湊川の戦

December 23, 2017

散歩の途中<<26>> 忠生(ただお)

 歩いて行くにはちょっと遠いので、自転車で忠生図書館に行ってきました。今まで、桜美林大学の図書館を利用していましたが、当然のことですが学術書が多く、最近はあまり利用していません。代わりに小説、娯楽書の多い忠生図書館に行くようになりました。貸し出し期限・冊数も桜美林ほどうるさくもなく、大いに利用しています。なかなか面白そうな場所で、近くには「かぶと塚公園」忠生小学校門松3があり、この「かぶと塚」の由来は、鎌倉攻撃に多摩川・横山を越えて南下する新田義貞軍に関係があるようです。今の時期、もう一つの見所は忠生小学校(1912年開校の忠生尋常高等小学校)です。かつての組合理事仲間の一人が父兄の人達と一緒に作った大きな門松が飾られています。

 平安後期、足柄峠(後の箱根)の坂の東側、坂東の地では新田・牧場の開墾・開発が隆盛、所領安堵を保障する棟梁に従い命を引き替えに戦場で働く、という「一所懸命」を信条とするの多摩(坂東)武士団に発展して行きます。彼らは頼朝を担ぎ上げて平家を倒し(1185)、その彼を征夷大将軍に鎌倉幕府を樹立(1185 or 1182)します。平家打倒の目標喪失で、頼朝への求心力を失った御家人を北条時政(伊豆)は、だまし討ち・暗殺で大量に粛正、執権職を北条得宗家で独占します。これは、棟梁の下では御家人は皆平等であるという考え方とは対立するものでした。鎌倉幕府の崩壊(1333)とともに1千3百人が自刃、それも北条氏一門のみで他の御家人はいなかったと云うのは極めて異様です。

 尊氏は京室町に幕府を開き(1336)、独立政権樹立を警戒して関東管領を置くも、関東一円には一足早く戦国の世が訪れます。上杉の支配が強まると小田原北条を迎え入れてその家臣団に入り、家康の関東入り(1590)するとまたこれに協力します。棟梁はあくまで仲間の代表でしかなく、棟梁の下では皆平等の意識が強く、棟梁は外部に依存し、仲間内から棟梁を出すことはしない。結局、多摩武士団は自ら大規模な組織作りができませんでした。

 家康は、信長・秀吉に滅ぼされた甲斐武田の遺臣、小田原北条の残党を厚く迎え入れ、大久保長安を始めとする旧武田の家臣に関東の支配を任し、一方、鎌倉・室町幕府・後北条氏とその時代の支配者に仕えた世襲代官、江川太郎左衛門(通称)に旧後北条の支配地、伊豆・相模・多摩を天領としてその経営を任せた。大久保長安は甲州街道及び八王子の街を建設、旧武田家家臣をして無禄ながら幕府公認の半農半士「千人同心」を組織して八王子周辺を開拓、江戸防衛の最前線とした。戦国の世が終わると、「千人同心」は日光東照宮の火の番が役目となり、江戸の旗本・御家人からは「芋侍」と軽蔑されるが、幕末には唯一の幕府直属の実戦部隊となります。

 江戸時代後期、商品経済・貨幣経済が発展、芝居や相撲の興行などの娯楽が盛んになり、もちろん賭博が盛んになります。これを生業とする博徒・無宿人が増加し、平和な時はさほど問題ないのですが、「天保の大飢饉(1833 - 39)」が発生、幕末に入ると開港の影響で物価が高騰、天然痘・コレラという未知の感染症が流行、社会は大混乱に陥ります。「攘夷」思想がうまれます。領地が複雑に入り組んだ関八州、特に上野国(群馬県)、天領である多摩地区は無宿者・博徒が逃げ込む絶好の場所でした。自衛のためか…、剣術が農民の間にも盛んになったのは全国で上野国と多摩地区だけという。国定忠治と新選組、上州と多摩、どちらも人々の気が荒く、喧嘩、武芸が盛んな風土です。一方では、豪農・名主などの上層農民と貧農などの下層農民の階層分化が進み、階層間の対立が激化、慶応年間には「世直し騒動」(武装蜂起)が激増します。

 江戸時代、百姓とは「百の姓を持つ庶民」、支配階級である武士以外の農民を含む被支配階級と云う意味でした。地方には藩があり藩主、その居城があり、藩士と呼ばれる武士が存在し、彼らは百姓が武士の格好をすることを許さなかった。髪型・服装・持ち物を見ればどんな身分かが判る身分社会でした。ところが、藩がなく、藩士もおらず、代官所の役人以外は武士のいない天領、多摩では武士の身分「千人同心株」さえも売買される有様、武士の真似事をしてもさしてとがめられることはなかった。勇は多摩郡上石原村(調布市)の裕福な農家、宮川久二郎の三男に生まれます(1834)。宮川」は「土方」と同じく隠し姓、武士の真似が昂じると、本当の武士になりたいと思うのは当然。ましてや、剣術が強ければなおさらのこと…。父久二郎の言「お前は武士になれ」で、近藤周助の養子となり、近藤勇、「天然理心流」の四代目宗家となります。近藤勇、土方歳三、沖田総司、井上源三郎は「千人同心」の流れをくむ「天然理心流」近藤周助の門人でした。

 浪士の狼藉に頭を痛めていた幕府は、清河八郎の献策を入れて、江戸に居る浪士を集め、将軍家茂の攘夷決行の為上洛の際、その警護に当たらせること、及び尊皇攘夷の発露を目的に「浪士組」隊員を募集(1863)、「天然理心流」近藤勇達はこれに参加しました。彼は「天然理心流」の宗家、一門をを引き連れて、既に結婚して子供も在りながら、それらを多摩に置き去りにして…何故? とは、現代に生きる人間の偏見でしょうか…。

 池田屋で密会する尊攘派志士20数名に対し当初わずか近藤以下4名が急襲、後に土方隊が到着して逆転勝利、9名を殺害・4名を捕縛して新選組の名を一躍世に知らしめました(「池田屋事件(1864)」)。この襲撃は新選組の常套戦法(一人の敵には三人以上で当たる)を用意する余裕はなく、強烈な天領「徳川恩顧」の思いに突き動かされた行動であったと思われます。遅ればせながら応援にやって来た桑名・会津兵の前に土方歳三はまだ血の滴り落ちる白刃を持って立ちはだかり、一歩たりとも彼等を中に入れなかったと伝えられています。この勝利は新選組が独占する。他の者には指一本触れさせないという強い決意の表れだったのでしょう。その土方歳三が作ったとされる「局中法度」。「士道ニ背キ間敷事」とあり、違反者は「士道不覚悟」として「切腹」でした。彼の言う「士道」とは「武士道」とは異なるのか…、出自も育ちも本当の武士ではないという彼のコンプレックスがそうさせるのか…、武士としての品位に欠ける、後味の悪い思いをするのは私だけではないでしょう。極めつけは…、伊東甲子太郎が思想の違いから新選組を離脱しますが、彼は近藤の妾宅で酒に酔わされ、その帰途に隊士の数名により闇討ちされ、その遺体は路上に放置され、仲間を誘い出す囮として使われました(「油小路事件(1867)」)。在京の5年間での新選組の死者は約50名、その内倒幕志士との戦闘による死者数はわずか6名、ほとんどが「士道不覚悟」という理由にならない理由による新選組内部の粛清・暗殺でした。どこか…、約七百年前の北条得宗家と共通点があります。

 新選組のやりかたは「桜田門外の変(1860)」、「天狗党の乱(1864)」、はるか昔に遡って「赤穂事件(1701-1703)」に登場する武士の仕業とは極めて異質なものです。天領、多摩郡には支配する武士階級が存在せず、幕府=将軍の代官として豪農・名主などの上層農民は「公儀=将軍の御百姓(将軍家の農民)」という強い優越感を持っており、そこで生まれ育った彼らに組織された新選組は自ずと幕府=将軍に忠誠を尽くすべく奔走したのですが、そのやり方は武士には到底思いつかない陰険なもので、これも彼らの出身地、多摩郡の「世直し騒動」(武装蜂起)鎮圧、博徒・渡世人相手の治安維持、あるいは祭の若い衆同士の喧嘩のやり方、多摩の特殊性だったのかも知れません。

 「尊皇=勤王」の本質は、天皇が絶対君主でありその座は不可侵(臣下は絶対に天皇にはなれない)、逆に言えば、天皇の下では将軍も武士も百姓も同じ臣下、平等であると云うことです。ヨーロッパ近代民主主義は、ルター、カルビンに依る宗教改革、神=絶対神の下にはローマ教皇も神父も、大衆も、大衆の手助けをする牧師も皆、平等である、に始まるのと全く同じです。その意味で「尊皇=勤王」には普遍性があります。

 「湊川の戦(1336)」で新田義貞は自分の馬を射られ、彼の危急を見た小山田高家は自分の乗馬を義貞に与えて逃がし、身代わりになって討死します。御一新がなり、今は明治の世、1889年、かつての「公儀=将軍の御百姓」は神戸では高家が大事に祀られていることを知って大いに感激、かつての天領南多摩の地に新村を作る際に、その名を「忠臣の生まれた村」、「これからも忠義の者が生まれ出る」ことを祈って、「忠生(ただお)村」と名付けました。染みついた「徳川恩顧」、「公儀=将軍の御百姓」意識、御一新から20年やそこらでは変わらないでしょう。
※参考:英傑の日本史―新撰組・幕末編 (角川文庫)

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August 28, 2017

住めば都…ですが、どうもしっくり…

 「住めば都」とはどんな所でも住み慣れればそこが最も住みよく思う、という意味ですが、朝早くその土地を出て職場に向い、夜遅く帰ってくる、ただ漫然と過ごしているだけでは「住めば都」にはならないでしょう。その土地を知りたい、隣近所と交流して、その土地を良くしたい、それらの意図と実際の行動を通してその土地に対する愛着が生まれ、離れがたい気持が醸成されます。言葉を換えれば郷土愛か、その要素の一つに、その土地が輩出した歴史的人物があります。

 小山田有重は鎌倉幕府の有力御家人の一人でしたが、頼朝の死後(1199)、北条氏に謀られて没落(1205 「畠山重忠の乱」)、小山田氏の一部は甲斐国に落ちます。新田義貞挙兵時(1333)、有重から6代目:小山田高家が新田軍の侍大将として鎌倉攻めに参加して小山田城を奪還します。鎌倉幕府は滅亡(1333)しても次の「南北朝」の戦いが待っています。九州から京を目指す足利尊氏軍は、神戸湊川で新田義貞・楠木正成の連合軍と激突(1336 「湊川の戦」)、義貞は自分の馬を射られ、彼の危急を見た高家は自分の乗馬を義貞に与えて逃がし、身代わりになって討死します。時代は下って明治22年(1889)、神戸では高家が大事に祀られていることを当地の名主が知って大いに感激、木曽・根岸・上小山田・下小山田・図師・山崎が合併して新村を作る際に、その村を「忠臣の生まれた村」、「これからも忠義の者が生まれ出る」ことを祈って、「忠生(ただお)村」と名付けました。

 境川を挟んで、その忠生の反対側、南に淵野辺があります。護良親王は父、後醍醐天皇に疎まれ、足利尊氏の弟:直義の預かりとなり、鎌倉に幽閉されていました。1335年、最後の鎌倉幕府執権:北条高時の遺児:時行が蜂起(「中先代の乱」)して鎌倉に攻め寄せました。鎌倉を守る直義はこれを支えきれず撤退しますが、その混乱の中、家臣の淵辺義博に護良の殺害を命じます。これを機に、後醍醐天皇は足利尊氏と決裂、本格的な「南北朝」の時代を迎えます。実は…、義博は主人の命令に背き、内密に、護良親王を自分の領地に移し、難を恐れて家族との縁を切り、境川に掛かる中里橋、榎木の下で家族と別れ(「縁切り榎木と別れ橋」)、護良親王に従って宮城県石巻まで逃れた、とする伝承があるそうです。

 1590年、小田原後北条氏が滅亡、関東に入封した家康は多摩地区を幕府直轄領、天領としました。家康の命を受け、大久保長安(ながやす)は甲州街道を整備、八王子に「千人同心」を設けて武田・後北条の旧家臣団を近郷開拓の屯田兵として、無禄ながら土地を開拓する郷士組織を作ります。「千人同心」に限らず、多摩は江戸時代初期に開発された土地が多く、彼等の多くは主君をなくした元武士であり、やがて村の名主階層に育って行くことになります。「千人同心」は八王子防御が当初の目的でしたが、後に、日光東照宮の火の番が主な任務となり、武士に憧れる豪農層は同新株を取得して「千人同心」職を兼ねることになります。こうして彼等は「将軍家の家来」と言う意識を強く持つようになります。彼等は客人をもてなす必要から教養として、書道・華道・和歌・俳句、そして地誌・国学などの芸事を学び、彼等文化人の間にはネットワークが誕生します。18世紀(江戸後期)に入ると、交通・経済が発展、幕末の開港による物価の急騰で無宿者・盗賊などの治安が悪化、芸事の一つとして、武芸が名主・豪農層の間で流行します。当時、百姓・武士以外で武芸・剣術が盛んだったのは武士のいない、藩の存在しない天領である多摩地域と、もう一つ、上州(上野国(こうずけ)群馬県)だけと云います。
多摩境札次神社
札次神社
 当時、長州・土佐・薩摩も会津・桑名・彦根も…、ほとんどの藩及び武士の思想は水戸学の「尊皇攘夷」です。幕府直轄領で武士のいない天領:多摩では、武士の代わりに国学を学んだ名主・豪農層はもちろん「尊皇攘夷」ですが、あくまでも佐幕、幕府あっての「尊皇攘夷」でした。「桜田門外の変」が発生(1860)、幕府は清河八郎の献策を入れ、攘夷のの実行・公武合体・尊皇を目的に浪士組を結成、「天然理心流」4代目の宗家:近藤勇とその門弟はこれに参加することになります。近藤を物心両面で支援したのが、名主・豪農の一人、小島鹿之助(こじましかのすけ 町田 小野路村)です。近藤を始めとする多摩出身者とその支援者は、天領=幕府直轄領に生まれ育った、多摩だけに通じる独特の文化を背景に「尊皇」を叫びます。当時の「尊皇」とは一地方の文化ではなく、徳川幕藩体制を越えた、「天皇の前には大名も一個人も平等」という明治の天皇制に引き継がれる普遍的なイデオロギーでした。

 「一所懸命」という論理と「名こそ惜しけれ」という、卑怯な振舞いを蔑む精神は表裏一体した鎌倉武士の風土はどう変遷したのか、家康の関東に入封して270年、藩や武士による直接的支配を経験することなく、武士以上の武士を目指した「新撰組」が生まれた土地ですが、明治の時代になると、一変して、彼等の云う「自由民権運動」の地になるそうです。一変…ではなく、実は…、多摩の歴史を貫く確固たる一本の筋というものが有るのかも知れません。

 話は飛んで…、京都の三大祭りの一つ、「時代祭」は明治28年(1895)、平安京遷都1100年を記念して始まりました。戊辰戦争の際、朝廷のために官軍としていち早く京都に入った山国隊(丹波国で結成された農兵隊)を先頭に、時代を遡り、平安京造営の延暦時代までの行列ですが、室町幕府執政列・室町洛中風俗列(足利幕府時代)が加えられたのは112年後の、2007年のこと、松平容保と新選組は今に至ってもまだ列に加えられていません。そろそろ列に加えても良いのでは…。 
※参考:英傑の日本史―新撰組・幕末編 (角川文庫)
    
新選組 敗者の歴史はどう歪められたのか (じっぴコンパクト新書)
   日野市立新撰組のふるさと歴史観特別編「新選組誕生」

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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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