納豆

July 03, 2013

Soy-Beans と Soy-Sauce、どっちが先?

70年台前半だったでしょうか…、あるテレビ番組の中で、大阪府には納豆製造業者がわずか2社しかない、と聞いたのを覚えています。それほど、大阪≒関西ではほとんど納豆を食べる習慣はありませんでした。今日、改めて調べてみると、その数10社(※納豆製造元一覧 )、40年間に5倍と言えば激増?、その間に全国的な規模で東西の移動がなされたのでしょう。

その納豆をはじめ、豆腐・味噌・醤油…多くの大豆加工食品がありますが、モヤシが大豆を暗所で発芽させたもの、枝豆が未熟大豆を枝ごと収穫して茹でたもの、さらに育てて完熟したら大豆、とは大人になって知りました。「納豆」も「豆腐」も中国の発明ですが、どうもその漢字が逆なように思うのは私だけではないようです。そもそも、大豆(だいず)とは中国語で「大いなる豆」の意味で、その発音は、漢音の「ダドゥ(?)」ではなく、何故か呉音の「ダイズ(?)」に由来、中国では「豆の王様」、ドイツでは「畑の肉」、アメリカでは「大地の黄金」とも呼ばれるそうです。日本でも米・麦・粟・稗(ひえ)・豆(大豆)と、五穀の一つです。

ビールが美味しい季節です。ネット上の質問、「北欧で枝豆の栽培は可能でしょうか?」。おそらく、北欧に住む日本人が故国での夏を思い出して、いろいろ試してみようと思ったのでしょう。もし実現できたら感激でしょう…が、実は…、難しいようです。
Kikkoman_1

醤油は英語で「Soy-Sauce」。「Soy or Soya」は「醤油(しょうゆ、Syo-yu)」、どうやら中国語の醤油(どう発音するのか知りません)ではなく、実は日本語のようです。鎌倉時代の禅僧:覚心は、1254年、紀州・湯浅に西方寺を開きます。宗で学んだ「径山寺(金山寺)味噌」の製法を広め、たまたま水分量の多かった味噌の上澄み液(「溜まり」)で煮物を作ったところ、それが大変美味しかったので、ここから醤油作りが始まったと言われています。これが紀州・湯浅の味噌醤油業に発展、後に黒金富良陶器瓶潮に乗って、多くの人と技術が房総半島へ渡りました(江戸川・利根川水系地域、例えば野田)。17世紀、醤油は陶器製の瓶に詰められ、長崎出島よりオランダ東インド会社を通じてヨーロッパに輸出されていました。その瓶は金富良(コンプラ)と呼ばれる波佐見焼の陶器、そこには「JAPANSCHSOYA」の文字があります。

稲わら+納豆大豆の原産は中国東北部(かつての満州、「Soy」は女真語という説あり)からインドにかけての地域、根瘤菌(空気中の窒素を取り込んで宿主に供給、宿主からは逆に光合成で得た炭水化物をもらう)と共生、窒素分の少ない土壌でも生育します。モンスーン気候の日本には稲作と同時に伝来、各地に伝搬して行きます。稲ワラと大豆の腐敗が遭遇するのもそれほどの時間はかからなかったでしょう。これに加え、前述のとおり、味噌・醤油など大豆加工食品の発展には、殺生を禁ずる仏教、当時の鎌倉仏教の興隆が大いに寄与したものと思われます。

ヨーロッパには、他の豆類はありましたが、その土壌には中国東北部や日本のような根瘤菌が存在せず、大豆という植物は存在しませんでした。今日でも事情は同じのはず…、上の北欧在住の日本人の渇望を叶えるのは難しいようです。江戸中期の18世紀、オランダ東インド会社のスエーデン人医師(植物学者)はツンベルグは日本滞在中に醤油を知り、1784年「日本植物誌」を著して大豆をヨーロッパに紹介、「醤油の原料となる豆」という意味のドイツ語(?)「Soya-Bohne」で、これが英語の「Soy-Beans」になります。はじめに「醤油=Soy-Sauce」があり、そこから大豆を「Soy-Beans」と呼ぶようになった訳で、その逆ではありません。

土壌に根粒菌が存在したアメリカ大陸に伝わったのは19世紀、大豆を栽培した農場の土を、次の年に他の農場まで運ぶというやり方で徐々に作付け面積を広げて行った。栽培が本格化するのは肥料や根粒菌持込の技術が発達して土壌改良が進む20世紀に入ってからのことでした。アメリカは世界最大の大豆生産国ですが、
国内需要のほとんどは家畜の飼料用で、大豆加工食品の歴史はほとんどありません。大豆イソフラボンが骨粗鬆症、更年期障害、動脈硬化の緩和、乳がんや前立腺がん等の予防にも効果が期待しての健康食品・サプリメントのブームがあるようです。

九州生まれで、それまでの四国(新居浜)に住んでいた私を含めた家族には納豆に何の抵抗もありませんでしたが、次の引越し先である大阪では食べたことがありません。そして東へ移動、東京の西端、町田に住んで二十数年、今や、納豆は日常的な食べ物となっています。この歳になって痛風か…、納豆はどうなんでしょうね?

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November 03, 2012

2012年近江の旅 1(序章) 〜 美濃国不破郡青墓

中仙道青墓宿いつもブログにコメントをもらうKENさん。その彼にご一緒する『近江国』を巡る二泊三日の旅が始まるのは翌朝、競技開始前の様に自然とアドレナリン分泌が高まっているようです。歴史を遡る旅行は既に始まっています。

下野国から白河関を越えて東山道(近世の中仙道)の奥、陸奥国(道の奥→みちのく、むつ、奥州)に入ったのは5月のことでした。今回はその東山道を遡って近江国に至りますが、あっさりとお国入りすることは許されません。その中間の道程ははしょっるものの…、通過儀礼・儀式としてに「不破関」のあった美濃国不破郡(現在の岐阜県大垣市)を訪れなければなりません。

20年も前だったでしょうか、数人でこの地に来たことがあります。自炊しなければならず、料理の上手い友人の指図で、料理の出来ない私は朝の買い物に出かけることになりました。その小さな商店に入って、「納豆下さい」、というと、「甘納豆でしょうか、それとも濡れ納豆?」とはお店の人の反応。そうです、ここで食文化が東西に別れるのです。ついでに、エスカレーターの立つ位置がここから西は右側となるそうです。

「関東」の概念は、大和朝廷の勢力範囲が東方に及んで行くにつれ、時代と共に東方に移って行きます。まずは、「これやこの 行くも帰るも 別れては 知るも知らぬも〜」の「逢坂の関」、これが東進して「不破関」、東海道なら「鈴鹿関」、さらに東進して、「碓氷峠」あるいは「足柄山、富士山噴火以降は箱根関」を越えた地域を「坂東」、「関東」、「東(あづま)←吾妻」と呼ぶようになり現代に至っているようです。それじゃ…「関西」は? 「関東」ほどには東へ移動していません。「関西」と並んで「近畿」と言う言葉がありますが、都のある地域:「畿内」に由来するもので、その東の端が山城国、「逢坂の関」の西が「関西」だったのでしょうか…、それが東進、いつ頃からか?…、明治政府は「畿内」に滋賀県・三重県を加えて「近畿地方」としました。現代の「関ヶ原」以西、「不破関」と「鈴鹿関」を結ぶ線より西が関西になり、この関ヶ原を境に日本の文化、特に食文化は東西に大きく別れるそうです。新聞・テレビ初めとするマスコミ、交通網の発達で全国の平均化は進行して、昔ほどではないにしろ、まだまだ、そこには東西を別ける境界があるようです。

散々なNHK大河ドラマ:『平清盛』の筋書きにかろうじて付いて来ている私ですが…、白乙前 後白河 青墓河法皇の愛妾:祇園女御は宮中を去って、今度は、後白河法皇の『今様』の師匠、「乙前」と名を変えて彼の側に使える、という作者独自の設定らしいのですが、その間30年は過ぎて80歳ぐらいの役か?…松田聖子のメイクは全く変わらず、化け物か?…というぐらいにきれいで(?)、彼女だけが歳をとっていません。外務省を「伏魔殿」と呼んで大臣を辞した田中真紀子が、あれっ…、こんどは文化省大臣に返り咲いて一悶着、老若美醜はともかく、宮廷世界も外務省も伏魔殿・魑魅魍魎の世界、そこに登場する化け物、どこか似ています。

「傀儡女(くぐつめ)」は、売春を生業としながら、人形を廻しながら集団で諸国を往来、各地の宿駅を活動の場としたが、「乙前」は美濃国不破郡の宿駅:青墓が居所の「傀儡女」でした。
平治物語
『平治の乱(1159)』で敗れた源義朝、嫡男:義平、次男:朝長、三男:頼朝以下の一行は東国に逃れようと、都を大原から北に若狭街道(鯖街道)に出ます。竜華越(りゅうげごえ)で叡山僧兵の襲撃を受け朝長が腿に重症を負い、近江国では頼朝(当時13歳)は疲労のため一行に脱落、既に平家方に抑えられている不破の関を避けて北側に迂回、義朝の妾:「延寿」という名の大炊長者(おおいのちょうじゃ)を頼って美濃国不破郡青墓に辿り着きます。重症を負った次男:朝長は足手まといになることを恐れ、父の義朝に頼んで自分を殺してもらいます(当時16歳)。嫡男:義平は平家に一矢報いようと都に引き返すも、途中捕縛され六条河原で処刑(当時20歳)、義朝はその後も逃避行を続け尾張国野間(現愛知県知多郡美浜町至るも、謀られて入浴中に殺害されます。
源朝長の墓_for Blog 
※ 明るい色調になってしまいましたが、実は朝長の墓所は山中の木々に覆われた暗い処です。人魂でも出てきそうな雰囲気、『耳なし芳一』になった気分です。耳はちゃんとついていますが…。

義朝の側室:「延寿」も大炊長者呼ばれる「傀儡女」で「今様」の名手でした。その二人の間に生まれたのが「夜叉姫」で、平治の乱の敗北により、父:義朝以下多くの兄弟を失い、源氏の行く末を悲観、杭瀬川に身を投げて自殺してしまいます。「今様」の母娘相伝を受けたはずの「夜叉姫」は惜しい結果となり、後白河の「今様」の師匠「乙前」の死(1168)をもって歌謡の芸術としての評価は終わることになります。

納豆を載せた炊きたてのご飯、友人の作ったみそ汁、…その朝食の美味かったことが思い出されます。

※ Buy at Amazon: 新・平家物語 吉川英治 

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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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