尊皇攘夷

October 14, 2014

散歩の途中<9> 場外編 阪神電車石屋川駅

 10月も既に月半ば、冷静に考えて見ると、今年:2014年もわずか2ヶ月半しか残されていないことに気づき驚愕する私です。

 薹が立ったような甥の結婚式、喜ばしく、見栄もはりたいところですが、現役を退いた今の私には負担というだけではありません。着る機会があるとすればそれはお葬式…と、長らく着たことのない黒の礼服、あれから体型も変わっているし…、白のネクタイはどうするの…。結局、普段とほとんど変わらない格好で出席させてもらいました。おめでとう。

処女塚
 ということで、何年ぶりかの大阪市内で「生(なま)」の大阪弁を耳にし、次の日は神戸まで足を伸ばしました。大阪梅田から阪神電車、急行で御影、各停に乗り換えて次の駅:石屋川、初めて降りた駅なのですが、ここは神戸市東灘区、江戸時代、「灘の生(き)一本」で知られる日本酒の生産地:「灘五郷」の一角にあり、近くの御影地区は阪神間屈指の高級住宅地として有名です。駅を降りて歩いて5〜6分、処女塚(おとめづか)古墳はすぐに見つかりました。よく整備された、こじんまりした前方後円墳で、一角に『小山田高家之碑』を見つけました。 弘化三年(1846)、代官:竹垣三衛門藤原直道が東明村塚本善左衛門・豊田太平・牧野荘左衛門に命じて立てさせた由。

oyamada 小山田高家、遙かの山の上よりこれを見て、諸鐙を合はせて馳せ参つて、おのれが馬に義貞を乗せたてまつて、わが身歩立ちに成つて、追つ懸くる敵を防きけるが、敵あまたに取り籠められてつひに討たれにけり。その間に義貞朝臣、御方の勢の中へ馳せ入つて、虎口に害を遁れたまふ。 - 『太平記』十六巻『新田殿湊川合戦の事』


 当地、小山田荘を開いたのは、平家:秩父一族の一人:有重(ありしげ)、12世紀、当地に至って「馬牧」=「小山田荘」を開き、小山田別当有重を名乗ります。頼朝挙兵の当初は平家方に付いたが、その後すぐに頼朝側に付き、鎌倉幕府成立(1192)後は有力御家人の一人になります。頼朝の死後(1199)、北条氏に謀られて没落(1205 「畠山重忠の乱」)、小山田氏の一部は甲斐国に落ちます。新田義貞挙兵時(1333)、有重から6代目:小山田高家が新田軍の侍大将として鎌倉攻めに参加して小山田城を奪還します。鎌倉幕府は滅亡(1333)しても次の「南北朝」の戦いが待っています。九州から京を目指す足利尊氏軍は、神戸湊川で新田義貞・楠木正成の連合軍と激突(1336 「湊川の戦」)、義貞は自分の馬を射られ、彼の危急を見た高家は自分の乗馬を義貞に与えて逃がし、身代わりになって奮闘、討死します。「恩賞」目的の忠義ではありませんでした。

小山田有重・行滋・高家墓
 時代は大きく下って明治22年、当地の名主が神戸を訪れた時にその碑を見て、そこでは高家が大事に祀られていることを知り、大いに感激、木曽・根岸・上小山忠生標識田・下小山田・図師・山崎が合併して新村を作る際に、その村を「忠臣の生まれた村」、「これからも忠義の者が生まれ出る」ことを祈って、「忠生(ただお)」と名付けました。現在も町名として残っています。西暦で云えば1889年、明治新政府が出来て20年、「尊皇攘夷」を大儀に戦った戊辰戦争は今や昔、「忠君愛国」を国是に「坂の上の雲」を見ていた時代でした。小山田高家はこんな時代に復活したのです。
20121207大泉寺バス停_342
 ご存知でしょうか?明治とまでは行きませんが、昭和初期の趣が色濃く残る「大泉寺」バス停です。


当地、小山田荘、有重の城館跡:大泉寺に、小山田有重・行家・高家、三基の宝篋印塔を見ることが出来ます。

Momo holding sign board-HKX Radio※今までの曲は左サイド、Music Player でお聴きになれます。 
Your Support, Please. ▼ ボタンを押して下さい。このサイトの順位がわかります。にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 


express01 at 17:25|PermalinkComments(0)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

June 11, 2014

忍藩士、尾崎石城の絵日記

和田竜の小説:『のぼうの城 (2007)』(同名の映画の公開は2012)は、豊臣秀吉による小田原北条攻めの際、石田三成の水攻めに耐え抜いて城代:成田長親が三成に一杯食わせるという物語でした。その舞台は忍城(おしじょう)、時代は戦国時代末期(1590)でしたが、舞台は同じ武蔵国埼玉郡忍城(今の埼玉県行田市)、時代はそれから270年後の幕末です。蛇足ながら、何時をもって「幕末」というのかご存じですか?実は、私も最近知ったのですが…、1853年(嘉永6)、ペリー浦賀来航以降を「幕末」と呼ぶそうです。1868年の「明治維新」までのわずか15年間が「幕末」という事で、鎌倉以来の武家社会の幕を引く、逼迫した、革命の時代でした。

松平氏所領の忍(おし)藩十万石は譜代の親藩で、歴代藩主が幕府の要職に就いたため、加えて1783年(天明3年)の浅間山噴火と天明の大飢饉などの大被害で藩の財政は困窮していきます。『のぼうの城』の時代から270年後の幕末に入り、ペリー来航に震撼する幕府からは房総、江戸湾お台場の警備を命ぜられ、水戸の天狗党蜂起鎮圧に駆り出され、士気の上がらぬ後詰の兵を出しただけの「鳥羽伏見の戦」では撤退に取り残されて殿(しんがり)を務める羽目に、藩内では百姓一揆、続く戊辰戦争では新政府軍のお先棒を担ぐことになります。忍藩はなまじ譜代だった故か…、やることなすこと裏目、「貧すれば…」、維新の功績もなく、かと云って幕府に殉ずる名誉もなく、まさに良いところなし…、『のぼうの城』とは全く対照的な幕末でした。

忍藩士、尾崎石城は御馬廻役で百石の中級武士でしたが、安政4年(1857年)の29歳の時に建白書を提出して藩政を論じたために蟄居を申し渡され、わずか十人扶持の下級身分に下げられてしまいました。

この時期を年表で見てみると…、1853年:ペリー来航、1855年:安政の大地震、1858年:井伊直弼大老就任、安政の大獄始まる、1860年:桜田門外の変、「万延」と改元、和宮関東降嫁を固辞、1861年:和宮将軍家茂へ降嫁の為江戸へ、1862年:和宮将軍家茂へ降嫁、松平容保京都守護職に就任、生麦事件、1863年:壬生組(後の新撰組)組織される…、まさに激動の時代でした。藩政への建白書の内容は不明ですが、これが原因で下級身分に降格されたのですが、藩政改革に成功した隣国、常陸国水戸を震源地とする尊皇攘夷思想に傾倒したようです。水戸藩は、御三家の一つでありながら、藩政の次は幕政をも改革しようと企み、同じ佐幕の側の忍藩には「水戸学」による「尊皇攘夷」は危険思想でした。

義弟の出立藩・国家の行末を憂う青年らしさだけでなく、読書家でもあり、文才そして画才にも恵まれた彼は絵日記を残してています。文久元年から翌2年、1861から1862年、居候させてもらっている妹の旦那が、皇女和宮が将軍家茂へ降嫁の為、中仙道を江戸へ向書斎かう一行の警護の下命を受け、慌ただしく出立の準備をしているのが唯一その時代を感じさせる絵です紂しかし、居候の身でありながら、読書家の彼は自ら「石城書斎酔雪楼」と名づけた書斎蕕破椶飽呂泙譟∧現餾鄒や添削、絵に彩色を施し、和漢の古典から実用書まで、所蔵する書物は多義に渡り、極めて高い教養であったという。
私の書斎
※茲蓮私の書斎(四畳半?、広さだけでなく、文才・画才・教養と…足元にも及びません)酒宴_1


下級身分は毎日登城することもなく、その日の生活も困る場面もあり、文才そして画才にも恵まれた彼は屏風・提灯・行灯に絵を描き、あるいは彼の書いた文でお金をもらって家計の足しにし…、中級・下級武士の友人、二つ三つの寺の住職の友人、その集まりで得た町人・町衆の友人と…、皆で酒を飲み薛紂仲間内に病人がでたからと看病に行っている。城下なので百姓は登場しませんが、寺を中心とした中流・下級武士、町人・町衆の身分を越えた付き合いは楽しそうで、絵を見ているだけで愉快になります。松平容保が京都守護職に就任、生麦事件、新撰組が組織され…、まさに激動の時代の中で、忍藩もてんやわんや…、尾崎石城を取り巻く世界だけが別世界のようにゆったりとして、和やかです。

年齢は別に、会社にいくこともなく、生活に困る場面もなくはなく、人さまからお金がもらえるほどには文才、画才、音楽の才能にも恵まれず、半径数キロの行動範囲の私は彼の足元にも及びません。

その後、尾崎石城は明治の時代をどう生きていったのか…、興味のあるところです。先輩友人からお借りした、大岡利昭著『幕末下級武士の絵日記 』でした。

Momo holding sign board-HKX Radio※今までの曲は左サイド、Music Player でお聴きになれます。 
Your Support, Please. ▼ ボタンを押して下さい。このサイトの順位がわかります。にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 


express01 at 10:22|PermalinkComments(0)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

April 29, 2014

ニュースをヒントに、歴史をちょっと

19世紀 捕鯨 国際司法裁判所は、日本の南極海での調査捕鯨は事実上の商業捕鯨であり、調査捕鯨とは認められないとする判決を下しました。日本にとっては「まさか…」の敗訴だったそうです。TPP交渉最大の焦点:「米(こめ)」と同じく、「鯨肉食は古来からのもので日本文化そのもの」との主張でした。「日本文化」を持ち出してくるとは…、日本人である私には摩訶不思議に思えてしまいます。和歌山県大地町の文化、山口県下関市の文化、というのであれば話は判りますが、日本全体の文化ではないでしょう。戦後、動物性蛋白質の不足を補うために小学校の学校給食で鯨肉を食べたこと、今でも手に入るかどうかも知りませんが、わさびの効いた「くじらの軟骨の粕漬け(?)」が子供心においしかったことが思い出されます。「食料安全保障上の観点…」はまだしも、日本文化、その中核をなす食文化とは…無理があるのではないでしょうか。日本人の多くは、捕鯨自体に積極的に賛成というよりも、「反捕鯨」という価値観の一方的な押し付けに反発を感じているのです。

 満州事変(1931)の捜査を行った国際連盟のリットン報告書の提言が賛成:圧倒的多数で採択されて、日本は完全に国際世論を敵に回し、結果、国際連盟を脱退(1933)しました。しかし、松岡洋右は帰国して日本国民からは熱烈な歓迎を受けたのです。もし、報告書の範囲で日本が撤兵していれば事態は違った方向に向かったでしょう。国際政治を動かすのは、軍事力、経済力そして「国際世論」です。国際世論の主導権を握れるかどうか、ということです。正しいとか、間違っているとか、…それ以前の問題です。

 19世紀、産業革命の進展により夜間労働時間が長くなり、ランプなど灯火用油・潤滑油の需要が増大、それを満たすために太平洋においても盛んに捕鯨(特にマッコウクジラ)が行われるようになった。「米墨戦争1846-1848)」以降、アメリカの捕鯨船が日本周辺の北西太平洋にも現れるようになり、当時のアメリカ海軍の任務は「漂流民の保護」であったと云います。「漂流民の保護」に加えて、「捕鯨船の泊地・薪水の確保」が後のペリー提督黒船来航(1853)の動機でした。彼等は、ただただ、鯨油採取のためだけにクジラを乱獲したのです。メルビル船長の『白鯨』の如く、160年前は世界中の海を走り回ってクジラを追っかけ回していた人間が、今になって、手の平を返したように、「イルカと同じ高等動物であるクジラを殺すな!」とは、日本人には理解できません。しかし、「国際世論」は刻々と変わっていくのです。「国際世論」を味方にしなければ、如何にお金をかけても、如何に正しいことをやったとしても評価はしてくれないことは、近世・近代史が証明しているところです。

 時代はおもいっきり遡って南北朝(1336-1392)、南朝側の参謀:北畠親房は転戦中の常陸国小田城で『神皇正統記(1439頃)』を著し、下って徳川の時代、同国水戸藩の藩主:水戸光圀(1628-1701)は、その勤皇・尊皇思想を『神皇正統記』に由来する『大日本史』の編纂を始めました(1657 1906に完成)。幕府の御用学問:「朱子学」を基礎に、国体観念・尊皇思想を加えて発展、時代はさらに下り、鹿島灘沖にもアメリカの捕鯨船が出現する水戸藩では幕末の一大思想:「水戸学」が藩主:徳川斉昭の主導で沸騰、これに徳川幕府は大いに恐怖、将軍継嗣問題も絡む「安政の大獄(1858)」、そして維新回天の契機となる「桜田門外の変(1860)」につながっていきます。

 1865年、「水戸学」を主導してきた斉昭の息子:一橋慶喜は最後の将軍、第15代将軍となります。1868年、官軍側の挑発に乗った幕府軍は京都に進軍しますが、伏見における初戦の戦況不利と見て、「最後の一兵まで引いてはならぬ」と厳命しておきながら、将兵を置き去りにして、自分はさっさと江戸へ逃げ帰ったのです。
フェリー沈没事故
 今回の「韓国のフェリー沈没事故」、乗客には動かないように指示、一方では、制帽も制服も脱ぎ棄て、半パンツに救命胴衣を付けた船長が真っ先に船を脱出する様子が報道されています。最近の2つのニュースをヒントに、ちょっと歴史を振り返ってみました。

ps: 亡くなられた方々のご冥福をお祈りします。

Momo holding sign board-HKX Radio※今までの曲は左サイド、Music Player でお聴きになれます。 
Your Support, Please. ▼ ボタンを押して下さい。このサイトの順位がわかります。にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 


express01 at 19:47|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

March 02, 2013

ラテン・セイル 三角帆

オロシヤ国酔夢譚1782年、船頭頭:大黒屋光太夫以下船員15名及び紀州藩派遣の農民1名を乗せた千石船(弁才船):『神昌丸』(全長:20m)は紀州の囲米を積荷に、伊勢国白子の浦から江戸へ向かいますが、駿河沖で暴風に遭い、7ヶ月もの漂流の後、アリューシャン列島の一つ、アムチトカ島へ漂着します。その後カムチャツカ、オホーツク、ヤクーツクを経由して1789年イルクーツクに至ります。日本に興味を寄せる博物学者キリル・ラクスマンと出会い、1791年、彼に連れられてシベリア大陸を横断、ロシアの首都:サンクトペテルブルクに至り、女帝:エカテリーナ2世に謁見、帰国を許されます。漂流から約10年を経た1792年 (寛政4年9月)、遣日使節:アダム・ラクスマン一行の船:『エカテリーナ』(42人 全長:33m)に乗り、根室の地に生還できたのは光太夫を含めて3人でした(上陸後に1人死亡)。

7世紀、アラブ人のラテン・セイル(三角帆)を始めとする造船・操船・航海技術は地中海を席捲、逆に西欧人は地中海の主導権を放棄、アラブ人の航海技術を学んで、「ヘラクレスの柱」の西、大西洋に乗り出したのが15世紀末、16〜17世紀には西欧の船は西太平洋、東アジアへも進出、18世紀になると鎖国下の日本近海でも見受けられるようになります。

洋船断面図-竜骨
和船断面図-桶





※上のイラスト、大阪港振興協会:『帆船から学ぶ海と日本』より拝借しました。

西欧の船は、中国・アラブもそうなのですが…、古代より竜骨(キール)に肋骨(リブ)を組み合わせた上に機密甲板(デッキ)の船体構造でした。対する和船を見ると、18世紀末、光太夫の乗った千石船(弁才船):『神昌丸』では、竜骨・機密甲板(デッキ)のない、遣唐使船の時代(9世紀)とほとんど変わりません。まさに、「板子一枚下は地獄」でした。その違いを指して、西欧の船を『樽』、和船を『桶』に例えるそうです。

基本的に、和船は四角帆一枚であり、追い風に乗って進む方法しか知らず、向かい風になれば帆を降ろして港で風待ちをしたのです。17世紀初め、江戸時代前期の廻船は順風帆走・沿岸航海しか出来ず、大阪〜江戸間の航海に平均32.8日を要しました。気象予報は船頭頭の経験と勘、それが外れて嵐にでも遭えば難破、光太夫のように太平洋を漂流することになります。18世紀末、江戸時代中・後期になると、その太平洋に、はるかアメリカからやってきた捕鯨船が遊弋するのがしばしば見られ、日本の船乗りも彼等の操船技術の優位性を学ぶようになり、四角帆一枚でも逆風を利用して航行できる、「風切り」という操船術を習得します。例えば、「新酒番船」という新酒を運ぶ急行便が現れ、1790年、西宮〜江戸を58時間で航海した記録があるそうです。遣唐使船依頼、和船の進歩がほとんど見られないのに、一方の西欧の造船・操船・航海技術は大いに進歩、複数の帆を使いながら逆風を利用して航行する帆走システムを確立していました。

西欧と日本、その彼我の科学技術の差は如何ともし難いものでしたが、日本の技術も捨てたものではありません。ラテン・セイル(三角帆)に遡る、その根本原理は「流体力学(?)」でいう「揚力」でした。西欧のボートはオールで漕ぎますが、これは単純な「力学」。それにくらべて、東南アジア・中国にもあるらしいのですが…、小舟(=伝馬船)の櫓(ろ)は「流体力学(?)」でいう「揚力」を利用、櫓一本で前進後退、横向きにも移動、その使い方よりも、「流体力学(?)」に沿った櫓(ろ)の形状を削り出すのが難しいそうです。
 
しばらくすると、蒸気機関の発達で「外輪船」が登場しますが、オールと同じく単純な「力学」故か…、この「外輪」の効率が悪く、「スクリュ−(=プロペラ)」にとって替わります。近代船の推進装置、「スクリュ−<screw>(=プロペラ<propeller>)」こそ「流体力学(?)」でいう「揚力」の産物であり、ギリシヤ文明に始まる「ネジ、英語でいう<screw>」構造の延長上にあるものでした。ギリシャでは揚水ポンプとして、ローマ文明〜地中海文明ではオリーブやブドウを搾る圧縮機、16世紀にはグーテンベルグの印刷機に、鉄砲を始めとする精密機械に、識字率の向上は人間の思想にも変革をもたらし、これが後の宗教改革、啓蒙思想、のブルジョア市民革命、産業革命に続いていく、西欧でなければ存在しない概念・技術の延長上にありました。

一方、「ネジ」の概念は中国・日本などのアジアの文明には存在せず、日本には、1543年に種子島にポルトガル人がもたらした火縄銃とともに「ネジ」が伝来したとされ、この銃を模して作るに当たり、銃身の最後尾を塞ぐ尾栓に使われていた雄ネジと雌ネジが日本で初めて登場した「ネジ」とされますが、戦国期、世界一の銃器生産国になりながら、造船・操船・航海技術と同じく…、その後の技術的発展は皆無…、まさにプッツリ途切れてしまいました。残念ながら日本に「ネジ」構造・概念は根付きませんでした。

大黒屋光太夫を送り届けたアダム・ラクスマンのロシア使節団は鎖国を国是とする幕府との最初の外交接触でした。来航する西欧船は次第に増加、国防問題に端を発し、国論を二分する「尊皇攘夷」思想に発展、幕府転覆のスローガン:「尊王討幕」に変わって行きます。

※ Amazon:おろしや国酔夢譚 特別版 [DVD] 大黒屋光太夫 (上) (新潮文庫) 大黒屋光太夫 (下) (新潮文庫) おろしや国酔夢譚 (文春文庫 い 2-1)

Momo holding sign board-HKX Radio※今までの曲は左サイド、Music Player でお聴きになれます。 
Your Support, Please. ▼ ボタンを押して下さい。このサイトの順位がわかります。

にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 人気ブログランキング 


express01 at 00:11|PermalinkComments(0)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

January 11, 2012

忠生( ただお)、極めてローカルな話ですが…

幕末の『尊皇攘夷』は「水戸学」と呼ばれ、明治に入ると、近代国家の体裁を装って、『忠君愛国』に変わり、「皇国史観」と呼ばれるようになります。その思想は水戸光圀に依る『大日本史(1657開始〜1906完成)』に始まりますが、南朝を正統王朝とし、新田義貞や楠正成は美化されて忠臣となり、足利尊氏は逆賊とされます。

「皇国史観」に支配されていた戦前、この事が大きな論議を呼ぶことになります。正統南朝が北朝に吸収され、以降、北朝が正統王朝として連綿と受け継がれます。当然の事ながら、当時の昭和天皇は北朝の系統。昭和天皇に忠義を尽くすということは、南朝から皇位を簒奪した北朝を正統化することになり、足利尊氏を美化、義貞・正成を逆臣とすることになってしまいます。この大きな矛盾を幕末の志士はともかく、戦前の識者はどのように解決したのでしょうかね…。
大泉寺
既に書いた通り、小山田と称する地域は、平安時代には朝廷の馬を飼育する牧場で、小山田氏は代々その別当(=長官)でしたが、小山田有重の時、鎌倉幕府(1192)の有力御家人の一人になります。1199年、頼朝死亡、執権:北条氏の策略に依り小山田一族は離散、唯一6男だけは幼少を理由に甲州(山梨県大月)に逃れたようです。

小山田庄元弘 3年(1333) 、後醍醐天皇に呼応して新田義貞は上野国で鎌倉幕府打倒の挙兵。鎌倉街道を南下、「小手指ヶ原の合戦」、「久米川の合戦」、「分倍河原の合戦」で幕府軍を撃破、絶対防衛線である多摩川(関戸)を突破して小山田ノ庄に殺到します。新田義貞軍の侍大将:小山田高家は北条泰家を破って小山田ノ庄奪還を果たします。新田義貞は、かつては倒幕の共同戦線を張っていた、足利尊氏と戦うことになり、次第に劣勢に立たされるようになります。そして、「湊川の戦い(1336 神戸)」、新田義貞・楠木正成は足利尊氏に大敗、退却の際、小山田高家は自分の馬を主君:義貞に譲り、自らは討ち死にしてしまいます。

唐突ですが…現在。私の住んでいる近くに、『忠生(ただお)』という地名があります。明治22年(1889)、多摩の6つの村が合併して新村が作られることになり、「小山田高家という臣がまれた(?)地であるし、これからも義の者がまれ出ることを祈って」、『忠生(ただお)』と名づけられたようですが、あまり深い意味があったとは思えません。何となく、当時の村の長(おさ)、住民のレベルが判ります。

境川を挟んでこの地の反対側に、後醍醐天皇の皇子:護良(もりよし)親王を足利直義の命で殺害(1335)した淵辺義博の領地がありました。縁切り橋2

どうも…あんちょこな『忠生』命名より、「逆賊」の汚名を晴らすべく腐心したであろう、義博の『縁切り榎とわかれ橋』の物語に好感を覚えてしまいます。

より大きな地図で 忠生〜淵野辺義博居館跡〜縁切り榎〜縁切り橋 を表示

Momo holding sign board-HKX Radio※今までの曲は左サイド、I Pod 風のプレーヤーでお聴きになれます。
   
Your Support, Please. ボタンを押して下さい。このサイトの順位がわかります。
にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 人気ブログランキング


express01 at 23:48|PermalinkComments(0)TrackBack(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
Profile

ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

Back Issues At A Glance
Comments
ISAO's Bookshelf
人気ブログ ランキング
NINJA
Search