東方見聞録
August 09, 2015
胡椒と金



時代を遡って、東の端に目を向けます。「白村江の戦い(663)」で唐・新羅連合軍に敗れ、唐(中国)との冊封関係を断ち切った日本。唐の侵攻も恐れられる中、国家安泰・五穀豊穣を祈願して建立されたのが東大寺大仏であり、鍍金(メッキ)のための金が不足する事態をすくったのが陸奥国涌谷(わくや)で日本で初めての砂金産出でした(749)。以降、長い戦乱を経て、砂金産地を押さえ、馬や毛皮などの様々な物資を独占した奥州藤原氏の時代を迎えます(1087〜1189)。おそらく、独自の海外交易を行い、戦乱の京を尻目に、中尊寺金色堂に代表される平泉浄土教文化の栄華は当時カセイ(Cathay)と呼ばれた中国南部(杭州)にも聞こえていたはずです。
モンゴル支配下の中国(元(1271-1368))に滞在したマルコポーロは「黄金の国ジパング」、日本の情報を中国南部で得たと思われ、帰国後、ベネチアとジェノバ間の戦争捕虜(「メロリアの戦い(1298)」となりその獄中で口述筆記された『東方見聞録』に在る「莫大な金を産出し」や「宮殿や民家は黄金で出来ている」とは、かつて存在した、この奥州藤原氏平泉文化の事を聞いたのであろう。ついには、「キオッジアの海戦(1378〜1380)」でベネチアが勝利、東地中海貿易を独占します。敗北したジェノバはジブラルタル海峡の西、イベリア半島経由で、当時毛織行で繁栄したフランダース(現在のベルギー)との交易に活路を求めてポルトガルに接近します。
ポルトガルはジェノバの商業・航海技術を引き継いで、いよいよ大西洋に船出することになります。1415年、北アフリカのセウタを占領、続いて象牙海岸・黄金海岸を経てガーナの地に城塞を築いて金や奴隷の交易を行い、1497年にはバスコ・ダ・ガマが喜望峰を周りインド航路を開拓、カルカッタ、マラッカを越え、マカオ、1541年には豊後に辿り着きます。かつては、インド商人、アラビア商人、そして地中海に入るとベネチア、ジェノバ商人の手を経ていた胡椒取引がポルトガル一手に集約されたのですからその利益は莫大なものになったことでしょう。
1492年、『東方見聞録』の「黄金の国ジパング」に魅了されたコロンブスは大西洋を西へ、苦難の末到達したのが現在のエルサルバドル、これをインドと誤認、さらに奥地を探検したが、「黄金の国ジパング」を発見することは出来ませんでした。これが、西欧にとっての、新大陸・新世界の発見でした。
胡椒と金、西欧を「大航海時代」に突き動かした大きな動機なのですが、その背景には13世紀のモンゴル帝国の勃興を見逃すことが出来ません。ユーラシア大陸の大部分を統一、東西を結ぶ交通路の整備・治安を維持、商人の保護に努め、信仰には寛容で、人種・民族にかかわらず能力のある者を登用して、モンゴル帝国が完成され、東の中国文明と西の地中海文明が結ばれることになったのです。ほんとうの世界史はここに始まったといえるでしょう。
奇しくも、同じ12世紀、ユーラシア大陸が東の海に落ち込むところ、「黄金の国ジパング」では武士が台頭、その後約7百年、武士の世の中が続きます。
※参考資料:地球日本史〈1〉日本とヨーロッパの同時勃興