平家物語

October 13, 2017

『Surfin’ USA』 と『平家物語』その2

その1から続く、井沢元彦著『逆説の日本史 16』にある「識字率」に関する記事の抜粋です。

 13世紀初(?)、『平家物語』の時代、出版などはなく、本は全て肉筆の写本、身分の低い人間には入手困難で、盲目の琵琶法師にはそれを「読む」ことすら不可能。慈円は怨霊を鎮魂して、国の平和を実現することを第一目的に、藤原行長をして盲目の生仏に「教えて語らせ」、鎮魂の巡回僧は地方の津々浦々まで巡り、都の一流の作者が作った面白い物語を、琵琶の伴奏で語る(歌む)。「読み」さえ頭に入っていれば、すぐに読めるようになり、読むことが出来れば「書く」こともできるようになり、こうして「読み書き」ができるようになる。「音曲(音楽)」に乗った言葉ならなおさらである。このようにして、全国津々浦々での、盲目の琵琶法師による『平家物語』の興行は、「怨霊鎮魂の意図」とは別に、日本語習熟度の驚異的な向上をもたらし、室町時代には「太平記読み」という職業を生み、これが「講釈」・「講談」に引き継がれ、江戸時代の日本人の驚異的な識字率に繋がっていく。「門前の小僧、習わぬ経を読む」の通り、子供は難しい言葉でも、小さい頃から節・音曲(音楽)と共に聞かされれば、そしてそれが興味のあることであればいくらでも覚える。まさに「マイ・ルィジアナ・ママ フォム・ノリオリン」です。

 もう一つ日本で特徴的なのは、自国の最高レベルの文芸作品を上流階級及び庶民階級が「共有」しており、国家形成期の『万葉集』は今日の皇室の年頭行事、「歌会始め」に続いている。例えば、近松門左衛門、当時の最高レベルの劇作家の台詞を庶民が暗唱するというのは他国では考えられないことである。ヨーロッパでは『聖書』が古典として「共有」されているが、「読み書き」と「ラテン語」という二重の暗号に縛られていた。これが各国語に訳されたのは14〜16世紀、キリスト教成立から一千年以上経ってから(カトリック教会が聖書を独占するために翻訳を嫌った)、日本の慈円、『平家物語』から3世紀遅れた16世紀、ルターが聖書を讃える賛美歌を作って『聖書』を「音曲(音楽)化」、庶民向けの布教、これが「識字率」の向上を促し、宗教改革をおこなうことになる。

 以上で引用を終わります。

Beach Boys Classics 話は戻って、英語の話。 私は『Surfin’ USA』をバンドで歌いますが、Youtubeのカラオケのカラオケを見ると、英語の歌詞の上にはフリガナがうってあります。50年以上前の曲ですから、「マイ・ルィジアナ・ママ フォム・ノリオリン」と同じく、カタカナで覚えた人もおられたかも知れませんが、「洋楽」好きな私からすれば、見栄を張って、英語の歌詞を読んで歌うのは当然。…が、しかし、あれっ、私の使い古したレパ帳にある『Surfin’ USA』、下の歌詞の部分には、<歌い方>、<言い回し>をカタカナで記入しているではありませんか。

“Surfin’ USA”
Verse1
If everybody had an ocean / across the USA,
Then everybody'd be surfin' / like Califor-ni-a.
You'd see 'em wearing their baggies / huarchi sandals, too.
  ユ        シエム    ウェアリン
A bushy, bushy blond hairdo / surfin' USA.

You'll catch 'em surfin’ at Del Mar / Ventura County Line,
  ユ       キャチエム サーフィン
Santa Cruz and Tressels / Australia's Narabine,
All over Manhattan / and down Doheny way,
Everybody's gone surfin' / surfin' USA.

  『Surfin’ USA』はブライアン・ウイルソン(Brian Wilson)の作とされるが、実際はチャック・ベリー(Chuck Berry1926 - 1972) の『Sweet Little Sixteen』が本歌。ロックンロールは16小節の繰り返し、演歌・歌謡曲の様に「七五調」とは行かず、学校で学ぶ英語と違い、一小節内の単語数が多く、やたら「(アポストロフィー)」で省略されています。2分少しの8ビートの曲、英語の字面(じづら)を追っかけたら、目で確認している間に、曲は流れ去ってしまい、曲に歌詞がついて行けないことになってしまいます。どのような言い回しで歌っているのか頭にたたき込む(覚えさせる)為に、カタカナでメモ(注意書き)しておくのです。

 中学生と言えば、子供から大人へと変わる頃、かっこいいと感じ、「音楽(音曲)」から「洋楽」にはまり込みました。意味の判らない英語の歌声も伴奏と同じく、単なるかっこいい音色でしかなかったのです。「学習」を分解すると、「学ぶ」は「まねぶ」そして「習う」とは「倣う」の意味、特に「語学」は「まねてならう」ことが重要です。好きな「音楽=洋楽」から「英語」を学習できるのですから、これ以上の方法はありません。中学の英語の授業が始まると、ビートルズやビーチ・ボーイズが何を歌っているのか、知りたくて勉強し、授業が楽しくなるのは当然。高校生から大学生になると、自分なりに理解した歌詞の内容から、歌に歌われるアメリカの社会・歴史に興味を持つようになります。日本史は入試目的に丸暗記したのですが、世界史は、アメリカ→その先祖の国、イギリス及びヨーロッパ→その先祖、ローマに及び、次第に日本史も世界史の一つと考えるようになりました。きっかけは「洋楽」との出会いでした。

 外国人とコミュニケーションを取る場合、特に非英語国圏の場合、概ね、英語が多くの国の第一外国語の地位にあり、その意味で英語が順当な言語手段であることは間違いのないことです。英語をしゃべるからと云って、何を共通の話題にするのでしょうか?私の現役時代、仕事柄、英語そのものは不可欠でしたが、「洋楽」の知識はいろいろな国籍の人々との会話を盛り上げるのに大いに役立ちました。彼等も知っている曲を一緒に歌うことができるのです。これが、歌謡曲・演歌が趣味では、ほとんど役に立たないでしょう。

 ごく希に、美空ひばり、北島三郎ファンの外国人もいるかもしれませんが…。

 ※参考資料:『逆説の日本史 16』

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express01 at 08:30|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

May 30, 2015

座頭市(いち)と検校塙保己一(ほきいち)

 保元の乱(1156)、平治の乱(1159)が終わり、武士の時代の到来は今までの価値観を一変させ、一方では、安元の火災(1177)→治承の辻風・福原遷都(1180)→養和の飢饉(1181)→元暦の大地震(1185)…、天災と人災が続きます。

 浄土思想・末法思想が『平家物語』のテーマなのですが、本来の釈迦が教える無常観とは、全く感情の入る余地のない、哲理・宇宙原理であるはずなのに、『平家物語』の無常観は、「無常感」と書き換えるべきほどに、「人生ははかない、花は散り際が美しい」と花鳥風月を語るものに変質しています。きわめて情緒的・感情的であり、日本人に独特な自然観・死生観に根ざしているようです。桜を愛でるのも、その美しさだけでなく、芽吹く→蕾→満開→色褪せる→散る、という「無常」に愛惜・哀惜を感じるのです。

 この『平家物語』、1200年頃、天台座主の慈円(『愚管抄』の著者)は、保元・平治の乱以来の戦死者たちを慰霊するために、大懺法院(だいせんぽういん)という寺を創設、学芸・音曲など一芸ある者を保護し、彼ら芸能者は様々な芸を奉納していたが、信濃前司行長(しなののぜんじゆきなが)に書かせ、それを芸能者、琵琶法師に与えたと『徒然草』にあります。盲目の琵琶法師の仲間内で、長い時間をかけて、多くの人が関わることで、物語はより深く・広がり、盲目故か、平家一門の死者の霊に触れ、鎮魂の気持ちを込めて語ったと伝承されています。鎌倉幕府編纂の歴史書:『吾妻鏡(1300年頃)』も、すでに庶民に人気の『平家物語』の引用、無視できない存在となり、歳月が経過するうちにさらなる深化を遂げていきます。

 『平家物語』は南北朝〜室町初期(1338〜1392)にかけて流行の沸点を迎え、これと同じ時期、義満(1358-1408)の時代に編纂されたのが室町幕府の正史:『太平記(1377)』でした。『平家物語』が『太平記』の内容だけではなく、反北条(平氏)の号令、倒幕運動への急速な集結、鎌倉幕府の滅亡後の足利・新田両氏による「源氏の棟梁」を巡る抗争、尊氏の征夷大将軍就任(1388)や南北朝合一(1392)など、 現に起こりつつある政治さえも影響・規制することになります。

琵琶法師 これを踏まえ、義満以降、幕府は語り『平家物語』の管理を強化するようになりました。明石覚一(? - 1371)は尊氏の従弟で、播州書写山の僧であったが、失明し琵琶法師となり、琵琶、按摩、鍼灸の名手、『耳なし芳一』のモデルと言われます。「当道座」を設立して、自らその検校となり、語り『平家物語』の最初の正本が「覚一本『平家物語』」と呼ばれます。中世から近世にかけて、男性盲人の自治・相互扶助組織で、師匠から弟子へ技能を継承する教育機関でもありました。当道の官位は「検校(けんぎょう)」、「別当」、「勾当」、「座頭」の4官であり、さらにその中が73の階級に分かれ、江戸時代になると、多大な金銭を要求して昇進の口利きをする検校が現れ、高利貸しの代名詞までになった。
 座頭市
語り『平家物語』が次第に廃れて、芸能を主とする座の性格が失われ、芸能以外の道に進む人も現れます。例えば、フィクションながら、侠客になったのが座頭の市、勝新太郎が演ずる映画:『座頭市』ということです。

塙保己一 三重苦の障害を持ったヘレン・ケラーがはじめて来日したとき(1937)、こんな言葉を残しています。「私は幼いころ母親から塙保己一(はなわ ほきいち)検校の業績と不屈の精神を聞かされ発奮しました。 塙先生は私に光明を与えてくださった恩人です。」 塙保己一(1746 -1821)は、41年の歳月をかけて収集、校訂、編さんした日本最大の叢書:『群書類従』を著した国学者、江戸時代初期までに刊行された1273種の歴史・文学作品を収録する。彼もまた覚一の系譜を引くもので、日本の近世・近代を語る上に欠かせない盲人学者でした。ちなみに四百字詰め原稿用紙は彼の発案によるそうです。

 『平家物語』は日本人が作り、育て上げ、その影響は日本の近世・近代にまで及ぶことになります。

 バンド仲間のNobuさんは熊谷市に育ち、小学2〜3年生の時、交通安全の標語か何かで…埼玉県主催の「塙保己一賞」をもらったそうです。急に、保己一が身近なものになりました。

参考資料:篠田正浩路上の義経幻戯書房

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March 11, 2015

平安末期末法の世 山城国日野

深い森 2012年6月、わずかながらも復興に寄与すればと思い、白河関を通って会津若松に旅しました。 平安中期、能因が、平安末〜鎌倉初期、彼の跡を追って西行が、そして江戸期には、二人を追って芭蕉が通過した白河関、私にとってはこれが二度目の訪問でした。その年の大河ドラマが『平清盛』だった故か…、空堀が巡らされた古代の砦・柵の跡に一人立つと、そこは『平家物語』の世界です。

 「一ノ谷の戦い(1184)」で捕虜となった平重衡は、 鎌倉からの帰路、同じく「壇ノ浦の戦い(1185)」で捕虜となった妻:輔子(ほし/すけこ)が姉の居所に隠棲していると耳にします。「もしや…、会えるかも…?」と、待っている妻。 果たして、一行が日野に差し掛かった時、「この近くに妻がおりますので、今一度対面したく〜」と重衡、警護の武士は涙して夫婦つかの間の再会を許します。『平家物語』、感動的な場面の一つです。

 重衡夫婦が再会を果たした山城国日野、奈良の春日野の地に似ているという理由で当初、「春日野」と名付けられました。日野氏の始祖:藤原真夏を祀った萱尾神社の前に「春日野」と記した標識を建てたが、ある日、一匹の鹿が現れ「春」の一字を喰いちぎって行ってしまいました。以来「日野」のニ文字だけが残り、そのまま地名となったと云います。

 保元・平治の乱(1156/1159)、安元の火災(1177)、治承の辻風(1180)、福原遷都(1180)、治承・寿永の乱(1180〜1185)、養和の飢饉(1181)、元暦の大地震(1185)…、立て続けに起こった天変地異と戦乱、人々は世界の終末:「末法」の到来に怯え、極楽浄土への往生を求める浄土信仰が大流行します。朝廷・貴族が衰退して武家が台頭、一方では、既存の仏教に対抗する新しい仏教勢力が増大、価値感が一変する大変動の時代でした。

 朝廷と姻戚関係を結び、 摂関政治を続けてきた藤原氏にすれば、重衡はその藤原氏の氏寺:奈良「興福寺」焼き討ちを指揮した重罪人、その重衡が藤原氏日野家の拠点:日野を通るのも因縁があったのでしょう。「法界寺」は真夏の孫:家宗が建立した日野家の氏寺ですが(薬師信仰)、この時代、末法思想の大流行を受けて阿弥陀堂が建てられ(阿弥陀信仰)、浄土真宗の開祖:親鸞は日野有範の子としてこの「法界寺」に生まれました(1173 〜1262)。

 仏教で云う「無常」とは、宇宙・万物の哲理・原理であり、「奢れる・奢らざるに拘わらず、全てに等しく永遠ではない」のですが、『平家物語』では「奢れる者は久しからず」になってしまいます。前者は感情の入る余地のない根本原理・宇宙の法則、日本の「無常」は極めて情緒的、桜は散り際が美しいなど、桜の花を愛でるにもその美しさだけでなく、変わりゆく=うつろいゆく=「無常」に愛惜を感じるのです。

 下鴨神社の神事を司る神官の次男として生まれた鴨長明(1155 〜 1216)は、 和歌・音楽(琵琶)を学び、歌人として活躍していましたが、神職としての出世の道を閉ざされ大原にて出家(1204)、後にこの日野「法界寺」の奥に「方丈庵(一丈四方の庵)」を結びます。既に武家の時代、鎌倉幕府三代将軍:源実朝に面談して帰国後、『方丈記』を完成します(1212)。

 この時代、日野が何かと重要な舞台の一つでした。『方丈記』に関して書こうと思いましたが前段の時代背景だけに終わってしましました。私の書斎

 私の部屋はほとんど長明の方丈庵と同じ、音楽もほとんど同じで、上手くはありませんが、ギターを彈きます。残念ながら和歌、文学の素養はありません。
 

 東日本大震災で亡くなられた方々の御冥福を心からお祈りします。

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August 22, 2013

坂東鎌倉武士 「名こそ惜しけれ」

25年も前の話で恐縮ですが、同期の友人が千葉県柏に住んでいたので、ただそれだけの理由で…、千葉県流山市に住んだことがあります。住んでみて奇妙に感じたのは…、黄色い(?)ヘルメット姿の小中学生の通学場面、ご主人が2時間〜2時間半もかけて東京都内に通勤しているのがただ一つ理由か…?、「地方から来られたのですか?」とはご近所の奥さん達の言、自分が東京に住んでいるものと勘違いされているようです。阪神間に長く住んでいた私、2時間も車で走れば日本海まで行ってしまうのですが…。

流山に住んだのは1年間だけで…、東京都内ではなく都下、町田市に引っ越して来ました。九州生まれ・関西育ちの私、流山に居る時は、当然の事ながら、常磐道・東北道と、すべての道は見知らぬ土地、東北地方に通じています。町田に住むと、東名・中央、その先には名神、自分の育った関西へと通じています。上野駅13番線ホームの発車ベルのメロディーが『あゝ上野駅』になったのはつい最近のニュースですが、東北出身の人は東京以北・以東に住み、関西出身の人は東京以西に住み、故郷へとつながる鉄道あるいは道路の沿線に人は定住する傾向があるように思えます。江戸っ子が通を自慢していう言葉:「野暮と化け物は箱根から先(西)」、関西の友人の感覚:「なんで、東京を通り越して、近藤勇の捕まった流山まで行くんや?」、どちらも意味は同じようなもの、意識するかどうかは別に、誰にも自らの文化圏があります。
本_平家物語 横笛 維盛出家・入水130723S
この歳になって『平家物語』の背景をおさらいしてみると面白いことに気付きます。『平家物語』は京都六波羅の伊勢平氏の興隆・滅亡を描いています。…が、「源平の戦い」とは言いながら、それは六波羅伊勢平氏vs敵対勢力、後白河法皇及び摂関家の旧来勢力、及び伊勢平氏と競合する新興武家勢力との三つ巴の戦いでした。

余談ですが、私の住む小山田の別当:小山田有重、秩父氏の一族でれっきとした坂東平氏の一門、当初は平家の一翼を担って各地を転戦しますが、主筋の秩父氏は頼朝:源氏につき、平家一門都落ちに際して帰郷、許されて頼朝:源氏に帰順します。
散歩の途中にある小山田神社、戦前までは「内の御前社」と呼ばれ、有重の婦人を祀ったそうです。
蓮田・小山田神社20130717_3
1192年、勝利した源頼朝は坂東相模国鎌倉に幕府を開き、自らは征夷大将軍に就きます。ところが、鎌倉幕府の確立した源頼朝は突然死、跡を継いだ嫡男:頼家も変死、その弟の実朝も変死、3人ともに北条氏が殺害、幕府内の実権を握ります。頼朝の血筋はこれで絶え、あれほど熾烈を極めた「源平の戦い」は「源平共倒れ・共食い」の結果となります。執権北条氏の出自は不明ですが、桓武平氏の流れであると称したのは皮肉なものです。
Minamoto_no_Yoritomo
京の貴種:頼朝は、ただただ、坂東農場主の土地所有を保証するシンボルとして棟梁に担ぎ上げられ、対京都(旧勢力)交渉の機能を果たしただけで、鎌倉幕府の確立後は用済みとばかりに粛清され、結果、坂東武士は日本国内に、もう一つの独立国を建てることに成功したのです。

平安後期、鋤・鍬・鎌など鉄製農機具が個人でも使えるぐらいに安価になり、足柄峠(後の箱根)の坂の東向こう:坂東の地では、新田・牧場の開墾・開発が隆盛、アメリカ開拓期の西部で大牧場を切り開いた牧場主のようなものでした。武士というよりは牧場主のような彼等は「俺が開墾、耕した土地、だから俺にその所有権がある」、すなわち「一所懸命」という単純明快な論理と「名こそ惜しけれ」という、恥ずかしいことはしない、卑怯な振舞いを蔑む精神は表裏一体して鎌倉武士の真髄であり、その後の日本人の考え方・生き方に大きな影響を与え、日本人の原理・原則、「理念」にもなって行きます。もちろん、お隣の中国・韓国には存在しません。日本史にこの時代の関東とその精神がなければ、(日本史は極めて)寂しいものになる、とは司馬遼太郎の言葉です。

それから5百年後の江戸・元禄時代、今だに国民的英雄の「赤穂浪士討ち入り」事件。何故、この討ち入り事件が「名こそ惜しけれ」の坂東ではなく、その対局の上方圏(?)、播磨国赤穂の浪士によってなされたのでしょうかね。

近藤勇さらに下って160年後の幕末の新撰組、戊辰戦争(鳥羽・伏見の戦い)以前の5年間での内部の死者:45名の内、倒幕志士との戦闘による死者はわずか6名、ほとんどが、近藤勇の「士道不覚悟」の一言で粛清されたもので、敵よりも同志を殺した数のほうがよほど多かった狂気の集団でした。司馬に言わせれば、ロシア革命における労働者出身の革命家のごとく、当時の武士ならばとうてい思いもつかない陰険な手段を用い、美意識は武士だがやることは武士ではない、先祖伝来、地頭に支配されてきた階級の出身者に特有なもの、とは手厳しいですが全くの同感です。

彼等の行動には武士階級、選ばれた階級ゆえの負うべき義務や責任は感じられません。

近藤勇は「名こそ惜しけれ」の坂東武蔵国多摩郡の出身。またまた、私の家から遠くない、小野路という場所に出入りしていたそうで、あまり好きな人間ではありませんが、縁がありそうです。

 参考資料:「東と西の語る日本の歴史 」 「この国のはじまりについて―司馬遼太郎対話選集〈1〉 」

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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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