源頼朝

September 14, 2016

これも、散歩の途中? <18> 高時腹切りやぐら

 「源平の戦い」の覇者、源頼朝は征夷大将軍に就き、坂東相模国鎌倉に幕府を開きます(1192)。京の貴種:頼朝は坂東武士の土地所有を保証するシンボルとして棟梁に担ぎ上げられ、対京都(=朝廷)交渉の機能を果たし、鎌倉幕府の確立後は用済みとなります。征夷大将軍:頼朝は突然死、跡を継いだ嫡男:頼家も変死、その弟の実朝も変死、頼朝の血筋はあっけなく絶えてしまいます。クーデター(?)によって政権を簒奪(?)した北条氏は、次々と仲間内の熾烈な争いに勝利して最高権力を握ることになります。北条氏、特に得宗家が烏合の衆であった坂東武士をまとめ上げ、百五十年間に渡り政権を保持することになります。もし、モンゴルの侵攻(元寇)がなければ、もう少し長かったはずです。

 1333年2月、後醍醐天皇が隠岐を脱出、鎌倉を発って六波羅救援に向かった足利尊氏は京の西、大江山、老ノ坂を越えた足利氏の飛び領地、丹波亀岡篠村八幡社で後醍醐の勅旨を得て挙兵、後に光秀も「敵は本能寺にあり!」と同じ道を行くのですが…、老ノ坂を越えて京に迫ります。2年後、後醍醐に叛旗を翻した尊氏は敗走、三度目の老ノ坂越えで西国へ逃れることになります。元へ…、5月、尊氏の京総攻撃に耐えきれず、六波羅探題:北条仲時・時益は光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇を伴って脱出するも、時益は首の骨を射られて討死、光厳は肘に矢を受け、9日(?)仲時は近江国番場宿蓮花寺に辿り着くも、前を佐々木道誉の軍勢に阻まれて万事休す。天皇と上皇を残し、仲時は一族432人と共に自刃しました。

 一方の関東では、5月8日、同じく後醍醐の勅旨を得た新田義貞が挙兵、18日には稲村ヶ崎から鎌倉に突入します。

腹切りやぐら_1 熾烈な仲間内の権力争いの政治的決着なのか…、得宗家の当主は同じ北条氏や外戚である安達氏から室を迎えることが多く、長きに渡る近親結婚の影響なのか病弱短命で、最後の執権:高時は暗愚(?)とはもっぱらの評でした。高時以下得宗家一門は、代々の執権が暮らした「小町亭」と呼ばれる居館を出て、裏を流れる滑川に沿って歩き、葛西ヶ谷を背にした菩提寺:東勝寺が、北条九代百五十年、最期の地となりました。「供養塔卒塔婆」には高時と共に870人が自刃したとあります。

腹切りやぐら裏 近番場宿蓮花寺での432人そして鎌倉東勝寺での870人、合計1,300が自刃したとは、後にも先にも、これほど強い結束力はありません。鎌倉・六波羅探題の滅亡した中に御家人はほとんどおらず、北条氏一門と御内人(みうちびと、みうちにん 北条得宗家に仕えた武士)ばかりでした。北条氏が如何に排他的であったかを物語る数字です。元弘3年、1333年5月に亡んだのは鎌倉幕府ではなく、北条氏一門と御内人だったと云うことが出来るでしょう。

腹切りやぐら 北条一族の慰霊のため、1335年、後醍醐は尊氏に命じて「小町亭」跡に「宝戒寺」を建立します。

 「宝戒寺」から最期の地、高時の「腹切りやぐら」まで5分のはずが、案内標識を見落としたために、30分も余計にかけて辿り着きました。

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August 22, 2013

坂東鎌倉武士 「名こそ惜しけれ」

25年も前の話で恐縮ですが、同期の友人が千葉県柏に住んでいたので、ただそれだけの理由で…、千葉県流山市に住んだことがあります。住んでみて奇妙に感じたのは…、黄色い(?)ヘルメット姿の小中学生の通学場面、ご主人が2時間〜2時間半もかけて東京都内に通勤しているのがただ一つ理由か…?、「地方から来られたのですか?」とはご近所の奥さん達の言、自分が東京に住んでいるものと勘違いされているようです。阪神間に長く住んでいた私、2時間も車で走れば日本海まで行ってしまうのですが…。

流山に住んだのは1年間だけで…、東京都内ではなく都下、町田市に引っ越して来ました。九州生まれ・関西育ちの私、流山に居る時は、当然の事ながら、常磐道・東北道と、すべての道は見知らぬ土地、東北地方に通じています。町田に住むと、東名・中央、その先には名神、自分の育った関西へと通じています。上野駅13番線ホームの発車ベルのメロディーが『あゝ上野駅』になったのはつい最近のニュースですが、東北出身の人は東京以北・以東に住み、関西出身の人は東京以西に住み、故郷へとつながる鉄道あるいは道路の沿線に人は定住する傾向があるように思えます。江戸っ子が通を自慢していう言葉:「野暮と化け物は箱根から先(西)」、関西の友人の感覚:「なんで、東京を通り越して、近藤勇の捕まった流山まで行くんや?」、どちらも意味は同じようなもの、意識するかどうかは別に、誰にも自らの文化圏があります。
本_平家物語 横笛 維盛出家・入水130723S
この歳になって『平家物語』の背景をおさらいしてみると面白いことに気付きます。『平家物語』は京都六波羅の伊勢平氏の興隆・滅亡を描いています。…が、「源平の戦い」とは言いながら、それは六波羅伊勢平氏vs敵対勢力、後白河法皇及び摂関家の旧来勢力、及び伊勢平氏と競合する新興武家勢力との三つ巴の戦いでした。

余談ですが、私の住む小山田の別当:小山田有重、秩父氏の一族でれっきとした坂東平氏の一門、当初は平家の一翼を担って各地を転戦しますが、主筋の秩父氏は頼朝:源氏につき、平家一門都落ちに際して帰郷、許されて頼朝:源氏に帰順します。
散歩の途中にある小山田神社、戦前までは「内の御前社」と呼ばれ、有重の婦人を祀ったそうです。
蓮田・小山田神社20130717_3
1192年、勝利した源頼朝は坂東相模国鎌倉に幕府を開き、自らは征夷大将軍に就きます。ところが、鎌倉幕府の確立した源頼朝は突然死、跡を継いだ嫡男:頼家も変死、その弟の実朝も変死、3人ともに北条氏が殺害、幕府内の実権を握ります。頼朝の血筋はこれで絶え、あれほど熾烈を極めた「源平の戦い」は「源平共倒れ・共食い」の結果となります。執権北条氏の出自は不明ですが、桓武平氏の流れであると称したのは皮肉なものです。
Minamoto_no_Yoritomo
京の貴種:頼朝は、ただただ、坂東農場主の土地所有を保証するシンボルとして棟梁に担ぎ上げられ、対京都(旧勢力)交渉の機能を果たしただけで、鎌倉幕府の確立後は用済みとばかりに粛清され、結果、坂東武士は日本国内に、もう一つの独立国を建てることに成功したのです。

平安後期、鋤・鍬・鎌など鉄製農機具が個人でも使えるぐらいに安価になり、足柄峠(後の箱根)の坂の東向こう:坂東の地では、新田・牧場の開墾・開発が隆盛、アメリカ開拓期の西部で大牧場を切り開いた牧場主のようなものでした。武士というよりは牧場主のような彼等は「俺が開墾、耕した土地、だから俺にその所有権がある」、すなわち「一所懸命」という単純明快な論理と「名こそ惜しけれ」という、恥ずかしいことはしない、卑怯な振舞いを蔑む精神は表裏一体して鎌倉武士の真髄であり、その後の日本人の考え方・生き方に大きな影響を与え、日本人の原理・原則、「理念」にもなって行きます。もちろん、お隣の中国・韓国には存在しません。日本史にこの時代の関東とその精神がなければ、(日本史は極めて)寂しいものになる、とは司馬遼太郎の言葉です。

それから5百年後の江戸・元禄時代、今だに国民的英雄の「赤穂浪士討ち入り」事件。何故、この討ち入り事件が「名こそ惜しけれ」の坂東ではなく、その対局の上方圏(?)、播磨国赤穂の浪士によってなされたのでしょうかね。

近藤勇さらに下って160年後の幕末の新撰組、戊辰戦争(鳥羽・伏見の戦い)以前の5年間での内部の死者:45名の内、倒幕志士との戦闘による死者はわずか6名、ほとんどが、近藤勇の「士道不覚悟」の一言で粛清されたもので、敵よりも同志を殺した数のほうがよほど多かった狂気の集団でした。司馬に言わせれば、ロシア革命における労働者出身の革命家のごとく、当時の武士ならばとうてい思いもつかない陰険な手段を用い、美意識は武士だがやることは武士ではない、先祖伝来、地頭に支配されてきた階級の出身者に特有なもの、とは手厳しいですが全くの同感です。

彼等の行動には武士階級、選ばれた階級ゆえの負うべき義務や責任は感じられません。

近藤勇は「名こそ惜しけれ」の坂東武蔵国多摩郡の出身。またまた、私の家から遠くない、小野路という場所に出入りしていたそうで、あまり好きな人間ではありませんが、縁がありそうです。

 参考資料:「東と西の語る日本の歴史 」 「この国のはじまりについて―司馬遼太郎対話選集〈1〉 」

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September 23, 2012

逗子田越川の畔

祖父、藤原成親は、平家一門を滅ぼさんとした「鹿ケ谷の陰謀(1176)」の主犯の一人として、備前国に配流、後に殺されます。、平維盛は、その父は重盛(その妻は成親の妹)、祖父は清盛に繋がる平家一門の嫡流、「富士川の戦い(1180)」で頼朝に、「倶利伽羅峠の戦い(1183)」で義仲に敗れ、京、六波羅を後に都落ちします(1183)。一門の中で苦しい立場の維盛は、「自分が死んでも出家などせず、再婚して子供たちを育てるよう」と告げ、追いすがる妻子(若君10及び姫君8歳)を京に残して西国に逃れますが、妻子への強い愛情を振り切ることが出来ず、とうとう屋島の戦線を離脱して京に戻ろうとします。…が叶わず、滝口入道を頼って高野山へ逃れ、最期は、熊野にて入水自殺を遂げます。六代御前まえバス停(看板)_2

「六代」、正盛から数えて六代目、維盛の幼名が「五代」だったので子供を「六代」と呼んだという、本名は「高清(たかきよ)」、一般的には「六代」と呼ばれます。もちろん一門の嫡流です。親子は、平家が「壇ノ浦の戦い(1185)」に滅んだ後も、嵐山に密かに隠れ住んでいましたが、鎌倉の代官:北条時政の残党狩りの探索の網に捕まり、愛しい我が子さえも捕らえられたことに気が狂わんばかりに悲観してしまいます。「六代」の命も風前の灯火…、そこに文覚上人が現れ、「六代」助命の為に猶予を申し出ます。挙兵を奨めた文覚に恩を感ずる頼朝に 助命 を直訴に鎌倉へ向かいます。すでにその猶予期間も過ぎ、足柄の峠の手前、駿河国で今まさに処刑が執行されようとする、その時、文覚の弟子の僧が馬にむち打って駆けつけて来ます。頼朝の赦免状が届き、間一髪のところで救われます。悲観のどん底から希望へ、と思ったら、悲観のどん底へ、と思ったら、希望へ…、まるでジェットコースターに乗っているようなテンポの速い舞台回しです。

1189年「六六代御前 墓標代」は剃髪して妙覚と号し、1194年には頼朝に謁見、異心無く出家したことを伝えます。僧として、まずは高野山に滝口入道を訪ね、父:維盛出家の様子を聞き、父の最期の地:熊野へ、諸国を訪ねて父:維盛の菩提を弔っていました。1199年頼朝死去。文覚が謀反を企てたとして隠岐国に流罪となり、「六代」も捕らえられ、鎌倉への護送の途中、今度は足柄の峠を越えて相模国、逗子田越川の畔にて斬首、「六代」=妙覚26歳でした。

「それよりしてぞ、平家の子孫は絶えにけり」の一文は「平家物語」冒頭の、「諸行無常」、「盛者必衰の理」を実感させる重要な結びとなります。

父を、夫を、息子さえも失った女、維盛の北の方は夫の遺言通り吉田経房(つねふさ)と再婚、娘と共に経房の屋敷に住んでいましたが、1193年、娘を18歳で藤原実宣に嫁がせます。

源頼朝の血統は、「壇ノ浦」から50年後の1234年、「竹御所(たけのごしょ)」、母子共に死亡をもって断絶しますが、平清盛のそれは花山院(かさのいん)家、四条家、宗家に、そして、後深草天皇、亀山天皇を通じて今日の皇室に伝えられているそうです。

男達は、絶望から自殺する人も含めて、次から次へと死んでいきますが、どっこい、女達は、入水自殺しても海中から救い上げられたり、子孫を残しながら、しぶとく生きて来たようです。

そんなことを思いながら「六代御前」の墓を逗子田越川に訪ねました。源氏ファンが圧倒的な関東、いわんや鎌倉の隣の逗子…、とは全くいらぬ心配、きれいに整備されており、お参りの方も多いようで、地元住民により手厚く守られています。
六代御前の墓_2

※ Amazon: 「平家レクイエム紀行」中石孝著 新潮社
                 「平家後抄」〜落日後の平家 上・下 角田 文衛著 講談社

 
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March 25, 2012

『平清盛』は面白い、…NHK大河ドラマはともかく…

宋(960 - 1279)は北方の遼、西の西夏、満州から南下した女真族が建国した金(1115)などの異民族の圧迫に悩んでいました。金と謀って遼を倒したまでは良かったのですが、遼の残党と南宋時代の地図手を組んで金を牽制、これが金の怒りを買い、中国史上における政治的中心地:華北を失います(1127)。長らく漢民族王朝がとってきた『以夷制夷 夷を以て夷を制す』政策が機能しなくなり、異民族王朝の出現を許すことになります。

これら異民族の圧迫により、唐の時代(618年〜907年)に発明された黒色火薬(硝石+木炭粉+硫黄)は実戦兵器への応用が急速に拡大します。金により、華北・東北地方の領土を失った南宋は、より一層、火薬の原料である硫黄を必要とするようになったにもかかわらず、国内にその産地を失い、日本に供給を求めるようになりました。

894年の遣唐使廃止以降も、中央の朝廷や貴族は貿易や交流にきわめて消極的でしたが、九州沿岸の商人たちによる私貿易は続いており、太宰府に代わって博多が中世都市として発展します。平清盛は1167年に太政大臣となり、権力を掌握、その基盤を西国に拡大し、音戸ノ瀬戸を開削(1167)、(機内)摂津国福原に大輪田泊を修築(1162)、安芸国厳島神社を造営(1168)、海上路を確保することになります。
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摂津国福原で奥州産の金・銀などを積み、鬼界ヶ島(薩摩硫黄島)の硫黄を宋へ運び,宋から大量の宋銭・香料・陶磁器などを持って帰るという三角貿易(鬼界ヶ島 → 宋(寧波) → 博多・摂津国福原)を実現。輸入された大量の宋銭は、従来の国産の貨幣を駆逐、貨幣経済の革命的な発展をもたらしました。これは正に、大航海時代、エリザベス1世(在位1558-1603)の時代、英国が莫大な富を得るアフリカ黒人奴隷(三角)貿易と全く同じ構図です。日宋貿易は院政否定、天皇擁護、福原遷都とならんで、清盛が東アジアを見据えた、如何にスケールの大きな政治家であったかを物語っています。
てつはう

宋が日本から大量の硫黄を輸入した訳を、清盛は知る由もなく…、また知る必要もないのですが…、次の異民族王朝:元(1271 - 1361)の時代、モンゴル軍は、「てつはう(炸裂弾)」を持って鎌倉幕府北条政権下の日本に侵攻します(1274/1281)。当時は十字軍の時代、イスラム教徒とキリスト教徒が闘い、そこにモンゴル軍が割り込んでくる、言わば、史上初めての、世界大戦の様相を呈した時代でした。

清盛は『平家物語』では傲慢な悪役として登場し、「貴族化した軟弱な平家が屈強な坂東武者に敗れた」や「奢り高ぶった平家から人心が離れた」とされますが、実は、朝廷、貴族、寺社(比叡山・興福寺)など、没落して行く支配階級側からの強烈な嫉妬・遺恨・敵愾心でした。武家の棟梁の座についた頼朝は、清盛の政策を踏襲して鎌倉幕府を開き、関東武士を結集しますが、どう見ても、チマチマした箱庭のような政権に見えるのは私だけでしょうかね。

モンゴル軍の炸裂弾に驚いた鎌倉武士でしたが(1274/1281)、ただびっくりしただけで、それが何であるかは興味もなかったのでしょうか…、次に日本人が鉄砲を目の前に持たらしたのは1543年、種子島に漂着したポルトガル人でした。中国 → イスラム → ヨーロッパ → 日本、あれから260年もかかっています。中国4大革命のうち、製紙・活版印刷はかなり初期の段階で、羅針盤は鎌倉時代までに日本に伝来したと思われますが、火薬も、中国から直接、あるいは朝鮮経由でもっと早い時期に伝来していたのではないでしょうか。

バグダッド陥落(1258)
グダッド陥落(1258)
NHK大河ドラマ:『平清盛』の人気は今ひとつ…、らしいですが、歴史上の『平清盛』は大いに見直されるべきでしょう。
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March 01, 2012

歴史の分岐点

Minamoto_no_Yoritomo1192年、日本史で言えば源頼朝が鎌倉幕府を開いた年。同じ頃、地球の裏側は、獅子心王(Lion Heart)の異名をとったイングランドのリチャード1世のサラディン軍相手の戦闘と講和、第3次十字軍(1189年〜1192年)の時代でした。戦闘でイスラム側の捕虜となるも、同じ収容所の仲間、ムーア人と一緒に脱獄、母国:イングランドに帰り、国王の留守を狙king richardって政権奪取を狙う地方行政官(Sheriff)と戦う義賊の頭領:ロビン・フッドの物語で、映画:『ロビン・フッド(Robin Hood: Prince of Thieves 1991)』ではケビン・コスナーが演じています。ロビン・フッドは実在の人物ではありませんが、この映画の時代考証はどうでしょうか…。

Robin_Hood_telescope

一緒に付いてきたムーア人が望遠鏡を取り出して未だ遙か彼方に居る追っ手を見つけます。「見てみろ」とその望遠鏡をロビン・フットに手渡すのですが、望遠鏡をのぞくと追っ手が目前に迫って見え、彼はあたふたと剣を抜いて闘おうとする始末に苦笑します。ムーア人は、望遠鏡はともかく、爆発物(火薬)を作り、使うことは出来たのでしょう。時代がしばらく下って鎌倉時代、文永(1274)及び弘安(1281年)の役と2度に渡る「モンゴル襲来」では爆発物(火薬)に度肝を抜かれる日本でした。12世紀末のイングランドにも、13世紀末の日本にも、未だ火薬が存在しない、いずれも文明の及ばない辺境に過ぎなかったのです。

8世紀にはイスラム勢力がアフリカ西北部に進出、ムーア人と呼ばれていました。彼等はジブラルタル海峡を渡って、711年西ゴート王国を滅ぼし、イベリア半島を支配していました。タラス河畔の戦い(751)で捕えられた唐の捕虜から製紙技術がイスラム世界に伝わったとされ、12世紀にはアンダルシア地方でも生産されるようになりました。

東地中海では、1453年ビザンツ帝国がオスマン朝トルコにより滅亡、逆に西地中海では、ポルトガルが徐々にイスラム勢力を駆逐、1492年グラナダが陥落し、レ・コンキスタが完成しますが、東地中海を放棄、ジブラルタル海峡の西、大西洋に活路を見いだします。ここまでは、ギリシャ・ローマ文明の後継者である西ヨーロッパキリスト教(ローマカトリック圏)文明の大敗でした。wine_press

15世紀には、イベリア半島を通じて製紙技術及び木版印刷技術がヨーロッパに伝わったと思われます。中国起源の木版印刷技術はバレンで「摺る」ですが、ヨーロッパでは普及しませんでした。1445年頃、グーテンベルグ(1398 - 1468)はアンチモン合金のguten_press活字、この活字を並べて組版します。地中海世界で古くから使われているオリーブ・ぶどうの圧搾技術(搾油・搾汁技術)を応用して、凸面に付いたインクを紙に押し付ける、「プレス (Press)」する活版印刷機を発明しました。

これを機に、従来ラテン語で印刷されていた聖書がそれぞれの国の言語で印刷されるようになり、自らの言葉で聖書を読む=聖書への復帰と言う形で、宗教改革に発展していきます。グーテンベルグ以降の50年間に作られた印刷本の数は、それ以前1000年間に作られた書籍の数の何倍にも達したというように、旅行記・地図の出版が新たな地理的発見を生むことに繋がり、1543年の地動説、1609年のケプラーの法則、1687年のニュートンの万有引力の法則の発見等の科学技術の爆発的膨張はその後、ワットの蒸気機関の発明(1769)そして産業革命、近代市民革命、国民国家の成立につながって行きます。
鉄砲
ギリシャ・ローマ文明を生んだ地中海が原産の(…かどうかは知りませんが…)オリーブ・ぶどう。その搾油・搾汁技術の要は「ネジ」です。その「ネジ」は、1543年、種子島に漂着したポルトガル人のもたらした鉄砲と共に日本に持ち込まれました。1600年「関ヶ原の戦い」では5万丁の鉄砲が投入されますが、これをピークに鉄砲の生産は減少、江戸時代になると鉄砲の技術的発展は全くなく、銃把(=グリップ)の装飾に贅をこらすなど、兵器=道具としてよりも意匠・工芸美術品に成り下がり、とうとう日本から姿を消してしまいました。

「十字軍派遣」は歴史の大きな分岐点でした。

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November 29, 2010

憧れの地、湘南 〜 ミーハーですが…

私は高校時代を伊丹(大阪空港が在るのですが、兵庫県です)ですごしました。北に川西市が隣接していますが、失礼ながら当時は田舎、阪急宝塚線「川西能勢口」駅から、あくまでも当時ですが、牛が線路に寝そべっていてもおかしくない「能勢電鉄」に乗り換え、猪名川に沿って行くと源氏発祥の地、清和源氏を祀る「多田神社」にたどり着きます。

清和天皇(850-881)を祖とす鶴ヶ丘八幡宮る清和源氏の一流、河内源氏が東国(関東)に勢力を伸ばし、頼朝の代に武家の棟梁として、「征夷大将軍」の位を得、初めての武家政権、鎌倉幕府を開きます(1192)。

葉山海岸その高校時代の友人が鎌倉に遊びにやって来たので、…牛は引いて来ませんでしたが…、町田に住む私にとってはそう遠くない所、鎌倉近辺を付き合うことにしました。京都を見慣れた関西人にとっても鎌倉は魅力、相模湾に面したいわゆる「湘南」は憧れの地です。

明治以降、東京近郊の海水浴場として整備され、富裕層によって別荘が建てられたことに由来します。富裕層の流入はそのパトロンとして芸術・文化を興隆させることになりますが、鎌倉を中心とする「湘南」はその集積地となります。戦後、石原慎太郎の『太陽の季節』、『狂った果実』に描かれた『太陽族』は映画化され「湘南」文化の大衆化が始まりました。
裕次郎の碑
私のお目当ては葉山、裕次郎の遊んだ葉山海岸の近くにそれはあります。『日影茶屋』、ここは映画:『エロス+虐殺(1970 吉田喜重監督)』で描かれた『日陰茶屋事件(1916、大正5)』の舞台です。

日陰茶屋2無政府主義者:大杉栄は妻:堀保子との結婚生活に在りながら、女性文学集団:『青鞜社』主幹の伊藤野枝と、さらにもう一人、新聞記者:神近市子と四角・恋愛関係に在りました。『日陰茶屋』に大杉栄と伊藤野枝が逗留、そこに嫉妬に狂った神近市子が短刀を持って乱入、大杉栄を刃傷に及びます。この男女の関係だけでも十分スキャンダラスなのですが、この刃傷事件は極めつけでした。結果、神近市子は服役、妻:堀保子とは離婚、最終的に伊藤野枝が勝利しますが、その後関東大震災が発生(1923)、その混乱時に大杉栄と伊藤野枝は憲兵大尉:甘粕正彦に殺された、とする『甘粕事件』が起きます。

『日陰茶屋事件』とは…、名前に罪はありませんが、その内容からしても、「輝く太陽と青い海」の湘南にはどうもしっくり来ません。やはり、戦後の大衆文化:『湘南ブランド』路線で行きましょう。この『日陰茶屋』、現在は一字が変わって『日影茶屋』、昼食のお弁当がホストの私には高すぎます。残念というより、幸いなことに定休日で断念、近くある『LA MAREE DE CHAYA』に入りました。ここの総料理長だった熊谷喜八さんさんが、1987年に南青山に最初の無国籍料理:『KIHACHI』を開き、今や全国ブランドです。

石原慎太郎の『太陽族』はその弟:裕次郎主演で映画化。それに続く加山雄三はエレキブームに続くフォークブームにも多彩な才能を発揮します。因みに私が最初にギターを覚えたのは彼の『君といつまでも(1965)』、以降私のギターの技量はほとんど進化していません。そして、桑田佳祐(サザンオールスターズ)。1978年の歌番組:『夜のヒットスタジオ』で聞いた彼らのデビュー曲:『勝手にシンドバッド』は強烈でした。

お金持ちの「不良息子」→同じくぼんぼんの「好青年」→どこにも居そうな「音楽馬鹿息子」、と変遷を辿りながらも、根底には「輝く太陽と青い海」という「湘南」大衆文化としての『湘南サウンド』の系譜があるようです。「都会的な明るさ」は大いに魅力なのですが、明るいだけの「軽さ」につながっているようにも思えます。『日陰茶屋事件』に違和感があるように、石川さゆりの『天城越え』が「湘南」の地から生まれることは決してなかったでしょう。



ps: 関ヶ原の戦い(1600)に勝利した徳川家康はを頼朝を踏襲、江戸に幕府を開きます。「源氏」を名乗った彼は、祖先への感謝のために…、かどうかは知りませんが、猪名川の河口、尼崎に在った漁村:佃の漁師に舟を引かせて猪名川を遡上、「多田神社」を参詣します。後に江戸に幕府を開くと、その労に報いて、彼らの江戸進出を許します。佃煮(つくだに)で有名な佃島(つくだじま)の始まりでした。

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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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