町田市

January 30, 2014

住めば都、小山田荘 鳥瞰図

やって来た当時、市を縦断する幹線:町田街道は片道一車線、もちろん右折専用レーンもなく、右折車があればたちまち渋滞、そんな道にはバキュームカーが走って…、「えーっ、ここが東京都?」…。あれから20年、私には「住めば都」、そんな歳になったのか…、単に現住所が在るだけではなく、毎日の散歩で新しい発見をすることが出来るようになりました。

平安時代後期、平氏:秩父重弘の子有重がこの地に、小山田別当を称し,馬牧場を開拓・経営したのが小山田荘です。古代〜平安〜鎌倉〜南北朝の痕跡が残る小山田荘、その荘園主になったわけではありませんが…、今や私にとっては「都」となっています。

申告すべき収入もないのですが、何かと忙しい確定申告の時期、それを放ったらかして…、完成させたのが「小山田荘(おやまだのしょう)鳥瞰図」です。それほど格好をつけるものではありませんが、以前から思っていながら一度も実現せず、私にとっては初めての試みなのですが、鳥の目で…あるいは、「ハリー・ポッター」か「魔女の宅急便」になったつもりで私の「都」を俯瞰したものです。山の高低は全く無視されていますが雰囲気は出ていると思います。如何でしょうか。
※鳥瞰図をクリックして拡大します 
20140129小山田荘鳥瞰図for Blog
私の「都」:小山田荘は、北辺に多摩市との境があり、北は人工的なニュータウン、南は古代・中世が残る、言葉を換えれば「開発の遅れた…」どころの話ではありませんが、「手付かず…」に近い、小山田荘。尾根伝いに通る、桜の名所、尾根道(尾根緑道)。尾根道ほど近くではありませんが、自転車で行くにはちょうど良く、帰りは上り坂がきつくて回り道の「鶴見川源流」があり、山に囲まれた、舌状の「谷戸」と呼ばれる地に稲作が豊かで、大泉寺(小山田城址)周辺の山は小山田緑地がハイキングコースとして整備されており、源義家も通った古代・奥州古道、「いざ、鎌倉」、新田義貞の鎌倉街道が走っています。南の境川を超えると相模原市、淵辺義博の館跡、近くに『太平記』には出てきませんが「縁切り榎とわかれ橋」の伝説、時代は下って近世、名主・豪農:原 清兵衛が新田を開発、地名:清新(せいしん)、市名:相模原は「相模の原」、彼の名に由来、これに似たような話が「忠生」です。平安後期、この地で新田・馬牧場の開墾・開発が隆盛、武士というよりは牧場主のような彼等は「一所懸命」という単純明快な論理と「名こそ惜しけれ」という、卑怯な振舞いを蔑む精神と表裏一体して鎌倉武士の真髄、その後の日本人の考え方・生き方に大きな影響を与え、日本人の原理・原則、「理念」になって行きます。こんな勉強をさせてもらっている桜美林図書館、これまた近くです

次回の新発見をどうぞお楽しみに。

Momo holding sign board-HKX Radio※今までの曲は左サイド、Music Player でお聴きになれます。 
Your Support, Please. ▼ ボタンを押して下さい。このサイトの順位がわかります。にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 


May 22, 2011

元弘3年(1333)5月22日 鎌倉幕府滅亡

小山田緑地町田市小山田と称する地域は、平安時代には朝廷の馬を飼育する牧場で、小山田氏は代々その別当(=長官)でしたが、小山田有重の時、鎌倉幕府の有力御家人の一人になります。山歩きの好きな I さんが、有重の居城(跡)とされる「大泉寺」から、「小山田緑地」を経て、その副城:「小野路城跡」・「小野路」に至る1/2 Day Walkに連れて行ってくれました。

源頼朝を頭領に幕府を鎌倉に開くに至る「源平の合戦」に始まり、「いざ鎌倉」と坂東武者が鎌倉にはせ参じた軍事道路で、鎌倉を起点に武蔵の国府である府中を抜けて上州(群馬県)高崎までが「上の道」と呼ばれ、ここで西へ分岐して碓氷峠を越えて信濃路へ、或いは東の新田荘や足利(栃木県)へ、更に北に向かう奥州路(岩手県)へ通じています。
小野神社2
「小野路」は鎌倉を出て武蔵国府:府中までの間にある宿場町ですが、戦後急激に発展した町田市にありながら「アレーっ」」と思うほど、鎌倉時代の面影を色濃く残しています。ここに、「小野神社」があります。「小野神社由緒」曰く、「小野篁(おののたかむら)の七代の孫:小野孝泰が武蔵の国司として天禄年間(972年頃)府中へと赴任した時、当地が小野郷と称したことから、篁が当地に滞在したしたものと考え、篁の御霊をこの地に祀った。」 続けて曰く、「〜小町井戸があり、当地と小野市との縁の深さを物語っています。」 …と伝説は極めて控えめです。小野篁、小野小町にまつわる神社や遺跡は全国各地にあるようです。

元弘 3年(1333年) 5月8日、後醍醐天皇に呼応して新田義貞は上野国生品明神で鎌倉幕府打倒の挙兵。総勢わずか150騎。鎌倉街道を南下、行く先々で武士団が次々に参加、数十万の規模に…、
5月11日、「小手指ヶ原の合戦(こてさしがわら 所沢市)」で幕府軍を撃破。
5月12日、「久米川の合戦(東村山市)」で幕府軍を撃破。小野路城跡
5月15日、「分倍河原の合戦(ぶばいがわら 府中市)」で敗れ、久米川まで退却。
5月16日、「分倍河原の合戦」で勝利。

絶対防衛線である多摩川(関戸)を破られ、この「小野路」→今井谷戸→本町田→成瀬と潰走する幕府軍、これを追撃する新田義貞軍、両軍合わせて何万という軍団が駆け抜けたとは、残念ながら、今の「小野路」を見る限り全く想像できません。
新田義貞軍は三手に分かれて鎌倉に攻め込みます。大館宗氏の右翼軍、片瀬・腰越から極楽寺坂へ、堀口貞満の左翼軍は巨福呂坂(こぶくろざか)に向かい、新田義貞の中央軍は化粧坂(けわいざか)を攻めます。極楽坂

5月18日、「極楽寺口」 を突破、鎌倉府内に突入。大館宗氏戦死。
5月21日、新田義貞、「稲村ヶ崎」を突破し鎌倉府内に突入。
巨福呂坂2
実は、I さんが鎌倉にも連れて行ってくれました。現代の私たちは当然の事ながら、何の抵抗も受けず、片瀬・腰越から極楽寺坂から鎌倉府内に侵入出来ましたが、「鎌倉アルプス」と呼ばれる鎌倉最長のハイキングコースを歩いた後に挑戦した「化粧坂(けわいざか)」は、「鎌倉七口」の一つですが、「鎌倉の出入り口」というより「登山口」の感、我々の間違いだっだのでしょうか…。

元弘3年(1333)5月22日、最後の執権、北條高時以下の北條氏一族及び郎党の八百余人は自刃。
現代の暦(グレゴリオ暦)では6月らしいのですが、元弘3年(1333年)の今日、鎌倉幕府は滅亡します。
Momo holding sign board-HKX Radio
※Nobu, Kun & Isa Band の今までの曲は左サイド、I Pod 風のプレーヤーでお聴きになれます。
       
 Thanks for Your Support ▼: 今日の席順は?
にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 人気ブログランキング

Profile

ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

Back Issues At A Glance
Comments
ISAO's Bookshelf
人気ブログ ランキング
NINJA
Search