白雪

November 09, 2019

2019年関西の旅 神君家康伊賀越え(その2)

多田神社 もう一つ、くすぶっていることがあります。家康と摂津佃の漁民(名主森孫右衛門)の関係です。1586年、源氏を名乗った家康は始祖、源満仲(みつなか 912 - 997)を祀る多田神社(兵庫県川西市)へ向かう一行の船渡しを佃村の漁民がやったとか、あるいは、家康一行を乗せた船をけん引して多田まで届けた。これに報いて、後年、秀吉に関東移封(1590)を命じられた家康とともに江戸に入り佃島に入植を許されたものと思っていました。しかし、たかだか神崎川の渡河、あるいは猪名川の遡行ぐらいで、新天地江戸の一角、特権として日本橋に魚河岸開設を許されるのでしょうか?

 過去に何度か触れましたが、私の出身地(生まれは九州ですが)は兵庫県伊丹市。市の南に尼崎市、西に西宮市、北に宝塚市・川西市が位置し、東には猪名川が流れ、対岸は大阪府です。かつて、この大阪府と兵庫県を合わせて摂津国と呼ばれ、明治新政府は摂津国経済の力を削ぐために二つの県に分割したと聞きます。猪名川はいくつかの川が合流して神崎川として大坂湾に注いでおり、その河口部分に「佃」が位置します。平安末期、源平合戦も終わり、京を逃れ淀川を下った義経一行が西国で再起を図るべく船出した「大物の泊まり」もすぐ近くで、佃・大物・江口の周辺はは古代より瀬戸内及び淀川水系の重要拠点であったと考えられます。江戸時代、伊丹酒(いたみざけ)と呼ばれた日本酒の名産地であり、今も「白雪」や「御免酒 老松」のブランドが引き継がれているが、造られた酒は船で猪名川を下り、大坂湾に出て、菱垣廻船や樽廻船で江戸へ出荷されたことを見れば、猪名川のさらに上流、西岸に在る多田神社近くまで家康一行を乗せた舟を曳航したのもまんざらあり得ないことでもないでしょう。

 1590年、家康は江戸に入城。戦国の火がまだくすぶる中…、武田の旧臣大久保長安に命じて従来の五街道に加えて、家康緊急時の江戸脱出路として、江戸城半蔵門(に服部半蔵の名を遺す)を起点とする甲州街道を建設、中途に八王子の街を建設、多くは武田の旧家臣を「八王子千人同心」に組織化しました。一方、江戸という都市を建設、その消費需要を賄うためには、荒川・利根川・渡良瀬川の水運をはじめとする物流路の整備が不可欠でした。家康は江戸入府と同時に江戸湾の風波を避ける目的で小名木川を開削、同時に伊奈忠次に関東河川改修を命じ、以後、伊奈氏3代により利根川の銚子河口への通水が行われました。東北からの物資がここで川船に積み替えられ、利根川を遡り関宿で江戸川に入り、行徳にて船堀川・小名木川を経て江戸へと運ばれました。

 戦国時代の百年、関東は善政を敷いた小田原北条氏の支配下にあり、まだ後北条恩顧の強い地域でもあった。家康の江戸入府に摂津佃の漁民(名主森孫右衛門)34人も従い、寛永年間に隅田川河口鉄炮洲の土地をもらい「佃島」と名付けました。この鉄炮洲、なんと小名木川の目と鼻の先。大久保長安に命じて甲州街道という緊急脱出路を確保しながら、関東に広がる荒川・利根川水系の150504_深川万年橋物流を摂津佃の漁民(名主森孫右衛門)が担うだけではなく、これらの水系を利用して、関東を支配するのが家康の森孫右衛門に与えた使命だったのではないでしょうか。江戸入府と同時に開削された小名木川は物流の幹線運河であり、同時に、番所(関所)が設けられるなど関東支配の軍事的な目的を果たす、徳川幕府の生命線でした。後北条恩顧である地元民に任せられるはずのものではなく、関東に縁のない摂津佃の森孫右衛門にそれを命じたのではないでしょうか。

 年は遡って1582年、家康は泉州堺を出て京へ向かう途中、枚方辺り、御用商人茶屋四郎次郎がもたらした「本能寺の変」の報に接し、急遽帰国を決意、こうして始まった逃避劇が後に家康生涯最大の危機と云われる「神君伊賀越え」です。秀吉の死後、家康の権勢が絶大になるに及び、「淀川過書船支配」など京・大坂の物流の支配を任されたことを勘案すると、茶屋四郎次郎と淀川・神崎川河口(摂津佃)を拠点に活動していた森孫右衛門とは従来より密接な関係があったはずです。茶屋四郎次郎は先々で土民を脅したりすかしたり、時には金をばらまき、服部半蔵は伊賀・甲賀衆を説得して家康一行の警護・案内に奮闘します。一方、茶屋四郎次郎から一方のあった森孫右衛門は家康一行の到着を待ち受け、宇治川(堺〜飯森〜宇治)・木津川(近江〜伊賀)の水路、伊勢白子から大浜までは海路を確保、渡河・河川及び湾内航行に活躍したものと考えます。

 家康と森孫右衛門の出会いはこの「神君伊賀越え」だったように思われ、もし「本能寺の変」がなければこの「神君伊賀越え」もあるはずがなく、二人の出会いはなかったかも知れません。この茶屋四郎次郎、服部半蔵に匹敵する働きを見せた森孫右衛門への信認は厚く、1586年、家康一行を乗せた舟を牽引して猪名川を遡の「多田神社詣で」の先導役を果たし、1590年、摂津佃の漁民(名主森孫右衛門)は江戸に移住、江戸武家屋敷への出入り、魚河岸の開設が認められました。1614〜1615年、大坂冬の陣・夏の陣では佃漁民は徳川方に味方し、食料・武器の調達・運搬を行っています。

 佃島の漁民は悪天候時の食料や出漁時の船内食とするため自家用として小魚や貝類を塩や醤油で煮詰めて常備菜・保存食としていたが、これが「神君伊賀越え」の時に非常食としてふるまわれ、後の江戸名物「佃煮」となったとは、話が出来すぎでしょう。

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express01 at 20:24|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

May 19, 2014

荒木村重、正に数奇者でした

摂津国伊丹(現在の兵庫県伊丹市)、古くは「五畿七道」の「五畿」、「畿内」とも呼ばれた5か国(山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国の)の西端に位置し、現在の神戸市須磨区で山陽道の播磨国と接します。「名こそ惜しけれ」、「一所懸命」、恥ずかしいことはしない、卑怯なふるまいを軽蔑するのは坂東武士の真髄、京の貴種:源頼朝を据えて鎌倉幕府を建て、坂東半独立国家を作った彼等のエトスは、その後の全ての日本人の規範、原理・原則となった。しかし、その後の歴史を見るとこれらの原理・原則がまばゆい光を放って表舞台に現れるのは関東・東国ではなく、「畿内」、摂津国に極めて隣接した、ほとんど都に近い、播磨国であることが面白い、とはどこかで読んだ司馬遼太郎の言。

黒田官兵衛を始め、その家来:母里友信(もうり とものぶ)は『黒田節』に歌われただけですが、嫡男:黒田長政と不仲だった後藤又兵衛は関ヶ原戦いの後、1606年黒田家を離れて、犬猿の中だった細川忠興始め、多くの大名からの仕官の話があったが、1614年、豊臣秀頼の家臣:大野治長の招請に応じ大阪城に入る。大阪夏の陣(1615)、「道明寺の戦い」で十倍する徳川方と奮戦、討ち死にします。時代は下って元禄、1703年、「赤穂浪士の討ち入り」は日本人の心に深く刻まれているが、前者の舞台は姫路、後者の舞台は赤穂、何れも播磨国、「畿内 摂津国」のすぐ隣、「上方」、現在ならば「近畿」、「関西」という言葉で一括りにされるところが面白いところです。

伊丹市は荒木村重の居城:有岡城の在る有岡城跡町、私が小学3年から高校卒業までを過ごした…、生まれは九州ですが…、ほとんど私の出身地と云ってよいほどの土地です。その後何十年も行ったことがありませんが、当時、新伊丹から阪急電車、塚口で神戸線に乗り換えて大阪梅田まで30分ぐらいだったでしょうか…、その阪急電車に比べて、当時は国鉄(今で言うJR宝塚線?)福知山線の伊丹駅は田舎の駅、駅を出た所に在ったのが伊丹の街並み有岡城址でした。今は全く違うでしょうが、当時はただ小高い丘あるいは山があり、何処に石垣が在ったのかも覚えていません。城跡よりも、ここは清酒:『白雪』の小西酒造の街、大きな酒蔵はじめ古い街並みががきれいでした。

どうも…、荒木村重を好きにはなれませんでしたが、世間も私と同じように見ているようです。最初は池田勝正に仕え、三好家に寝返り、次は織田家、伊丹有岡城で信長に反旗を翻して籠城、説得にやって来た黒田官兵衛を幽閉します(1578-79)。側近の中川清秀や高山右近が織田方に寝返り、有岡城を抜け出し尼崎城、花隈城(現在の神戸元町)をさらに西へ、毛利方に遁走します。残された家臣・人質122人は尼崎七松にて処刑、村重とその家臣の家族36人は京六条河原で斬首、本人は早々と毛利方に亡命したのは、多くの若人を特攻隊で送りながら本人は敵前逃亡した在フィリッピンの司令官:富永恭次、近くは沈没した韓国フェリーの船長と似ています。そうこうしている内に「本能寺の変(1582)」、備中高松城の戦を即座に和議、山崎の戦いにて明智光秀を討ち取った秀吉が、清洲会議の主導権を握ります。1586年、秀吉は豊臣の姓を賜り、豊臣政権が確立します。

村重は堺に戻って、武人ではなく茶人として、千利休とも親交を持ち、秀吉の御伽衆にも加えられるようになったが、秀吉への悪口が本人に聞こえてしまい、秀吉の怒りを買うことになります。村重は、今度は出家して、これまでの幾多の過ちを恥じて、その名前を「道糞 みちのくそ」と名乗ったが、秀吉が許して「荒木道薫」に改まったそうです。彼は「利休の七哲」の一人に数えられることになりますが、正に「数奇」な人生であり、数奇者そのものでした。1586年、畳の上で死去、享年52歳。

…で、有岡城から救出された官兵衛と生き延びた村重の関係はどうだったのか、気になるところですが、最近、1583年に官兵衛から村重に出された手紙の写しが発見されたそうです。両者は気さくな関係だったようで、1年にも及び幽閉された者が幽閉した者に書いたものではないように思えるのですが…。いや、本当は官兵衛は有岡城で殺されるはずだったところを、村重が助けた…、あるいはそれ以上のことをしたのではないでしょうか。村重のことを勉強したくなって来ました。

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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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