小山田荘

January 26, 2018

私の絵

 あっという間に正月どころか、間もなく1月も終わろうとしています。団地内の喫茶店『嵐が丘』から絵の展示会の話があった時、もちろん有り難くお受けすると同時に、3月と云えば遠い話と、図々しくもそれまでにお店でバンドのミニ・ライブをすることを提案しました。結局は、絵の展示会とミニ・ライブは共に3月に決まりました。「1月は行く、2月は逃げる」とは良く云ったったもので、遠い話どころか、3月は目の前に迫って来ました。ミニ・ライブの件は、私以外の3人はステージ経験も豊かで、PAも含めて彼らにお任せなのですが、絵だけは私が準備しなければなりません。

 管理組合理事を務めた時に、月刊の会報を住民宛に発行するのが私の仕事の一つで、書くべき記事が少なく、その空白を埋めるために『小山田荘を歩く』を連載しました。ほとんど当ブログでご紹介している『散歩の途中』の焼き直しに私の描いた挿絵を添えたコラムなのですが、これが意外と皆さんに人気で、同じく理事の一人から彼の奥さんが『嵐が丘』を運営されているので、そこで展示会をやればという話をもらいましたが、そのお店に入ったこともなく、話は途絶えてしまっていました。

 テニスがきっかけの友人、Aさんは、俳句・川柳、町屋の格子を研究されているが、歴史の話で相手をしてもらいますが、実は彼はグラフィック・デザインが専門です。私の絵に関して彼のアドバイスに負うところが多く、そのお店に行く彼からも出品を奨められていました。その彼からのアドバイスは、お店に出入りする団地の住民がよく知っている風景を描けということでした。彼のアドバイスに沿った訳ではありませんが、昨年、2017年は、女性に喜んでもらえるであろう庭の花々、皆さんも見るであろう、私が散歩の途中で見る風景を描いて来ました。最近、その彼と『嵐が丘』でコーヒーを飲む機会があり、お店の方も交えて出展が実現する事になりました。

 振り返ってみると、絵の展示会とは小学校の時代以来の出来事であり、何の用意もありません。今回は二つ目の慣用句、「馬子にも衣装」、絵を本来の実力以上に引き立たせるのが額装です。当初は額縁の自作を考えましたが、結果としては素人が木材を45°正確に切断、これを正確に接着するのは至難の業と断念して、ネット上の最も安いところから買いました。一つ大いに勉強したことは、額装の際、ガラスと絵の間に、断面が45°の窓の開いたマット(台紙)がバカバカしいほど高価で、額装する絵に合わせて開ける窓の大きさを変えなければなりません。スチレンボード(発泡ポリスチレン)3mm厚をホームセンターで購入、NT Cutter製のマットカッターを使えば、自分の好きな大きさの窓を45°の斜め切りで明けることも簡単に出来ます。是非、お試し下さい。

 下に、私が自選した絵があります。もし私の絵にご興味をお持ちの方は、この中かからあなたのお好きな絵を3点選んで頂けないでしょうか?場それぞれの絵の左上に番号が付いております。コメントを利用して頂くか、末尾の<拍手>をクリック、<名無しさん>「ひとことメッセージ」に、例えば…「16、 3、10」の様に投票をお願いします。投票の結果を参考にさせて頂き、出品する10点を絞り込みたいと考えています。

 皆さんの投票をお待ちしております。

 PS もちろん、発表会、いや…展示会の確実な日程が決定しましたらこの場でお知らせします。

<<2016年>>
2016絵

<<2017年>>
2017絵1
2017絵2


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April 23, 2017

散歩の途中<<21>> 武州小山田荘

先日のNHKの番組:『日本人のおなまえっ!』で「山田」さんが日本人の代表的な苗字として取り上げられて小山田荘鳥瞰図_2いました。覚えやすい名前として、デビュー当時、そこに目を付けたであろう往年の新人(?)歌手、山田太郎まで現れました。この地にやって来た当初は、「小さな」+「山の」+「田んぼ」とは、何と薄っぺらい、あんちょこな地名なのか、と思ったこともありましたが、後に、平安時代の荘園、「小山田荘」に由来し、平安時代末期には、平氏である秩父有重が支配地の小山田にちなんで小山田有重(12世紀末)を名乗ったことを知ります。

 町田市(人口:43万 東京23区、八王子に次いで大きな街)は明治の一時期までは神奈川県に属し、電話市外局番が同じで、神奈川中央交通バスが走っていたりと、その面影が残っているだけではありません。多摩丘陵の一角にありながら、町田市の北部に位置し、大きな面積を占める小山田地区は、隣接する八王子市・多摩市との間を、大きな壁・段差で断絶されており、むしろ西の神奈川県との交通・交流が盛んであったようです。 〜 赤駒を山野にはがし捕りかにて 多摩の横山徒歩ゆか遣らむ 〜 『万葉集(7〜8世紀)』に歌われる「多摩の横山」がそれです。

かかし170 多摩丘陵は「横山」で急激に落ち込み小山田地域(野津田、小野路、図師)に至ります。鶴見川はここを源泉とし、東京湾に至る流域は豊かな水田耕作がされていたことであろうことは、食器用,煮炊き用,貯蔵用など,様々な弥生土器が出土したことで容易に想像出来ます。多摩丘陵・鶴見川流域の野津田、小野路、図師は「田方」と呼ばれるのに対し、市の南側(相模原市に隣接)は相模台地に在り「岡方」と呼ばれ、水田はない。近世までの米流通社会においては、「田方」に有力な農家が現れたのは偶然ではないでしょう。

小山田の風景 稲の水田耕作は弥生時代の前期には本州全土に伝播したと考えられています 。今の私達には田んぼ・水田と言えば一面の水田をイメージしますが、平野部を水田にするのは、一つ一つの田んぼをわずかな高低差で繋ぎ、全ての田んぼを豊かな水で満たしておくには、高度な測量・灌漑技術の蓄積が必要でした。

 ここで話はそれますが、非情に面白い本を読みました。樋口清之著『梅干と日本刀』で、〜日本人は最高!、驚くべき日本人!〜など、自虐史観の裏返しかと思ったりしたのですが…、違いました。中国人は「耕して天に至る」と言うが、これは畑だからで、水田の日本は逆、「耕して平地に至る」。日本の段々畑は、山から水を引いて、まず高いところに田を作り、上から下へ田が広がって行きます。これが、山田・本田・元田と、日本では多い苗字となり、下の下田・平田は後に分家したものと言う。インドネシア以外に世界に類がない合理的な耕作方法、焼き畑開墾して炭・灰のアルカリで土壌の酸性を中和。そこへカブ・ヒエ・豆をまいて収穫する(=「畑」)。耕しているうちに水平になり、木の根も腐り、妨害物のない耕作地となる(白い田=「畠」)。完全に水平になって水が引ける(=「田」)。私だけが知らなかったのか、余談ですが、「田」は漢字ですが、「峠」・「榊」・「働」と同じく、「畑」・「畠」は国字=和製漢字だそうで、「畑」→「畠」→「田」という文字は水田開拓の順序を証明していると言う。
 
 小山田は多摩丘陵という小高い丘陵地帯に多くの谷戸があり、鶴見川の豊かな流れを利用して、谷戸田から谷戸田へ水を繋ぎ、今日の豊かな水田地帯を作り上げました。この地では、苗字ではなく荘園の名、地名として存在し、後にこの地を支配した人間=秩父有重が地名を冠して小山田有重を名乗ることになります。自分の住む小山田桜台、「武州小山田荘」に変えたらいかがでしょう。すこし誇らしく思ってきました。
※ 参考資料:樋口清之著『梅干と日本刀
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February 09, 2014

散歩の途中 絵で辿る散歩道

 聞いてはいましたが、昨夜の吹雪にびっくり、今朝は朝日に映えて一面真っ白。玄関ドア、前が雪の吹き溜まりになって開きません。都内は27センチの積雪の由ですが、私の車の屋根には40センチの雪、生まれて始めての大雪でした。ここは、ささやかな社会貢献の見せ所とばかりに、雪かき用のスコップを取り出して奮闘すること2時間、お陰で食事も美味しく、夜もぐっすり眠ることが出来ました。こんな時に使っていいものか…、今が冬の真っ盛り、…やはりヘンです…、散歩には出かけるものの、寒空にトイレの近くなった私、外で時間をかけて景色・建物をスケッチすることはなくなり、もっぱら家にこもり、不得手な人物・動物を描く練習をしています。

20140208Me & Momo後ろ姿 前回、私の新境地ということで、「小山田荘鳥瞰図」を描いたところ、多くの方々に「面白い」と、好意的な評価を頂きました。ということで、本来の「カントリー音楽」・「諸文化の歴史」に沿った話題も、まだお聞かせするような段階ではなく、ここは前回に続いて、地元「小山田荘」が話題、過去2年間続けてきた「散歩の途中」のスケッチを振り返りながら、私の散歩道を辿ってみましょう。
本当はどうだか知りませんが、私の言う「小山田荘」とは、南から都道47号(町田街道)、八王子市・多摩市と接する北辺の158号(尾根幹線)、小野路を経て多摩市乞田に向かう156号(鎌倉街道上の道はこの辺り?)、そして57号(芝溝街道)の4街道(都道)に囲まれた地域です。
※鳥瞰図をクリックして拡大します
20140208絵を描いた場所 on 小山田荘鳥瞰図_s

散歩の途中 廃小屋3_130617
散歩の途中 見晴らし公園 小山田桜台団地に住む私は、家を出ると外周道路に沿って西へ公園、団地の縁の狭い農道を登って「見晴らし広場」茵∨未慍爾辰藤隠毅宜罅∈犬帽圓と鶴見川源流の通り、この155号は沢で、そこを右折して作業小屋絖蕁⊆,某卦譴瞭擦重なった
散歩の途中 廃屋1為か不器用な交差点、右折で廃屋薛罎任垢、そこを左折して北へ進んだ左に作業小屋茵右折して集落を散歩の途中 廃小屋2過ぎると「とんぼ池」薛隋△修海呂發小山田緑地です。東京国際GCの縁を南に下り、公とんぼ池20130905園管理事務所の横から、大泉寺(小山田城址)に、バス停膈茵∈邏半讚膈罅元精米屋膈罅⊆辺の集落の中を通って再び155号へ、
20121207大泉寺バス停散歩の途中 大泉寺近く20130912散歩の途中 大泉寺近く20130916-2蓮田・小山田神社20130717_3

東へ向かう両側は豊かな田園、その右手の蓮田の中に小山田神社絖蕕ひっそりと在ります。余談散歩の途中 Episodeですが、155号をさらに東に行って57号(芝溝街道)とぶつかる所に「Episode」蕕あり、朝6時から開く、なかなか美味しいパン屋さんです。南に上がって山王林公園を通って帰る、しめて2時間のコースです。

 もう一つ、自宅を出て団地内の谷戸池公園から、市民の定番散歩コース:「尾根緑道」に出て東へ、尾根緑道を出ると町田市リサイクル・センター、要はゴミ処分・焼却センター、花の家裏20130831その排熱を利用した温水プールと温室、その裏に秘密の花園…?、ではありませんが、誰も知らない広場蕕あります。南へ下った、47号(町田街道)の一角は全て桜美林学園、図書館膈茵⇔蘿卞押Х婀堂膈罅∨楷曄Э鯆膣朖MAC桜美林_s罅体育館膈蕕修慮鮑硬世忘澆Mac蕕妊魁璽辧爾魄んで帰ります。コーヒータイムを除いて1時間の散歩です。
桜美林大学 「三倒図書館」桜美林大学 「荊冠堂」桜美林大学 正面 「崇貞館」20130903桜美林 体育館_s

 藤沢周平原作の映画に使われた…?、という説もある山桜一本シャクナゲの群生が見られる場所を教えてもらいました。今年は、皆さんにご紹介することができるものと思っています。どうぞ、お楽しみに…。

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January 30, 2014

住めば都、小山田荘 鳥瞰図

やって来た当時、市を縦断する幹線:町田街道は片道一車線、もちろん右折専用レーンもなく、右折車があればたちまち渋滞、そんな道にはバキュームカーが走って…、「えーっ、ここが東京都?」…。あれから20年、私には「住めば都」、そんな歳になったのか…、単に現住所が在るだけではなく、毎日の散歩で新しい発見をすることが出来るようになりました。

平安時代後期、平氏:秩父重弘の子有重がこの地に、小山田別当を称し,馬牧場を開拓・経営したのが小山田荘です。古代〜平安〜鎌倉〜南北朝の痕跡が残る小山田荘、その荘園主になったわけではありませんが…、今や私にとっては「都」となっています。

申告すべき収入もないのですが、何かと忙しい確定申告の時期、それを放ったらかして…、完成させたのが「小山田荘(おやまだのしょう)鳥瞰図」です。それほど格好をつけるものではありませんが、以前から思っていながら一度も実現せず、私にとっては初めての試みなのですが、鳥の目で…あるいは、「ハリー・ポッター」か「魔女の宅急便」になったつもりで私の「都」を俯瞰したものです。山の高低は全く無視されていますが雰囲気は出ていると思います。如何でしょうか。
※鳥瞰図をクリックして拡大します 
20140129小山田荘鳥瞰図for Blog
私の「都」:小山田荘は、北辺に多摩市との境があり、北は人工的なニュータウン、南は古代・中世が残る、言葉を換えれば「開発の遅れた…」どころの話ではありませんが、「手付かず…」に近い、小山田荘。尾根伝いに通る、桜の名所、尾根道(尾根緑道)。尾根道ほど近くではありませんが、自転車で行くにはちょうど良く、帰りは上り坂がきつくて回り道の「鶴見川源流」があり、山に囲まれた、舌状の「谷戸」と呼ばれる地に稲作が豊かで、大泉寺(小山田城址)周辺の山は小山田緑地がハイキングコースとして整備されており、源義家も通った古代・奥州古道、「いざ、鎌倉」、新田義貞の鎌倉街道が走っています。南の境川を超えると相模原市、淵辺義博の館跡、近くに『太平記』には出てきませんが「縁切り榎とわかれ橋」の伝説、時代は下って近世、名主・豪農:原 清兵衛が新田を開発、地名:清新(せいしん)、市名:相模原は「相模の原」、彼の名に由来、これに似たような話が「忠生」です。平安後期、この地で新田・馬牧場の開墾・開発が隆盛、武士というよりは牧場主のような彼等は「一所懸命」という単純明快な論理と「名こそ惜しけれ」という、卑怯な振舞いを蔑む精神と表裏一体して鎌倉武士の真髄、その後の日本人の考え方・生き方に大きな影響を与え、日本人の原理・原則、「理念」になって行きます。こんな勉強をさせてもらっている桜美林図書館、これまた近くです

次回の新発見をどうぞお楽しみに。

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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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