大久保長安

November 09, 2019

2019年関西の旅 神君家康伊賀越え(その2)

多田神社 もう一つ、くすぶっていることがあります。家康と摂津佃の漁民(名主森孫右衛門)の関係です。1586年、源氏を名乗った家康は始祖、源満仲(みつなか 912 - 997)を祀る多田神社(兵庫県川西市)へ向かう一行の船渡しを佃村の漁民がやったとか、あるいは、家康一行を乗せた船をけん引して多田まで届けた。これに報いて、後年、秀吉に関東移封(1590)を命じられた家康とともに江戸に入り佃島に入植を許されたものと思っていました。しかし、たかだか神崎川の渡河、あるいは猪名川の遡行ぐらいで、新天地江戸の一角、特権として日本橋に魚河岸開設を許されるのでしょうか?

 過去に何度か触れましたが、私の出身地(生まれは九州ですが)は兵庫県伊丹市。市の南に尼崎市、西に西宮市、北に宝塚市・川西市が位置し、東には猪名川が流れ、対岸は大阪府です。かつて、この大阪府と兵庫県を合わせて摂津国と呼ばれ、明治新政府は摂津国経済の力を削ぐために二つの県に分割したと聞きます。猪名川はいくつかの川が合流して神崎川として大坂湾に注いでおり、その河口部分に「佃」が位置します。平安末期、源平合戦も終わり、京を逃れ淀川を下った義経一行が西国で再起を図るべく船出した「大物の泊まり」もすぐ近くで、佃・大物・江口の周辺はは古代より瀬戸内及び淀川水系の重要拠点であったと考えられます。江戸時代、伊丹酒(いたみざけ)と呼ばれた日本酒の名産地であり、今も「白雪」や「御免酒 老松」のブランドが引き継がれているが、造られた酒は船で猪名川を下り、大坂湾に出て、菱垣廻船や樽廻船で江戸へ出荷されたことを見れば、猪名川のさらに上流、西岸に在る多田神社近くまで家康一行を乗せた舟を曳航したのもまんざらあり得ないことでもないでしょう。

 1590年、家康は江戸に入城。戦国の火がまだくすぶる中…、武田の旧臣大久保長安に命じて従来の五街道に加えて、家康緊急時の江戸脱出路として、江戸城半蔵門(に服部半蔵の名を遺す)を起点とする甲州街道を建設、中途に八王子の街を建設、多くは武田の旧家臣を「八王子千人同心」に組織化しました。一方、江戸という都市を建設、その消費需要を賄うためには、荒川・利根川・渡良瀬川の水運をはじめとする物流路の整備が不可欠でした。家康は江戸入府と同時に江戸湾の風波を避ける目的で小名木川を開削、同時に伊奈忠次に関東河川改修を命じ、以後、伊奈氏3代により利根川の銚子河口への通水が行われました。東北からの物資がここで川船に積み替えられ、利根川を遡り関宿で江戸川に入り、行徳にて船堀川・小名木川を経て江戸へと運ばれました。

 戦国時代の百年、関東は善政を敷いた小田原北条氏の支配下にあり、まだ後北条恩顧の強い地域でもあった。家康の江戸入府に摂津佃の漁民(名主森孫右衛門)34人も従い、寛永年間に隅田川河口鉄炮洲の土地をもらい「佃島」と名付けました。この鉄炮洲、なんと小名木川の目と鼻の先。大久保長安に命じて甲州街道という緊急脱出路を確保しながら、関東に広がる荒川・利根川水系の150504_深川万年橋物流を摂津佃の漁民(名主森孫右衛門)が担うだけではなく、これらの水系を利用して、関東を支配するのが家康の森孫右衛門に与えた使命だったのではないでしょうか。江戸入府と同時に開削された小名木川は物流の幹線運河であり、同時に、番所(関所)が設けられるなど関東支配の軍事的な目的を果たす、徳川幕府の生命線でした。後北条恩顧である地元民に任せられるはずのものではなく、関東に縁のない摂津佃の森孫右衛門にそれを命じたのではないでしょうか。

 年は遡って1582年、家康は泉州堺を出て京へ向かう途中、枚方辺り、御用商人茶屋四郎次郎がもたらした「本能寺の変」の報に接し、急遽帰国を決意、こうして始まった逃避劇が後に家康生涯最大の危機と云われる「神君伊賀越え」です。秀吉の死後、家康の権勢が絶大になるに及び、「淀川過書船支配」など京・大坂の物流の支配を任されたことを勘案すると、茶屋四郎次郎と淀川・神崎川河口(摂津佃)を拠点に活動していた森孫右衛門とは従来より密接な関係があったはずです。茶屋四郎次郎は先々で土民を脅したりすかしたり、時には金をばらまき、服部半蔵は伊賀・甲賀衆を説得して家康一行の警護・案内に奮闘します。一方、茶屋四郎次郎から一方のあった森孫右衛門は家康一行の到着を待ち受け、宇治川(堺〜飯森〜宇治)・木津川(近江〜伊賀)の水路、伊勢白子から大浜までは海路を確保、渡河・河川及び湾内航行に活躍したものと考えます。

 家康と森孫右衛門の出会いはこの「神君伊賀越え」だったように思われ、もし「本能寺の変」がなければこの「神君伊賀越え」もあるはずがなく、二人の出会いはなかったかも知れません。この茶屋四郎次郎、服部半蔵に匹敵する働きを見せた森孫右衛門への信認は厚く、1586年、家康一行を乗せた舟を牽引して猪名川を遡の「多田神社詣で」の先導役を果たし、1590年、摂津佃の漁民(名主森孫右衛門)は江戸に移住、江戸武家屋敷への出入り、魚河岸の開設が認められました。1614〜1615年、大坂冬の陣・夏の陣では佃漁民は徳川方に味方し、食料・武器の調達・運搬を行っています。

 佃島の漁民は悪天候時の食料や出漁時の船内食とするため自家用として小魚や貝類を塩や醤油で煮詰めて常備菜・保存食としていたが、これが「神君伊賀越え」の時に非常食としてふるまわれ、後の江戸名物「佃煮」となったとは、話が出来すぎでしょう。

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September 13, 2018

Yokohama、近藤勇…そして町田 その2

『Yokohama、近藤勇…そして町田 その1』から続く…
 
 町田、さらに大きく多摩という地域の歴史を見ると、面白い事に気がつきます。最初の武士政権、鎌倉幕府(1192)を建てた関東武士の棟梁は都からやって来た貴種、源頼朝。源氏三代を殺して、鎌倉幕府を引き継いだ伊豆国(静岡県)出身の執権北条。その鎌倉幕府を倒して(1333)、後醍醐天皇親政失敗( 1336)に続く南北朝時代(〜1392)、そして上州(群馬県)出身の足利尊氏が室町幕府(1336〜1575)を建てるもその実力は京周辺の山城一国にしか及ばなかった。各地の守護はその権限を拡大し、守護大名に成長、関東でも混乱が続きました。戦国時代の先鞭をつけたのが備中(岡山県)出身の早雲(伊勢新九郎盛時)が伊豆韮山(静岡県)に拠点を置いて、伊豆・相模国を、執権北条の名を継いで小田原(神奈川県)を本拠地に関東一円を支配しました。後北条は秀吉に敗れ(1590)、いよいよ三河(愛知県)出身の家康が入って来ます。家康は、善政を敷いた後北条の民政(四公六民)を踏襲、100万石余といわれる幕府直轄領(天領)には有能な代官を置いて統治し、関東はこれ以降現在に至るまで大きく発展を遂げます。家康の江戸脱出路とされる甲州街道、その途中に在る八王子の街、そこに武田・後北条の遺臣を集めて「千人同心」を作ったのが大和(奈良県)出身の猿楽師、大久保長安(武田信玄、後に家康に仕える 金山奉行)江川邸玄関外であり、町田を含む多摩地域には千人同心の子孫が多く住んでいます。 もう一つ、保元の乱を嫌って伊豆韮山に流れてきた江川家は、頼朝・執権北条・足利・後北条そして家康に「江川太郎左衛門」の名で世襲代官として仕え、町田を含む多摩地方の幕府直轄領は伊豆の代官「江川太郎左衛門」の支配下に在りました。

 日本人の精神と倫理観に徹底的な影響を与える関東武士の誕生、彼等はその主役でありながら、自らのうちに棟梁を見いだすことをせず、当初は平氏を、次いでは源氏、都の貴種(他国者、よそ者)を担ぎ上げて史上最初の武家政権、鎌倉幕府を開きます。 以来、関東に於いて、時代の節目にいろんな事象が発生しますが、近世末、おそらく今日に至るまで、全くこの傾向は変わりません。

 幕末、養蚕だけでなく、 木綿・油菜・荏胡麻・藍などの商品作物への転換が進み、近藤勇農民は「穀物買い入れ層」となり、奢侈・贅沢へ傾斜して行きます。その結果、穀物価格の急騰、飢饉・打ち壊しの発生、治安の悪化、社会の混乱を招くことになります。後に新選組を率いる近藤勇(1834-1868)、土方歳三(1835 - 1869)は武蔵国多摩郡調布・日野に中農以上の豊かな家庭環境に生まれますが、彼等こそ多摩地域が生んだ独自のリーダー、棟梁でした。小島鹿之助(1830 - 1900)は当時の小野路村の名主で近藤勇(新選組)のスポンサーでしたが、ひ孫に当たる小島政孝氏(小島資料館館長)は講演で「近藤勇・土方歳三は多摩の英雄」と明言しています。身びいきすぎる…とは思いますが、確かに関東武士が生まれて以来始めて、近藤勇は歴史の節目で「棟梁」となった唯一の多摩人であり、その意味では「多摩の英雄」です。

 市民大学講座の講師もここの学芸員の方が多いのですが、町田市立自由民権資料館というものがあります。私の了解する「自由民権運動」とは、戊辰戦争で勝利した新政府軍、例えば武士は板垣退助を頂点に一国の家老待遇の名誉と地位を得ながら、数年後の廃藩置県でその地位は反故にされ、「不平士族の反乱」に繋がり、西南戦争が終息すると、明治政府への不満の矛先が憲法制定・議会開設を要求する「自由民権運動」へと変遷していきます。板垣退助は東山道先鋒の参謀として戊辰戦争(1868-1869)に従軍、「勝沼の戦い」では近藤勇(新選組)を撃破して甲州街道を東へ、八王子千人同心を懐柔、徳川恩顧の多摩郡を全く無抵抗のまま江戸に達します。町田には、代官「江川太郎左衛門」の組織した木曽農兵、小野路には小島鹿之助が組織した小野路農兵が幕府側として参戦したはずなのですが、どうも消息が分かりません。戦争の帰趨が判っていたからでしょうか…、 上野戦争・東北戦争は未だ始まってもいないのに、徳川恩顧の町田を含む多摩地域から、例えば宇都宮・日光方面の戦いに向かうこともありませんでした。

 自由民権資料館は野津田村の地主、村野常右衛門(1859-1927)が自由民権運動に加わり(1881)、その私財を割いて建てた「凌霜館)」の跡地を町田市に寄贈されたものが始まりで、 多摩・神奈川の民権運動関係史料を収集・保管し、整理・研究している由。読む方の誤解か…、それとも誤解を招くことを意図したのか…、自由民権運動の起源がこの地にあったかのような名称です。横浜開港で町田に西欧の宗教・思想(例えばアメリカ独立戦争・フランス革命の自由・平等・議会設置)が入り込んでいたのか、と大いに期待したのですが…、全くそんなことはなく、かと云って不平士族でもなく、不平というならば、それまで天領・旗本領の特権を剥奪されたという新政府への不満…でもないようです。 彼は戊申もはるかに過ぎて、西南戦争(1877)後、当時、にわか風俗の如く流行した「自由民権運動」に参加したのでしょう。福沢諭吉が訳したとされる「自由」、それを底に記したぐい飲みが展示されています。廃藩置県に伴い(1872年までに)町田を含む多摩地方は神奈川県に編入されましたが、コレラ流行(?)等を理由に、1892年、再び現在の東京都(府)に戻ったと云います。当時、神奈川県・町田を含む多摩地区で盛んだった自由民権運動を削ぐ狙いがあったと云いますが、云われる通り運動は急速に衰退してしまいます。ブームが終わったように…。原町田から八王子にかけての人間にとっては、新しい産物・思想・生活習慣の発信地、居留地のあるエキゾチックな港町横浜(神奈川県)が少し遠くに行ってしまいました。

 東京・大阪を初めとする大都市に人口が集中する傾向は今も変わらず、町田市の人口は43万、八王子(58万)に次ぎ、多摩地域第二の大都市です。幕末の横浜開港以降、町田の中心は小野路村から原町田村に移り、JR横浜線は市の南端を、小田急も東の端をかすめるだけ、 国道は一本も通らず、町田の背骨でもある町田街道に右折レーンが出来たのはつい最近の話です。遠藤周作縁の地で在り、死後遺族から彼の遺品寄付の申し出がありながらそれを断り、長崎に持って行かれ、かろうじて白州正子の遺品は「武相荘」に遺されています。映画館はやっと最近、南町田にシネコンが出来たというお粗末さ。文学・芸術がダメならスポーツで、ということで町田市はサッカーにお金をつぎ込んで、やはり政治の中心は昔ながらの野津田(あるいは隣接する小野路)なのか、人里離れた所に立派なスタジアムを建設しましたが、その結果は未だ明らかではありません。多摩地域第二の大都市でありながら、武蔵野には入っておらず、現在に於いても「多摩の横山」が厳然たる壁、市内を走る神奈中バス、相模原市と同じ市外局番に、かつては神奈川県に編入された名残がある、とらえどころのない無個性な街に映ります。これがこの街の文化…?。

 地域おこし、街おこしをやろうにも、ただミニ歌舞伎町が駅前にあるだけの街では手の打ちようがありません。町田市が積極的に景観を保存した訳ではありませんが、私の住む小山田地区には、結果的には、幸か不幸か、江戸時代、さらに遡った古い原型のままの山里を見ることが出来ます。 やはり、多摩の横山を越えて小野路に出稽古にやって来る近藤勇をキャラクターに据えるべきでしょう。


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December 23, 2017

散歩の途中<<26>> 忠生(ただお)

 歩いて行くにはちょっと遠いので、自転車で忠生図書館に行ってきました。今まで、桜美林大学の図書館を利用していましたが、当然のことですが学術書が多く、最近はあまり利用していません。代わりに小説、娯楽書の多い忠生図書館に行くようになりました。貸し出し期限・冊数も桜美林ほどうるさくもなく、大いに利用しています。なかなか面白そうな場所で、近くには「かぶと塚公園」忠生小学校門松3があり、この「かぶと塚」の由来は、鎌倉攻撃に多摩川・横山を越えて南下する新田義貞軍に関係があるようです。今の時期、もう一つの見所は忠生小学校(1912年開校の忠生尋常高等小学校)です。かつての組合理事仲間の一人が父兄の人達と一緒に作った大きな門松が飾られています。

 平安後期、足柄峠(後の箱根)の坂の東側、坂東の地では新田・牧場の開墾・開発が隆盛、所領安堵を保障する棟梁に従い命を引き替えに戦場で働く、という「一所懸命」を信条とするの多摩(坂東)武士団に発展して行きます。彼らは頼朝を担ぎ上げて平家を倒し(1185)、その彼を征夷大将軍に鎌倉幕府を樹立(1185 or 1182)します。平家打倒の目標喪失で、頼朝への求心力を失った御家人を北条時政(伊豆)は、だまし討ち・暗殺で大量に粛正、執権職を北条得宗家で独占します。これは、棟梁の下では御家人は皆平等であるという考え方とは対立するものでした。鎌倉幕府の崩壊(1333)とともに1千3百人が自刃、それも北条氏一門のみで他の御家人はいなかったと云うのは極めて異様です。

 尊氏は京室町に幕府を開き(1336)、独立政権樹立を警戒して関東管領を置くも、関東一円には一足早く戦国の世が訪れます。上杉の支配が強まると小田原北条を迎え入れてその家臣団に入り、家康の関東入り(1590)するとまたこれに協力します。棟梁はあくまで仲間の代表でしかなく、棟梁の下では皆平等の意識が強く、棟梁は外部に依存し、仲間内から棟梁を出すことはしない。結局、多摩武士団は自ら大規模な組織作りができませんでした。

 家康は、信長・秀吉に滅ぼされた甲斐武田の遺臣、小田原北条の残党を厚く迎え入れ、大久保長安を始めとする旧武田の家臣に関東の支配を任し、一方、鎌倉・室町幕府・後北条氏とその時代の支配者に仕えた世襲代官、江川太郎左衛門(通称)に旧後北条の支配地、伊豆・相模・多摩を天領としてその経営を任せた。大久保長安は甲州街道及び八王子の街を建設、旧武田家家臣をして無禄ながら幕府公認の半農半士「千人同心」を組織して八王子周辺を開拓、江戸防衛の最前線とした。戦国の世が終わると、「千人同心」は日光東照宮の火の番が役目となり、江戸の旗本・御家人からは「芋侍」と軽蔑されるが、幕末には唯一の幕府直属の実戦部隊となります。

 江戸時代後期、商品経済・貨幣経済が発展、芝居や相撲の興行などの娯楽が盛んになり、もちろん賭博が盛んになります。これを生業とする博徒・無宿人が増加し、平和な時はさほど問題ないのですが、「天保の大飢饉(1833 - 39)」が発生、幕末に入ると開港の影響で物価が高騰、天然痘・コレラという未知の感染症が流行、社会は大混乱に陥ります。「攘夷」思想がうまれます。領地が複雑に入り組んだ関八州、特に上野国(群馬県)、天領である多摩地区は無宿者・博徒が逃げ込む絶好の場所でした。自衛のためか…、剣術が農民の間にも盛んになったのは全国で上野国と多摩地区だけという。国定忠治と新選組、上州と多摩、どちらも人々の気が荒く、喧嘩、武芸が盛んな風土です。一方では、豪農・名主などの上層農民と貧農などの下層農民の階層分化が進み、階層間の対立が激化、慶応年間には「世直し騒動」(武装蜂起)が激増します。

 江戸時代、百姓とは「百の姓を持つ庶民」、支配階級である武士以外の農民を含む被支配階級と云う意味でした。地方には藩があり藩主、その居城があり、藩士と呼ばれる武士が存在し、彼らは百姓が武士の格好をすることを許さなかった。髪型・服装・持ち物を見ればどんな身分かが判る身分社会でした。ところが、藩がなく、藩士もおらず、代官所の役人以外は武士のいない天領、多摩では武士の身分「千人同心株」さえも売買される有様、武士の真似事をしてもさしてとがめられることはなかった。勇は多摩郡上石原村(調布市)の裕福な農家、宮川久二郎の三男に生まれます(1834)。宮川」は「土方」と同じく隠し姓、武士の真似が昂じると、本当の武士になりたいと思うのは当然。ましてや、剣術が強ければなおさらのこと…。父久二郎の言「お前は武士になれ」で、近藤周助の養子となり、近藤勇、「天然理心流」の四代目宗家となります。近藤勇、土方歳三、沖田総司、井上源三郎は「千人同心」の流れをくむ「天然理心流」近藤周助の門人でした。

 浪士の狼藉に頭を痛めていた幕府は、清河八郎の献策を入れて、江戸に居る浪士を集め、将軍家茂の攘夷決行の為上洛の際、その警護に当たらせること、及び尊皇攘夷の発露を目的に「浪士組」隊員を募集(1863)、「天然理心流」近藤勇達はこれに参加しました。彼は「天然理心流」の宗家、一門をを引き連れて、既に結婚して子供も在りながら、それらを多摩に置き去りにして…何故? とは、現代に生きる人間の偏見でしょうか…。

 池田屋で密会する尊攘派志士20数名に対し当初わずか近藤以下4名が急襲、後に土方隊が到着して逆転勝利、9名を殺害・4名を捕縛して新選組の名を一躍世に知らしめました(「池田屋事件(1864)」)。この襲撃は新選組の常套戦法(一人の敵には三人以上で当たる)を用意する余裕はなく、強烈な天領「徳川恩顧」の思いに突き動かされた行動であったと思われます。遅ればせながら応援にやって来た桑名・会津兵の前に土方歳三はまだ血の滴り落ちる白刃を持って立ちはだかり、一歩たりとも彼等を中に入れなかったと伝えられています。この勝利は新選組が独占する。他の者には指一本触れさせないという強い決意の表れだったのでしょう。その土方歳三が作ったとされる「局中法度」。「士道ニ背キ間敷事」とあり、違反者は「士道不覚悟」として「切腹」でした。彼の言う「士道」とは「武士道」とは異なるのか…、出自も育ちも本当の武士ではないという彼のコンプレックスがそうさせるのか…、武士としての品位に欠ける、後味の悪い思いをするのは私だけではないでしょう。極めつけは…、伊東甲子太郎が思想の違いから新選組を離脱しますが、彼は近藤の妾宅で酒に酔わされ、その帰途に隊士の数名により闇討ちされ、その遺体は路上に放置され、仲間を誘い出す囮として使われました(「油小路事件(1867)」)。在京の5年間での新選組の死者は約50名、その内倒幕志士との戦闘による死者数はわずか6名、ほとんどが「士道不覚悟」という理由にならない理由による新選組内部の粛清・暗殺でした。どこか…、約七百年前の北条得宗家と共通点があります。

 新選組のやりかたは「桜田門外の変(1860)」、「天狗党の乱(1864)」、はるか昔に遡って「赤穂事件(1701-1703)」に登場する武士の仕業とは極めて異質なものです。天領、多摩郡には支配する武士階級が存在せず、幕府=将軍の代官として豪農・名主などの上層農民は「公儀=将軍の御百姓(将軍家の農民)」という強い優越感を持っており、そこで生まれ育った彼らに組織された新選組は自ずと幕府=将軍に忠誠を尽くすべく奔走したのですが、そのやり方は武士には到底思いつかない陰険なもので、これも彼らの出身地、多摩郡の「世直し騒動」(武装蜂起)鎮圧、博徒・渡世人相手の治安維持、あるいは祭の若い衆同士の喧嘩のやり方、多摩の特殊性だったのかも知れません。

 「尊皇=勤王」の本質は、天皇が絶対君主でありその座は不可侵(臣下は絶対に天皇にはなれない)、逆に言えば、天皇の下では将軍も武士も百姓も同じ臣下、平等であると云うことです。ヨーロッパ近代民主主義は、ルター、カルビンに依る宗教改革、神=絶対神の下にはローマ教皇も神父も、大衆も、大衆の手助けをする牧師も皆、平等である、に始まるのと全く同じです。その意味で「尊皇=勤王」には普遍性があります。

 「湊川の戦(1336)」で新田義貞は自分の馬を射られ、彼の危急を見た小山田高家は自分の乗馬を義貞に与えて逃がし、身代わりになって討死します。御一新がなり、今は明治の世、1889年、かつての「公儀=将軍の御百姓」は神戸では高家が大事に祀られていることを知って大いに感激、かつての天領南多摩の地に新村を作る際に、その名を「忠臣の生まれた村」、「これからも忠義の者が生まれ出る」ことを祈って、「忠生(ただお)村」と名付けました。染みついた「徳川恩顧」、「公儀=将軍の御百姓」意識、御一新から20年やそこらでは変わらないでしょう。
※参考:英傑の日本史―新撰組・幕末編 (角川文庫)

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January 26, 2017

散歩の途中<19> 代官坂

 過去何回か(?)ご紹介している小山田桜台団地ですが、小田急町田駅に出るのにバスで30分、本来は15分弱のJR横浜線淵野辺駅に出るべきなのでしょうが、如何せん朝夕の通勤・通学時間を除けば1時間に1本しかありません。しかし、2027年、東京・名古屋間開業予定の中央リニア新幹線が着工(?)、品川を発車した最初の駅は隣町:相模原市橋本らしく、それにともなって、現在、唐木田まで来ている小田急多摩線を延伸、横浜線相模原駅に接続、その間に2〜3駅が新設されるそうです。小田急延伸・モノレールの構想は、この団地開設の30年も前から言われている話、10年後、近くに新駅が出来たとしても、その頃には外出する意欲もなくなっていることでしょう。

 「陸の孤島」状態はしばらく続きそうですが、そのお陰で、東京都に在りながら単なる昭和の里山風景どころか、遡って、平安後期から鎌倉にかけての武士勃興・政権確立の舞台、できる限り直線に配した「鎌倉街道」、さらに遠くの古代、阿倍比羅夫・坂上田村麻呂が東北に向かい(?)、防人が横山をはるか九州を目指して下って行った痕跡が「奥州古道」として残っているのは奇跡ではないでしょうか。
鳥瞰図
 団地の掲示板の言葉、「水彩画を楽しんでいます。ご一緒にいかがですか。」に誘われて水彩画同好会に入会しました。つい最近まで高校で美術の先生だった方、かつてそれなりの先生について絵を学んだ方など、本格的に水彩画をやっておられるようで、持っておられる道具類(絵の具・筆)も違います。彼等の水彩画に比べれば、私の絵は極端に言えば線画、色付けも単純、持ち物も友人にもらった絵の具は別に、筆は絵手紙用の水筆一本だけ。そもそも彼等のサイズがA4であるのに比べ、私のそれはA5あるいはF0と彼等の半分です。私の絵を見た一人が、「こんな風景がお好きでは?」と写真を見せてくれます。

 数年前、町田市と多摩市を隔てる大きな段差(多摩丘陵、『万葉集』で言う「多摩の横山」)を越えて小田急多摩線終点駅:唐木田駅に至る道路が完成、路線バスはないものの、車で行けばわずか10分、唐木田駅発の急行に乗り、代々木上原で本線急行に乗り換えて新宿に出る新ルートが発見され、時間的にも金銭的にも、都内が近くなりました。唐木田に至る道路の途中で目に入るのがその写真の風景です。私だけでなく、その彼も、おそらくこの道を走る多くの人にとっては大いに気になる景色なのでしょう。早速描いた絵がこれです。
170117小山田代官坂辺り
 ただものではない立派な門構えの農家、その敷地の裏から「多摩の横山」へ通じる「代官坂」が始まります。下小山田と上小山田のほぼ境、標高が上がるにつれて突然小さな谷戸に畑の畝が現れるたかだか1キロほどの坂にすぎません。鶴見川、結道川、馬駈堀など水の便良い麓では田んぼが広がる「田方」と呼ばれる代官坂地蔵のに対し、この辺は「岡方」と呼ばれるそうです。耕耘機など、小型の農業トラクターなどが辛うじて通行出来る道幅で、終末のハイキング客か地元農家の人しか通る人もおらず、「奥州古道」の痕跡を深く残す道と言えるでしょう。

 さて、その名前、「代官坂」とは、どこからやって来たのでしょうか?甲斐、武田氏が滅び、かつてその家臣だった大久保長安が徳川家康に仕官、一族郎党を連れて八王子に移住、「千人同心」を組織、江戸〜八王子〜甲府を結ぶ将軍の脱出路として甲州街道を整備、佐渡・院内・石見を統括する金山奉行として権勢を振るいました。当地境川流域(淵野辺・橋本)あるいはこの下小山田・上小山田にも少なからず、甲斐以来の彼の郎党の子孫が住んでおり、長安の冬至の官職名:八王子代官頭に因んで「代官坂」と呼ばれるようになったのではないかと云う説があります。近くには「大久保台」の地名、八王子には「野猿峠」と言う地名があり、長安の出自が金春流猿楽師であったことも合わせて考えると想像力も膨らみます。「陸の孤島」も悪くはありません。 
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July 13, 2016

散歩の途中<14> 八王子城跡

 去年10月、Ikeさんと一緒に訪れた八王子、産千代稲荷神社の境内に建設中だった大久保長安の資料館(?)がそろそろ完成の頃では…、とサイトを探したが見つからず、長安資料館(?)というのも私の勘違いだったかも知れません。ということで、急遽行き先を八王子城跡に変更しました。

 後北条氏の三代目:北条氏康の三男:氏照は、小田原-上野(現在の群馬県)間交通の押さえ:滝山城(八王子)を本拠とした。1569年、小田原を目指す武田信玄軍に三の丸まで攻め込まれ、落城寸前までとなった。これを機に(?)八王子城(標高445m、比高240m)を築城、1587年頃までに本拠地を移しました。

虎口 最近整備されたと聞く、城主:氏照の居館:「御主殿跡」を目指します。大手門跡から曳橋を渡って御主殿の出入り口:虎口を見上げる石段にどこか、確かに過去に見たことのある記憶が蘇ってきます。階段の一段一段が高く、勾配もきつく、圧倒されるように大きく見えるのは安土城のそれです。既視感(デ・ジャブ)ではなく、八王子城築城の際、氏照は家臣が信長の安土城を訪問してこれを参考にしたと、見学後のガイドさんの説明がありました。私の感覚も捨てたものではありません。

 1590年、北条氏攻撃に総勢22万の兵力を動員、その為に鴨川に三条大橋を架設したと言います。先陣を命じられた家康に続いて諸大名が東海道を東進、秀吉自身は3月1日に京都聚楽第を出発、27日、本陣の三枚橋城(現在の沼津市)に到着、既に最前線では交戦が始まっています。箱根の西坂に位置する山中城は早々に陥落、4月1日には秀吉が箱根峠に達しています。4月3日には豊臣軍の先鋒は小田原城へと迫り、小田原城包囲が始まりました。一方、前田利家・上杉景勝等の北国勢は碓氷峠を越えて上野に入り、4月20日には松井田城(安中)を開城、城主:大道寺政繁は豊臣方に降り、北条方諸城の案内役として豊臣方に協力しました。これを皮切りに、上野・下野・相模・武蔵の諸城は次々に降伏開城します。

 秀吉に「実力で落とした城がない」となじられた北国勢は、最後に残る八王子城を徹底的に攻撃することを決意したといわれます。

 上野の最前線に位置するの松井田城(安中)の大道寺政繁が豊臣方に降り、それ故か、次に控える平井城(藤岡)の守将:平井無辺も凋落され、次々と将棋倒しとなった観があります。その平井無辺は普請奉行で八王子城の構造を熟知しており、6月23日、前田・上杉・真田の北国勢(1万5千)は攻撃を開始、彼の案内で上杉軍が本丸頂上を占拠、城は一日で陥落しました。犠牲者は千余名、あるいは3千とする説もあり、60余名の婦女子捕虜は見せしめのために相模川から舟で小田原に護送されたそうで、この八王子城落城が決め手となって、小田原城は開城します。八王子城主:氏照は小田原に籠城中の兄:氏政と共に自死、北条氏は滅亡しました。

 後北条氏の祖:北条早雲の出自は備中伊勢氏、幼くして禅僧の教育を受け、京の大徳寺で修行を積み、公家衆とも交流した教養人でした。信長・秀吉に先立って領内の「検地」を実施、『壁書(へきしょ)二十一条』を定め、御家人・領民の生活規範を現し、質素・倹約に務めた経済家でもあり、戦国時代を切り開いた人でした。小田原から関八州にかけては、全国で一番地租の安いところであったが、これは早雲のお陰…、とは勝海舟の言(『氷川清話』)です。関東に入る家康は、本拠地を早雲が造った小田原にすべきか、あるいは江戸か、大いに迷ったはずです。家康は、領民に慕われた早雲の築いた小田原ではなく、江戸を本拠地に選び、旧北条氏領の多くを幕府直轄・天領としました。加えて、井戸水に海水が含まれる…江戸の開発に不可欠な飲料水の確保の為に、早雲の建設した小田原城下の水道施設をこの江戸にも採用しました。

 これほどまでに慕われる早雲、後北条氏なのに、何故、いざ決戦と言うときに、次々と将棋倒しの如く、裏切りにも似た降伏開城になったのか全く判りません。例外的に、多くの犠牲を出した八王子城攻めとは対照的に、石田三成軍の「水攻め」を受けた忍城(行田)はよく守り、ついに降伏するのは、小田原城陥落後の7月16日でした。
八王子神社
 急な山道を登ること40分、八王子城本丸跡に至ります。すぐ下に「八王子権現」を祀った八王子神社(廃屋)が風雨にさらされています。仏教の守護神である牛頭天王には8人の子(八王子)がいるとされ、市名の由来です。
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October 14, 2015

大久保長安_その

 音楽を語る資格など私にはありませんが、バンド仲間の一人が曰く、ジャズが好きな(あるいはクラシック好きな)人はどこかでカントリー、ブルースを馬鹿にしているように感じると言います。カントリー、ブルースは基本的には3コード、多くても4〜5つか…、複雑なコード展開のジャズやクラシック音楽に比べれば極めて単純、原始的な音楽です。しかし、コード展開とリズムが単純だからこそ、アフリカのブードゥー教や櫓の周りを回る盆踊りのように、人を狂わせ、恍惚・トランス状態に没入させるのです。

阿国(?) 芸能とは、踊る・舞う・歌うこと、人間の身体をもって表現する技法にて、その起源は「神々との交流」するシャーマニズムの儀礼でした。大和朝廷は歌舞を芸能化し、これが神楽のもととなったと考えられています。神楽は大陸から渡来の散楽・雑楽であり、神楽の旁:「申」をとって「申楽」とは世阿弥の言の由。平安・鎌倉時代には、朝廷・貴族、後には幕府と結びついた力のある社寺専属の芸能集団を形成、社寺・仏像建立の為の寄付を募る「勧進」興行が行われ、室町時代には観阿弥・世阿弥が現れ、「猿楽」=「申楽」を大成します。この室町時代を境に、鉄の利用が拡大して森林開発・農耕生産力が増大、社会分業が進み、商品市場・交通が活性化します。米を作る農民は「良民」、その下に商業・工業者を、生産に従事しない芸能民はさらに低い身分に置かれました。安土・桃山時代には、信長・秀吉の宗教政策によって社寺勢力は衰退、社寺の持っていた芸能の興行権も大幅に制限され、社寺に管理されていた芸能活動が各地の芝居小屋で観られるようになります。「かぶき者」と呼ばれた「出雲の阿国」が登場するのはこの時期、ご存じの通りです。

大久保長安_1 お待たせしました。ここで、大久保長安が登場します。1545年、長安は春日大社に奉仕する金春流猿楽師:大蔵大夫の次男として誕生します。金春流は、観世流と同じく、秦姓を名乗る猿楽師で、祝宴の席などで、歌謡・楽器を演奏する音楽とともに、奇術・曲芸などを演ずる軽業師・芸能者でした。猿楽師は、山師・金堀・踏鞴師・鋳物師・鍛冶師・木地師・塗師・炭焼、さらには傀儡師・白拍子などの芸能者、ある時は隠密活動を請け負う、「一畝不耕」「一所不在」の「漂泊の民」あるいは「道々の者」の中の一職能集団でした。

 大蔵大夫率いる金春家は甲斐国武田家に猿楽師として仕え、長安は蔵前衆(代官衆)として、武田氏の富の源泉:黒川金山の経営に参加、猿楽衆もその一員である「道々の者」、山師・金堀などの鉱山・土木・建築・治水・治山技術者との関係をつくり上げます。武田氏滅亡後は、家康に仕官、譜代の大久保忠隣の庇護を受け、大久保姓を名乗り、八王子に陣を構え、佐渡・石見・院内・伊豆銀山を経営、その生産量を飛躍的に増大させます。彼は従来の「灰吹き法」ではなく、ポルトガル領ボリビアの銀山で開発された「アマルガム法」を採用したことが飛躍的な増大に繋がったと言われています。

 因みに、国家安泰・五穀豊穣を祈願して建立されたのが東大寺大仏(752)、大仏の金めっきは、アマルガムを加熱すると水銀だけが気化するという性質を利用しました。蒸発した大量の水銀が地下に沈殿、この井戸水を飲むことにより水銀中毒が発生、当時は「得体の知れない」病気が発生、遷都せざるを得なかったという説もあります。これを応用、金鉱石を細かく砕いてこれを水銀でアマルガムにすると不純物は水銀に溶けないので、アマルガムを加熱・蒸発させると効率的に金を精錬できるようになります。南蛮人からの情報をもとに長安の配下の者(金山衆)が考えたのでしょう。
 
 甲州街道の目的は江戸城の搦め手、脱出ルートを確保することにあり、新しい宿場=新宿の北側に鉄砲百人隊が住んだ百人町、さらに進むと八王子には「千人同心」が住んだ千人町があり、甲府城のある幕府の天領につながり、さらには、天竜川を南に下ると駿府につながります。長安は卓越した能力で「道々の者」を采配して都市・道路建設を行います。江戸城の搦め手は半蔵門、この服部半蔵は「伊賀者」の長、元はといえば「道々の者」でした。

 1613年、長安死去。死後、生前に不正蓄財を理由に、長安の7人の男児は全員処刑され、姻戚関係にあった諸大名も連座処分で改易となります。さらには、埋葬されて半ば腐敗していた長安の遺体は掘り起こされて斬首、首は晒されました。長安の権勢・蓄財というよりも、彼の背後にあるもっと大きな力を恐れたのではないでしょうか。

 時代は幕末、八王子「千人同心」の末裔(?):近藤勇率いる甲陽鎮撫隊は甲州街道を西に向かったものの、彼が到着する前に、甲府城はすでに板垣退助の新政府軍に占領されており、遅れてやってきた甲陽鎮撫隊はあっけなく壊滅してしまいす。

※ 参考資料:沖浦和光「『芸能』の起源」 世阿弥「風姿花伝

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October 04, 2015

大久保長安_その

東京都といっても西の端、町田市に住んでいます。明治初期には、神奈川県に入ったり東京都に編入されたり、どっちつかずの、早い話が、どうでもよい地区だったのでしょう。南に横浜市、西に相模原市という2つの政令指定都市に、北には武蔵野国多摩郡の面影を色濃く残す八王子市に隣接しています。横浜、相模原は幕末・近代以降の町ですが、八王子は、ここを統治していた後北条氏滅亡し、家康の関東移封を契機に大いに発展しました。すぐ北に隣接、関東地方の天気予報では、東京都内と並んで、八王子市の天気が表示されることもあって、近すぎる・身近すぎるのか、古いですが…、かといって、洗練された古さでもなく、あまり興味の持てる街ではありませんでした。

 そんな八王子を、ウォーキングが趣味のIkeさんを誘って歩きました。JR八王子駅の北側を甲州街道に平行して歩きます。 そこで見つけたのがこの、イメージ通りの八王子の風景です。
八王子街中の風景_2

産千代稲荷 元へ。20分ぐらい歩くと産千代(うぶちよ)稲荷神社に至ります。
 1590年、後北条氏が滅亡、関東に入封した家康の命を受け、大久保長安(ながやす)は江戸城を守る重要拠点として八王子に陣屋を設けて、関東十八代官の代官頭として関東全体の統治を行いますが、その際に創建されたのが「産千代(うぶちよ)稲荷」です。実は大久保長安という人間を知りませんでした。八王子、甲州街道そして千人同心を作った人…、それ以上の興味を持つこともなかったのですが、彼の出自、もう一つの側面を知って興味が沸き、今回の八王子行きに繋がりました。

大久保長安_1 長安は、大蔵流猿楽師の子として大和国(奈良)に生まれ(1545)、祖父は春日大社で奉仕する金春流の猿楽師で、父の信安の時代に大和国から播磨国に流れて大蔵流を創始した。「能・猿楽」は観阿弥・世阿弥父子により南北朝時代から室町時代にかけて大成されますが、戦国時代になると将軍家や寺社の勢力が低下、座は分裂、各流派は勃興する各地の武将を頼って地方へ流れて行くことになります。観世流は駿河へ落ちたために、 今川義元の人質だった家康が観世流に親しむことになり、 江戸開幕以降も観世流が筆頭の地位が与えられることになります。同じように、大蔵流の父兄とともに甲斐国に落ち、武田信玄に父は猿楽衆、長安と兄は同見習いとして仕えました。武田家滅亡(1582)の後、長安は家康家臣となり、大久保忠隣(1553-1628)の与力に任じられるが、この際に名字を賜り、姓を大久保に改めます。驚くべき事に、長安の本当の姓は、観阿弥・世阿弥と同じく「秦(はた)」で、その先祖は秦川勝に繋がるというのです。

 信玄の配下、長安は猿楽衆見習いだけでなく、治水・治山・鉱山・設計・工事を行う蔵前衆となり、黒川・湯の奥金山の経営に参加、戦時には後方支援・兵站を担当した。武田家滅亡の後、家康家臣となり、交通・産業など広範囲に渡り徳川幕府創業期に大きく貢献する。見地を全国的に展開して財政力を高め、東海道・中仙道に里塚・宿駅を設け、甲州街道を新設、紀州新宮から佐渡までの航路を整備し、石見・佐渡・院内・伊豆金山を開発・経営、「アマルガム法」と呼ばれる南蛮精錬法を導入して生産力を飛躍的に拡大した。八王子を領地とし、敗れた今川・武田・後北条の浪人対策・治安維持・西の重要地点守備を目的に開発・整備され、それを担ったのが旧武田家家臣からなる「八王子千人同心」でした。 超人的な活躍です。

 浄土信仰が大流行した平安末期・鎌倉の再来か、戦国時代から江戸時代にかけて人々は明日の命も知れず、浄土真宗は一向宗の門徒集団として政治力を持つようになり、伝来のキリスト教が大名から庶民まで、身分に関係なく浸透、日本は史上最大の宗教の世紀を迎えます。農業中心の世界から商業・工業重視する世界への移行、それに付随して芸能の発展、「非農民」=「芸能人」=「道々の者」の興隆が見逃せません。長安の超人的な才能は猿楽師、いや、その先祖としての秦氏に関係するものでしょうか…、次回はこのあたりを探ってみることにしましょう。

※ 参考資料:川上隆志「江戸の金山奉行 大久保長安の謎 」 村上直「千人のさむらいたち 〜八王子千人同心〜」
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express01 at 19:32|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック
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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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