能因

March 14, 2016

陸奥(みちのく)

 
 東日本大震災から5年、新聞・テレビでは特集が組まれ、初めて公開された事実にあらためてその日に起こった事実に驚愕してしまいます。あの日、私は歴史上の「ポツダム宣言受諾」、玉音放送で日本の降伏発表を聞いて泣き崩れる姿(1945年8月15日)が頭に浮かび、日本の「第二の敗戦」を直感しました。何か取り返しのつかないことになってしまったのではないか、個人的にも、今までとは全く違う人生がやって来たものと感じたのです。上手くは言えないのですが、5年経った今でも、基本的にはこの思いは変わりません。
白河関跡
震災から1年後の白河の関
 少々突き放した言い方になりますが、災害の記憶は新しい災害が起こる毎に、その記憶はなくならないまでも、次第に風化していくでしょう。解剖学者:養老孟司曰く「東北大震災は人々の記憶から消去されざるを得ない。その背景には東北の人たちの”温厚さ”もありはしないか。苦渋があまりに大きすぎて、お上に従えば悪いようにはならないと信じたいのでしょうか。(朝日新聞)」 東北人から主体的な声が上がらない。ふと、気がついてみると、お役所発注の巨大防波堤ばかり…

 同じく日曜版、大きな挫折、胸が張り裂けそうになる別離のような苦難に打ちのめされたとき、そんな傷心を抱えた旅先には、北と南、どちらがふさわしいか?55%が北、45%が南へ、「北で悩み、南で忘れる」ようで、「北」と答えた人の最も多くの人が「北東北」を目指すそうで、さらに北に位置する北海道ではありません。雪の舞い散る寂寥たる冬景色の中で悩みを深め、そんな冬景色の中にも「東北の人たちの”温厚さ”」・暖かさを求めているようにも思えます。

 果たせなかった恋や夢、「傷心旅行」だけではなく、そのBGMとしての「演歌」にも注目しなければなりません。ここで云う演歌とは別離・失恋・悲恋・喪失をテーマにした曲の多くはこれに重なります。少し例えが古くて申し訳ないのですが…、同じ演歌でも、南の国:九州出身の水前寺清子、北、それも北海道まで行って北島三郎と、どちらも明るく、賑やか、彼らの持つ地域・方角性はこれの対局にあるもので、全く対象にはなりません。

 平安時代(794年 - 1185年/1192年頃)、イメージ的にも南西から東北に弓なりにつながる日本国ですが、「西の鬼界ヶ島(喜界島)」と東端、陸奥国「外が浜」は国の辺境を指す代名詞とされ、都人(みやこびと)にとっては東山道白河の関の向こうにある陸奥(みちのく)は彼方の異国の地、異国情緒を大いに感じる地域だったようで、山城・大和に次いで多く歌に歌われています。「唐の詩人がときに憧憬した西域までも、平安貴族は好んだ。ただ、どう想像していいかわからず、レールが転轍するように、関東のかなたにひろがる陸奥の天地を連想した、と私は考えている。」 とは司馬遼太郎の言(『北のまほろば―街道をゆく』)。 

 陸奥(みちのく)への憧憬・陸奥趣味は、最初の征夷大将軍:坂上 田村麻呂(758-811)の遠征からの凱旋(801-804)に始まりました。『源氏物語』の主人公:光源氏のモデルの一人といわれる、源融(みなもとのとおる 822 - 859)は陸奥国塩釜の風景を模して六条河原院を造営、塩釜を模すための塩を毎日、難波の海(大阪湾)の汐を汲んで運ばせたとは全くあきれた話です。平安中期、能因( 988-1058?)が、平安末〜鎌倉初期に、能因の跡を追って西行は二度、そして江戸期に入ると、芭蕉陸奥を旅し、紀行文『おくのほそ道』を残すことになります。江戸後期、三河国に生まれた菅江真澄(1754 - 1829)は、本草(薬草)学者にして旅行家、膨大な量のスケッチ画を残しますが、陸奥の最深部、津軽・下北だけでなく海峡を渡り、ロシアが周辺をうかがう北海道へ向かいます。黒船来港、ぶっそうな幕末はもうすぐ目の前です。

 平安貴族の風流は全く理解できませんが、彼らの抱くロマン・妄想には興味をひかれます。平和が確立された元禄の芭蕉、平和にひびが入り始めた時代の菅江真澄にも興味をひかれます。ほとんどボランティアの管理組合理事の仕事も5月で終わります。もちろん、雪の舞い散る寂寥たる冬の季節が終わったら…、彼らの痕跡を訪ねて、東北、かつての陸奥(みちのく)を訪ねようと思っています。

 東北支援、私に出来るのはこれぐらいです。

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express01 at 16:33|PermalinkComments(0)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

March 11, 2015

平安末期末法の世 山城国日野

深い森 2012年6月、わずかながらも復興に寄与すればと思い、白河関を通って会津若松に旅しました。 平安中期、能因が、平安末〜鎌倉初期、彼の跡を追って西行が、そして江戸期には、二人を追って芭蕉が通過した白河関、私にとってはこれが二度目の訪問でした。その年の大河ドラマが『平清盛』だった故か…、空堀が巡らされた古代の砦・柵の跡に一人立つと、そこは『平家物語』の世界です。

 「一ノ谷の戦い(1184)」で捕虜となった平重衡は、 鎌倉からの帰路、同じく「壇ノ浦の戦い(1185)」で捕虜となった妻:輔子(ほし/すけこ)が姉の居所に隠棲していると耳にします。「もしや…、会えるかも…?」と、待っている妻。 果たして、一行が日野に差し掛かった時、「この近くに妻がおりますので、今一度対面したく〜」と重衡、警護の武士は涙して夫婦つかの間の再会を許します。『平家物語』、感動的な場面の一つです。

 重衡夫婦が再会を果たした山城国日野、奈良の春日野の地に似ているという理由で当初、「春日野」と名付けられました。日野氏の始祖:藤原真夏を祀った萱尾神社の前に「春日野」と記した標識を建てたが、ある日、一匹の鹿が現れ「春」の一字を喰いちぎって行ってしまいました。以来「日野」のニ文字だけが残り、そのまま地名となったと云います。

 保元・平治の乱(1156/1159)、安元の火災(1177)、治承の辻風(1180)、福原遷都(1180)、治承・寿永の乱(1180〜1185)、養和の飢饉(1181)、元暦の大地震(1185)…、立て続けに起こった天変地異と戦乱、人々は世界の終末:「末法」の到来に怯え、極楽浄土への往生を求める浄土信仰が大流行します。朝廷・貴族が衰退して武家が台頭、一方では、既存の仏教に対抗する新しい仏教勢力が増大、価値感が一変する大変動の時代でした。

 朝廷と姻戚関係を結び、 摂関政治を続けてきた藤原氏にすれば、重衡はその藤原氏の氏寺:奈良「興福寺」焼き討ちを指揮した重罪人、その重衡が藤原氏日野家の拠点:日野を通るのも因縁があったのでしょう。「法界寺」は真夏の孫:家宗が建立した日野家の氏寺ですが(薬師信仰)、この時代、末法思想の大流行を受けて阿弥陀堂が建てられ(阿弥陀信仰)、浄土真宗の開祖:親鸞は日野有範の子としてこの「法界寺」に生まれました(1173 〜1262)。

 仏教で云う「無常」とは、宇宙・万物の哲理・原理であり、「奢れる・奢らざるに拘わらず、全てに等しく永遠ではない」のですが、『平家物語』では「奢れる者は久しからず」になってしまいます。前者は感情の入る余地のない根本原理・宇宙の法則、日本の「無常」は極めて情緒的、桜は散り際が美しいなど、桜の花を愛でるにもその美しさだけでなく、変わりゆく=うつろいゆく=「無常」に愛惜を感じるのです。

 下鴨神社の神事を司る神官の次男として生まれた鴨長明(1155 〜 1216)は、 和歌・音楽(琵琶)を学び、歌人として活躍していましたが、神職としての出世の道を閉ざされ大原にて出家(1204)、後にこの日野「法界寺」の奥に「方丈庵(一丈四方の庵)」を結びます。既に武家の時代、鎌倉幕府三代将軍:源実朝に面談して帰国後、『方丈記』を完成します(1212)。

 この時代、日野が何かと重要な舞台の一つでした。『方丈記』に関して書こうと思いましたが前段の時代背景だけに終わってしましました。私の書斎

 私の部屋はほとんど長明の方丈庵と同じ、音楽もほとんど同じで、上手くはありませんが、ギターを彈きます。残念ながら和歌、文学の素養はありません。
 

 東日本大震災で亡くなられた方々の御冥福を心からお祈りします。

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express01 at 21:58|PermalinkComments(0)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

June 15, 2012

白河の関

平安時代、都人(みやこびと)にとっては陸奥(みちのく)ははるか彼方の異国の地、異国情緒を感じる、唐突ですが…、言わば『カスバの女』(演歌調でありながらエキゾチック)のような地域だったようで、山城(京都近郊)、大和(奈良)に次いで多く歌われています。

西域_2『街道をゆく − 北のまほろば』で、司馬遼太郎が言うには…、「唐の詩人がときに憧憬した西域までも、平安貴族は好んだ。ただ、どう想像していいかわからず、レールが転轍するように、関東のかなたにひろがる陸奥(みちのく)の天地を連想した、と私は考えている。」 

平安貴族は教養が高かったのですが、どうやって彼等は「西域」と「陸奥(みちのく)」を重ねて連想することが出来たのでしょうか?彼等の学んだ中国語(漢文・漢字)でく西域の情景・イメージを理解し、それを自らの和歌で伝えたのでしょうか?出来たとしたら、どの歌がそれなんでしょうか?和歌の知識は全くないのですが、彼等の憧れた「西域」が「陸奥(みちのく)」に投影されているのであれば、彼等の歌に何らかの形で反映されているはずですが…、そんなことでもないようです。

陸奥(みちのく)への憧憬・異国情緒、陸奥(みちのく)趣味は、征夷大将軍:坂上 田村麻呂(758-811)は蝦夷討伐の遠征から凱旋(801-804)し、多くの陸奥(みちのく)情報が京にもたらされたこともその背景にあったと思われます。あきれた話ですが、『源氏物語』の主人公:光源氏のモデルの一人といわれる、源融(みなもとのとおる 822 - 859)は陸奥国塩釜の風景を模して六条河原院を造営、塩釜を模すための塩を毎日、難波の海(大阪湾)の汐を汲んで運ばせたと伝えられます。かと言って、如何に平安貴族に陸奥(みちのく)への憧憬・異国情緒があるにせよ、陸奥国塩釜の風景を模したり汐を汲んで運ばせることが、唐の詩人が憧憬したことに繋がるなど想像も出来ません。「西域」への憧憬・異国情緒と「陸奥(みちのく)」へのそれは全く別物ではないでしょうか。

平安中期、能因(のういん 988-1058?)が、平安末〜鎌倉初期に、能因の跡を追って西行は1147年と1186年の二度、そして江戸期には、二人の足跡を追って、芭蕉は1689年、陸奥(みちのく)を旅します。
古代東海道
平安時代の彼等は京を発ち、鈴鹿峠、 小夜の中山(遠江国) 、足柄山を越えて坂東(相模国)に入り、横山(武蔵国 ※筆者:イサオの住む町田市と多摩市との境)を北上、府中を通って、安中(上野国)にて東山道に入り、白河関(下野国)を越えて陸奥(みちのく)へ入りました。ある役人の日記では、9月15日に京を出発、11月17日に白河関を越えて陸奥へ入ったそうで、赴任地である多賀城(陸奥)に到着したのが年の暮れ、その間3ヶ月半、さぞ困難・難渋の旅だったでしょう。

その白河の関、芭蕉の訪ねた江戸期(1689)には関の役割はかなり前に終わっており、その関所跡を特定することさえ困難でした。陸奥(みちのく)は、もはや未知の国ではなくなっていました。白河藩主:松平定信は、白河の関の場所を研究して、旗宿という地に在る白河神社を白河の関跡と断定して今日に至っています。空堀が巡らされており、8〜9世紀頃まで蝦夷の南下を防ぐ「砦・柵」、平安末期までの奥州藤原氏の領土の境、としての白河関の役割から言えば妥当な決定でした。
白河関 sketch_2
白河関(境の明神 陸奥側)しかし、個人的には、旧陸羽街道(国道294号)に沿って並ぶ「境の明神」二つ、下野国側の関東明神(住吉神社)と陸奥国側の奥州明神(玉津神社)、これこそが白河関跡にふさわしく見えてしまいます。

深い森

『陸奥(みちのおく)』へ、『未知の世界』へ、『別の世界』へ、自分の『内部世界』へ通じる入り口が『白河の関』でした。
※新世界(New World)へ通じる入り口は地中海の西の端:『ヘラクレスの柱』

何が平安貴族を陸奥(みちのく)への憧憬・異国情緒・趣味に駆り立てたのかは判らず仕舞いです。『カスバの女』は判るのですが…。

※ Amazon: 「北のまほろば―街道をゆく」 「カスバの女」

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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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