義和団の乱

March 01, 2015

明治人 柴五郎

 友人と呼ぶにはおこがましいのですが…、人生の大先輩との話は柴五郎に及びました。私の柴五郎に関する知識と言えば、中学生の時に観た映画: 『北京の55日 55 Days at Peking (1963)』がほとんど全てでした。

 舞台は清末の中国、北京の外国人居留地、義和団に依る外国勢力排斥運動が暴力化、孤立無援の混成外国人部隊が、 チャールトン・ヘストン演ずるアメリカ海兵 隊少佐:ルイスの指揮の下、女性や子供を守って55日間の籠城戦を戦い抜いたというスペクタクル映画でした。伊丹 一三(当時28歳? 後に「伊丹 十三」と改名)が演じた日本陸軍中佐が柴五郎、実はその彼が11カ国混成部隊を指揮して戦い抜いたのでした。世代の違い故か…、 残念ながら、大先輩はこの映画:『北京の 55日』、況や、ブラザーズ・フォアが歌った主題歌をご存知ではありませんでした。
Itami in the movie 55 days at peking
 
 会津藩士の家に生まれた柴五郎は10歳の時、会津若松城は 落城、祖母・母・兄嫁・姉妹が自決、戦後も下北半島斗南移住など辛酸をなめる生活を余儀なくされます。あるとき、肥後熊本旧細川藩の出身の野田豁通の知遇を得て陸軍幼年学校に入学(1873)、陸軍士官学校に進み、1879年、陸軍砲兵少尉に任官、同期には秋山好古(騎兵)が居ます。

 陸軍少佐、イギリス公使館付武官の時、1898年、「米西戦争」が勃発、彼は観戦武官としてアメリカに派遣されます。その時に海軍から派遣されたのが秋山真之で、前述の通り、真之の兄は陸軍士官学校の同期生でもあり、柴五郎と秋山真之も同じく親しい間柄であったろうと思われます。柴五郎が、この時代のアメリカ軍を「弱い」と報告したことで、後々まで「アメリカ軍は弱い」という固定観念に繋がったと云う説もあるようで、このあたりが、司馬遼太郎の『坂の上の雲』で柴五郎が無視されたように映る理由の一つにも感じてしまいます。

 陸軍中佐、北京大使館付武官の時、1900年、「義和団の乱」が勃発、柴五郎は実質的な総指揮官にして55日を闘い抜き、乱後、ヨーロッパ各国から勲章を授与され、一躍時代の英雄となります。籠城戦の総指揮をとったイギリス公使:クロード・マクドナルド(Claude MacDonald)は後に在東京イギリス公使(後に大使)となって強力に「日英同盟(1902)」締結を推進します。その影に柴五郎の人格・魅力そして卓越した能力があったはずです。日英同盟締結も『坂の上の雲』の要の一つ、その陰の主役:柴五郎の影はやはり薄いようです。

 賊軍・逆賊と呼ばれた会津藩出身の柴五郎は、1919年、遂に陸軍大将まで上り詰め、その後退役して1941年、あれだけ世界・日本の耳目を集めてきた英雄が、真珠湾攻撃成功に「万歳を叫び、狂喜感涙」して対米戦を推進、1945年の玉音放送を聞いて「さきに戦局の順調なる時に生の終わりざりしを恨む」と切腹を計りますが、老体であった故か、不首尾に終わります。その傷がもとで病死、享年87歳。その死に方によって、柴五郎の一生が台無しになったり、あるいは、それまでの評価が下がるとは思いませんが、正直に言えば、後に生きる人間としては知りたくない、見たくないところです。


 お借りしていた柴五郎の本を返しに伺った大先輩、先ほど話していた秀吉・利休に戻り、秀吉はいい時に利休に死を与えた、とは二人の結論でした。

堤(ひっさ)ぐる 我が得具足の一つ太刀 
 今この時ぞ 天に擲(なげう)つ

参考資料:石光 真人『ある明治人の記録―会津人柴五郎の遺書』 、村上兵衛 『守城の人―明治人柴五郎大将の生涯 』
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September 11, 2012

なんちゅうか、本中華!

インスタント麺であるにもかかわらず、「何と言うか、まるで本物の中華そばだね」…と、その意味を説明をするのも、そして、その意味を知っていること自体が恥ずかしい、昭和の死語(流行語)です。皆さんはどうでしょうか?前回に引き続いて、今回は「本中華」の中国です。

清朝(1644〜1912)は北狄:女真族=満州族の後金が自らの名を変えた中国の征服王朝でした。

円明園
19世紀、北狄の支配する中国に今度は南蛮:西欧列強が触手を伸ばして来ます。野蛮人の支配する中華帝国に別の野蛮人が侵入してくるという奇妙な事態に陥ります。1856年、アロー号事件を口実に南蛮:イギリスは、同じく南蛮:フランスを誘い、清に対して開戦,、清の完敗に終わりました。結果は、アヘンの輸入が公認化されるなど、一方的な不平等条約の締結でした。南蛮:英仏は無理難題を清朝中国にふっかけて戦争に持ち込み、負けた清ものらりくらり、これで勘弁してくださいという賠償の約束さえも実行せず、南蛮:英仏はそれに怒って清をさらに袋だたきにするという構図でした。1860年、英仏軍は清の砲台を占領、北京の円明園(Old Summer  Palace)に侵入した。フランス軍が金目のものを全て略奪し、イギリス軍は「捕虜が虐待されたことに対する復讐」として徹底的に破壊し、円明園は廃墟と化します。

その時に園内にに設置されていた十二支像が南蛮:英仏軍により破壊・略奪されたのです。2009年、この十二支像のうち2体がパリで競売にかけられることになり中国側が返還を求めている問題で、所有者のピエール・ベルジェ氏は「ダライ・ラマ14世をチベットに戻すことが条件」との言に対して、「フランスは当時、中国から文物を略奪し殺人や放火を行った。これらのどこに人権が存在するのか」と、両者の非難・応酬は我々の記憶に新しいのですが、もちろん、現フランスの昔の罪業への一言の謝罪もありませんでした。

南蛮:西欧列強による略奪・破壊・殺人・放火は、中国人をして狂信的な集団の排外的、民族的感情の暴発に走らせ、1900年の「義和団の乱」に至ることになります。その結果は、またもや、南蛮:西欧列強による、さらなる徹底的な略奪・破壊であったことは間違いないでしょう。この狂信的な集団の排外的、民族的感情の暴発は「義和団情結」と呼ばれ、「情結」とは感情がこびり付いて溶けないことを言うそうです。今日の中国共産党政府は、「義和団の乱」を「反帝国主義の愛国運動」と教えており、今回、駐北京日本大使公用車をBMWとアウディで襲い、日本国旗を奪った彼等は「愛国無罪」を叫ぶ「義和団情結」でした。

義和団は「扶清滅洋」(清朝を助け西洋を滅ぼす)を旗印に蜂起したが、北京陥落後はあっさり切り捨てられ、清朝に失望して「掃清滅洋」(清を掃い洋を滅すべし」に代わり、孫文による辛亥革命(1911)の重要な伏線となります。清は滅びました。

話は、前回の「小中華」韓国、李明博大統領に戻ります。NHK大河ドラマ『平清盛』が始まった頃、その登場人物が当時の天皇家を「王家」と呼んでいることが議論を呼び、「王家」の呼称は「天皇家の権威をおとしめる表現」との強い批判がありました。先日の朝日新聞朝刊、李明博大統領の発言:「〜日王(韓国では天皇をこう呼ぶ?)の韓国訪問で〜」とは、李氏王朝の再興はありませんでしたが、正に大韓民国では李氏時代の「小中華」が現代にも脈々と生き続けているようです。皇帝を名乗れるのは、地上(世界)に唯一無二の中国「皇帝」のみ、というのが中華思想の論理です。「白村江の戦い(663)」で、冊封関係にあった唐・新羅連合軍に敗れるも、その戦争目的は唐との対等外交の樹立でした。以来、日本人は「天皇」を中国「皇帝」と同格に位置づけています。多くの場合、特に隣国どうしでは、歴史認識を同じくするのは難しいことです。

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August 12, 2012

北京の55日 55 Days at Peking

 「Fade In  ポン-ポン-ポン-ポン-ポン」  私にはそう聞こえたのですが…。これを読んで「ピ−ン」と来た人は「かなりの〜」です。


歌詞の大半は何を言っているのか判りませんでしたが、そのころ既に洋楽フアン、洋楽かぶれであった私は歌詞の冒頭だけは良く覚えています。

The year was Nineteen-Hundred
             T'is worth remembering

…で始まるブラザーズ・フォアの曲:『北京の55日 55 Days at Peking』がヒットしたのは1963〜1964年、中学2〜3年生の頃でした。歌詞の通り、その年:1900年は記憶に値する年であり、その後の日本を含む東アジア情勢を決定づける事件、『義和団の乱』が起こりました。歴史上では「The Boxer Rebellion, The Boxer Uprising」と呼ばれます。私の歴史への興味もここから始まったと言える、記憶に値する出来事でした。Movie Poster_55-Days-Peking

 映画:『北京の55日 55 Days at Peking (1963)』、舞台は清末の中国、北京の外国人居留地。義和団に依る外国勢力排斥運動が暴力化、孤立無援の8カ国の混成外国人部隊:500人が、チャールトン・ヘストン演ずるアメリカ海兵隊少佐:ルイスの指揮の下、女性や子供を守って55日間の籠城戦を戦い抜いたというスペクタクル映画でした。伊丹 一三(当時28歳? 後に「伊丹 十三」と改名)が、 あくまでも脇役で…、 出演していました。その伊丹が演じた日本陸軍中佐:柴五郎、彼がこの史実:『北京の55日』の間、8カ国混成部隊を指揮したのでした。

義和団の乱1900
日清戦争(1894-1895)の敗北により、欧米日列強に浸食される清末の中国。義和団は山東省で発生しました。ドイツの山東省における熱烈な布教活動はその反動として民衆の排外的な感情を呼び起こし、次第に高揚して行きます。1897年、彼等を支援したのが「梅花拳」という拳法の流派で、「義和拳」と改名、「Boxer」とはこの意味ですが、さらに後、「義和団」と改名、山東省以外に拡大した。彼等は「扶清滅洋(清を扶け洋を滅す)」のスローガンを掲げ、清朝政府には規制・弾圧の口実を与えず、むしろ擁護され、1900年、20万人の義和団が北京に入城します。

Shiba_goro_2
10歳の時、会津戦争(1868)で祖母・母・兄嫁・姉妹が自刃、一家は陸奥戸南に移住、塗炭の苦しみ、極貧の生活を強いられます。幸運にも、陸軍幼年学校から、1877年陸軍士官学校に進み、1879年砲兵少尉に任官する。同期生に、司馬遼太郎作:『坂の上の雲』の秋山兄弟の兄:秋山好古がいます。イギリス大使館付武官時代の1898年、米西戦争が勃発)、その観戦武官として派遣され、今度は海軍から派遣された弟:秋山真之と一緒でした。彼と秋山兄弟とは浅からぬ縁で繋がっていたのです。

 1900年、砲兵中佐、北京公使館付武官として着任間もなく、「義和団の乱」に遭遇します。清朝の宣戦布告は、外国人及び中国人キリスト教徒の孤立を意味し、彼等は公使館区域に逃げ込みました。各国の公使館護衛兵及び義勇兵は5百人足らず、それから救援軍到着までの55日の籠城戦でした。全体的な指導者はイギリス公使クロード・マクドナルドであったが、実質総指揮を取ったのは柴五郎でした。解放後、日本人からだけでなく、欧米人からも多くの賛辞が寄せられ、勲章授与が相次いだ。

 日清戦争(1894-1895)で列強の一角に入り込もうとした日本、遅れてやって来た新参者:日本に無理難題を被せて横取りしたロシアは既に満州まで南下していました。ボーア戦争中(1899-92)のイギリス、米西戦争(1898)に起因するフィリッピンに手を焼いているアメリカはロシアの南下をくい止めるだけの余力はありませんでした。そこに起こったのが「義和団の乱」でした。総指揮官を務めたマグドナルドは駐日大使に転じ、「日英同盟」の締結を強力に推進したのは、55日に及ぶ北京での籠城戦の実質指揮官:柴五郎とその部下に対する高い評価があったからです。

 私の記憶力は全く当てには出来ませんが、司馬遼太郎の『坂の上の雲』には「義和団の乱における柴五郎」は登場していません。

「義和団の乱」、1900年は我々の記憶に留めておくべき年でしょう。

「ポン-ポン-ポン-ポン-ポン Fade Out」

※ Amazon: ミュージック・ストア/DV D 「北京の55日」

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