自由党

September 07, 2013

散歩の途中<4>  三多摩、昔は神奈川県

多摩地区とは、東京23区より西側の地域で、「東京都下」あるいは、「三多摩」とも呼ばれるそうです。どこか愛嬌のある「さんたま」の響きです。1871年の廃藩置県で三多摩地域の大半は神奈川県に所属することになりましたが、それから22年後、1893年、その三多摩が東京府に編入されることになりました。
とんぼ池20130905

小山田荘を散歩中に知り合ったお年寄りから昔話を聞いたことがあります。話はこうです。東京の上水道を担ってきたのが玉川上水。明治の初めにコレラが大流行、その水源である「多摩川上流でコレラ菌による汚染」とのうわさが広まり、当時、多摩川の上流は神奈川県に属していたが、東京府が水源を直接管理するために編入した、というものです。水源とは全く無関係な南多摩郡(現在の町田市、八王子市、多摩市、稲城市、日野市)も、北・西多摩とともに、東京府に編入されたのでした。

江戸時代、この地域には鶴見川の源流があり、幕府の天領だったこともあり、裕福な稲作農家が多く、明治初年この地で最初に敷設された鉄道:現在のJR横浜線が計画された当初は町田市側を通る計画でしたが、彼等の反対により変更され、実際の線路は相模原側に敷設されることになった、という。彼が言うように、この地域の農家は裕福で、前回も触れた通り、新撰組(近藤勇・土方歳三など)を育んだ風土、明治になると、方向を変え…?、自由党を設立した板垣退助が「多摩は自由党の砦」と表現するほどに、自由民権運動が盛んとなりました。南多摩郡の東京府への編入は、どうやら神奈川県内の自由党の勢力を削ぐためのものだったようです。

どうも、明治以前、小山田荘にも近い、小野路と呼ばれる地域が町田の中心であったようで、古くは平安時代以前から、そして鎌倉街道の宿場街として栄え、徳川の治世では天領の裕福な農家、幕末には新撰組を育み、明治になると、どうしたことか…自由民権運動の地に変わります。一方では、かつての中心地:小野路を遠く離れた相模原側に国鉄(現在のJR)横浜線が敷設され、稲作に適さず、桑畑に蚕、絹の産地と開港された横浜を結ぶ「絹の道」として結ばれ、その沿線は発展していきます。次に小田急本線が開通すると、町田の中心は両駅のある現在の中心地域に移動してしまいました。皮肉な見方をすれば、明治以降の近代、小野路の勢力の及ぶ地域に鉄道が敷設されるのを嫌い、あるいは避けて来たようにも思えます。白洲次郎 正子夫妻が戦況の悪化を予測して、1942年、当時の東京府南多摩郡鶴川村(現在の東京都町田市能ヶ谷)に農家を購入して疎開生活を始めたことでもその田舎ぶりが想像できるでしょう。後の「武相荘」、その小野路からそう遠くはありません。
武相荘
戦後の高度成長期、北側に隣接する多摩市は、大阪の千里丘陵と同じく、当時、国家プロジェクトとして造られた人工の街、整然と区画整理された近代的な街並みがきれいです。その多摩市開発に際して作られたハイキング道が「横山の道」、古くは唐の侵攻に備えた防人制度か、はたまた東国の力を削ぐ目的か、多くの男達がこの道を越えて西国に向かった奥州古道、「いざ鎌倉」の鎌倉街道が交差し、新田義貞の軍がこれを越えて南下、鎌倉を目指しました。

「横山の道」を南に超えるとまるでタイムスリップ、江戸時代の風景、場合によっては鎌倉時代の風景さえも目に入って来たような錯覚に陥ります。道を境にした北側と南側、対比は面白く、映画:『ビレッジ The Village (2004 )』を思わせます。南側は私の住む小山田(小山田荘及び小野路の在る地域)、今やいくつかの里山を残す昔ながらの山村、言い換えれば、どこかピントがずれた…失礼、開発からは取り残された地域…、だからこそ、今となっては良かったということになるのでしょう。

南多摩、小山田のほんの一部が私の散歩道です。
花の家裏20130831
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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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