宗盛

November 11, 2013

鍵屋ノ辻、しばしの妄想

伊賀上野に住む友人を訪ねました。私にとっては二度目の上野天神祭でしたが、京都嵐山渡月橋辺りで桂川が氾濫したことなどを踏まえ、台風接近を理由に、残念ながら中止となりました。私は去年初めて参加したのですが、他のメンバーは友人の住む町内の山車を引くために毎年参加しているそうで、京都、名古屋、遠くは新潟、私が東京…、さながら同窓会の趣です。友人ご夫妻にはお世話になりました。ありがとうございました。
20131111鍵屋ノ辻道標
外は雨、奥さんのアドバイスで…、歩いてすぐの「鍵屋の辻」に行ってみました。「鍵屋の辻」? そうです、あの…、荒木又右衛門で有名な『伊賀越鍵屋辻の決闘』の舞台です。この仇討物語は次回に譲り、今回は、そこに建つ道標につながる話です。

平重衡護送ルートは、鎌倉を発し東海道を上り、大津〜逢坂関〜山科(髭茶屋追分)で奈良街道(=醍醐路 現在のJR奈良線にほぼ並行 現在のR24?)に分岐、を南下した山城国日野(現在の京都市伏見区)で夫婦つかの間の再会を許され、さらに南下して六地蔵から宇治〜大久保、さらに南下し木津川を渡って木津 重衡斬首の地(安福寺)〜首を晒された般若寺のある奈良に入ります。

その木津川を渡らず、その右岸、大和街道(現在のR163)を東へ、島ヶ原で木津川を渡り、南へ曲がる木津川を再度渡ると、そこが伊賀上野「鍵屋の辻」です。

頼朝の接見を終え、南都(奈良)に向け東海道を護送されるのですが、菅津〜関宿で東海道を分岐、大和街道を進み、伊賀上野〜木津〜奈良のルートが最短距離のはず、何故重衡はこのルートで護送されなかったのでしょうか?
平安末期 東海道

7世紀、天武天皇の頃、律令国家の広域行政区画として『五畿七道』は制定されました。当時、都は平城京、東海道は伊賀国から始まって常陸国までの14国、その諸国府をつなぐのが街道:東海道でもありました。平城京の時代、街道=東海道は畿内を離れると最初の国は伊賀国です。繰り返しますが、平城京〜大和街道(現在のR163)〜伊賀上野〜関〜菅津でした。平安京遷都(794)以降、それまでの東海道は鈴鹿峠越えとなり、富士山の延暦噴火(800年 - 802年)で足柄路が不通となり、代わって、箱根峠を通る街道(箱根路)が整備されました。

平安末期、12世紀末、平家が壇ノ浦に滅びる頃、重衡は南都(奈良)への最短ルート:奈良時代の東海道を通らなかっただけではなく、かといって鈴鹿峠を超えたわけでもありません。菅津から北上〜東山道、墨俣〜草津〜東海道に合流、冒頭に述べた通り、髭茶屋追分で分岐して奈良街道(=醍醐路)とはあまりにも遠回り、『平家物語』最大の見せ場を演出するために、日野〜六地蔵〜木津川のルートをとったのではないか?もし、関で分岐する大和街道のルートをとっていたなら見せ場もなかった…、妙な勘ぐりも頭の片隅をかすめます。因みに、沿道の日野で劇的な再会を果たす奈良街道(=醍醐路)は、平城京の時代、若狭、越前、能登から琵琶湖の西側をやって来た北陸道が、大津〜逢坂関〜奈良街道(=醍醐路)と同じルートを辿って平城京に達するものでした。

1185年、平家の総大将:平宗盛は壇ノ浦で捕虜となり、同じく鎌倉で頼朝が接見、義経に護送されて東海道を京へ向かうのですが、この宗盛護送の一行も、鈴鹿峠を越えず、重衡と同じルート、菅津から北上〜東山道、墨俣〜草津を過ぎた、東山道野洲篠原にて義経の家来により斬首されます。少なくとも二人は鈴鹿峠を越えていません。かつて富士山噴火で足柄路が閉鎖されたように、平安末期、12世紀末、東海道の菅津以西の地域では木曽川、長良川、揖斐川などの水量が増加して河口付近では渡れなくなったのか…、富士山噴火に匹敵するような天変地異の発生で、重衡夫婦のつかの間の再会〜重衡の最後〜供養という『平家物語』最大の見せ場が実現したと言えるでしょう。

「ひだりなら道 みぎいせみち」と刻まれた道標、大きなそれは最近に立てられたものでしょうが、小さなそれは判読は難しく何時の時代のものかは判りません。ここが東海道の一通過点だったのは13百年前の話、時代とともにその役割も変わり、奈良からやって来る『お伊勢参り』のいわば巡礼の道、近世においては藤堂家津藩の官道となりました。「鍵屋の辻」に立って、妄想に浸る一時でした。

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December 03, 2012

2012年近江の旅 Episode 5 〜 篠原 宗盛胴塚

元暦2年/寿永4年3月24日(1185年4月25日)、「壇ノ浦合戦」に勝利した義経は京に凱旋、これを賞して後白河法皇は義経とその配下の御家人達を任官させます。これを知った頼朝は激怒、義経以下の東国への帰還を禁じます。その命令に反して、義経は兄:頼朝への弁明を目的に、5月?日、平宗盛・清宗父子を護送するという名目で鎌倉に向かいます。

鎌倉は、東海道を東へ、足柄峠を越えた坂東の地、相模国の小さな一寒村に過ぎませんでしたが、急に表舞台に登場します。当時は揖斐川・長良川・木曽川の河口の幅が広くて渡河出来なかったのか…、京を出てすぐ東海道を行くのではなく、東山道(近世における中山道)を美濃国に入り、加納で木曽川を渡り、尾張国を迂回するように南下、東海道に入って東進、14〜16日間の旅程だったそうです。

義経 宗盛護送経路?_2
甚目寺町歴史民俗資料館の地図を拝借しました。

それは平家全盛の承安4年3月3日(1174)、鞍馬寺で「遮那王」と名乗っていた牛若は、金売り吉次と陵助頼重(みささぎのすけよりしげ)を同道して奥州の藤原秀衡の館を目指して京を脱出、東山道を「篠原」から「鏡宿」(現滋賀県竜王町)に至ったところで、追手が稚児姿の牛若を探しているのを知り、急ぎ髪を切り烏帽子を着けて元服しました。

感慨深く…、義経はこの地を通り過ぎたに違いありません。鎌倉の手前:腰越に至るも、義経は頼朝の命令で鎌倉へ入ることを許されず、そこで5月15日から6月9日までの間留め置かれます。6月5日、大江広元を通じて頼朝宛に異心のないことを書状で送ったのが『腰越状』でした。

これが、あの清盛の息子…?、平家の総大将だった…?、とみんなが呆れる宗盛は頼朝との対面を終え、鎌倉入りさえも許されなかった義経に護送されて元来た京への路を戻ることになります。義経の失意は、京への帰路、何時どこで兄:頼朝との決別の決意に変わったのでしょうか?変わったのは義経だけ…、宗盛は相も変わらずとぼけたまま…、「ここで斬られる」、「ここだろうか」、「きっとここだ」と、恐怖に顔が引きつる毎日です。いつの頃からか、「ひょっとしたら助かるかも…」と、宗盛は淡い希望を取り戻しますが、息子の清宗は父への返答を声に出す気にもなれません。「首が腐らないように京の近くで斬られるだけですよ。」

またもや、11年前に義経が元服した「鏡宿」を通り過ぎ、京を目前にした6月21日、宗盛を「篠原」、清宗を「野路口(滋賀県草津市)」にて斬首。

現在の国道8号線と東山道(=中山道)が奇妙に交差しています。近くまで来ているはずですが、どうも場所を特定できません。Kenさんが街道沿いの何軒かのお宅を訪ねてやっと判りました。今や営業されず廃屋になっているガソリンスタンドの横の脇道を入っていくと、その廃屋もさることながら、朝から雨、妙にうらさびしく、哀れな胴塚です。
平宗盛胴塚_2

宗盛・清宗父子は捕虜となって京六条通りを引き回され、本来ならば、後は静かに斬首を待つだけであったはずでしたが、兄:頼朝の命令に背いた義経は父子を利用、頼朝の歓心を買うために、命じられてもいない父子護送で京・鎌倉を往復、40日間を徒労してしまいました。父子の首が、今度は、三条通りを西へ引き回されるに至っては、義経の失敗のとばっちりを喰うようなもので、父子はそこまでの辱めを受ける必要はなかったように思います。6月23日、父子の首は六条河原で獄門に晒されます。

文治5年(1189年),藤原泰衡は義経主従を衣川館に襲い、義経は自害します。首は酒に浸して43日間かけて鎌倉に送られ、6月13日、その首実検が行われたのが、何故か…腰越、やはり鎌倉へは入れませんでした。

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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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