戊辰戦争

April 27, 2018

明治150年 絶対的存在

 始めてまちだ市民大学を受講することになりました。「町田の歴史」講座は昔からありますが、今年は「明治150年」、〜町田にこだわって「明治維新を」考える〜のテーマが面白そうです。

明治150年ロゴ 諸説ありますが、明治維新とはペリー来航による開国(1853)から大政奉還(1867)、王政復古(1868)、戊辰戦争(1868-1869)、廃藩置県(1871)などを経て西南戦争(1877)までを言うことが多い。因みに「幕末」とは開国(1853)から大政奉還(1867)までの14年間という短い期間です。今年、政府が旗を振る「明治150年」も、各自治体によってそのロゴマーク意匠が微妙に異なります。新政府を主導した長>薩>肥>土の順に日の丸が小さくなり、水戸は日の丸ではなく葵のご紋、反政府側の会津二本松は「戊申150年」、神戸横浜は「開港・開国150年」と全く政治色はなし…と、当時の立場、いや現在に至っても、どこか釈然としない思いが込められているようです。 因みついでに、私の住む町田市は当時幕府の天領で新選組の近藤勇・土方歳三とも縁が深く、会津・二本松まではいかなくても、佐幕の信条かと思いきや、政府(=長)と全く同じ旗を掲げています。

 中国からもたらされた朱子学は江戸時代、林羅山によって武家政治の基本理念として再構築され、徳川幕府の正当学問となります。朱子学に基づいて編纂された『大日本史(1657開始〜1906完成)』は尊王論、これを水戸藩の学問:『水戸学』として発展させます。幕末、その『水戸学』が一大「尊皇攘夷」思想となりますが、徳川斉昭はその思想の具現者として徳川家康の業績を賞賛したように、「尊皇攘夷」思想と徳川幕藩体制は何ら矛盾しません。「尊皇攘夷」は日本の権力者がごく当たり前に持っていた思想と言えます。源頼朝は天皇から「征夷大将軍」という官位を得て、鎌倉に開幕した(1192)ことに始まり、約7百年間武家政治が続きました。 天皇は、政権から遠ざけられていますが、その時々の政権にその正当性を与える最高権威者でした。徳川家康も天皇より「征夷大将軍」の官位を得てその統治に正当性を獲得しました。

 権威者が権力者に「正当性」を与え、見返りに、その「存在」を認める、あるいは「保護」を受ける。ローマ帝国はゲルマン人の侵入により崩壊(467年)、これを機に中世に入りますが、ヨーロッパ各地に興ったゲルマン諸王国は、言ってみれば、侵入してきた蛮族、より高度な文明を持つ先住民族(旧ローマ帝国市民)を支配・統治して行かなければならず、そこで利用したのがキリスト教(ローマ教皇)でした。 ゲルマン人王は自らキリスト教に改宗、ゲルマン人王は「神の代理人」としてのローマ教皇の権威を認め、 その権威に基づき、ゲルマン王の支配・統治に正当性を与え、その見返りに、ローマ教皇は経済的・軍事的な保護を得、ヨーロッパ全土にキリスト教を拡大します。同時に、ゲルマン人王自らがキリスト教徒となったことで、イエス・キリスト(絶対神)の下では王も人民もタダの人に過ぎない、「神の下では皆平等」という考えが広く普及しました。
幕末の武士
 天皇に任命された征夷大将軍はこの国の実際の統治を行う権限が与えられていますが…、 時代は幕末、幕府に従ってこそ真の勤皇(天皇に忠を尽くすこと)であるとする<佐幕派>、 これに対して、もはや統治・実際の政治能力のない幕府は一刻も早く倒すべきであるとする<勤皇・倒幕派>、これが幕末の様相でした。 両者は共に「勤皇」。では「勤皇」が過激化して「倒幕」に変わった理由は何か?天皇が絶対君主であり、その座は不可侵であることから、「天皇の前では、臣下は全て平等」、だから将軍(幕府)が天皇の意志に背く事があれば討ってよい、討つべきである。「一君万民論」は討幕派の志士により広く支持されました。

  この150年、「明治維新」の理解は時代によって変遷してきました。明治新政府は「王政復古」を自らの正統性の拠り所とし、啓蒙思想家は維新の開明性・進歩性を強調、民権家は維新を自由への第一歩、民権運動を「第二の維新」と呼び、日清戦争(1894-1895)の勝利を「第二の維新」、維新の「果実」と呼び、神格化・絶対化された天皇中心とする「伝統」と欧米文化を吸収してきた「文明」性を主張、 大正デモクラシーの時代(1910-1920)、明治維新をブルジョア革命の一種とみなし、護憲運動を「第二の維新」ととらえ、その反動としての皇国史観、絶対化された天皇への回帰、 「大東亜共栄圏」思想に至り、そして敗戦(1945)。「天皇人間宣言」があり、戦後の復興を経て、政府による「明治100年」式典(1968)と司馬遼太郎「坂の上の雲」連載開始、「自由民権100年」(1981)、日本の「近代とは何か」が問われ、そして現代、「草の根」から見た「維新とは何だったの」かが問われています。  
 
…が、不思議なことに、体制・反体制、与党・野党、国家・市民、どの時代、どの視点から見ても、天皇という「絶対的な存在」がついてまわります。西欧における「神の下では皆平等」は西欧民主主義の根本起源となったと同じく、幕末の 「一君万民論」(=「天皇の前では、臣下は全て平等」)が日本における近代民主主義確立に不可欠な「平等」意識を発生します。個人的には、積極的に認めたくはないですが…、天皇という「絶対的な存在」が日本における近代民主主義確立には不可欠でした。

※参考資料:
石居人也 講座『明治維新とは何だったのか』

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express01 at 13:22|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

June 18, 2011

「天狗党の乱」以来のわだかまりは?

「旧敵・薩長」が会津にエール 「風評被害に負けるな」 戊辰戦争以来のわだかまりを乗り越え、困ったときはお互い様〜、とは6月7日付朝日新聞

関ヶ原の戦い(1600)の結果、長州藩では、所領安堵の約束は反故にされ防長二州に押し込められるという辛酸を舐めたことから、毎年正月になると、家老が「今年は倒幕の機はいかに」と藩主に伺いを立てると、藩主は毎年「時期尚早」と答える習わし=儀式(?)があり、藩士は藩士で、江戸に足を向けて寝る習わしが280年間も続いたそうです。

倒幕を果たした長州藩の本拠地:萩市が、1986年、お互いに敵として戦った「戊辰戦争(1866)」から120年を記念してそろそろ和解を…、と会津若松市に対して友好都市提携を持ちかけたが、市民の間から「時期尚早である」、「我々は恨みを忘れていない」として、その提携は拒否されたそうです。何事も水に流してしまう日本人ですが、会津若松市民は違ったようです。

天狗党行軍経路













桜田門外の変(1860)」から4年後、頼りとする水戸本家筋の一橋慶喜(よしのぶ)の居る京都を目指して西進してきた天狗党ですが、彼らには幕府追討軍が追尾して来ます。夜明け前 第一部(下)
※嶋崎藤村の『夜明け前』、和田宿から馬籠宿通過までの天狗党の動きが描かれています。
前に立ちはだかる彦根藩・大垣藩を避け、美濃揖斐を北上、最難関である雪の蠅帽子(はえぼうし)峠を越えて越前に至ります。さらに、木ノ芽(きのめ)峠を越えて敦賀に入りますが、慶喜(よしのぶ)が禁裏守衛総督として大津に本営を置くに至っては、日本海づたいに長州に合流する案を捨て、前田加賀藩に投降します。常陸大子を発して約1千キロ、挙兵して40日後のことでした。投降した彼ら800人余は前田加賀藩に手厚く処遇され、幕府の沙汰を待ちます。

天狗党を追尾して来た幕府追討軍提督が田沼意尊(たぬまおきたか)とは、どこかで聞いたような名前です。僅か600石の旗本から5万7,000石の大名にまで昇進し、いわゆる田沼時代(1767〜1786)を築き上げたが、急激な改革が保守的な幕府閣僚の反発を買い失脚した田沼意次(たぬまおきつぐ 1719〜1788)の孫であり、その領地:相良藩は取りつぶしにとなり、陸奥1万石に減転封の上で家督を継いだのが彼、意尊(おきたか)でした。

慶喜(よしのぶ)から天狗党処分の一任を取り付けた意尊(おきたか)は、加賀藩に降伏していた天狗党を形式的に取り調べただけで一党800人余のうち350人を斬首刑に処した。多くの藩が処刑実行を辞退した中、「桜田門外の変(1860)」 の雪辱に燃える彦根藩士が志願して刀を振るったのでした。

明治7年(1874年)、天狗党員を祀った松原神社が敦賀市松島町に建立され、毎年10月10日には例祭が行われています。これが縁で、処刑地である敦賀市は昭和40年(1965年)に水戸市と姉妹都市となり、後に敦賀市の仲介で彦根市と水戸市が姉妹都市になったと聞きます。
天狗争乱
加賀藩から幕府への引き渡しが決まると、天狗党浪士の多くは足枷の上、鰊蔵に詰め込まれ、ほとんど全裸で、一日握飯一個と湯水一杯しか与えられなかったといわれています。この事件は近世(江戸時代)で最も凄惨なものとなってしまいますが、原因が幕末という時代だけにあるのではなく、貶められた父祖:田沼意次(おきつぐ)の汚名を濯ごうとうする孫:田沼意尊(おきたか)の幕府へ異常なまでの忠義心、狂気じみた生真面目さにあると言えるでしょう。もちろん、彼に一任した慶喜(よしのぶ)の責任も大きく、ついて廻る酷薄さは救いようがありません。

維新後、上総小久保(現在の千葉県富津市)へ移封され、版籍奉還により藩知事となります。幕府中枢に在って、あれだけの惨劇の主役でありながら、何の報復処分も受けることもなく、むしろ明治政府から厚遇を受けたようにも見えます。

そろそろ、水戸市民もわだかまりを露わにするのでしょうか…。
Momo holding sign board-HKX Radio
※Nobu, Kun & Isa Band の今までの曲は左サイド、I Pod 風のプレーヤーでお聴きになれます。
       
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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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