越えて陸奥(みちのく)へ入りました。ある役人の日記では、9月15日に京を出発、11月17日に白河関を越えて陸奥へ入ったそうで、赴任地である多賀城(陸奥)に到着したのが年の暮れ、その間3ヶ月半、さぞ困難・難渋の旅だったでしょう。

その白河の関、芭蕉の訪ねた江戸期(1689)には関の役割はかなり前に終わっており、その関所跡を特定することさえ困難でした。陸奥(みちのく)は、もはや未知の国ではなくなっていました。白河藩主:松平定信は、白河の関の場所を研究して、旗宿という地に在る白河神社を白河の関跡と断定して今日に至っています。空堀が巡らされており、8〜9世紀頃まで蝦夷の南下を防ぐ「砦・柵」、平安末期までの奥州藤原氏の領土の境、としての白河関の役割から言えば妥当な決定でした。
白河関 sketch_2
白河関(境の明神 陸奥側)しかし、個人的には、旧陸羽街道(国道294号)に沿って並ぶ「境の明神」二つ、下野国側の関東明神(住吉神社)と陸奥国側の奥州明神(玉津神社)、これこそが白河関跡にふさわしく見えてしまいます。

深い森

『陸奥(みちのおく)』へ、『未知の世界』へ、『別の世界』へ、自分の『内部世界』へ通じる入り口が『白河の関』でした。
※新世界(New World)へ通じる入り口は地中海の西の端:『ヘラクレスの柱』

何が平安貴族を陸奥(みちのく)への憧憬・異国情緒・趣味に駆り立てたのかは判らず仕舞いです。『カスバの女』は判るのですが…。

※ Amazon: 「北のまほろば―街道をゆく」 「カスバの女」

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November 18, 2011

「遊行寺」、なんと盛りだくさんな…

友人に誘われて、歴史ネタを探すべく、大和から自転車道を南下、藤沢に在る「遊行寺」に行って来ました。

 ★より大きな地図で 遊行寺 を表示
恥ずかしいことに、「遊行寺」に関する知識は皆無、以下は家に帰ってきてからの後知恵です。藤沢という街は東海道五十三次の3番目の宿場町、と言うだけにとどまらず、遙か鎌倉時代より、「遊行寺」、正しくは「藤沢山無量光院(とうたくさんむりょうこういん) 清浄光寺(しょうじょうこうじ)」の門前町として栄えたようです。時宗は一遍上人(伊予国に生まれる1239−1289)を開祖とする浄土宗の一流で、阿弥陀如来を信仰、「南無阿弥陀仏」を唱え、広く全国を遊行したことに「遊行上人」や「遊行寺」の名は由来します。「踊り念仏」は盆踊りの原型ともいわれる。

本堂の方へ歩いていくと、年配の婦人が話しかけてきます。見るからに上品な女性ですが、闘病生活を送っておられるらしく、80歳、この寺にあるかも知れぬ「柳」の木を探して、大船から訪ねて来られたそうです。彼女は『謡(うたい)』を趣味としているそうで、ハンドバッグから何やら『遊行柳』の演題の書き物を見せてくれます。彼女の年齢によるものか、どうも話の内容を把握するのが難しく…、というよりは、私には彼女を理解するだけの教養がなかった、と後で知ることになります。
遊行寺本殿












彼女の捜している「柳」はこの寺ではなく、遠く、那須芦野(栃木県)にありました。

平安時代末期、漂白の歌人:西行は陸奥平泉に旅しこの地を訪れます。そして、室町時代後期、観世信光(1435〜1516)は、この「柳」をテーマに創作した演目が『遊行柳(ゆぎょうやなぎ)』でした。

「時宗の僧、遊行上人が一遍上人の教えを広めようと奥州へ向かいます。白河の関を越えた所で老人に呼び止められます。老人は古道にある名木:「朽木の柳」を案内しますが、上人の念仏を授かって古塚の陰に消えます。(中入)不思議に思い念仏を唱えまどろんでいると、柳の精が烏帽子狩衣の姿で現れ、柳の故事等を聞かせ、報謝の舞を舞い、そして消え失せる」、という筋立てとなっています。→ 喜多能楽堂

西行の後、江戸時代には芭蕉、そして蕪村が、追いかけるように芦野の『遊行柳』を訪れます。
熊野に惹かれて
浄瑠璃や歌舞伎で有名な『小栗判官と照手姫』の墓、近年新しく発見された『晩年の空也上人立像』、経緯は判りませんが、歴史の教科書で見る「後醍醐天皇の肖像」が重要文化財として所蔵されています。『熊野に惹かれて』をテーマに、熊野信仰に因む多くの絵画や彫刻、絵・物語が展示されていますが、敷地内の大きな資料館は如何にこのお寺にまつわる話が東海林太郎多いかを物語っています。
淺太郎鴉2
一世を風靡した歌手:東海林太郎の大ヒット曲に歌われる、国定忠治の子分、板割浅太郎(いたわりのあさたろう)の墓があります。
その彼がやおら…『赤城の子守唄』を口ずさむのは当然のこと。私が舟木和男の『高校三年生』を諳んじているのと同じです。まだまだ「遊行寺」にまつわることが書けそうです。

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さすがにタグも盛りだくさんです。▼

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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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