王家

September 11, 2012

なんちゅうか、本中華!

インスタント麺であるにもかかわらず、「何と言うか、まるで本物の中華そばだね」…と、その意味を説明をするのも、そして、その意味を知っていること自体が恥ずかしい、昭和の死語(流行語)です。皆さんはどうでしょうか?前回に引き続いて、今回は「本中華」の中国です。

清朝(1644〜1912)は北狄:女真族=満州族の後金が自らの名を変えた中国の征服王朝でした。

円明園
19世紀、北狄の支配する中国に今度は南蛮:西欧列強が触手を伸ばして来ます。野蛮人の支配する中華帝国に別の野蛮人が侵入してくるという奇妙な事態に陥ります。1856年、アロー号事件を口実に南蛮:イギリスは、同じく南蛮:フランスを誘い、清に対して開戦,、清の完敗に終わりました。結果は、アヘンの輸入が公認化されるなど、一方的な不平等条約の締結でした。南蛮:英仏は無理難題を清朝中国にふっかけて戦争に持ち込み、負けた清ものらりくらり、これで勘弁してくださいという賠償の約束さえも実行せず、南蛮:英仏はそれに怒って清をさらに袋だたきにするという構図でした。1860年、英仏軍は清の砲台を占領、北京の円明園(Old Summer  Palace)に侵入した。フランス軍が金目のものを全て略奪し、イギリス軍は「捕虜が虐待されたことに対する復讐」として徹底的に破壊し、円明園は廃墟と化します。

その時に園内にに設置されていた十二支像が南蛮:英仏軍により破壊・略奪されたのです。2009年、この十二支像のうち2体がパリで競売にかけられることになり中国側が返還を求めている問題で、所有者のピエール・ベルジェ氏は「ダライ・ラマ14世をチベットに戻すことが条件」との言に対して、「フランスは当時、中国から文物を略奪し殺人や放火を行った。これらのどこに人権が存在するのか」と、両者の非難・応酬は我々の記憶に新しいのですが、もちろん、現フランスの昔の罪業への一言の謝罪もありませんでした。

南蛮:西欧列強による略奪・破壊・殺人・放火は、中国人をして狂信的な集団の排外的、民族的感情の暴発に走らせ、1900年の「義和団の乱」に至ることになります。その結果は、またもや、南蛮:西欧列強による、さらなる徹底的な略奪・破壊であったことは間違いないでしょう。この狂信的な集団の排外的、民族的感情の暴発は「義和団情結」と呼ばれ、「情結」とは感情がこびり付いて溶けないことを言うそうです。今日の中国共産党政府は、「義和団の乱」を「反帝国主義の愛国運動」と教えており、今回、駐北京日本大使公用車をBMWとアウディで襲い、日本国旗を奪った彼等は「愛国無罪」を叫ぶ「義和団情結」でした。

義和団は「扶清滅洋」(清朝を助け西洋を滅ぼす)を旗印に蜂起したが、北京陥落後はあっさり切り捨てられ、清朝に失望して「掃清滅洋」(清を掃い洋を滅すべし」に代わり、孫文による辛亥革命(1911)の重要な伏線となります。清は滅びました。

話は、前回の「小中華」韓国、李明博大統領に戻ります。NHK大河ドラマ『平清盛』が始まった頃、その登場人物が当時の天皇家を「王家」と呼んでいることが議論を呼び、「王家」の呼称は「天皇家の権威をおとしめる表現」との強い批判がありました。先日の朝日新聞朝刊、李明博大統領の発言:「〜日王(韓国では天皇をこう呼ぶ?)の韓国訪問で〜」とは、李氏王朝の再興はありませんでしたが、正に大韓民国では李氏時代の「小中華」が現代にも脈々と生き続けているようです。皇帝を名乗れるのは、地上(世界)に唯一無二の中国「皇帝」のみ、というのが中華思想の論理です。「白村江の戦い(663)」で、冊封関係にあった唐・新羅連合軍に敗れるも、その戦争目的は唐との対等外交の樹立でした。以来、日本人は「天皇」を中国「皇帝」と同格に位置づけています。多くの場合、特に隣国どうしでは、歴史認識を同じくするのは難しいことです。

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February 04, 2012

帝(みかど - Mikado)

平清盛
NHK大河ドラマ『平清盛』、「画面が汚い」の批評はともかく、ドラマの登場人物が当時の天皇家を「王家」と呼んでいることが議論を呼んでいるそうです。「王家」の呼称は「天皇家の権威をおとしめる表現」との強い批判があり、それに対し、時代考証を行った本郷和人(ほんごう・かずと)東大史料編纂所准教授は、「「王家」の使用は純粋に学問的な見地からのもので、皇室をおとしめる意志が露塵(つゆちり)ほどもなかったことは、まちがいありません」と弁解しきりの様子。天皇の住む京都を「王城の地」と呼んだり、 「尊皇・勤皇」、場合によっては「尊王・勤王」…、これが「天皇家の権威をおとしめる…」とは思いませんが…。
漢倭奴国王金印
東アジアの諸国王は、中国に朝貢し、中国の皇帝から「王」のお墨付きをもらう必要がありました。これを冊封関係といい、冊封関係を受けた国の君主は、「王」や「侯」という中国の爵号を授かり、中国皇帝と君臣関係を結びます。57年、倭国の古代王権も後漢の光武帝より「倭奴国王印」を授かって冊封を受けていました。

607隋煬帝年、倭王から隋の煬帝に宛てた「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無しや云云」に始まる国書は中華皇帝の概念を否定して、それまでの冊封関係からの離脱、対等外交の姿勢を表明したものでした。663年「白村江の戦い」で、唐・新羅連合軍に敗れるも、その戦争目的は唐との対等な独立国家を主張するためのものだったと言えるでしょう。

以来、日本人は「天皇」を中国「皇帝」と同格に位置づけています。

時代が下って平安時代、日本は中国の影響から脱し、武家政権の誕生で天皇の役割・機能は変化します。天皇は、今や、神々と対話できる唯一の存在、他方、統治権を授与できる唯一の存在となったのです。これは権威者が権力者に「正当性」を与え、見返りに「保護」を受ける、西ローマ帝国崩壊( 476年)後のローマ教皇の存在と同じです。
Augustus
古代ローマに於いて、インペリウム(Imperium) は「命令権」や「支配」を意味し、共和政期には「軍指揮権」を意味した。インペラートル(Imperator)はこの語に由来、「命令者」を意味し、「エンペラー(Emperor)」の語源となりまし た。その意味で、政軍両面の最高指導者であった征夷大将軍の方が「Emperor」の概念に近いのではないかという議論もあり、いわんや江戸時代…、地上に唯一無二のはずの中国「皇帝」や日本の「天皇」の訳語にどちらも「Emperor」が用いられたり、幕末から明治にかけて、将軍・天皇ともに「Emperor」、将軍が「Emperor」、天皇が「Mikado」と訳されるなど混乱が生じましたが、日英同盟締結(1902)で天皇が「Emperor」として認知されました。因みに、今日、征夷大将軍は「Shogun」と訳されています。

今日の外交上、Emperorと訳されるのは日本の「天皇」のみで、その家系を遡ると国家誕生・天地創造の神話の世界に辿り着くことができる唯一の存在であることは間違いないようです。

『龍馬伝』もそうでしたが、テレビドラマらしくない、映画フィルム画面のような映像に好感を持っています。前回の『江〜姫たちの戦国〜』があまりにもスカ(=ハズレ)、今回は大いに期待しましょう。

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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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