後醍醐天皇

August 28, 2017

住めば都…ですが、どうもしっくり…

 「住めば都」とはどんな所でも住み慣れればそこが最も住みよく思う、という意味ですが、朝早くその土地を出て職場に向い、夜遅く帰ってくる、ただ漫然と過ごしているだけでは「住めば都」にはならないでしょう。その土地を知りたい、隣近所と交流して、その土地を良くしたい、それらの意図と実際の行動を通してその土地に対する愛着が生まれ、離れがたい気持が醸成されます。言葉を換えれば郷土愛か、その要素の一つに、その土地が輩出した歴史的人物があります。

 小山田有重は鎌倉幕府の有力御家人の一人でしたが、頼朝の死後(1199)、北条氏に謀られて没落(1205 「畠山重忠の乱」)、小山田氏の一部は甲斐国に落ちます。新田義貞挙兵時(1333)、有重から6代目:小山田高家が新田軍の侍大将として鎌倉攻めに参加して小山田城を奪還します。鎌倉幕府は滅亡(1333)しても次の「南北朝」の戦いが待っています。九州から京を目指す足利尊氏軍は、神戸湊川で新田義貞・楠木正成の連合軍と激突(1336 「湊川の戦」)、義貞は自分の馬を射られ、彼の危急を見た高家は自分の乗馬を義貞に与えて逃がし、身代わりになって討死します。時代は下って明治22年(1889)、神戸では高家が大事に祀られていることを当地の名主が知って大いに感激、木曽・根岸・上小山田・下小山田・図師・山崎が合併して新村を作る際に、その村を「忠臣の生まれた村」、「これからも忠義の者が生まれ出る」ことを祈って、「忠生(ただお)村」と名付けました。

 境川を挟んで、その忠生の反対側、南に淵野辺があります。護良親王は父、後醍醐天皇に疎まれ、足利尊氏の弟:直義の預かりとなり、鎌倉に幽閉されていました。1335年、最後の鎌倉幕府執権:北条高時の遺児:時行が蜂起(「中先代の乱」)して鎌倉に攻め寄せました。鎌倉を守る直義はこれを支えきれず撤退しますが、その混乱の中、家臣の淵辺義博に護良の殺害を命じます。これを機に、後醍醐天皇は足利尊氏と決裂、本格的な「南北朝」の時代を迎えます。実は…、義博は主人の命令に背き、内密に、護良親王を自分の領地に移し、難を恐れて家族との縁を切り、境川に掛かる中里橋、榎木の下で家族と別れ(「縁切り榎木と別れ橋」)、護良親王に従って宮城県石巻まで逃れた、とする伝承があるそうです。

 1590年、小田原後北条氏が滅亡、関東に入封した家康は多摩地区を幕府直轄領、天領としました。家康の命を受け、大久保長安(ながやす)は甲州街道を整備、八王子に「千人同心」を設けて武田・後北条の旧家臣団を近郷開拓の屯田兵として、無禄ながら土地を開拓する郷士組織を作ります。「千人同心」に限らず、多摩は江戸時代初期に開発された土地が多く、彼等の多くは主君をなくした元武士であり、やがて村の名主階層に育って行くことになります。「千人同心」は八王子防御が当初の目的でしたが、後に、日光東照宮の火の番が主な任務となり、武士に憧れる豪農層は同新株を取得して「千人同心」職を兼ねることになります。こうして彼等は「将軍家の家来」と言う意識を強く持つようになります。彼等は客人をもてなす必要から教養として、書道・華道・和歌・俳句、そして地誌・国学などの芸事を学び、彼等文化人の間にはネットワークが誕生します。18世紀(江戸後期)に入ると、交通・経済が発展、幕末の開港による物価の急騰で無宿者・盗賊などの治安が悪化、芸事の一つとして、武芸が名主・豪農層の間で流行します。当時、百姓・武士以外で武芸・剣術が盛んだったのは武士のいない、藩の存在しない天領である多摩地域と、もう一つ、上州(上野国(こうずけ)群馬県)だけと云います。
多摩境札次神社
札次神社
 当時、長州・土佐・薩摩も会津・桑名・彦根も…、ほとんどの藩及び武士の思想は水戸学の「尊皇攘夷」です。幕府直轄領で武士のいない天領:多摩では、武士の代わりに国学を学んだ名主・豪農層はもちろん「尊皇攘夷」ですが、あくまでも佐幕、幕府あっての「尊皇攘夷」でした。「桜田門外の変」が発生(1860)、幕府は清河八郎の献策を入れ、攘夷のの実行・公武合体・尊皇を目的に浪士組を結成、「天然理心流」4代目の宗家:近藤勇とその門弟はこれに参加することになります。近藤を物心両面で支援したのが、名主・豪農の一人、小島鹿之助(こじましかのすけ 町田 小野路村)です。近藤を始めとする多摩出身者とその支援者は、天領=幕府直轄領に生まれ育った、多摩だけに通じる独特の文化を背景に「尊皇」を叫びます。当時の「尊皇」とは一地方の文化ではなく、徳川幕藩体制を越えた、「天皇の前には大名も一個人も平等」という明治の天皇制に引き継がれる普遍的なイデオロギーでした。

 「一所懸命」という論理と「名こそ惜しけれ」という、卑怯な振舞いを蔑む精神は表裏一体した鎌倉武士の風土はどう変遷したのか、家康の関東に入封して270年、藩や武士による直接的支配を経験することなく、武士以上の武士を目指した「新撰組」が生まれた土地ですが、明治の時代になると、一変して、彼等の云う「自由民権運動」の地になるそうです。一変…ではなく、実は…、多摩の歴史を貫く確固たる一本の筋というものが有るのかも知れません。

 話は飛んで…、京都の三大祭りの一つ、「時代祭」は明治28年(1895)、平安京遷都1100年を記念して始まりました。戊辰戦争の際、朝廷のために官軍としていち早く京都に入った山国隊(丹波国で結成された農兵隊)を先頭に、時代を遡り、平安京造営の延暦時代までの行列ですが、室町幕府執政列・室町洛中風俗列(足利幕府時代)が加えられたのは112年後の、2007年のこと、松平容保と新選組は今に至ってもまだ列に加えられていません。そろそろ列に加えても良いのでは…。 
※参考:英傑の日本史―新撰組・幕末編 (角川文庫)
    
新選組 敗者の歴史はどう歪められたのか (じっぴコンパクト新書)
   日野市立新撰組のふるさと歴史観特別編「新選組誕生」

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express01 at 16:51|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

October 06, 2016

そうだ、バスで、京都に行こう!<1> 大徳寺

 久しぶりの京都駅です。普段の移動に使っているPASMOあるいはSuicaカードが京都市内バス・地下鉄・私鉄でも使えるのは便利です。前も書きましたが、私は1967〜71年、京都に在る大学(京大ではありませんが…)に通ったので一般の人よりも土地勘はあります。かなり前に市電が廃止されたのは残念ですが、今は地下鉄2路線が整備され、烏丸線烏丸御池で東西線に、三条京阪で京阪に乗り換え、昔は三条が終着駅でしたが、今は疎水の地下を叡電出町柳駅まで延伸されています。その出町柳で、一年ぶりに京阪沿線に住む姉と再会することになります。

 市バスに乗って大徳寺にやって来ました。それまでは紫野と呼ばれた原野、播磨国の守護赤松円心が寄進して基礎を築いた(1315)とあり,寺内「沸殿(?)」の欄間に並んで掲げられた花園帝と後醍醐帝の二つの扁額は、持明院統(後の北朝)の大覚寺統(後の南朝)両朝の帰依があったことを示しています。楠木正成を湊川の戦い(1336)で破り、後醍醐帝を叡山に退去させた足利尊氏は室町幕府を開きます(1336)。後に北山文化、東山文化と続く室町時代の到来です。大陸文化(明)と日本文化、あるいは、公家文化・武家文化・民文化など諸文化が融合、茶・花道・建築・造園、絵画、軍記物・御伽草子・連歌、能・狂言に代表される舞台芸術など、現代日本文化の源流・基礎はこの時代に完成されたと言えるでしょう。

 飲んだ茶の銘柄を当てる「闘茶」、高価な中国の茶器「唐物」を求め、これを使って茶会を催す「唐物数寄」が大名の間で流行しました。行き過ぎたこの風潮に代わり、亭主と客との精神交流を重視するわび茶の源流ができあがって行きます。摂津・河内・和泉の三国の「境(さかい)」であったことに由来する堺は当時、海外貿易で富の集まる商業港湾都市でると同時に、その富を背景に町衆による自治が行われ、「茶の湯好み(茶数奇)」の文化が発展していました。世の中は次第に茶会どころではなくなり、ついに、応仁の乱(1467-77)で京、そして大徳寺は灰燼に帰します。堺で禅宗の布教活動をしていた一休和尚(1394-1491)は大徳寺復興事業への援助を乞い、それに答えたのが彼に深く帰依していた堺町衆でした。

高桐院_1 堺町衆の茶の湯好み(茶数奇)が戦国武将と町衆茶人と大徳寺禅宗とを結びつけ、それまではあまり日の目を見なかった大徳寺を、安土・桃山時代最高の「晴れ舞台」の一つにのし上げることになります。利休自費で行われた大徳寺三(山)門重層工事が完成(1589)、それを記念して楼上に置かれた等身大の利休像に秀吉は激怒、利休切腹の大きな理由の一つとされます。これが「晴れ舞台」の上で演じられた最大の演目でした。総門を入ると右側にその朱塗りの三門を見ることが出来ます。利休、千家の菩提寺:聚光院を始めとする二十四にも及ぶ塔頭は、利休の弟子達・キリシタン大名達、その時代に生きた人それぞれの演目が刻まれた記念碑です。

 高桐院灯籠 その中の一つ高桐院は利休門下の細川忠興が細川家の菩提寺として建立されました(1601)。忠興の妻は珠(たま)、父:光秀は信長を討ち(「本能寺の変」)、自らも亡びます。その娘として隠遁生活を送っていたが覇権を制した秀吉の取りなしで世間に復帰します。禅宗に帰依していたが、密かにカソリックに改宗、ガラシャ(Gratia)の洗礼名を得ます。忠興は家康に従い上杉征伐に出陣、西軍の三成は大坂に残るガラシャを人質に取ろうとしたが、ガラシャは拒絶して自刃します。利休が愛用した「天下一」と称する石灯籠があり、利休切腹の折、遺品として忠興に贈られました。これが忠興と珠、ガラシャの墓となっています。
京街道光善寺辺り
 その日は姉夫婦の家に泊めてもらい、上の姉も参加して兄姉弟4人の同窓会となり、皆さん自分の知識を披露します。枚方(ひらかた)のこの辺り、淀川東岸を「京街道」と呼ばれる京大坂の往還道が通っています。古くは『土佐日記』で、赴任を終えた貫之が淀川を京に向かって遡上中、この辺りに「渚の院」を眺めながら通り過ぎる場面があるそうです。『太平記』では湊川に向かう正成を対岸の桜井駅で待つために正行(まさつら)が淀川を渡河したのはもう少し北か…、「本能寺の変」の後、光秀と秀吉は対岸の山崎天王山で戦い、筒井順慶はこの合戦の趨勢を傍観したという、日和見主義の代名詞として用いられる「洞ヶ峠」も此処から遠くはありません。

 極めつけは、茶屋四郎が家康の堺遊覧無事終了を信長に報告すべく京へ向かったが、信長の凶報を確認、急ぎ堺へ帰る途中、この辺りで家康一行と遭遇、事態は急変、家康の逃避行・脱出劇が始まります。家康が何故「京街道」を京へ向かっていたのか…、どのルートを辿って、伊賀(「伊賀越え」)・伊勢に至り、舟で三河に辿り着いたのか大いに興味のあるところです。

 時間はあってもお金のないのが今の私、初めて夜行バスに挑戦しました。問題はトイレ、如何にトイレ付きといえども初体験、やっぱり不安です。「あったらいいな、を形にする」〇〇製薬の夜間尿・頻尿の薬を服用したお陰か…、トイレに立つこともなく京都に着きました。帰りのバスは23時発、それまで、夜の京都の繁華街、どうやって時間をつぶすのですか?もちろん、新幹線で帰りました。
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September 14, 2016

これも、散歩の途中? <18> 高時腹切りやぐら

 「源平の戦い」の覇者、源頼朝は征夷大将軍に就き、坂東相模国鎌倉に幕府を開きます(1192)。京の貴種:頼朝は坂東武士の土地所有を保証するシンボルとして棟梁に担ぎ上げられ、対京都(=朝廷)交渉の機能を果たし、鎌倉幕府の確立後は用済みとなります。征夷大将軍:頼朝は突然死、跡を継いだ嫡男:頼家も変死、その弟の実朝も変死、頼朝の血筋はあっけなく絶えてしまいます。クーデター(?)によって政権を簒奪(?)した北条氏は、次々と仲間内の熾烈な争いに勝利して最高権力を握ることになります。北条氏、特に得宗家が烏合の衆であった坂東武士をまとめ上げ、百五十年間に渡り政権を保持することになります。もし、モンゴルの侵攻(元寇)がなければ、もう少し長かったはずです。

 1333年2月、後醍醐天皇が隠岐を脱出、鎌倉を発って六波羅救援に向かった足利尊氏は京の西、大江山、老ノ坂を越えた足利氏の飛び領地、丹波亀岡篠村八幡社で後醍醐の勅旨を得て挙兵、後に光秀も「敵は本能寺にあり!」と同じ道を行くのですが…、老ノ坂を越えて京に迫ります。2年後、後醍醐に叛旗を翻した尊氏は敗走、三度目の老ノ坂越えで西国へ逃れることになります。元へ…、5月、尊氏の京総攻撃に耐えきれず、六波羅探題:北条仲時・時益は光厳天皇・後伏見上皇・花園上皇を伴って脱出するも、時益は首の骨を射られて討死、光厳は肘に矢を受け、9日(?)仲時は近江国番場宿蓮花寺に辿り着くも、前を佐々木道誉の軍勢に阻まれて万事休す。天皇と上皇を残し、仲時は一族432人と共に自刃しました。

 一方の関東では、5月8日、同じく後醍醐の勅旨を得た新田義貞が挙兵、18日には稲村ヶ崎から鎌倉に突入します。

腹切りやぐら_1 熾烈な仲間内の権力争いの政治的決着なのか…、得宗家の当主は同じ北条氏や外戚である安達氏から室を迎えることが多く、長きに渡る近親結婚の影響なのか病弱短命で、最後の執権:高時は暗愚(?)とはもっぱらの評でした。高時以下得宗家一門は、代々の執権が暮らした「小町亭」と呼ばれる居館を出て、裏を流れる滑川に沿って歩き、葛西ヶ谷を背にした菩提寺:東勝寺が、北条九代百五十年、最期の地となりました。「供養塔卒塔婆」には高時と共に870人が自刃したとあります。

腹切りやぐら裏 近番場宿蓮花寺での432人そして鎌倉東勝寺での870人、合計1,300が自刃したとは、後にも先にも、これほど強い結束力はありません。鎌倉・六波羅探題の滅亡した中に御家人はほとんどおらず、北条氏一門と御内人(みうちびと、みうちにん 北条得宗家に仕えた武士)ばかりでした。北条氏が如何に排他的であったかを物語る数字です。元弘3年、1333年5月に亡んだのは鎌倉幕府ではなく、北条氏一門と御内人だったと云うことが出来るでしょう。

腹切りやぐら 北条一族の慰霊のため、1335年、後醍醐は尊氏に命じて「小町亭」跡に「宝戒寺」を建立します。

 「宝戒寺」から最期の地、高時の「腹切りやぐら」まで5分のはずが、案内標識を見落としたために、30分も余計にかけて辿り着きました。

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August 17, 2011

縁切り榎とわかれ橋

 町田市に住んで二十数年になりますが、便利かどうかは別に、最寄り駅は隣の相模原市にある淵野辺駅で、この駅名(地名)に関し、初めて知ったことがあります。鹿沼公園、古淵駅に続いて淵野辺駅…、昔は沼地で、地名もこれに由来したのでしょう。同地は、全く意外にも、…とはあくまで無知な私にとってですが…、後醍醐天皇の皇子:護良(もりよし)親王を殺害した淵辺義博(ふちべ よしひろ)の領地でした。

淵辺義博 石碑jpg












 金剛山地、吉野・熊野、高野山と古来より山岳信仰・密教の修行地で倒幕活動を目指してきた彼は、宗教的・超自然的魅力をも兼ね備えた武将だったのでしょう。父、後醍醐天皇に疎まれ、足利尊氏の弟:直義の預かりとなり、鎌倉に幽閉されていました。1335年、最後の鎌倉幕府執権:北条高時の遺児:時行が蜂起(「中先代の乱」)して鎌倉に攻め寄せました。鎌倉を守る足利尊氏の弟:直義はこれを支えきれず撤退する事になりますが、その混乱の中、家臣の淵辺義博に護良の殺害を命じ、親王は、28歳の若さで死にます。これを機に、後醍醐天皇は足利尊氏と決裂、本格的な南北朝の時代を迎えます。

 水戸光圀(1628 〜 1701)に依る『大日本史』は朱子学に基づく水戸学=尊皇論が根幹であり、南朝正統論を唱え、幕末の思想に大きな影響を与えました。倒幕、明治新政府樹立から戦前に至る「忠君愛国」:尊皇思想からすれば北朝・足利室町幕府は「逆賊中の逆賊」、もちろん護良親王を殺害した淵辺義博も同罪と言うことになるでしょう。縁切り橋2

 近くに、町田市と相模原市との境に、文字通り、「境川」が流れています。これに沿って40〜45km下って江ノ島に至るサイクリングコースは以前紹介したことがあります。実は…、実は…、淵辺義博は主人の命令に背き、内密に、護良親王を自分の領地に移し、難を恐れて家族との縁を切り、境川に掛かる中里橋(わかれ橋)、榎木の下で家族と別れ(『縁切り榎とわかれ橋』とは調子のいい語呂です)、護良親王に従って宮城県石巻まで逃れた。これとセットに、一方の石巻には護良親王が落ち延び、父帝である後醍醐の供養のためにこの碑を建てた、とする伝承があるそうです。『太平記』、『大日本史』を学んだ、であろう蒲生君平高山彦九郎等の幕末の志士達もその御利益にあやかろうとお参りに行ったようですが、『縁切り榎〜』の話も石巻の話も全くの作り話でした。

 鎌倉撤退の混乱の中、足利直義の命で淵辺義博は護良親王を殺害、駿河国で追いつき、手越河原で直義の身代わりとなって討死します。そんな訳で、護良親王を自分の領地に移し、それから家族との縁を切って、宮城県石巻まで一緒に落ち延びる時間などあるはずもありません。彼が護良親王を一時的に匿ったとされる龍像寺は1556年に再建されたしたもので、『縁切り榎〜』の話も石巻の話も江戸時代に語られたという。いずれも南朝正統論による尊皇論の『大日本史』が世の中で支配的になった享保年間以降、比較的新しい時代に作られた話ではないでしょうか。明治に入り、護良親王を称えて鎌倉宮が造営され、この境内の山腹には護良親王幽閉の土牢が再現されていますが、もちろん鎌倉時代の遺構ではなく、明治新政府による作り話でした。

 淵野辺村の人々はこの如何にも作り話、取って付けたような『縁切り榎〜』にすがって生きて来たのでしょうが、1945年8月15日の敗戦、「忠君愛国」、尊皇思想の役回りの終了とともに、決定的には、吉川英治の『私本太平記(1958)』、これのNHK大河ドラマ『太平記(1991)』で、やっと、過去の呪縛から解放されたのではないでしょうか。 

より大きな地図で 忠生〜淵野辺義博居館跡〜縁切り榎〜縁切り橋 を表示

 京都三大祭りの一つ:「時代祭」平安神宮創建(1895)を記念して、東京奠都以前の京都の風俗を遡ります。最初は明治維新、ついで江戸、安土桃山…と時代を遡って行きますが、2007年開催までは征夷大将軍:足利尊氏の室町時代が外されていたそうです。

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May 22, 2011

元弘3年(1333)5月22日 鎌倉幕府滅亡

小山田緑地町田市小山田と称する地域は、平安時代には朝廷の馬を飼育する牧場で、小山田氏は代々その別当(=長官)でしたが、小山田有重の時、鎌倉幕府の有力御家人の一人になります。山歩きの好きな I さんが、有重の居城(跡)とされる「大泉寺」から、「小山田緑地」を経て、その副城:「小野路城跡」・「小野路」に至る1/2 Day Walkに連れて行ってくれました。

源頼朝を頭領に幕府を鎌倉に開くに至る「源平の合戦」に始まり、「いざ鎌倉」と坂東武者が鎌倉にはせ参じた軍事道路で、鎌倉を起点に武蔵の国府である府中を抜けて上州(群馬県)高崎までが「上の道」と呼ばれ、ここで西へ分岐して碓氷峠を越えて信濃路へ、或いは東の新田荘や足利(栃木県)へ、更に北に向かう奥州路(岩手県)へ通じています。
小野神社2
「小野路」は鎌倉を出て武蔵国府:府中までの間にある宿場町ですが、戦後急激に発展した町田市にありながら「アレーっ」」と思うほど、鎌倉時代の面影を色濃く残しています。ここに、「小野神社」があります。「小野神社由緒」曰く、「小野篁(おののたかむら)の七代の孫:小野孝泰が武蔵の国司として天禄年間(972年頃)府中へと赴任した時、当地が小野郷と称したことから、篁が当地に滞在したしたものと考え、篁の御霊をこの地に祀った。」 続けて曰く、「〜小町井戸があり、当地と小野市との縁の深さを物語っています。」 …と伝説は極めて控えめです。小野篁、小野小町にまつわる神社や遺跡は全国各地にあるようです。

元弘 3年(1333年) 5月8日、後醍醐天皇に呼応して新田義貞は上野国生品明神で鎌倉幕府打倒の挙兵。総勢わずか150騎。鎌倉街道を南下、行く先々で武士団が次々に参加、数十万の規模に…、
5月11日、「小手指ヶ原の合戦(こてさしがわら 所沢市)」で幕府軍を撃破。
5月12日、「久米川の合戦(東村山市)」で幕府軍を撃破。小野路城跡
5月15日、「分倍河原の合戦(ぶばいがわら 府中市)」で敗れ、久米川まで退却。
5月16日、「分倍河原の合戦」で勝利。

絶対防衛線である多摩川(関戸)を破られ、この「小野路」→今井谷戸→本町田→成瀬と潰走する幕府軍、これを追撃する新田義貞軍、両軍合わせて何万という軍団が駆け抜けたとは、残念ながら、今の「小野路」を見る限り全く想像できません。
新田義貞軍は三手に分かれて鎌倉に攻め込みます。大館宗氏の右翼軍、片瀬・腰越から極楽寺坂へ、堀口貞満の左翼軍は巨福呂坂(こぶくろざか)に向かい、新田義貞の中央軍は化粧坂(けわいざか)を攻めます。極楽坂

5月18日、「極楽寺口」 を突破、鎌倉府内に突入。大館宗氏戦死。
5月21日、新田義貞、「稲村ヶ崎」を突破し鎌倉府内に突入。
巨福呂坂2
実は、I さんが鎌倉にも連れて行ってくれました。現代の私たちは当然の事ながら、何の抵抗も受けず、片瀬・腰越から極楽寺坂から鎌倉府内に侵入出来ましたが、「鎌倉アルプス」と呼ばれる鎌倉最長のハイキングコースを歩いた後に挑戦した「化粧坂(けわいざか)」は、「鎌倉七口」の一つですが、「鎌倉の出入り口」というより「登山口」の感、我々の間違いだっだのでしょうか…。

元弘3年(1333)5月22日、最後の執権、北條高時以下の北條氏一族及び郎党の八百余人は自刃。
現代の暦(グレゴリオ暦)では6月らしいのですが、元弘3年(1333年)の今日、鎌倉幕府は滅亡します。
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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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