山中常盤物語絵巻

February 25, 2016

熱海MOA美術館

前回のブログで書いた『逢魔が時』、私の風邪の症状はあれだけでは終わらず、いや…、タンの絡んだ咳は2週間以上続いたのではないでしょうか。食欲も戻り、体重も戻ってきたようで、自分の快気祝い(?)に、年末から考えていた熱海MOA美術館に行ってきました。二月にもかかわらず、伊豆半島の東の付け根、熱海と聞いただけで、そこにはもう春がやって来ているように錯覚してしまいます。「四月、春のような暖かさ…」という天気予報士の言葉に背中を押されたのです。小田原でJR東海道線に乗り換え、車窓に相模湾を望む小旅行でした。

ファサード JR熱海駅に降りるのは初めて、これほどまでに山が海に迫っているとは…、現に熱海駅は山の中腹にあり、駅からは見えませんが海はすぐ前、MOA美術館は後ろの山の中腹にあり、歩いて登るには坂が急すぎてしんどそうです。迷わず…、バスに乗ること10分、MOA美術館に到着します。山の中腹にファサード、MOA_Time Tunnel入ると大きなトンネルが上に伸びておりエスカレーターで登っていく、薄暗いトンネルの色が徐々に変化して、異次元、美の世界へ入って行く導入部分の仕掛けです(昔、『タイムトンネル』というTVシリーズがありましたが…)。

 この3月7日から約11ヶ月、改修工事のために休館の予定にて、それまで開かれている『大名品展』を見逃すことは出来ません。訪れる前からの疑問に思ったのですが、この美術館の名前:『MOA』とは何でしょうか。 人によって「エム・オー・エイ」、あるいは「モア」とも呼ばれるのを耳にし、私などは「Museum Of Art」であれば美術館の意味、これでは「美術館・美術館」と「馬から落ちて〜」になってしまうのでは…、館内の説明では取って付けたように「Mokichi Okada Association」の由にて、岡田茂吉(1882-1955)は、書家、画家、歌人、華道流祖、造園家、建築家、美術品収集家、そして宗教家、いわゆる時代を代表する文化人の割には名付け方のいい加減さが気になるところです。

 後で「秀吉の金の茶室」が有名と聞きましたが、私自身が興味がないのか…、その存在自体を全く気がつきませんでした。教科書で見た国宝、光琳の『紅白梅図屏風』と野々村仁清の『色絵藤花文茶壺』、そしてお目当ての重文、岩佐又兵衛、『山中常磐物語絵巻 第4巻』、『浄瑠璃物語絵巻 第4巻』、彼の自画像に辿り着きます。
山中常磐物語絵巻第4巻

 本物の絵を目の前にして感激、その余韻を楽しみながら敷地内の庭園を散策、やって来たバスに乗って熱海駅前に帰りました。日はまだかなり高く、物見遊山の観光客で賑わう駅前の商店街を抜け、海岸につながる坂道を下ります。

 その途中で見つけたのがこれ、路地裏の急な階段です。遠くに海が見えればもっと良いのですが、残念ながら高層のマンションに遮られています。スケッチはわずか10分、残りは家に帰って写真を見ながら、珍しく集中力も途切れず、この絵を一日かけて描き上げました。数カ所、おかしなところもありますが、許容の範囲としましょう。こんな風景が好きです。
160223熱海路地裏

金色夜叉 熱海とは陳腐ですが、MOA美術館で『山中常盤物語絵巻』を見ることが出来、好きな絵を描くことが出来、もちろん両者には大きな落差はありますが…、大仰に云えば、復活を確かめた旅でした。

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January 18, 2016

数奇者二代目 岩佐又兵衛

 摂津伊丹有岡城で信長に反旗を翻して籠城していた荒木村重は毛利方に遁走(1579)します。落城後、置き去りにされた家臣・人質122人は尼崎七松にて処刑され、信長の逆鱗に触れた村重とその家臣の一族郎党36人は京都市中を引き回された後、六条河原で斬首されます。…と、村重の謀反の様子が『信長公記』に記されているそうです。

 奇跡が起こります。落城寸前に、村重の息子:数え年2歳の又兵衛(1578年生まれ)だけが乳母に救い出され、石山本願寺に保護されたのです。

 時代は急変、「本能寺の変(1582)」を経て豊臣政権が成立しますが、村重は堺に戻り、武人ではなく、今度は茶人として復活、「利休の七哲」の一人に数えられるまでになります。芸術家として大成した村重は1586年、畳の上で死去、享年52歳でした。

 成人した又兵衛は母方の姓:「岩佐」を名乗り、信長の息子:信雄に「御伽衆」として仕える一方、絵師としての才能を発揮します。織田、豊臣、「関ヶ原」そして家康が江戸に開幕と時代は移り、岩佐又兵衛(1578-1650)は福井に居住、藩主:松平忠直・忠昌に仕えます。60歳の頃、幕府の招請を受け、江戸に上った又兵衛は江戸初期を代表する大和絵絵師と評されることになります。江戸で没しますが(1650)、遺言により、墓所は妻子と暮らした福井に在るそうです。

 中仙道、美濃国と近江の境の山中宿を幾度も往来した信長が「本来、乞食とは住所不定のはず。この者はいつも変わらず、この場所に居るのは何故か」と問うに、村の住人答えて「当所、常磐御前を殺してしまいました。その因果により、子孫の者は代々乞食となっています。山中の猿とは、この者の事でございます。」…と、同じく、『信長公記』に記されているそうです。
 
 常磐御前は何処で没したのか…、群馬県前橋、埼玉県飯能、実は私の住む東京都町田市にも「常磐」という地名があり、常磐御前に関係する地所と聞きますが、今回は関ヶ原の「山中宿」です。信長の時代(戦国時代)から4百年前の平安末期の話、物語が作られたのは2百〜3百年前の室町時代に入ってからの話、日本人の誰もが知る貴種流離譚:義経伝説、その母:常磐御前の最期が、既に今から4百年以上も前、信長の時代に一般庶民まで広く流布していたことに今さらながら驚いてしまいます。
 
 又兵衛最高傑作の一つ、『山中常盤物語絵巻』、おどろおどろした、血染めの常磐の姿は強烈、信長に惨殺された彼の母の姿でした。
山中常磐物語絵巻_2

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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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