深川

May 06, 2015

江戸深川、芭蕉庵辺り

 管理組合の副理事長を務めてまもなく丸一年、この1ヶ月が最も忙しかったのではないでしょうか。甘い言葉に乗って…というか、軽い気持ちで…あと一年引き受けたのですが、管理組合総会を今月に控え、引き受けたことを悔やむ羽目になってしまいました。これだけが理由ではありませんが、何の計画もなく、ただボケーっとしているだけのゴルデンウィークに終わりそうなので、思い切って江戸(東京)深川、芭蕉庵跡地を訪ねることにしました。
 
 江戸時代の町人や商人などの一般市民が登場する小説にあまり興味がなかったので、その舞台である深川には一度も足を伸ばしたことがありませんでした。 新宿から総武線に乗り、両国駅で下車、相撲を見ない私でも、ここに国技館があることはかろうじて知っています。現在の両国を含む北側が本所、南側が深川であり、どちらも江戸時代初期の人口急増に対応して造成された新興住宅地です。当時は隅田川が下総国と武蔵国の国境で、そこにかかる大橋が両方の国に跨る橋ということで「両国橋」となった由。

 今回は両国駅を出て、右手に隅田川の流れに平行して南下すること約30分、先ずは「芭蕉記念館」を訪問。伊賀上野で見学した記念館と同じく、芭蕉の句が並べられていますが、鑑賞眼、文芸・文学的興味に欠ける私にとって作品自体は興味の外、さも判ったような風を装い、近辺の文芸・観光案内図をもらって退出しようとしますが…、待てよ…、ありました。この記念館の目玉、「芭蕉遺愛の石の蛙」、大正6年(1917)台風の高潮の後、常磐一丁目から出土したというホンモノが展示されていました。ロゼッタストーンの発見を彷彿させる発見談にわざとらしさと、いかがわしさを感じつつ、早めに記念館を出ました。

 「芭蕉記念館」の裏口を出ると、そこは隅田川の堤防、堤防にそって2百メートル南下した小名木(おなぎ)川の分岐点に「芭蕉庵史跡展望公園」があり、その近く(常磐1丁目3)で「石の蛙」が発見されたのをもって芭蕉庵跡と認定され、これまたうさんくさい「芭蕉稲荷神社」が建立されています。ディズニーランド、ユニバーサルスタジオの技術からすれば簡単でしょうに…、申し訳有りませんが…、見るからにわざとらしい「石の蛙」と、うさんくさい「お稲荷さん」です。因みに、名句「古池や〜」はこの地で読まれました。
150504_深川万年橋
小名木川を跨ぐ万年橋
  江戸の海は泥水で、塩の生産には適さず、家康は江戸城の塩を確保するために塩業の盛んな下総行徳(千葉県市川市・浦安市)を所領とし、さらに、小名木四郎兵衛に命じて運河を開削させたのが小名木川の始まりです。家光の時代に日本橋小網町まで延伸されて、江戸と常総・利根川方面との大動脈になります。江戸は海辺を埋め立てて作られた街、井戸を掘っても十分な飲料水を確保することが出来ず、井の頭池を水源とする「神田上水(1629)」が造られました。塩と飲料水の確保、必須の2つを家康は後北条氏に学んで江戸の礎を築きます。

 日本橋といえば江戸随一の繁華街、それに比べれば閑静な場所でしたが、小名木川の沿って多くの大名や豪商が別邸、下屋敷が並び、日本橋からもそれほど遠くはなく、うら寂しい場所ではなかったように思われます。やっとのことで日本橋小田原町での安定した生活を築いた芭蕉は、突然、深川に移住します(1680)。その安定した生活を捨てるほどの理由とは何だったのでしょうか。 万年橋を渡った南には、元禄の豪商:紀伊國屋文左衛門の屋敷があったと伝えられる清澄公園が広がります。

 その一角に「奥の細道」出発の地、芭蕉は先人の残した枕詞、名所、旧跡を巡る旅に出たのですが、以降、芭蕉縁の地も新たに名所、旧跡に加えられることになります。
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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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