松平定信

March 23, 2019

「弓馬の道」と「馬車」

170917_大泉寺参道
 私の住む小山田桜台の周辺には平安時代から続いたであろう、この地に特徴的な地名があります。馬掛(まがけ)・馬場・牧畑などの「馬」に関連する地名です。秩父氏の一族、小山田有重(生没不詳)は小山田別当(馬牧の長官)を務め、現在の大泉寺を居館とし、治承・寿永の乱(1180 - 1185 源平の戦い)では、当初は平氏側に、戦後は鎌倉幕府、頼朝側に仕えました。市内野津田には、鎌倉街道の跡(「上の原遺跡」)があり、幅:6mの道路と側溝が通り、その両側に 高さ2mの「掘割(塁)」が設けられ、乗馬した状態でも行動が察知されないための目隠しとも云われています。

 馬の腹に脚を絡めて、自由な両手で弓を射る(パルティアン・ショット)。パルティアン・ショット世界史的に見て、<馬のスピード>+<矢のスピード>を超える破壊力は鉄砲の出現を待たなければなりません。この時代の坂東武者にとって、「騎射の術」、「馬上の組うち術」など、馬とは一騎打ちの道具でした。また、奥州に住んでいた蝦夷の技術に由来する(?)蕨手刀(彎曲刀)は、反りのある、引き切りに適した、騎馬戦で有効な武器としての日本刀に変化して行きます。加えて、僧侶ではない者の頭頂部を剃る民族は、日本人の髻(もとどり)と月代(さかやき)の習慣は靺鞨・女真などツングース系遊牧民族の辮髪(べんぱつ)に見られます。

 中国、漢代の「南船北馬」に倣って、東国の「しゅう馬の党」と西国の「海賊」、「将門の乱」と「純友の乱」、東国の傀儡と西国の遊女、後の源氏の東と平家の西、網野善彦は東西日本の地域的特質を「西船東馬」と表現しています。こう評されるように、馬の飼育・活用に適した広大な関東平野に在って土地を開拓・経営し、「一所懸命」・「名こそ惜しけれ」の坂東武士は半独立国家、鎌倉幕府を樹立します。これは日本人の美徳の一つとして現在にも受け継がれています。

 この辺りで、ユーラシア大陸に割拠する「日本人騎馬民族説(=遊牧民族説)」が出て来るのですが、残念ながら、日本人をさらに絞り込んで、「弓馬の道」、馬の飼育に長けた坂東・東国人に限ったとしても、遊牧民族に特徴的な、「去勢」という技術は存在しませんでした。家畜をコントロール(雄の数が多すぎる、体力のない子供を産ませても無駄、あるいは品種改良)する「去勢」技術があってこそ、ユーラシアにおける遊牧民族の農耕民族に対する優位性が確保されたのです。「悍馬を乗りこなすのも武士のたしなみ」とばかりに、「去勢」技術の情報があってもこれを無視したようです。自ずと「宦官」の制度も日本には入りませんでした。外国文化の取捨選択が上手いといわれる日本人ですが、はたしてそうなのか…?日清戦争(1894 - 1895)に勝利した日本は軍を北京に駐留させますが、日本軍の軍馬が人間の手に負えない悍馬ばかりと欧米列強に馬鹿にされ、彼らの軍馬が去勢されて完全にコントロールされているのを知り、以降去勢技術が日本に急速に普及することになります。

 馬術・一騎打ちの技術は洋の東西を問わず発達していきますが、馬に車をけん引させる「馬車」に関して、両者は全く異なります。メソポタミア文明(BC 3500頃)が北上して遊牧民と遭遇、両者は化学反応を起こし…、「鉄と軽戦車(二輪馬車、チャリオット)」を武器にヒッタイト帝国(BC1200〜)、続いてアッシリア帝国(BC14世紀中)が繁栄、軽戦車(二輪馬車、チャリオット)の技術は中国、殷(商 BC17世紀〜BC 1046)にも伝わります。おそらく、この時に入った「去勢」技術が「宦官」の制度にも繋がっていったのでしょう。その後、「すべての道はローマに通ず」の通り、ローマ帝国全域に大きな石を亀甲形等に組み合わせた舗装道路網が広がっていたと云います(BC 117の主要道路は8万6千キロ)。当時、イングランド島に在るヨーク(York)は帝国の北辺の地。現在は中世の街並みが残る美しい街ですが、街並みを横切る石畳の通りには、両側に歩道、車道には馬車の轍(わだち)が深く残っています。ローマ帝国のように石材がなく、石畳を作れなかった中国、秦の始皇帝(BC 259〜BC 221)は車の車軸のの長さを統一、中国の馬車は領土全域を同じ幅の轍(わだち)の馬車が走ったそうです。

 一方の日本、「馬車」が発達した形跡が全くありません。その理由として、街中では道幅が狭く、舗装されていない、長距離では河川がが多く、山間が多いので坂道が多い、というのが列挙される大方の理由です。これらは、江戸時代をイメージとした、後付けの理由に過ぎず、馬(家畜)をコントロール(制御)する「去勢」技術を学ぼうとしなかったのが最大の理由です。馬車の往来に耐えうる道路、架橋、効率よい道路網の建設は、まず最初に、馬(家畜)をコントロール(制御)する「去勢」技術を取得して、その後に発生してくる課題であり、ローマはじめヨーロッパを見ても、道路建設・架橋技術は多くの課題を克服していく形で発達していきました。

 前述の「西船東馬」の通り、関東平野は、大きな河川があるとはいえ、もともと起伏の少ない平原、馬車が発達するには最適な土地だったのではないでしょうか。明治時代 馬車鎌倉幕府による鎌倉街道の整備は時代的制限があるとしても、江戸時代に至り徳川幕府は五街道に加えて甲州街道を新設したというが、その後、明治始めにおける鉄道馬車の発展を見るに、きわめてお粗末な道路行政だったといえるでしょう。

 関東平野の北辺、白川藩主、松平定信は「寛政の改革(1787 - 1793)」を行います。その時、大坂の儒者、中井竹山は馬車を採用することを提言しています。西欧の馬車の情報を得たのであろう、馬車馬の御者一人で多数の人間・物資を効率よく運搬できることを説くも、効率化による失業者の増加、馬車の重量に耐えられる道路の整備、架橋の整備の費用を誰が出して、その利益をどのように徴収するか、定信には到底理解できず、却下されてしまいます。もし、中井竹山の提言が前任の田沼意次の重商主義時代に出されたのであれば、ひょっとして、馬車、道路建設も違った方向に向かったかも知れません。

※参考資料:網野善彦著 「東と西の語る日本の歴史 (講談社学術文庫)
      出口治明著 「仕事に効く教養としての「世界史」」     

Appreciate Your Support▼ご支援をお願いします
     にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ  にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ       


express01 at 16:01|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

November 22, 2015

女流俳人 五十嵐浜藻

  昨日は、柄にもなく、「いま蘇る江戸の俳人、五十嵐浜藻・梅夫の旅と俳諧」と題する研究員発表会に参加しました。もちろん、研究成果を拝聴する側です。たまたま、研究員の一人が私のテニス仲間、その彼と歴史の話をするという間柄だけで、私には俳諧・連歌、いわんや彼の研究する五十嵐浜藻・梅夫父娘はその名前すら聞いたことがありませんでした。

 五十嵐浜藻(いがらしはまも)は、1773年、町田市南大谷の名主:五十嵐梅夫を父に長女として誕生、祖父:祇室に始まる俳諧連歌の家に育った。 時代は「田沼意次の時代(1767- 1786)」、米を中心とする重農主義から重商主義的政策への転換がなされ、商業資本・高利貸などが大いに発達、「粋」・「通」・「洒落」など江戸文化が確立、江戸が都会に変貌した時代です。その反動として、松平定信が幕政を担って「寛政の改革(1787)」を行うも失敗、その失敗を立て直すこともなく幕末を迎えることになります。

 五十嵐浜藻1806年、俳諧連歌に入れあげた浜藻(当時33歳)・梅夫父娘は、家業の札差(米の購入・販売・金融)を入り婿の夫に任せ、6年にも渡る西国行脚の旅に出ます。結婚して何年目だったのでしょうか? ご主人との間の子供は?お金に関する不自由はないにせよ、旅に残してきた家庭はどうなったのでしょうか?そんなことを心配した、気遣った一句でも残しているのでしょうか、下流老人である私は心配になってきます。

 しかし、古今東西、芸術家は裕福な権力者の家に生まれるか、裕福な権力者をパトロン、庇護者が不可欠です。飲まず食わずの人間に時代を突き破る芸術は生まれるはずはないでしょう。浜藻父娘のように、単に裕福な家に生まれただけではなく、見方によっては常軌を逸した行動こそ時代を突破する力になり得たのでしょう。商品経済の高度化は、手紙による通信および出版産業を発展させ、各地のプロの俳人やそのファン、アマチュアに援助を頼んで旅をすることが可能になったことを意味し、地方に住む彼らは都会からの情報としてこれを歓迎しました。

 おそらく「芭蕉没百年」を記念して、芭蕉縁の地を訪ねて関西・四国・九州に旅し、各地で俳諧連歌の「座」、今日で言えば「セッション」に参加します。「俳諧」の本来の意味は、宮廷・貴族的な「雅」に対して、「冗談・ユーモア・たわむれ・ふざけ」でした。五・七・五からなる17音の発句に始まり、七・七の14音の第二句、五・七・五の第三句、次の14音の第四句…、と交互に繋いでいく、「鑑賞」と同時に「創作」の能力が不可欠な芸術です。「わび茶」を完成した利休とならび、俳諧連歌の「座」は近代を、特に女流俳人:五十嵐浜藻による俳諧連歌の「座」はやってくる近代をも越えて、多分に今日的な意味を持っているのかも知れません。

1年目(1806) 江戸⇒尾張⇒大津⇒四国⇒御手洗⇒小倉⇒博多⇒久留米⇒長崎⇒博多(越年)
2年目(1807) 筑前⇒下関⇒広島⇒横路⇒庄原⇒上下の里⇒笠岡⇒讃岐津田(越年)
3年目(1808) 高松⇒小豆島(京都で越年か)
4年目(1809) 京都⇒近江⇒伊勢⇒尾張⇒上有知⇒京都(越年)
5年目(1810) 京都⇒摂津兵庫⇒難波⇒河内⇒伊賀上野⇒伊勢⇒大津⇒京都(越年)
6年目(1811) 京都⇒丹後⇒越後⇒信州⇒江戸帰着(12月11日)
 
 フランス革命勃発(1789)でオーストリア領ネーデルランドをも戦場となり(1792)、国元に戦火が及んだオランダの日本市場独占の手薄を突いて、ロシアが南下、1792年、日本人漂流民:大黒屋光太夫らの返還と交換に日本との通商を求めてラクスマンが来航します。

 革命戦争後、オランダは従来の日本市場独占を再構築する必要に迫られ、1823年、日本再研究のためにドイツ人、シーボルトを日本に派遣します。彼の研究は、動植物・鉱物に始まり宗教・風俗習慣・法律・政治・地理・芸術・学問・言語等広範囲におよび、1826年には、オランダ商館長の江戸参府に随行しています。 

 一行は、1826年2月15日に長崎を出発、下関を経て3月18日に京都に到着、3月25日京都を出発し、4月10日に江戸に到着しているが、その京都滞在中に、彼は浜藻が編集した俳諧連歌集:『八重山吹』を資料として購入しています。その書はライデン大学「シーボルト・コレクション」の一つとして今も保存されているそうです。

※ 参考資料:倉本一宏「旅の誕生 」 池上英子「美と礼節の絆

Momo holding sign board-HKX Radio※今までの曲は左サイド、Music Player でお聴きになれます。 

I appreciate YOUR SUPPORT.  ▼ 皆様のご支持をお願いします。
 にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 


October 02, 2012

高山彦九郎、生国は上野新田郡

娘家族が渋川市に住むようになったのがその理由…、ではないでしょうが…、群馬県が妙に身近に感じるようになりました。

律令制以前、中部より以東の関東地方には蝦夷が住んでおり、その地の開拓・屯田を目的に渡来人を置いたが、その一派:毛野氏(ケヌウジ)が毛野国(ケノクニ 群馬県+栃木県)、の豪族でした。110年、ヤマトタケル軍は『足柄峠』を越えて東国に入り、関東地方の外縁部を反時計回りに平定しました。この地で、東国を望みながら、亡き妻を追慕して「ああ、吾妻はや(わが妻よ…)、恋しい」と嘆いたことから東国を「あづま」と呼ぶようになります。律令制下では、都により近い上毛野国(カミツケヌ)と遠い下毛野国(シモツケヌ)の二国に分かれた。「毛」は二毛作の毛、昔この地域が穀物の産地であったことを示すもので、「下毛」から下品な想像をしてはいけません…、後に「上野国(コウズケ 群馬県)」と「下野国(シモツケ 栃木県)」となる。「毛」の字はなくなるも、その音、「ケ」は残ったことになり、合わせて両毛(リョウモウ)と呼ぶそうです。
木枯らし紋次郎_3

時代はぐっと下って江戸時代、上州といえば、佐位郡国定村の忠治と小説:「木枯し紋次郎」を知っているぐらい、彼等の百年前、紋次郎とほとんど同じ場所:新田郡(にったごおり)の豪農の次男に高山彦九郎(1747〜1793)は生まれました。林子平、蒲生君平と並んで、「寛政の三奇人」の一人です。奇人の「奇」とは「傑出した」、「優れた」という意味であり、「奇妙な、変人奇人」の意味ではありません。

その先祖は、新田義貞の配下として活躍した十六人(「新田十六騎」)の一人:高山重栄と言われ、幼少より勤皇の志を持ち、18歳のときに学者を志して京へ遊学、全国各地を遊歴して勤皇論を説く。かといって、生業も持たず、家業も手伝わずでは、家中、地元では評判の悪い放蕩息子でした。遺された彼の日記は、その健脚ぶりだけではなく、社会・政治状況の重要な資料であり、多くの学者、画人、商人、刀工など、あらゆる階層に属する各地の知人・友人との交流の記録は驚嘆に値します。

天明の大飢饉「天明の大飢饉(1782-1788)」が発生、特に奥州(東北地方)は惨憺たるもので、弘前藩では逃散した者も含めると藩の人口は半減、津軽・南部両藩では、死者が十数万人に達したと伝えられている。浅間山が噴火(1784)、京では大火(1788)が発生、社会不安が増大した。目を外に転ずると、ロシアが南下、千島・蝦夷をうかがう動きを示すようになり幕府・知識階級は大いに危惧を抱くようになりました。奥州白河藩主:松平定信はこの大飢饉の中、倹約に努め、領民に対する食料救済措置を迅速に行ない、藩内では餓死者は出なかったと言われている。その手腕を認められた定信は老中首座となり、幕閣から旧田沼系を一掃して、「寛政の改革」を進めたのはよく知られるところです。山口鉄五郎ほか「蝦夷図」

内憂外患の情勢を自分の目で確かめたい…と、彦九朗は蝦夷地に向かいます。1790年(?)6月5日江戸を出立、下総、常陸を経て奥州街道を北上、三厩(みんまや)を経て、渡海すべく、9月3日に元宇鉄(もとうてつ)に至りますが、蝦夷地でのアイヌ蜂起事件の余波で叶わず、渡海を断念します。やむなく来た道を戻ることになり、仙台に林子平を訪ねたのは10月24日でした。蝦夷地を見ることは出来なかったものの、4ヶ月半にも及ぶ往復の道中で見聞した「天明の大飢饉」の惨状、知人・友人との交歓・酒宴、その紹介で次の宿泊場所を確保、旅費が乏しくなると彼等から借金…、これらが事細かく日記に記録されています。 ※その道程:続きを参照。

彦九朗が、奥州の飢饉が天災ではなく武家の無能・無為無策が原因の人災である、という結論にいたり、以降、幕府への憎悪をたぎらせたのは、武家による武断政治を廃し、天皇を頂点とする文治政治を理想とする彼の自然ななりゆきでした。武断政治への批判勢力を結集を目的に京都に向かうことになります。

彦九朗を追いかけて、蒲生君平は、故郷の下野国宇都宮を発して奥州路を北上、津軽藩領の三厩に至った。渡海できず引き返したという話を聞いた君平は奥州路を戻ったが彦九朗に会うことができず、塩釜に親交のあった知人を訪ねると、彦九朗は仙台に滞在していると言う。林子平の居候先に訪ねるも、林子平は不在、彦九朗は3日前にすでに京都に発ったという。「寛政の三奇人」は、わずか3日の差で、遭うことが出来ませんでした。

高山彦九郎像
学生時代、教科書にあったと記憶するだけで、それ以上の知識はありませんでしたが、京阪三条駅、三条大橋の東、皇居に向かって伏している高山彦九郎の像はよく覚えています。わずか3日の差で残念でしたが、その像、今では「土下座前」と呼ばれ、絶好の待ち合わせの場所になっているそうです。

※ Amazon: 「彦九郎山河」 「街道をゆく 3」
 
Momo holding sign board-HKX Radio※今までの曲は左サイド、Music Player でお聴きになれます。 
Your Support, Please. ▼ ボタンを押して下さい。このサイトの順位がわかります。
にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 人気ブログランキング
 
続きを読む

Profile

ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

Back Issues At A Glance
Comments
ISAO's Bookshelf
人気ブログ ランキング
NINJA
Search