小山田有重

May 21, 2020

私の絵 絵画展のポスター制作

 東京都の新たな感染者数が5人と収束傾向にあり、第3回絵画展の会場である喫茶店「嵐が丘」の再開も近づいてきました。少なくともこの3か月、外出自粛で巣ごもりせざるを得ず、逆に言えば時間もたっぷりすぎるほどあり、案内ポスターのアイデアも問題なく出て来るであろうと高をくくっていたのですが…。

20200515_イサオ自画像 『がんばれ!「嵐が丘」』で描いたお店の絵をお見せしましたが、当初より絵画展案内ポスターの下敷きに使う意図がありました。実際のお店は閉店状態、シャッターが下りており、この絵は昨年12月の「クリスマス・ライブコンサート」の写真を元に描いたものです。写真の右部分に置いてあったクリスマスツリーを除いたので、右部分が妙にすかすかになってしまいました。という訳で、挿入したのが私の自画像です。
20200515_イサオ自画像_2
 完成した絵を友人に見せてもらうと…、
 友人<A>は「真ん中の柱は何?電柱?」 彼は遠隔地に住み、このお店も、これが在る団地商店街も知りません。大きな屋根のアーケードがあり、それを支える柱の一本がこれです。当初は、目障り、邪魔とばかりに、この柱を除いたのですが、問題が発生。背面のドアのガラス部分が大きくなり、風景の映り込みが大きくなります。映り込みを描くのは苦手…と、復活させたのがこの柱です。そればかりじゃありませんが…。

 友人<B>は、やはり真ん中の柱が目障りらしく、「真ん中の柱の意図は?」 ドアガラスへの映り込みを描くのが苦手という私の技術的未熟はともかく、お店の前に柱を配置することで、立体感・奥行き感が強調されるものと自分の判断を弁明。

 友人<C>は「一番手前の、「OPEN」サインが在る樽状のもの(土台)と、ドアとの間の、タイルから立ち上がる柱」と理解。言われてみれば、3人が一様にこの真ん中の柱に感じた違和感はこれでした。「OPEN」サインの存在が柱と土台の連続を遮断してしまったようです。

 やっと、自分の誤りに気付いて、どうすれば挽回できるかを探ったのがこれです。実は、目立つところでもあり、念入りに描いた「OPEN」サインを、涙を呑んで、カッターで削りとりました。消しゴムで消したようにはきれいに消えず、その無残な傷跡を隠すために、今まで、脇役っぽくたたずんでいた男(私の自我像)を、真ん中の柱の前に、絵の真ん中に立たせました。

 友人<A>は、「私の自画像が絵の中央に移動したのはよしとして、画面全体が白っぽく、お店の壁がさびしい」と云います。私の自画像が中央に移動したのですから、右部分が元のスカスカになるのは当たりまえの話、出来上がったこのポスターを描いて(絵の中の絵)バランスを取ろうとしましたが上手く行きませんでした。最終案がこれです。
20200517_第3回小山田有家絵画展案内_2

 真ん中の柱、お気づきでしょうか。実は…、「エンタシス」になっています。小学生か中学生の頃(?)、「エンタシス」とは柱の中央部分が太く作ってあり、下から見上げると柱・建築物が偉大に見える、目の錯覚を利用した様式で、「ギリシャ・ローマの様式がシルクロードを通って奈良法隆寺にも伝わった」と教わった記憶があります。当時は、子供心に古代ロマンを感じたものですが、これは真っ赤なウソで、ヨーロッパに限らず、アジア地域にも広く存在するそうです。明治の日本人がその芸術・文化を認めてもらおうと、ヨーロッパにおもねて作られた話だそうです。絵を眺めながらこんな講釈でもしようかと考えていたのですが、元々の絵自体がカッターで削りすぎて、今や、絵画としての体をなしていません。

 緊急事態声明による外出自粛で巣ごもり状態をよいことに、友人諸氏には長らくお付き合いいただき、そして、貴重なご意見をうかがいました。ご協力をいただき誠にありがとうございました。

Stay Home, Save Lives

   Appreciate Your Support▼ご支援をお願いします

     にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ  にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ       


express01 at 14:12|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

August 28, 2017

住めば都…ですが、どうもしっくり…

 「住めば都」とはどんな所でも住み慣れればそこが最も住みよく思う、という意味ですが、朝早くその土地を出て職場に向い、夜遅く帰ってくる、ただ漫然と過ごしているだけでは「住めば都」にはならないでしょう。その土地を知りたい、隣近所と交流して、その土地を良くしたい、それらの意図と実際の行動を通してその土地に対する愛着が生まれ、離れがたい気持が醸成されます。言葉を換えれば郷土愛か、その要素の一つに、その土地が輩出した歴史的人物があります。

 小山田有重は鎌倉幕府の有力御家人の一人でしたが、頼朝の死後(1199)、北条氏に謀られて没落(1205 「畠山重忠の乱」)、小山田氏の一部は甲斐国に落ちます。新田義貞挙兵時(1333)、有重から6代目:小山田高家が新田軍の侍大将として鎌倉攻めに参加して小山田城を奪還します。鎌倉幕府は滅亡(1333)しても次の「南北朝」の戦いが待っています。九州から京を目指す足利尊氏軍は、神戸湊川で新田義貞・楠木正成の連合軍と激突(1336 「湊川の戦」)、義貞は自分の馬を射られ、彼の危急を見た高家は自分の乗馬を義貞に与えて逃がし、身代わりになって討死します。時代は下って明治22年(1889)、神戸では高家が大事に祀られていることを当地の名主が知って大いに感激、木曽・根岸・上小山田・下小山田・図師・山崎が合併して新村を作る際に、その村を「忠臣の生まれた村」、「これからも忠義の者が生まれ出る」ことを祈って、「忠生(ただお)村」と名付けました。

 境川を挟んで、その忠生の反対側、南に淵野辺があります。護良親王は父、後醍醐天皇に疎まれ、足利尊氏の弟:直義の預かりとなり、鎌倉に幽閉されていました。1335年、最後の鎌倉幕府執権:北条高時の遺児:時行が蜂起(「中先代の乱」)して鎌倉に攻め寄せました。鎌倉を守る直義はこれを支えきれず撤退しますが、その混乱の中、家臣の淵辺義博に護良の殺害を命じます。これを機に、後醍醐天皇は足利尊氏と決裂、本格的な「南北朝」の時代を迎えます。実は…、義博は主人の命令に背き、内密に、護良親王を自分の領地に移し、難を恐れて家族との縁を切り、境川に掛かる中里橋、榎木の下で家族と別れ(「縁切り榎木と別れ橋」)、護良親王に従って宮城県石巻まで逃れた、とする伝承があるそうです。

 1590年、小田原後北条氏が滅亡、関東に入封した家康は多摩地区を幕府直轄領、天領としました。家康の命を受け、大久保長安(ながやす)は甲州街道を整備、八王子に「千人同心」を設けて武田・後北条の旧家臣団を近郷開拓の屯田兵として、無禄ながら土地を開拓する郷士組織を作ります。「千人同心」に限らず、多摩は江戸時代初期に開発された土地が多く、彼等の多くは主君をなくした元武士であり、やがて村の名主階層に育って行くことになります。「千人同心」は八王子防御が当初の目的でしたが、後に、日光東照宮の火の番が主な任務となり、武士に憧れる豪農層は同新株を取得して「千人同心」職を兼ねることになります。こうして彼等は「将軍家の家来」と言う意識を強く持つようになります。彼等は客人をもてなす必要から教養として、書道・華道・和歌・俳句、そして地誌・国学などの芸事を学び、彼等文化人の間にはネットワークが誕生します。18世紀(江戸後期)に入ると、交通・経済が発展、幕末の開港による物価の急騰で無宿者・盗賊などの治安が悪化、芸事の一つとして、武芸が名主・豪農層の間で流行します。当時、百姓・武士以外で武芸・剣術が盛んだったのは武士のいない、藩の存在しない天領である多摩地域と、もう一つ、上州(上野国(こうずけ)群馬県)だけと云います。
多摩境札次神社
札次神社
 当時、長州・土佐・薩摩も会津・桑名・彦根も…、ほとんどの藩及び武士の思想は水戸学の「尊皇攘夷」です。幕府直轄領で武士のいない天領:多摩では、武士の代わりに国学を学んだ名主・豪農層はもちろん「尊皇攘夷」ですが、あくまでも佐幕、幕府あっての「尊皇攘夷」でした。「桜田門外の変」が発生(1860)、幕府は清河八郎の献策を入れ、攘夷のの実行・公武合体・尊皇を目的に浪士組を結成、「天然理心流」4代目の宗家:近藤勇とその門弟はこれに参加することになります。近藤を物心両面で支援したのが、名主・豪農の一人、小島鹿之助(こじましかのすけ 町田 小野路村)です。近藤を始めとする多摩出身者とその支援者は、天領=幕府直轄領に生まれ育った、多摩だけに通じる独特の文化を背景に「尊皇」を叫びます。当時の「尊皇」とは一地方の文化ではなく、徳川幕藩体制を越えた、「天皇の前には大名も一個人も平等」という明治の天皇制に引き継がれる普遍的なイデオロギーでした。

 「一所懸命」という論理と「名こそ惜しけれ」という、卑怯な振舞いを蔑む精神は表裏一体した鎌倉武士の風土はどう変遷したのか、家康の関東に入封して270年、藩や武士による直接的支配を経験することなく、武士以上の武士を目指した「新撰組」が生まれた土地ですが、明治の時代になると、一変して、彼等の云う「自由民権運動」の地になるそうです。一変…ではなく、実は…、多摩の歴史を貫く確固たる一本の筋というものが有るのかも知れません。

 話は飛んで…、京都の三大祭りの一つ、「時代祭」は明治28年(1895)、平安京遷都1100年を記念して始まりました。戊辰戦争の際、朝廷のために官軍としていち早く京都に入った山国隊(丹波国で結成された農兵隊)を先頭に、時代を遡り、平安京造営の延暦時代までの行列ですが、室町幕府執政列・室町洛中風俗列(足利幕府時代)が加えられたのは112年後の、2007年のこと、松平容保と新選組は今に至ってもまだ列に加えられていません。そろそろ列に加えても良いのでは…。 
※参考:英傑の日本史―新撰組・幕末編 (角川文庫)
    
新選組 敗者の歴史はどう歪められたのか (じっぴコンパクト新書)
   日野市立新撰組のふるさと歴史観特別編「新選組誕生」

Your Support, Please.▼皆様のご支援をお願いします
     にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ  にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ     


express01 at 16:51|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

September 04, 2016

散歩の途中 <17> 「内の御前社」、通称「小山田神社」

160821小山田神社_蓮田 「内の御前社」、通称「小山田神社」は散歩の、とりあえずの…、折り返し地点、目的地です。自宅から1キロ少し、歩いて12〜13分、単に折り返して帰ってくるのであれば30分コースです。この辺に住む住民のいわば「お散歩入門編」、ここを経由してさらに東に広がる小山田緑地に入ることが出来ます。

 夏になると、毎朝の如く、7時には訪れることになります。というのは、昔は田んぼだったのでしょうが、今は稲に代わって蓮が植えられ、7月に入ると蓮の高さが人間の背丈ほどになり、次々と開花します。朝露が転がる蓮の葉、みるみるうちに育ち、つぼみが大きな花に変わるのは神秘的でさえあります。泥の中から生まれ、気高く、清浄な美しい花を咲かせ、大きく広がり水を弾く、凛とした葉の姿が、知恵・慈悲の象徴としてヒンズー教、これを受け継いだ仏教で意匠されます。夏の間、「ハス祭り(7月23日〜24日)」をピークに、神社は蓮華の大海に浮かぶ小さな島に変貌します。

小山田神社_1 小山田有重(1171〜74)は関東八平氏の一派、秩父平氏(=秩父党)から出、小山田荘の開発領主(別当)になってこの地を支配、近くの大泉寺の地がその居館であった。小山田別当有重の妻は宇都宮(八田)宗綱の娘、この小山田神社は戦前までは「内の御前社」と呼ばれ、有り重夫人を祀ったと言い伝えられてきました。拝殿の中にある扁額には「内御前宮」とあるそうです。 

小山田神社_2 この地に住んで15年以上、週に2回(?)は小山田神社を訪れますが、櫓が組んであるのを見るのは初めてのことでした。神社近くの町内掲示板には「小山田神社例祭 9月3日」とあります。

 昨日、夕食後、台風の影響か…、雨がポツポツし始めた中、カメラを持ってお祭りに行ってきました。いつもと違って、夜の小山田神社も良いものです。賑やかな舞台、はしゃいだ子供達の歓声、酒の入った大人達…、せまい境内はごった返しています。雨も心なしか冷たく感じられ、しらふの私は帰ることにしましょう。

 名残おしい今年の夏、さようなら!

 Momo holding sign board-HKX Radio※今までの曲は左サイド、Music Player でお聴きになれます。 
I appreciate YOUR SUPPORT.  ▼ 皆様のご支持をお願いします。
 にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 

express01 at 15:10|PermalinkComments(0)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

August 23, 2012

小山田の谷戸田(やとだ)

関西で育った私が、この地に引っ越してきた当初は、その地名:「小山田、小さな山の田んぼ…」、何と想像力の乏しい、単に、田んぼの風景を描写しただけ、またそう呼ばれる地域の広いこと…、その名前の付け方に「おおざっぱさ、いいかげんさ…」を感じたものでした。しかし、歳とともに、今まで全く見過ごしてきたものに、ハッと、気付くことが多くなってきました。

隣の横浜市に住む彼は山口県出身です。同じ西日本に住んでいた、ということで、「この辺には『〜谷戸(やと)』という地名が多いが、関西では聞いたことがない。」と、暗に同意を求める私の発言に、「そんなことはない、ありますよ。」とあっさりと否定されました。ご夫婦で山登りを趣味としている彼は「谷戸」の意味は把握しているはず、その彼が言うことなので間違いないものと…、話もそれで終わりました。

小山田の風景
…が、やっぱり真相はこうでした。東京都多摩地域及び神奈川県東部では、丘陵地が雨や川によって浸食されてできあがった谷が谷戸(やと)と呼ばれます。雨は丘陵や尾根を伝って谷戸に流れ込み、湿地を作ります。人々は谷戸の湿地を利用して水田を作ってきました。同時に、谷戸は多種多様な生き物を育み、豊かな農作物と美しい里山の景観を創り出しています。ちょっと昔なら、単なる田舎、で終わりましたが…。
※奇特な方が居られ、地名・バス停名として今に残る「谷戸コレクション」を紹介されています。

小山田神社低迷が続くNHK大河ドラマ:『平清盛』の時代、関東八平氏の一派、埼玉県嵐山町畠山荘、秩父桓武平氏:平有重がこの地にやって来て小山田別当有重と名乗った。頼朝挙兵時(1159)には京に在り、平家の忠実な御家人として各地に転戦、木曽義仲追討にも加わりました。平家西国落ちの際に許されて東下し、遅れて鎌倉御家人となった。平氏に続いて、源氏政権に於いても重要な地位についた小山田有重は農民を動員して土地を開発、現在の町田及び川崎・横浜の一部を支配する大土地所有者・開発領主となります。当初は単に土地の名前でしたが、その名前を冠した彼の勢力圏とともに拡大したのでしょう。

小山田一族は「谷戸田」を開発して「小山田」という水田を拡げ、その稲作の優れた生産力が一族の勢力拡大に大きく寄与しました。「谷戸田」の多い多摩丘陵地帯は「田方(たかた)」と呼ばれ、水田があり、コメが穫れるところ、の意味です。一方、南の相模台地地帯は「岡方(おかがた)」と呼ばれ、水田のない、コメの穫れないところです。相模台地は火山灰土、乾燥が激しく酸性が強いため大豆・粟さえも育たなかったそうで、安定的な農業が可能になったのは土壌・品種改良等の農業技術が発達する近世を待たなければなりません。
小山田の案山子_2
中世までは、町田の中心は小山田・小野路であり、原町田・中町などの繁栄は幕末以降、とりわけ横浜線・小田急線が開通してからの、たかが百年ちょっとのことではないでしょうか。

秋になると、小山田の谷戸田では豊かな稲穂に案山子が映える収穫の時期がやって来ます。

※参考資料:「道」白州正子 新潮社  「町田の歴史をたどる」 町田市
  DVD:「平清盛」


Momo holding sign board-HKX Radio
※今までの曲は左サイド、Music Player でお聴きになれます。 
Your Support, Please. このサイトの順位は?ボタンを押して下さい。
にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 人気ブログランキング


express01 at 22:27|PermalinkComments(2)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
Profile

ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

Back Issues At A Glance
Comments
ISAO's Bookshelf
人気ブログ ランキング
NINJA
Search