対話ノート

October 26, 2018

2018年関西の旅<1> 司馬遼太郎記念館

 私は大学受験で日本史を選択しましたが、歴史、特に日本史が好きであった訳でもありません。 本当に好きになったのは、遅まきながら…、受験が終わり、父親の読んでいた司馬遼太郎の『関ヶ原』を読んでからの事です。家康・三成・島左近・大谷吉継が、読者(私)がさもその場に居合わせているかのように表現され、その臨場感に感激した記憶があります。膨大な資料収集に裏付けされた司馬の著作は上質な大衆娯楽小説として国民的支持を受けており、これが「歴史」であると信じている人も多く存在するのも事実のようです。

181026_司馬遼太郎 司馬の先祖は播磨国(姫路)の人、福田姓を名乗る前は「三木」姓で、三木城籠城に関連の家系だそうですが、彼が生まれたのは大阪市です。彼のお母さんの実家が大和国北葛城郡竹内、彼が幼少の時はここによく連れて来られ、ここが故郷のようであると『街道をゆく』に書いています。竹内街道は、摂津国堺の大小路に始まり、堺金岡で摂津国難波宮から南下した「大道(おおじ)」と接続、河内平野をさらに東進、国境である竹内峠を越えて大和国の長尾神社に至る街道です。

 生まれは九州ですが、私の出身地は摂津国伊丹と自称しています。大学に入り、読み始めた司馬遼太郎、卒業して社会人になると、既に彼はサラリーマンが常識として読むべき国民的作家の地位にありました。私のそれまでの主な行動範囲は京都・大阪北部・神戸(摂津国)でしたが、入社当初、勤務先が心斎橋だったからかも知れませんが、男性社員は西日本出身者が多いのは当然として、女性に関しては、摂津国出身者が少なく、河内・和泉国(大阪の南部)出身者が多数を占めるのには少なからず驚いたものです。社会人になると行動範囲を広がり、今まで滅多に乗ったことのない、天王寺からの南海電鉄線、難波からの近鉄線にも乗るようになりました。

 近鉄奈良線、八戸ノ里駅近くに司馬遼太郎が住んでいることを知っていましたが、当時、私は彼が播州出身と勘違いしており…、どうして八戸ノ里(河内国)なのか疑問に思っておりました。 彼の人生で最も影響を受けた土地(出身地)、懐かしい故郷、北葛城郡竹内に通じる「竹内街道」に接続する「大道」が難波(なんば)から始まる。その難波から近い八戸ノ里(河内国)を居住の場所として選んだのではないでしょうか。死後、2001年、『司馬遼太郎記念館』安藤忠雄の設計で自宅に隣接して建設されました。

 旅行の初日、湖東の近江国鏡宿で義経元服の地、それより少し京都よりの篠原で平家終焉の地、平宗盛の胴塚を、二日目には、義経が京を追われ西国へ逃れようとして災難に遭う大物浦(尼崎)を、今や阪神電車と相互乗り入れしている近鉄電車に乗り、難波経由で八戸ノ里(河内国 東大阪市)、始めて『司馬遼太郎記念館』を訪れました。八戸ノ里駅で駅員に道を尋ねると、駅員が親切に教えてくれました。歩いて8分、私と同年ぐらいの司馬ファンらしきスタッフ(?)が出迎えてくれます。

 『司馬遼太郎記念館』は、司馬の書斎を亡くなった当時のままをガラス越しに見ることが出来、続いて隣接するコンクリート打ち放しの、三層吹き抜け、高さ11mの書架で構成されています。 地下三階に降りると、壁には天井から床まで巨大な書架には司馬の蔵書6万冊の一部(2万冊)が収納されています。

 館内は撮影禁止。司馬ファンだけでなく、安藤忠雄ファンのあるいは建築を勉強する人達も訪れ、テーブルには来館者が書き込みできる「対話ノート」が置かれており、彼等が描いた〜光が差し込む巨大な書架〜のスケッチが見受けられます。 さすがに、彼等に伍してそのノートに描く勇気はありませんでしたが、来館者も少なく、背後を気にすることなく、十分な時間をとって、用意していたスケッチブックに幻想的な内部を描き残すことができました。帰宅して仕上げたのがこれです。


express01 at 19:13|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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