婆娑羅

December 01, 2016

庵の窓の外は…<1> 大航海時代

                 
窓の外  「茶の湯」は禅宗に起源をもち、やがて追随しがたい小宇宙とでもいうべき日本独自の様式を作り出したと云われています。

 マルコ・ポーロ(1254〜1324)は、元の時代、中国に滞在してしていた時に話しに聞いたという「黄金の国、ジパング」。  日本では初めての武家政権、 鎌倉幕府の時代、そのかつての「黄金の国」奥州平泉藤原氏は既に滅亡しています。それから2百年、コンスタンチノープルは既に陥落(1453)、東地中海はイスラム勢力下にあり、ポルトガルは地中海から敗退したジェノバ商人の力を借りて海洋貿易立国を計り、西地中海では「レ・コンキス Age Of Discoveryタ」が完成(1492)します。 こうして、ポルトガルはアフリカ大陸西海岸を次々に占領して南下、1497年にはバスコ・ダ・ガマが喜望峰を周りインド航路を開拓します。  同じくイベリア半島にあるスペインの支援を受けたコロンブス(1451?〜1506)は、1492年、「黄金の国、ジパング」を目指して大西洋を西に向けて船出します。「ポルトガル人はカルカッタ、マラッカを越え、マカオ、1541年には豊後に辿り着きます。日本に鉄砲そしてキリスト教を伝えたのも彼等でした。

 この頃からでしょうが、ヨーロッパでは陶器・焼き物は「チャイナ china」と呼ばれるように、優れた陶器は中国から輸入されました。  後に、日本の漆工芸品、特に蒔絵が珍重されて、漆器は「ジャパン japan」と呼ばれるようになりました。もし、「漆器・塗り物の国、ジパング」が流布されていたとしたら、アメリカ大陸、新世界の発見は遅れていたかも知れません。

 日本独自の様式を作り出したと云われる室町時代(1336–1573)は、政治的には武士が公家を圧倒、文化的には大陸文化と日本文化、公家文化と武家文化など諸文化の融合が進展し、禅宗を母胎とする簡素な、枯淡の美しさ、「わび・さび」と伝統文化における風雅、幽玄が精神的な基調をなしています。「応仁の乱(1467)」以降も足利室町幕府の余命は保たれてはいるが、もはや統治能力はなく、群雄割拠の戦国時代、信長が最後の将軍:義昭(1537-97)を追放しながらも、「天下武布」完成を目前にして「本能寺の変」に倒れます。その後を継いだのが秀吉でした。

 時代は婆娑羅(バサラ)から下克上、戦国騒乱の時代、社会は大変動が起こっていました。喫茶の習慣は禅宗が中国から持ち込んだ文化でしたが、初期の茶は後に利休が完成させた「茶の湯」とは全く異なるもので、饗膳・飲酒の席にふるまわれ、茶を飲んでその銘柄を当てる博打(闘茶)が行われ、その乱痴気騒ぎぶりを足利幕府も規制したほどです。座禅を組むだけで往生できると説いた禅宗は武士・庶民の間に広まり、和歌管弦には高い教養が不可欠ですが、喫茶は成り上がりの武士や誰にでも出来るものでした。「茶寄合」の文化は自由狼藉・無礼講(バサラ)の世界と云えるでしょう。「数奇」は「好き」の当て字、伝統的な風流・風雅を加味して、当初は和歌を指したが、やがて「茶の湯」を指すようになった。偏執的な行為の許容だけでなく、常軌を逸する行為、習慣やしきたりなどの社会的制約に束縛されることなく、自分の欲するままに自由に行動することを意味し、「茶の湯」が「数奇」と呼ぶにふさわしい内容と性格を持つように洗練された事を意味します。

 日本を訪れた宣教師は日本人がなぜ古い釜や土製の器を、ヨーロッパ人が宝石・貴金属をそうするように、宝物として扱うことを理解出来ず、ヨーロッパ宮廷文化で磁器・漆器が重宝がられるまでにはあと百年を待たなければなりません。

※参考:増淵宗一『茶道と十字架 』、児島孝『 数奇の革命―利休と織部の死
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February 12, 2015

波濤の彼方では

 小田原後北条氏を滅ぼし、家康を関東に移封、天下統一を果たした1590年、秀吉54才、なぜ彼は明に侵攻しようとしたのか(文禄・慶長の役 )…、「精神の病」、「狂気の沙汰」としか言いようがありません。信長の後を継ぎ、階段を上り詰めた秀吉は絶頂にあり、もはや次に上るべき階段もなく、振り返って見ると、信長以来の盟友・同士:利休は自刃、もうこの世には居ません。

 日本の歴史を通して、天皇家を中心とした血筋の権威、その権威の信仰を受けた社寺の権威に権力が集中しました。武門・武家である源氏・平氏は、臣籍降下により、それぞれの祖と仰ぐ天皇の号をもって氏族の称としました。主に清和源氏をして源氏と称し、桓武天皇の孫が平氏を称しました。

秀吉が小田原攻めの時、鶴岡八幡宮の源頼朝の木像に向かって、 「わしは、貴方とは違い、元々は卑賤の出、氏も系図もない男だ。だからこのように天下を平定したことは、貴方よりわしの功が優れている」と木像の肩を叩きながら言ったと云います。清和源氏直系の頼朝が開いた鎌倉幕府に始まる武家政権は、その後の室町幕府、戦国時代を経て、徳川幕府までの約7百年間続きます。その間、例外だったのは戦国時代、秀吉が頼朝像に語りかける通り、血筋とは全く関係なく、卑賤の身から実力のみで這い上がり、乱世を乗り切ったのは秀吉でした。彼は「天才」と云ってもいいでしょう。

 南北朝の動乱の時期に発生した「婆娑羅(ばさら 梵語(サンスクリット語)のvajra = 金剛石(ダイヤモンド)が語源)」は身分秩序を無視した実力主義、公家や天皇など旧い・伝統的な権威・血筋の権威を否定して、新奇・異風異体なる美意識を持ち、後の戦国時代における「下剋上」につながっていきます。公家から権力を奪取した守護大名・武士はパッとでの成り上がり者で、詩歌管弦などの公家の教養はありません。「寄合(=相談)」は後の「一揆」につながるのですが、その彼等の間に広まったのが中国から舶来の茶器=唐物を用いた「喫茶」という、教養のあるなしに拘わらず、誰にでも参加できる「茶寄合」に発展していきます。
南蛮人渡来図
神戸市立博物館 南蛮屏風
 戦国の時代、「数奇」は「好き」の当て字、本来なら和歌を指した「風流」「風雅」の意味を加えて、「茶の湯」を指すようになりました。「茶の湯に習いはない」とは利休の言、 「茶の湯」の世界に起こった革新が、流行が流行を呼んで、極めて短期間に中世の文化・生活を覆して、遠くにあった「近代」を一気に手繰り寄せました。過去の習慣やしきたり、伝統的権威、社会的制約・束縛にとらわれることなく、「欲するがままに」行動するするのが「数奇」でした。戦国騒乱、社会の大変動の時代、自分の自由意志で行動する新しい人間が誕生しました。

 1587年、秀吉は北野天満宮の境内において、「北野大茶の湯」を催し、これが秀吉と利休、蜜月の頂点となります。信長亡き後、秀吉は革命の同士:利休と共に階段を登ってきたのですが、頂上が見え始めてもなお、利休は次の高みを目指して登っていこうとします。国内の敵対する勢力は全て秀吉にひれ伏した今、彼の「天才」が通じない…学問や教養、文化的価値、美術的価値に重きを置いた平和な世界がやって来るのでは、そんな世界がやって来れば彼の居場所・存在価値はなくなってしまいます。利休の世界に、秀吉は大きな「不安」を感じ、革命同士:利休を排除する頃には既に精神の変調をきたし、明に侵攻しようとした「文禄・慶長の役」は正に狂気でした。 1598年、秀吉62歳、醍醐寺三宝院でにて盛大な花見を開催…、そして死没します。

 今日に云う日本文化・日本的生活様式とは「茶の湯」「数奇」で体系化されたものです。「安土桃山文化」は「元禄文化」に続き、さらに近代を力強く手繰り寄せます。「茶の湯」「数奇」の時代、波濤の彼方ではルネサンスの時代でした。…気になるところです。

参考書:増渕宗一『茶道と十字架 』 村井章介『南北朝の動乱』 児島孝『数寄の革命』 横山 紘一『旅の博物誌』 徳川恒孝『江戸の遺伝子』

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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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