数奇

June 08, 2015

美意識、早い話が「好き・嫌い」

「初雪やいつ大仏の柱立」 芭蕉は、元禄2年(1689)、修復事業が始まる前の東大寺大仏を訪れています。

 造営当時(745 - 752)、その表面が鍍金(金メッキ)されていました。平安末期、平重衡による南都(奈良)焼き討ち(1180)で東大寺大仏も焼失、戦後、重源(ちょうげん)の手で再建されました。この時、重源に頼まれて西行は必要な砂金を寄進した藤原氏を訪ねて遙か奥州に向かいます(1186)。下って戦国、1567年、松永久秀の兵火により再び炎上して以来大仏は野ざらしでした。120年が過ぎた元禄時代、芭蕉が訪れたこの時期でさえも、再興の計画はあったものの、大仏の損傷も修理されないままで放置されている状態でした。

鍍金された大仏 果たして…、芭蕉の見た露座の大仏は、今日我々が見る大仏と同じなのか、それとも、損傷はあるものの…、創建以来の鍍金(金メッキ)された姿だったのか、大いに興味のあるところです。二度の兵火に会うまでは、間違いなく、黄金に覆われた大仏でしたが、金銭的理由からではなく…、いつしかキンキラキンの鍍金(金メッキ)が剥離して、現代に残る渋い、枯れた色合いの大仏になったのでしょう。いつしか、自然時間を過ごして古びたものをいいと思うようになり、誰もこれを修復して創建当時のキンキラキンに戻そうとはしなくなったのです。各地の仏教寺院にある仏像や仏教絵画・装飾、絵の具を塗り替えずにずるずると時間を過ごすうちに、古びたものこそ有り難いと思うようになったのでしょう。 さらに、ずるずると時間を過ごしたら、どんな絵・装飾だったのかその痕跡さえも判らず、取り返しがつかなくなってしまうでしょう。

 同じ仏教国でも、タイ、ミャンマーなど東南アジア諸国では、キンキラキン・極彩色の仏像や仏教絵画・装飾が見られ、現代の我々日本人からすれば大いに文化の違いを感じてしまいますが、同様に、この大仏の創建時・修復時のキンキラキン・極彩色の仏像をイメージすると、同じ日本人なのかと疑ってしまいます。因みに、対馬の仏像泥棒が話題になりましたが、事件の再発を予防するために最近では、3Dプリンターを使い、エイジングと云われる古く見せる高度な技術で装った複製仏像を置くようになったそうです。

 南洋の動植物には極彩色のものが多く、ウグイス、文鳥も元来は南洋のものであったが、長く日本に生息するうちにその色がくすんだという説と関係があるかは知りませんが、東大寺大仏が最初の兵火にあった平安末期、末法の世の「無常」に始まるものか…、いつしか日本人は古びて、枯れたものに美意識を持つようになり、今日に云う日本文化は利休の「茶の湯」「数奇」で体系化されます。

 ナチスの台頭でドイツを追われた建築家:ブルーノ・タウト (1880 - 1988)はシベリア鉄道で日本に逃れ、桂離宮に「永遠なるもの」を見いだす一方、日光東照宮はその対局の「キッチュ KITSCH まやかし、まがいもの、みせかけ、低俗」と酷評したそうです(朝日新聞6月6日(土)be)。これには全くの同感ですが、伊勢神宮の二十年毎の立て替え、義満の金閣寺、秀吉が利休に命じて作らせた「黄金の茶室」…、はどうでしょう。

 参考資料:赤瀬川源平著『千利休 無言の前衛

 ps:次回はそろそろ音楽ネタです。

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express01 at 07:44|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

February 12, 2015

波濤の彼方では

 小田原後北条氏を滅ぼし、家康を関東に移封、天下統一を果たした1590年、秀吉54才、なぜ彼は明に侵攻しようとしたのか(文禄・慶長の役 )…、「精神の病」、「狂気の沙汰」としか言いようがありません。信長の後を継ぎ、階段を上り詰めた秀吉は絶頂にあり、もはや次に上るべき階段もなく、振り返って見ると、信長以来の盟友・同士:利休は自刃、もうこの世には居ません。

 日本の歴史を通して、天皇家を中心とした血筋の権威、その権威の信仰を受けた社寺の権威に権力が集中しました。武門・武家である源氏・平氏は、臣籍降下により、それぞれの祖と仰ぐ天皇の号をもって氏族の称としました。主に清和源氏をして源氏と称し、桓武天皇の孫が平氏を称しました。

秀吉が小田原攻めの時、鶴岡八幡宮の源頼朝の木像に向かって、 「わしは、貴方とは違い、元々は卑賤の出、氏も系図もない男だ。だからこのように天下を平定したことは、貴方よりわしの功が優れている」と木像の肩を叩きながら言ったと云います。清和源氏直系の頼朝が開いた鎌倉幕府に始まる武家政権は、その後の室町幕府、戦国時代を経て、徳川幕府までの約7百年間続きます。その間、例外だったのは戦国時代、秀吉が頼朝像に語りかける通り、血筋とは全く関係なく、卑賤の身から実力のみで這い上がり、乱世を乗り切ったのは秀吉でした。彼は「天才」と云ってもいいでしょう。

 南北朝の動乱の時期に発生した「婆娑羅(ばさら 梵語(サンスクリット語)のvajra = 金剛石(ダイヤモンド)が語源)」は身分秩序を無視した実力主義、公家や天皇など旧い・伝統的な権威・血筋の権威を否定して、新奇・異風異体なる美意識を持ち、後の戦国時代における「下剋上」につながっていきます。公家から権力を奪取した守護大名・武士はパッとでの成り上がり者で、詩歌管弦などの公家の教養はありません。「寄合(=相談)」は後の「一揆」につながるのですが、その彼等の間に広まったのが中国から舶来の茶器=唐物を用いた「喫茶」という、教養のあるなしに拘わらず、誰にでも参加できる「茶寄合」に発展していきます。
南蛮人渡来図
神戸市立博物館 南蛮屏風
 戦国の時代、「数奇」は「好き」の当て字、本来なら和歌を指した「風流」「風雅」の意味を加えて、「茶の湯」を指すようになりました。「茶の湯に習いはない」とは利休の言、 「茶の湯」の世界に起こった革新が、流行が流行を呼んで、極めて短期間に中世の文化・生活を覆して、遠くにあった「近代」を一気に手繰り寄せました。過去の習慣やしきたり、伝統的権威、社会的制約・束縛にとらわれることなく、「欲するがままに」行動するするのが「数奇」でした。戦国騒乱、社会の大変動の時代、自分の自由意志で行動する新しい人間が誕生しました。

 1587年、秀吉は北野天満宮の境内において、「北野大茶の湯」を催し、これが秀吉と利休、蜜月の頂点となります。信長亡き後、秀吉は革命の同士:利休と共に階段を登ってきたのですが、頂上が見え始めてもなお、利休は次の高みを目指して登っていこうとします。国内の敵対する勢力は全て秀吉にひれ伏した今、彼の「天才」が通じない…学問や教養、文化的価値、美術的価値に重きを置いた平和な世界がやって来るのでは、そんな世界がやって来れば彼の居場所・存在価値はなくなってしまいます。利休の世界に、秀吉は大きな「不安」を感じ、革命同士:利休を排除する頃には既に精神の変調をきたし、明に侵攻しようとした「文禄・慶長の役」は正に狂気でした。 1598年、秀吉62歳、醍醐寺三宝院でにて盛大な花見を開催…、そして死没します。

 今日に云う日本文化・日本的生活様式とは「茶の湯」「数奇」で体系化されたものです。「安土桃山文化」は「元禄文化」に続き、さらに近代を力強く手繰り寄せます。「茶の湯」「数奇」の時代、波濤の彼方ではルネサンスの時代でした。…気になるところです。

参考書:増渕宗一『茶道と十字架 』 村井章介『南北朝の動乱』 児島孝『数寄の革命』 横山 紘一『旅の博物誌』 徳川恒孝『江戸の遺伝子』

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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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