源経基

July 09, 2018

摂津国多田庄

 半年ぶりに出る都内、人の多さに酔ってしまいそうな東京駅近く、高校時代の同窓生と久しぶりに会うことが出来ました。当時は兵庫県伊丹市の南部に住んでおり、市の北辺に在る高校まで自転車で一時間弱をかけて通学していました。当時、まだ人口が少なく、高校の設置されていない川西市(及び宝塚市)からの通学生も多く、その友人も川西市から通う一人でした。

 川西市は文字通り猪名川の西、 大阪湾の河口から順に尼崎市→伊丹市→ 川西市(兵庫県)、猪名川の東は大阪市→豊中市→池田市(大阪府)となっており、 江戸時代までの行政区「摂津国」は、この猪名川を境に、東を大阪府、西を兵庫県という二つの行政区に分割したのは、摂津国の強大さを明治政府が恐れたからだという説があります。因みに、高校1年の時「セッタン模試」という学力テストの数学で惨憺たる点数を取り、理科系を断念、文化系志望に変えた苦い経験がありますが、この「セッタン」とは摂津・丹波地方、現在の行政区「兵庫県」を意味する言葉でした。

多田神社  清和天皇(850 -881)の孫が臣籍降下、特に経基(つねもと)王(源経基)の子孫が繁栄しました。源経基の子、源満仲(みつなか 912 - 997)は摂津国多田の地(兵庫県川西市)に本拠を構える武士団を形成、「多田源氏」と呼ばれます。伝説では、満仲が住吉大社の神託に従い、 三つ矢羽根の矢を放ち、矢の落ちた多田に居城を建て、見つけた郎党に、「満仲の矢(満矢)」にちなみ、「三ツ矢」の姓を与え、重臣に取り立てたといいます。平野温泉、平野鉱泉は三ツ矢一族の領地でしたが、明治政府は、来訪外国要人に良質三ツ矢サイダーの飲料水を提供するために全国的な水質検査を行い、炭酸ガスを多く含む「理想的な鉱泉」と認定され、炭酸飲料水の工場が建設されました。 後に民間に払い下げられ、「三ツ矢」の伝説は炭酸飲料のブランド「三ツ矢サイダー」となったそうです。

清和源氏_紋 満仲の子である長男:頼光(よりみつ 948 -1021)は多田の地を相続し、その子孫は「摂津源氏」と呼ばれ、次男:頼親(よりちか 966 - 1057)は「大和源氏」の祖、三男:頼信(よりのぶ 968 - 1048)は「河内源氏」の祖となり、父と同様に藤原摂関家に仕えて勢力を拡大します。特に、河内源氏の頼信は「平忠常の乱」を鎮定して坂東に橋頭堡を築き、その子の源頼義(よりよし 988 - 1075)、頼義の子の義家(よしいえ 1039 - 1106)の時代に、 「前九年(1051 - 1062)・後三年の役(1083 - 1087)」で坂東武士を掌握し、義家は「八幡太郎義家」と呼ばれ、後に頼朝の代に「武家の棟梁」として鎌倉幕府を開くことになります。義家の時代に絶頂期を迎えた河内源氏でしたが、力を付けすぎた義家を嫌って、院政勢力側は平忠盛(伊勢平氏)を重用、忠盛の長男:清盛は「保元の乱(1156)」、続く「平治の乱(1159)」に勝利して源氏を一掃、後に武家で始めて太政大臣に就任します。

 「平氏にあらずんば人にあらず」と言われるほどに平氏一門は隆盛を極めました。源平の力の均衡を維持しようとする院政勢力側は、今度は、平氏一門・清盛と対立を深めていきます。そんな中、京都東山鹿ケ谷で起こったのが「鹿ケ谷の陰謀(1177)」事件で、その陰謀に参加していた多田行綱(ただゆきつな ?年 - ?年 多田→摂津源氏)の密告により露見、陰謀に参加した一味を死罪・流罪とし、清盛と後白河院との溝は徹底的となります。「鹿ケ谷の陰謀」とその主犯とされる俊寛は他の二人と共に鬼界ヶ島(薩摩国)へ配流されました。多少の陰りが見えてきたにせよ平家の全盛、密告した行綱は落ち目な源氏、「平家物語」は良いようには描いていません。

 義経の戦功とされる「一ノ谷の戦い」、「鵯越(ひよどりごえ)」ですが、本当は土地勘のあった行綱の手柄だったとの説があり、以降、義経と幸綱の関係が深まります。頼朝は、義経を許可なく官位を受けたとして追討、さらに、二人の関係に不安を感じて行綱も追放し、清和源氏の嫡流を自認した彼は、先祖、源満仲以来の本拠地である多田荘をも没収します。

 頼朝に追われ、都落ちした(1177)義経が西国に向けて船出しようとしたのが摂津国大物浦(兵庫県尼崎市)で、京から下ってきた淀川から分かれて神崎川となり大阪湾に注ぎます。 冒頭の猪名川は、この神崎川河口を少し内陸に入った辺りで分かれ、北へ延びており、大物浦辺りの河口地域は京・山城国・大和国・摂津国を結ぶ一大物流拠点だったのでしょう。 時代は下って、源氏の嫡流を自称する家康は、この大物に隣接する佃島(大阪市西淀川区)の漁師が牽引する船に乗って猪名川を遡上、上流にある清和源氏発祥の地、多田院に参拝します。家康は江戸に幕府を開くと、その労に報いて、彼らの江戸進出を許します。後に佃煮で有名になる江戸(東京)佃島の始まりでした。因みに、つまらないの意味で「下(くだ)らない」と云いますが、当時、うまいもの、おいしいものは京・大坂からの「下りモノ」でしたが、江戸発の例外「上りモノ」は浅草海苔とこの佃煮でした。180708_能勢電

 猪名川の渓谷に沿って、時には渓谷を跨いで走る「能勢電」に乗って、摂津国多田庄を再訪したいものです。

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express01 at 15:56|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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