木下順庵

December 27, 2012

2012年近江の旅 結び 〜 雨森芳洲生誕の地 高月

雨森芳洲(あめのもり ほうしゅう1668〜1755)、私は今回の旅行まで、その名前さえ知りませんでした。勉強を始めたばかりですが…、1668年、高月雨森村の町医者の子として生まれ、京で医学を学び、後に江戸へ出て朱子学者:木下順庵門下に入ります。彼は、新井白石と同門となり、秀才を唱われ、1689年、順庵の推薦で対馬藩に仕官します。雨森芳洲

李氏朝鮮との国交を回復した徳川幕府ですが、はるばる対馬から江戸まで、朝鮮通信使一行を往還半年以上も接待するのは大きな出費でした。第6代将軍:徳川家宣( いえのぶ  在職 :1709〜1712年)は綱吉の残した『生類憐れみの令』を廃止、側用人:柳沢吉保を解任、芳洲と同門の新井白石を登用して財政改革を試みます。経費節減のため、白石はこの朝鮮通信使一行の接待を簡素化を断行、これを期に、徳川将軍と李氏朝鮮国王との間の往復書簡、国書の書式を変更しました。徳川将軍の称号を、「日本国大君」をやめて、「日本国王」にしたのです。

「大君」の称は、中国では天子の異称であるからわが国の場合もその称は天皇に当たる疑いがあり僭越である、というのが白石の考えだったのであろうが、これに異を唱えたのが雨森芳洲でした。王のもとに、文官が支配する朝鮮は「王道」であるが、徳川幕府(中央)と藩(地方)が支配する体制は「覇道」であり、よって徳川将軍は「日本国王」ではない、というものでした。

称号問題は国の基本に関することであり、この年の通信使は、帰国するや、朝鮮国王を日本の将軍と同格にされた責任を問われて処罰されました。「日本国王」の称号が元の「日本国大君」に戻されたのは第7代将軍、吉宗の時代でした。

雨森芳洲の仕官する対馬藩は李氏朝鮮との交易・親善があって成り立つ藩、そこに高給を持って召し抱えられているのですから、対馬藩・李氏朝鮮寄りになるのではないでしょうか?この称号問題、今日に至るまで尾を引いています。そもそも、朱子学は林羅山によって武家政治の基本理念として再構築され、徳川幕府の正統学問となったものです。幕府の正統学問:朱子学の最高峰に在る雨森芳洲が、…上に挙げた芳洲の論理に私の誤解でなければ…、徳川幕藩体制を「覇道」としたのは全く正しいものでした。徳川幕府:武家政権は「王道」に反する「覇道」であり、朱子学による幕府の正統化の論理は最初から成り立っていないことになる。これでは最初から論理の破綻する朱子学を幕府の正統学問としたのは何故なのか…、芳洲・白石の時代になってもその矛盾が解決されていません。矛盾の先送りは、幕末の『尊皇攘夷』、そして、『尊皇倒幕』まで続きます。

607年、倭王から隋の煬帝に宛てた「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。」に始まる国書は、中華皇帝の概念を否定して、それまでの冊封関係からの離脱、対等外交の姿勢を表明したものでした。663年「白村江の戦い」で、唐・新羅連合軍に敗れるも、その戦争目的は唐との対等な独立国家を主張するためのものだったと言えるでしょう。以来、日本人は「天皇」を中国「皇帝」と同格に位置づけています。白石の考えもこれと全く同じで、天皇=中国(清国)皇帝は対等/同格、それぞれの臣下が、徳川将軍(日本国王)=朝鮮国王、というものでした。

一方の李氏朝鮮は自らを中華に並ぶ文明国とする一方、中国明王朝に事大する冊封関係にあり、それまでは「北狄、オランケ」(蛮族)と軽蔑していた女真:満州族が、あろうことかその明を倒して清王朝を建国するに至っては、何をもって李氏朝鮮の政治・文化の拠り所とすればよいのか…、かたくなまでの『小中華』しかなく、日本側の「天皇=中国(清国)皇帝は対等/同格」は到底受け入れられないものなのでしょう。それ故か、今日の韓国では天皇を『日王』と呼ぶそうで、これは新鮮な驚きでしたが、その『小中華』を率いる第18代大統領に朴槿恵さん(彼女の父は朴正煕が決まりました。おめでとうございます。

はるか古代から、近江に東山・東海・北国の三街道が始まり、遠く東山道の奧には、道の奧、陸奥(みちのく むつ)が広がり、東海道を行くと、頼朝がその後の日本を決定づける鎌倉幕府を開き、若狭国小浜、越前国敦賀、越国につながる北国街道を遡って斑鳩・大和国にもたらされた先進の技術や思想にあらためて驚かされます。

雨森芳洲庵ケヤキ古代、大陸・朝鮮半島からの渡来人が多かった地に、近世、李氏朝鮮との外交に尽力した雨森芳洲が生まれたのは不思議な縁と言わざるを得ません。遠くその源をインド・ペルシャに求められる『十一面観世音菩薩像』、戦国時代には住民が信長の焼き討ちから守り、秀吉が長浜の街を作り、江戸時代には雨森芳洲を生んだ高月、この地を結びの地としましょう。KENさん、『2012年 近江の旅』をありがとうございました。

東アジア交流ハウス:雨森芳洲庵の横には大きなケヤキ、古くはこの地、ケヤキに因んで高槻と呼ばれていたそうです。

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express01 at 18:00|PermalinkComments(2)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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