新田義貞

December 23, 2017

散歩の途中<<26>> 忠生(ただお)

 歩いて行くにはちょっと遠いので、自転車で忠生図書館に行ってきました。今まで、桜美林大学の図書館を利用していましたが、当然のことですが学術書が多く、最近はあまり利用していません。代わりに小説、娯楽書の多い忠生図書館に行くようになりました。貸し出し期限・冊数も桜美林ほどうるさくもなく、大いに利用しています。なかなか面白そうな場所で、近くには「かぶと塚公園」忠生小学校門松3があり、この「かぶと塚」の由来は、鎌倉攻撃に多摩川・横山を越えて南下する新田義貞軍に関係があるようです。今の時期、もう一つの見所は忠生小学校(1912年開校の忠生尋常高等小学校)です。かつての組合理事仲間の一人が父兄の人達と一緒に作った大きな門松が飾られています。

 平安後期、足柄峠(後の箱根)の坂の東側、坂東の地では新田・牧場の開墾・開発が隆盛、所領安堵を保障する棟梁に従い命を引き替えに戦場で働く、という「一所懸命」を信条とするの多摩(坂東)武士団に発展して行きます。彼らは頼朝を担ぎ上げて平家を倒し(1185)、その彼を征夷大将軍に鎌倉幕府を樹立(1185 or 1182)します。平家打倒の目標喪失で、頼朝への求心力を失った御家人を北条時政(伊豆)は、だまし討ち・暗殺で大量に粛正、執権職を北条得宗家で独占します。これは、棟梁の下では御家人は皆平等であるという考え方とは対立するものでした。鎌倉幕府の崩壊(1333)とともに1千3百人が自刃、それも北条氏一門のみで他の御家人はいなかったと云うのは極めて異様です。

 尊氏は京室町に幕府を開き(1336)、独立政権樹立を警戒して関東管領を置くも、関東一円には一足早く戦国の世が訪れます。上杉の支配が強まると小田原北条を迎え入れてその家臣団に入り、家康の関東入り(1590)するとまたこれに協力します。棟梁はあくまで仲間の代表でしかなく、棟梁の下では皆平等の意識が強く、棟梁は外部に依存し、仲間内から棟梁を出すことはしない。結局、多摩武士団は自ら大規模な組織作りができませんでした。

 家康は、信長・秀吉に滅ぼされた甲斐武田の遺臣、小田原北条の残党を厚く迎え入れ、大久保長安を始めとする旧武田の家臣に関東の支配を任し、一方、鎌倉・室町幕府・後北条氏とその時代の支配者に仕えた世襲代官、江川太郎左衛門(通称)に旧後北条の支配地、伊豆・相模・多摩を天領としてその経営を任せた。大久保長安は甲州街道及び八王子の街を建設、旧武田家家臣をして無禄ながら幕府公認の半農半士「千人同心」を組織して八王子周辺を開拓、江戸防衛の最前線とした。戦国の世が終わると、「千人同心」は日光東照宮の火の番が役目となり、江戸の旗本・御家人からは「芋侍」と軽蔑されるが、幕末には唯一の幕府直属の実戦部隊となります。

 江戸時代後期、商品経済・貨幣経済が発展、芝居や相撲の興行などの娯楽が盛んになり、もちろん賭博が盛んになります。これを生業とする博徒・無宿人が増加し、平和な時はさほど問題ないのですが、「天保の大飢饉(1833 - 39)」が発生、幕末に入ると開港の影響で物価が高騰、天然痘・コレラという未知の感染症が流行、社会は大混乱に陥ります。「攘夷」思想がうまれます。領地が複雑に入り組んだ関八州、特に上野国(群馬県)、天領である多摩地区は無宿者・博徒が逃げ込む絶好の場所でした。自衛のためか…、剣術が農民の間にも盛んになったのは全国で上野国と多摩地区だけという。国定忠治と新選組、上州と多摩、どちらも人々の気が荒く、喧嘩、武芸が盛んな風土です。一方では、豪農・名主などの上層農民と貧農などの下層農民の階層分化が進み、階層間の対立が激化、慶応年間には「世直し騒動」(武装蜂起)が激増します。

 江戸時代、百姓とは「百の姓を持つ庶民」、支配階級である武士以外の農民を含む被支配階級と云う意味でした。地方には藩があり藩主、その居城があり、藩士と呼ばれる武士が存在し、彼らは百姓が武士の格好をすることを許さなかった。髪型・服装・持ち物を見ればどんな身分かが判る身分社会でした。ところが、藩がなく、藩士もおらず、代官所の役人以外は武士のいない天領、多摩では武士の身分「千人同心株」さえも売買される有様、武士の真似事をしてもさしてとがめられることはなかった。勇は多摩郡上石原村(調布市)の裕福な農家、宮川久二郎の三男に生まれます(1834)。宮川」は「土方」と同じく隠し姓、武士の真似が昂じると、本当の武士になりたいと思うのは当然。ましてや、剣術が強ければなおさらのこと…。父久二郎の言「お前は武士になれ」で、近藤周助の養子となり、近藤勇、「天然理心流」の四代目宗家となります。近藤勇、土方歳三、沖田総司、井上源三郎は「千人同心」の流れをくむ「天然理心流」近藤周助の門人でした。

 浪士の狼藉に頭を痛めていた幕府は、清河八郎の献策を入れて、江戸に居る浪士を集め、将軍家茂の攘夷決行の為上洛の際、その警護に当たらせること、及び尊皇攘夷の発露を目的に「浪士組」隊員を募集(1863)、「天然理心流」近藤勇達はこれに参加しました。彼は「天然理心流」の宗家、一門をを引き連れて、既に結婚して子供も在りながら、それらを多摩に置き去りにして…何故? とは、現代に生きる人間の偏見でしょうか…。

 池田屋で密会する尊攘派志士20数名に対し当初わずか近藤以下4名が急襲、後に土方隊が到着して逆転勝利、9名を殺害・4名を捕縛して新選組の名を一躍世に知らしめました(「池田屋事件(1864)」)。この襲撃は新選組の常套戦法(一人の敵には三人以上で当たる)を用意する余裕はなく、強烈な天領「徳川恩顧」の思いに突き動かされた行動であったと思われます。遅ればせながら応援にやって来た桑名・会津兵の前に土方歳三はまだ血の滴り落ちる白刃を持って立ちはだかり、一歩たりとも彼等を中に入れなかったと伝えられています。この勝利は新選組が独占する。他の者には指一本触れさせないという強い決意の表れだったのでしょう。その土方歳三が作ったとされる「局中法度」。「士道ニ背キ間敷事」とあり、違反者は「士道不覚悟」として「切腹」でした。彼の言う「士道」とは「武士道」とは異なるのか…、出自も育ちも本当の武士ではないという彼のコンプレックスがそうさせるのか…、武士としての品位に欠ける、後味の悪い思いをするのは私だけではないでしょう。極めつけは…、伊東甲子太郎が思想の違いから新選組を離脱しますが、彼は近藤の妾宅で酒に酔わされ、その帰途に隊士の数名により闇討ちされ、その遺体は路上に放置され、仲間を誘い出す囮として使われました(「油小路事件(1867)」)。在京の5年間での新選組の死者は約50名、その内倒幕志士との戦闘による死者数はわずか6名、ほとんどが「士道不覚悟」という理由にならない理由による新選組内部の粛清・暗殺でした。どこか…、約七百年前の北条得宗家と共通点があります。

 新選組のやりかたは「桜田門外の変(1860)」、「天狗党の乱(1864)」、はるか昔に遡って「赤穂事件(1701-1703)」に登場する武士の仕業とは極めて異質なものです。天領、多摩郡には支配する武士階級が存在せず、幕府=将軍の代官として豪農・名主などの上層農民は「公儀=将軍の御百姓(将軍家の農民)」という強い優越感を持っており、そこで生まれ育った彼らに組織された新選組は自ずと幕府=将軍に忠誠を尽くすべく奔走したのですが、そのやり方は武士には到底思いつかない陰険なもので、これも彼らの出身地、多摩郡の「世直し騒動」(武装蜂起)鎮圧、博徒・渡世人相手の治安維持、あるいは祭の若い衆同士の喧嘩のやり方、多摩の特殊性だったのかも知れません。

 「尊皇=勤王」の本質は、天皇が絶対君主でありその座は不可侵(臣下は絶対に天皇にはなれない)、逆に言えば、天皇の下では将軍も武士も百姓も同じ臣下、平等であると云うことです。ヨーロッパ近代民主主義は、ルター、カルビンに依る宗教改革、神=絶対神の下にはローマ教皇も神父も、大衆も、大衆の手助けをする牧師も皆、平等である、に始まるのと全く同じです。その意味で「尊皇=勤王」には普遍性があります。

 「湊川の戦(1336)」で新田義貞は自分の馬を射られ、彼の危急を見た小山田高家は自分の乗馬を義貞に与えて逃がし、身代わりになって討死します。御一新がなり、今は明治の世、1889年、かつての「公儀=将軍の御百姓」は神戸では高家が大事に祀られていることを知って大いに感激、かつての天領南多摩の地に新村を作る際に、その名を「忠臣の生まれた村」、「これからも忠義の者が生まれ出る」ことを祈って、「忠生(ただお)村」と名付けました。染みついた「徳川恩顧」、「公儀=将軍の御百姓」意識、御一新から20年やそこらでは変わらないでしょう。
※参考:英傑の日本史―新撰組・幕末編 (角川文庫)

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August 28, 2017

住めば都…ですが、どうもしっくり…

 「住めば都」とはどんな所でも住み慣れればそこが最も住みよく思う、という意味ですが、朝早くその土地を出て職場に向い、夜遅く帰ってくる、ただ漫然と過ごしているだけでは「住めば都」にはならないでしょう。その土地を知りたい、隣近所と交流して、その土地を良くしたい、それらの意図と実際の行動を通してその土地に対する愛着が生まれ、離れがたい気持が醸成されます。言葉を換えれば郷土愛か、その要素の一つに、その土地が輩出した歴史的人物があります。

 小山田有重は鎌倉幕府の有力御家人の一人でしたが、頼朝の死後(1199)、北条氏に謀られて没落(1205 「畠山重忠の乱」)、小山田氏の一部は甲斐国に落ちます。新田義貞挙兵時(1333)、有重から6代目:小山田高家が新田軍の侍大将として鎌倉攻めに参加して小山田城を奪還します。鎌倉幕府は滅亡(1333)しても次の「南北朝」の戦いが待っています。九州から京を目指す足利尊氏軍は、神戸湊川で新田義貞・楠木正成の連合軍と激突(1336 「湊川の戦」)、義貞は自分の馬を射られ、彼の危急を見た高家は自分の乗馬を義貞に与えて逃がし、身代わりになって討死します。時代は下って明治22年(1889)、神戸では高家が大事に祀られていることを当地の名主が知って大いに感激、木曽・根岸・上小山田・下小山田・図師・山崎が合併して新村を作る際に、その村を「忠臣の生まれた村」、「これからも忠義の者が生まれ出る」ことを祈って、「忠生(ただお)村」と名付けました。

 境川を挟んで、その忠生の反対側、南に淵野辺があります。護良親王は父、後醍醐天皇に疎まれ、足利尊氏の弟:直義の預かりとなり、鎌倉に幽閉されていました。1335年、最後の鎌倉幕府執権:北条高時の遺児:時行が蜂起(「中先代の乱」)して鎌倉に攻め寄せました。鎌倉を守る直義はこれを支えきれず撤退しますが、その混乱の中、家臣の淵辺義博に護良の殺害を命じます。これを機に、後醍醐天皇は足利尊氏と決裂、本格的な「南北朝」の時代を迎えます。実は…、義博は主人の命令に背き、内密に、護良親王を自分の領地に移し、難を恐れて家族との縁を切り、境川に掛かる中里橋、榎木の下で家族と別れ(「縁切り榎木と別れ橋」)、護良親王に従って宮城県石巻まで逃れた、とする伝承があるそうです。

 1590年、小田原後北条氏が滅亡、関東に入封した家康は多摩地区を幕府直轄領、天領としました。家康の命を受け、大久保長安(ながやす)は甲州街道を整備、八王子に「千人同心」を設けて武田・後北条の旧家臣団を近郷開拓の屯田兵として、無禄ながら土地を開拓する郷士組織を作ります。「千人同心」に限らず、多摩は江戸時代初期に開発された土地が多く、彼等の多くは主君をなくした元武士であり、やがて村の名主階層に育って行くことになります。「千人同心」は八王子防御が当初の目的でしたが、後に、日光東照宮の火の番が主な任務となり、武士に憧れる豪農層は同新株を取得して「千人同心」職を兼ねることになります。こうして彼等は「将軍家の家来」と言う意識を強く持つようになります。彼等は客人をもてなす必要から教養として、書道・華道・和歌・俳句、そして地誌・国学などの芸事を学び、彼等文化人の間にはネットワークが誕生します。18世紀(江戸後期)に入ると、交通・経済が発展、幕末の開港による物価の急騰で無宿者・盗賊などの治安が悪化、芸事の一つとして、武芸が名主・豪農層の間で流行します。当時、百姓・武士以外で武芸・剣術が盛んだったのは武士のいない、藩の存在しない天領である多摩地域と、もう一つ、上州(上野国(こうずけ)群馬県)だけと云います。
多摩境札次神社
札次神社
 当時、長州・土佐・薩摩も会津・桑名・彦根も…、ほとんどの藩及び武士の思想は水戸学の「尊皇攘夷」です。幕府直轄領で武士のいない天領:多摩では、武士の代わりに国学を学んだ名主・豪農層はもちろん「尊皇攘夷」ですが、あくまでも佐幕、幕府あっての「尊皇攘夷」でした。「桜田門外の変」が発生(1860)、幕府は清河八郎の献策を入れ、攘夷のの実行・公武合体・尊皇を目的に浪士組を結成、「天然理心流」4代目の宗家:近藤勇とその門弟はこれに参加することになります。近藤を物心両面で支援したのが、名主・豪農の一人、小島鹿之助(こじましかのすけ 町田 小野路村)です。近藤を始めとする多摩出身者とその支援者は、天領=幕府直轄領に生まれ育った、多摩だけに通じる独特の文化を背景に「尊皇」を叫びます。当時の「尊皇」とは一地方の文化ではなく、徳川幕藩体制を越えた、「天皇の前には大名も一個人も平等」という明治の天皇制に引き継がれる普遍的なイデオロギーでした。

 「一所懸命」という論理と「名こそ惜しけれ」という、卑怯な振舞いを蔑む精神は表裏一体した鎌倉武士の風土はどう変遷したのか、家康の関東に入封して270年、藩や武士による直接的支配を経験することなく、武士以上の武士を目指した「新撰組」が生まれた土地ですが、明治の時代になると、一変して、彼等の云う「自由民権運動」の地になるそうです。一変…ではなく、実は…、多摩の歴史を貫く確固たる一本の筋というものが有るのかも知れません。

 話は飛んで…、京都の三大祭りの一つ、「時代祭」は明治28年(1895)、平安京遷都1100年を記念して始まりました。戊辰戦争の際、朝廷のために官軍としていち早く京都に入った山国隊(丹波国で結成された農兵隊)を先頭に、時代を遡り、平安京造営の延暦時代までの行列ですが、室町幕府執政列・室町洛中風俗列(足利幕府時代)が加えられたのは112年後の、2007年のこと、松平容保と新選組は今に至ってもまだ列に加えられていません。そろそろ列に加えても良いのでは…。 
※参考:英傑の日本史―新撰組・幕末編 (角川文庫)
    
新選組 敗者の歴史はどう歪められたのか (じっぴコンパクト新書)
   日野市立新撰組のふるさと歴史観特別編「新選組誕生」

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June 19, 2015

朝比奈切通、そこは異次元

 朝比奈切通_2Ikeさんはウォーキングが趣味、その彼を誘って鎌倉を訪ねました。4年前、極楽寺坂、化粧坂、サザンでおなじみのというよりも…、新田義貞が鎌倉府内に突入した稲村ヶ崎をご一緒したのですが、今回は藤沢から江ノ電に乗って鎌倉駅、駅前からバスで市街地を抜けて十二所(じゅうにそ)で下車、そこからバスルートをそれて峠道、六浦道に入ります。よく言われるように、鎌倉は相模湾に面した以外は、東西北面を凝灰質砂岩とできた山で囲まれた天然の要塞で、開削された切通だけではなく、「鎌倉石」と呼ばれる石材を切り出す石切場が散在します。加工が容易で耐火性に優れ、建築資材として江戸城築城にも使われたそうです。
 
朝比奈切通_1 六浦(むつうら、むつら)道は、現在の鎌倉市十二所(じゅうにそ)と横浜市金沢区朝比奈を結ぶ峠道、幕府の置かれた鎌倉(相模国)からその外港としての要衝、六浦(当時は武蔵国)を結ぶ幹線道路にて、1240年、道路開拓が決定、測量が始まり、時の執権:北条泰時も現場に足を運び督励したそうです。 歩き始めると山(岩)を鋭角に切り開いた道路、両側の壁および街道の地面は、もちろん凹凸はあるものの、紛れもない「鎌倉石」、そびえ立つ岩壁には中世・近世に掘られたであろう仏像や横穴の祭壇、路面には流れる水に浸食されてできた小さな川、そこはまさに異次元の世界、急に視界が明るく広がると、バス停:朝比奈切通にたどり着きます。 夢かうつつか…、千年の峠道、十二所を出発してまだ1時間も歩いていません。

称名寺 待つこと20分、バスは我々を乗せて、京浜急行金沢八景にに向かいます。隣接しながらも、峠によって隔たれた六浦は鎌倉の東方を守護する位置にあり、古代より製塩業が盛んで、入り組んだ地形は良港をなし、対宗貿易の要として鎌倉幕府に欠かせない存在でした。さらには、入り組んだ地形は風光明媚な景勝地、後に「金沢八景」として世に知られるようになります。北条実時(さねとき 1224-76)は、8代執権:北条時宗を補佐して対モンゴル戦:「文永の役(1274)」を戦い抜いた後、六浦荘金沢に別邸を置き、これが「称名寺」と「金沢文庫」の起源でした。
150616称名寺釈迦堂
称名寺釈迦堂
 実時の孫、貞顕(さだあき 1278-1333)は執権に就任するも10日で辞職、出家して高時に執権職を譲ることになります。 貞顕は、武士、政治家というより、当時一流の文化人で、祖父:実時の創設した「金沢文庫」を「足利学校」と並ぶ武家の文庫に創りあげるとともに、「称名寺」を整備し完成させました。どこか、宇治平等院に似ているのも道理、浄土思想による伽藍の配置です。京都在住の六波羅探題時代に多くの人と交わり、吉田兼好もその一人として鎌倉には少なくとも2度訪問滞在したことが知られており、この六浦(現在の横浜市金沢区)の上行寺の境内に庵があったと伝えられています。

 後に、新田義貞が上野に挙兵して(1333)鎌倉に侵攻、金沢一族の多くは極楽寺坂、化粧坂、巨福呂坂で討死します。5月22日、鎌倉幕府滅亡の日、貞顕は最後の執権:高時と共に東勝寺を最後の拠点に北条一族の多くと共に奮戦、『太平記』には、283人の北条一族と870人の家臣が自害したとあります。

  鴨長明(1155 〜 1216)が『方丈記』(1212)を著して百年、その間、宗が滅び元(モンゴル)が興り、二度の元寇で鎌倉幕府は弱体化、後醍醐天皇を頂点とする討幕運動が激化、ついに鎌倉幕府は滅亡(1333)、再び混乱の南北朝時代に入ります。吉田兼好(1283?-1352)は『徒然草』(1331)を著します。

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November 08, 2012

2012年近江の旅 Episode 2 〜 番場宿蓮華寺

「KENさんに似た人も居るんだなあ…」と米原駅のベンチにぽつんと一人座る男性を見ていました。すみません。メールをもらいながら、一本早い電車に乗る、という部分を見落とし、彼を待たせていました。大阪で会って以来の半年ぶりの再会、彼を乗せて『2012年近江の旅』出発!

田舎道で車の数も少なく快適、たびたび対向車線に「西武バス(路線バス)」が現れ、ここは東京の池袋か…?、堤一族はこの近江出身なのですからごく当たり前な風景ですが…。西明寺に向かう左前方に広がる大きなコスモス畑で休憩、そこで彼が描いたのが下の絵。この旅が終わって帰宅すると、この絵はがきが届いているではありませんか。非日常の体験が未だ覚めやらぬ、旅の余韻が色濃く残る間にこんな絵手紙をもらって喜ばない人はいないでしょう。ありがとうございました。
DSC01435

『古事記』には「淡海の多賀に坐すなり」と記される多賀神社、その門前、お店の屋根瓦のハロウィン(?)です。彼のようにさらっとは描けません。
多賀神社 門前の店
鎌倉末期、同じ時期ではあるが全く別個に、一向と一遍は、浄土宗の影響を受けて自己の教義を確立、ともに「南無阿弥陀仏」を唱え、遊行や踊り念仏を行儀とする念仏勧進聖として教団を開きます。一遍上人を祖とする藤沢の無量光院清浄光寺(遊行派 遊行寺の名で有名)は自転車で訪れたことがありますが、今回は一向上人を祖とする近江番場蓮花寺(一向派)を訪れます。

元弘3年(1333年)2月24日、隠岐島から脱出した後醍醐天皇は2月28日、伯耆国船上山(現在の鳥取県)で挙兵する。これを追討するため幕府から派遣された足利高氏(尊氏、当時は高氏)は、寝返って後醍醐方に味方、4月27日、丹波篠村八幡にて挙兵、5月7日、一挙に京に侵攻する。六波羅探題の北条時益と北条仲時は光厳天皇と花園上皇を奉じて関東に逃れようと、都を落ちて近江国へと敗走するが、途中、野伏の襲撃に遭い北条時益は殺され、光厳天皇は逢坂にて矢傷を負う。5月8日、都を遠く離れた上野国新田庄(現在の群馬県)では、新田義貞が挙兵します。

蓮花寺 北条仲時の墓六波羅敗走軍はここ番場宿に辿り着くも、蓮華寺にて進退窮まり、命運尽きたことを悟った北条仲時は六波羅軍の解散を命じて自刃、享年28歳、彼に従った北条一門432人が彼の後を追って自刃します。蓮華寺前庭は流れる鮮血で赤く染まり「血の川」と呼ばれ、死体の山で埋め尽くされ、その一部始終を目撃した光厳天皇は、気を失わんばかりに、ただ茫然とするだけであったという。

彼等が逃れようとした鎌倉は、5月21日、新田義貞の「稲村ヶ崎」突破、府内への突入を許します。5月22日、最後の執権、北條高時以下の一族郎党の8百余人は自刃、ここに鎌倉幕府は滅亡します。

鎌倉幕府の滅亡が壮絶な死で終わることは、まだ…判らないでもないですが、鎌倉を遠く離れた近江番場宿、蓮花寺での北条仲時以下432人の死は一層哀れで悲しくなります。平維盛の息子、「六代」は1199年、都から遠く、相模国逗子で切られたのが思い出されます。

時の住職:同阿常人が深く哀れんで彼等を過去帳に留め、彼等の墓を建て丁重に弔ったそうです。

蓮華寺と遊行寺の共通点、もう一つありました。何故か…ともに、「やくざもの」、「股旅もの」大衆演劇につながります。『赤城の子守唄』板割浅太郎の墓が藤沢遊行寺にあって、『瞼の母』の主人公:番場忠太郎が蓮華寺にゆかりがあります。どちらも、一世を風靡した大衆歌謡・演劇でした。

※ 訪問の順番が違うじゃないか…って?はい、順番は無視しています。

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January 11, 2012

忠生( ただお)、極めてローカルな話ですが…

幕末の『尊皇攘夷』は「水戸学」と呼ばれ、明治に入ると、近代国家の体裁を装って、『忠君愛国』に変わり、「皇国史観」と呼ばれるようになります。その思想は水戸光圀に依る『大日本史(1657開始〜1906完成)』に始まりますが、南朝を正統王朝とし、新田義貞や楠正成は美化されて忠臣となり、足利尊氏は逆賊とされます。

「皇国史観」に支配されていた戦前、この事が大きな論議を呼ぶことになります。正統南朝が北朝に吸収され、以降、北朝が正統王朝として連綿と受け継がれます。当然の事ながら、当時の昭和天皇は北朝の系統。昭和天皇に忠義を尽くすということは、南朝から皇位を簒奪した北朝を正統化することになり、足利尊氏を美化、義貞・正成を逆臣とすることになってしまいます。この大きな矛盾を幕末の志士はともかく、戦前の識者はどのように解決したのでしょうかね…。
大泉寺
既に書いた通り、小山田と称する地域は、平安時代には朝廷の馬を飼育する牧場で、小山田氏は代々その別当(=長官)でしたが、小山田有重の時、鎌倉幕府(1192)の有力御家人の一人になります。1199年、頼朝死亡、執権:北条氏の策略に依り小山田一族は離散、唯一6男だけは幼少を理由に甲州(山梨県大月)に逃れたようです。

小山田庄元弘 3年(1333) 、後醍醐天皇に呼応して新田義貞は上野国で鎌倉幕府打倒の挙兵。鎌倉街道を南下、「小手指ヶ原の合戦」、「久米川の合戦」、「分倍河原の合戦」で幕府軍を撃破、絶対防衛線である多摩川(関戸)を突破して小山田ノ庄に殺到します。新田義貞軍の侍大将:小山田高家は北条泰家を破って小山田ノ庄奪還を果たします。新田義貞は、かつては倒幕の共同戦線を張っていた、足利尊氏と戦うことになり、次第に劣勢に立たされるようになります。そして、「湊川の戦い(1336 神戸)」、新田義貞・楠木正成は足利尊氏に大敗、退却の際、小山田高家は自分の馬を主君:義貞に譲り、自らは討ち死にしてしまいます。

唐突ですが…現在。私の住んでいる近くに、『忠生(ただお)』という地名があります。明治22年(1889)、多摩の6つの村が合併して新村が作られることになり、「小山田高家という臣がまれた(?)地であるし、これからも義の者がまれ出ることを祈って」、『忠生(ただお)』と名づけられたようですが、あまり深い意味があったとは思えません。何となく、当時の村の長(おさ)、住民のレベルが判ります。

境川を挟んでこの地の反対側に、後醍醐天皇の皇子:護良(もりよし)親王を足利直義の命で殺害(1335)した淵辺義博の領地がありました。縁切り橋2

どうも…あんちょこな『忠生』命名より、「逆賊」の汚名を晴らすべく腐心したであろう、義博の『縁切り榎とわかれ橋』の物語に好感を覚えてしまいます。

より大きな地図で 忠生〜淵野辺義博居館跡〜縁切り榎〜縁切り橋 を表示

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May 22, 2011

元弘3年(1333)5月22日 鎌倉幕府滅亡

小山田緑地町田市小山田と称する地域は、平安時代には朝廷の馬を飼育する牧場で、小山田氏は代々その別当(=長官)でしたが、小山田有重の時、鎌倉幕府の有力御家人の一人になります。山歩きの好きな I さんが、有重の居城(跡)とされる「大泉寺」から、「小山田緑地」を経て、その副城:「小野路城跡」・「小野路」に至る1/2 Day Walkに連れて行ってくれました。

源頼朝を頭領に幕府を鎌倉に開くに至る「源平の合戦」に始まり、「いざ鎌倉」と坂東武者が鎌倉にはせ参じた軍事道路で、鎌倉を起点に武蔵の国府である府中を抜けて上州(群馬県)高崎までが「上の道」と呼ばれ、ここで西へ分岐して碓氷峠を越えて信濃路へ、或いは東の新田荘や足利(栃木県)へ、更に北に向かう奥州路(岩手県)へ通じています。
小野神社2
「小野路」は鎌倉を出て武蔵国府:府中までの間にある宿場町ですが、戦後急激に発展した町田市にありながら「アレーっ」」と思うほど、鎌倉時代の面影を色濃く残しています。ここに、「小野神社」があります。「小野神社由緒」曰く、「小野篁(おののたかむら)の七代の孫:小野孝泰が武蔵の国司として天禄年間(972年頃)府中へと赴任した時、当地が小野郷と称したことから、篁が当地に滞在したしたものと考え、篁の御霊をこの地に祀った。」 続けて曰く、「〜小町井戸があり、当地と小野市との縁の深さを物語っています。」 …と伝説は極めて控えめです。小野篁、小野小町にまつわる神社や遺跡は全国各地にあるようです。

元弘 3年(1333年) 5月8日、後醍醐天皇に呼応して新田義貞は上野国生品明神で鎌倉幕府打倒の挙兵。総勢わずか150騎。鎌倉街道を南下、行く先々で武士団が次々に参加、数十万の規模に…、
5月11日、「小手指ヶ原の合戦(こてさしがわら 所沢市)」で幕府軍を撃破。
5月12日、「久米川の合戦(東村山市)」で幕府軍を撃破。小野路城跡
5月15日、「分倍河原の合戦(ぶばいがわら 府中市)」で敗れ、久米川まで退却。
5月16日、「分倍河原の合戦」で勝利。

絶対防衛線である多摩川(関戸)を破られ、この「小野路」→今井谷戸→本町田→成瀬と潰走する幕府軍、これを追撃する新田義貞軍、両軍合わせて何万という軍団が駆け抜けたとは、残念ながら、今の「小野路」を見る限り全く想像できません。
新田義貞軍は三手に分かれて鎌倉に攻め込みます。大館宗氏の右翼軍、片瀬・腰越から極楽寺坂へ、堀口貞満の左翼軍は巨福呂坂(こぶくろざか)に向かい、新田義貞の中央軍は化粧坂(けわいざか)を攻めます。極楽坂

5月18日、「極楽寺口」 を突破、鎌倉府内に突入。大館宗氏戦死。
5月21日、新田義貞、「稲村ヶ崎」を突破し鎌倉府内に突入。
巨福呂坂2
実は、I さんが鎌倉にも連れて行ってくれました。現代の私たちは当然の事ながら、何の抵抗も受けず、片瀬・腰越から極楽寺坂から鎌倉府内に侵入出来ましたが、「鎌倉アルプス」と呼ばれる鎌倉最長のハイキングコースを歩いた後に挑戦した「化粧坂(けわいざか)」は、「鎌倉七口」の一つですが、「鎌倉の出入り口」というより「登山口」の感、我々の間違いだっだのでしょうか…。

元弘3年(1333)5月22日、最後の執権、北條高時以下の北條氏一族及び郎党の八百余人は自刃。
現代の暦(グレゴリオ暦)では6月らしいのですが、元弘3年(1333年)の今日、鎌倉幕府は滅亡します。
Momo holding sign board-HKX Radio
※Nobu, Kun & Isa Band の今までの曲は左サイド、I Pod 風のプレーヤーでお聴きになれます。
       
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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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