多摩の横山

September 06, 2018

Yokohama、近藤勇…そして町田 その1

町田109 レミィ町田 今年は「明治維新150年」、それを記念して町田市民大学講座:「町田にこだわって「明治維新」を考える」に、4月から7月までの4ヶ月間(12回)、時間の許す限り参加しました。会場は生涯学習センター、駅にも近い「レミィ町田」です。今年3月までは「109町田」と呼ばれたビルで、若者の街渋谷の「109」を持ってきたのが売りでしたが、渋谷と同じように若者を呼び込むことが出来ず、6階部分を町田市生涯学習センターに貸し、今年4月からは「レミィ町田」に改称、地下1階から地上5階まで商業店舗となっているが入れ替わりが激しく、ファッションの発信地にはほど遠く、今に至っては単なる雑居ビルです。おもしろい事に、近くには、東急・ルミネ・マルイ等が在り、「レミィ町田」近辺も若者で溢れているのですが、 一階エレベーター付近では、 6階生涯学習センターに向かう老人集団がたむろしており、ある種異様な光景です。

 その人の人格形成に最も影響を与えた土地を出身地と呼ぶそうで、それに従えば、私の出身地は兵庫県伊丹市(人口20万、その頃は「白雪」の小西酒造、三菱電機、陸自中部方面総監部の街)です(出生地は九州)。昔の呼称では摂津国、京都の南西(概ね現在の大阪府淀川以北)および大阪(市域と堺)から神戸市(兵庫県南東部)にかけての地域です。JR西日本の広告で「三都物語」というものがありましたが、阪急に乗れば、京都まで1時間、大阪(梅田)まで20分、神戸(三宮)まで30分、伊丹市と3都市の位置関係をご理解して頂いたでしょう。京・大阪に比べると神戸はやや格下に見えますが、今も基本的には変わらないと思いますが、関西の若い女性の理想は、「神戸に住み、大阪に働き、京都に遊ぶ」、神戸はあこがれの街なのです。関東で云えば横浜、どちらも幕末に開港、欧米諸国の新しい産物・思想・生活習慣が流入、外国人の居留地のあるエキゾチックな港町と云えますが、神戸は幕末・明治にパッと出たのではなく、遠く平安時代末期、平清盛が大輪田泊を築き、福原遷都(1180)を行った歴史の重みがあります。

 横浜線淵野辺に住む友人の奥さん(いわゆる「在」の人)は大の京都ファン、彼の地を観光旅行で訪れた際、「関西じゃないですね。何処から来られたのですか?」と聞かれ、とっさに「横浜から…」と応えてしまったそうです。横浜に住んでいる訳ではなく、単に横浜線沿線に住んでいるに過ぎないのに…、「Yokohama」には大きな魅力・求心力があります。幕末(1853-18横浜開港68)、横浜が開港され、これによって生糸が輸出品の花形になり、養蚕規模が拡大、桑の植え付け面積が拡大、開港以前の主要穀物であるは麦・栗・稗の収穫量が激減します。現在のJR町田駅近辺、原町田村が活況を呈し始めたのもこの時期で、明治になって、八王子から横浜に向けて鉄道が敷設されたのも、沿線で採取された生糸の横浜への輸送がその目的であり、これが現在のJR横浜線の始まりでした。

 平安後期、関東では、新田・牧場の開墾・開発が隆盛、アメリカ開拓期の牧場主のような彼等は「一所懸命」という単純明快な論理は「名こそ惜しけれ」という、卑怯な振舞いを蔑む精神を表裏一体して鎌倉武士の真髄であり、その後の日本人の原理・原則、「理念」にもなって行きます。清和天皇の皇子に「源」の姓を与えて臣籍降下させたのが源氏の始まり、桓武天皇の孫の一部が「平」の姓を与えられて臣籍降下させた平氏が早い時期に関東へ進出、後に武蔵国では後に秩父七平氏が周辺の豪族を従え、その一人が小山田荘を支配する小山田有重となります。平氏は次第に西に逃れ、平正盛の伊勢平氏は河内源氏を抑え、忠盛・清盛の平家の全盛時代となります。遅れて関東に進出した源氏(河内源氏)は「前九年・後三年の役(1051-1062)」に勝利、 源義家(八幡太郎義家)は関東の豪族を掌握します。 「平治の乱(1160)」に破れた義朝の次男、頼朝は捕虜となり、伊豆韮山に流罪、関東の武士団は頼朝を担ぎ上げて、都より遠く、相模国鎌倉に幕府を開きました(1192)。

小山田荘鳥瞰図_2 小山田有重が開いた小山田荘、彼は馬牧の別当だったのですが、この地は万葉の時代から「多摩の横山」 と呼ばれ、 名高い丘陵地帯でした。早くから、牛の舌状の「谷戸」がいくつも入り組み、清水が湧水する土地が水田として最も貴重な存在でした(田方、たかた)。小山田荘の南側(現在の町田街道)及び境川を隔てて相模国淵野辺村は水田が少なく、上述の通り、幕末以前は長きに渡り麦・栗・稗を主要穀物としていた(岡方、おかがた)。おしなべて、平安以来、米を産する豊かな小山田地域(田方、たかた)と米を産しない相対的に貧しい境川両岸地域(岡方、おかがた)という図式が長く続き、幕末、横浜開港で生糸が最大輸出品となり、横浜→原町田→八王子(今の町田街道沿いか?)は一挙に桑畑と化しました。原町田村は現在のJR横浜線・小田急線両町田駅近辺にて、幕末横浜開港以降、生糸を横浜へ搬送する中継地として急激に発展しました。それまでは、相模国矢倉から上野国へ至る往還があり、境川を木曽辺りで武蔵国に入り、小野路村で馬次し、横山そして多摩川を越えて、武蔵国府である府中に向かったもので、江戸期においては高札所が在り、明治初頭には郵便局が設置されるなど、小野路村が小山田荘を含むこの辺一帯の中心地でした。それまで見向きもされなかった岡方(おかがた)地帯が、横浜開港を機に、一大生糸生産地に変貌、原町田村はその集積・中継地として急激に繁栄ました。



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August 12, 2017

散歩の途中<<23>> お盆の頃

 天気予報でよく見かける関東地方の地図、町田市の位置は判りやすい。単に自分の住む街だからという理由だけでなく、盲腸のように神奈川県側に垂れ下がっており、川崎市・横浜市・相模原市に囲まれ、かろうじて北側を「多摩の横山」で多摩丘陵、東京都八王子市・多摩市と接続する、丘陵と谷戸が複雑に入り組んだ土地です。地形的に相模国・武蔵国の境は「境川」なのですが、実は、市の北側に横たわる「多摩の横山」なのかも知れません。現に、町田は武蔵国にありながら「武蔵野」には含まれていません。

 新宿を出た小田急線は西進、多摩川を渡ると神奈川県(川崎市)、柿生駅を過ぎると東京都(町田市)に入り、町田駅を過ぎると、また神奈川県(相模原市)に入ります。町田駅で八王子と横浜を結ぶJR横浜線と交差しているのですが、市の中央部の地形が複雑で高低差が大きいためか…?、小田急線は市の南部を東西に走り、JR横浜線は西隣の相模原市をほとんど市境に沿って、北西から南東に走っており、交差する町田駅も極端に市の南端に偏って位置しています。おまけに、昔はもっとひどかったらしいのですが…、両町田駅間の乗り継ぎの連絡が悪く、今でも5分はかかってしまいます。明治の一時期、町田が神奈川県に属していた名残なのか、市内を走るのは神奈川中央交通バス、 ついでに…、電話番号も市外局番が神奈川県相模原市と同じ「042」です。その神奈川中央交通バスに乗って約30分、ようやく私の住む小山田桜台に到着です。

精霊馬 お盆の時期、提灯は死祖者を迎える目印の意味は判りますが、関西で育った故か、胡瓜と茄子で作る「精霊馬(しょうりょうま)」(死者を早く迎える馬・ゆっくり送る牛)の風習は知りませんでした。これに関連して、主に関東・東北地方では「端山信仰」といわれるものがあり、端山(葉山・羽山)とは村の周囲にある小高い山(里山)、そこに棲む祖霊は農業神であり、春には里に下りて農耕を手伝い、秋の収穫の後、祭に送られて山に帰って春を待ちます。正月や盆には家に帰り、子孫と共食して歓をつくすとされます。※ 岩崎敏夫『東北民間信仰の研究』 宗教以前に土俗的な、日本人の魂の根底に在る祖先崇拝の観念であり、これを仏教は上手く取り込んだのでしょう。
朝の下小山田桜台
 鉄道駅からは遠く、バスで30分もかかりながら、地理的には、あくまでも地理的には…、町田市の中心に位置する小山田地区は武蔵国(東京都)に於いても異端の地。都心に近い、里山だらけの「端山信仰」の舞台です。昨今の「里山ブーム」・「自然保護運動」の高まりで、多くのそれらしい格好をしたハイカーが都心からやって来るのを見かけます。要は、幸いなことに…と云った方が良いのか、ここは開発の遅れた、取り残された地域で、何も計画・意図して里山を保存した訳ではありません。遅ればせながら、これ幸いに…、「多摩の横山」には丘陵に沿って「横山の道」があり、町田市によって「尾根道」が、東京都によって広大な「小山田緑地」が整備されています。

 この地にやって来たのは20年前か、JR淵野辺駅のバス停のみすぼらしかったこと、市を縦貫する幹線道路:町田街道は片側一車線で右折レーンが設置されたのはつい昨日、当時関西では既に見られなくなったバキュームカーがやたら目についた記憶があります。今や「住めば都」なのですが、最近開発された多摩境では広い道幅にもかかわらず、相変わらず右折レーンはなく、市の道路行政のお粗末さは相変わらずです。

 去年、初めて見た小山田神社の祭は雨の中、幻想的でした。今年の祭はもうすぐ、先祖にも喜んでもらって、あの世へ帰る土産話にしてもらいましょう。

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April 23, 2017

散歩の途中<<21>> 武州小山田荘

先日のNHKの番組:『日本人のおなまえっ!』で「山田」さんが日本人の代表的な苗字として取り上げられて小山田荘鳥瞰図_2いました。覚えやすい名前として、デビュー当時、そこに目を付けたであろう往年の新人(?)歌手、山田太郎まで現れました。この地にやって来た当初は、「小さな」+「山の」+「田んぼ」とは、何と薄っぺらい、あんちょこな地名なのか、と思ったこともありましたが、後に、平安時代の荘園、「小山田荘」に由来し、平安時代末期には、平氏である秩父有重が支配地の小山田にちなんで小山田有重(12世紀末)を名乗ったことを知ります。

 町田市(人口:43万 東京23区、八王子に次いで大きな街)は明治の一時期までは神奈川県に属し、電話市外局番が同じで、神奈川中央交通バスが走っていたりと、その面影が残っているだけではありません。多摩丘陵の一角にありながら、町田市の北部に位置し、大きな面積を占める小山田地区は、隣接する八王子市・多摩市との間を、大きな壁・段差で断絶されており、むしろ西の神奈川県との交通・交流が盛んであったようです。 〜 赤駒を山野にはがし捕りかにて 多摩の横山徒歩ゆか遣らむ 〜 『万葉集(7〜8世紀)』に歌われる「多摩の横山」がそれです。

かかし170 多摩丘陵は「横山」で急激に落ち込み小山田地域(野津田、小野路、図師)に至ります。鶴見川はここを源泉とし、東京湾に至る流域は豊かな水田耕作がされていたことであろうことは、食器用,煮炊き用,貯蔵用など,様々な弥生土器が出土したことで容易に想像出来ます。多摩丘陵・鶴見川流域の野津田、小野路、図師は「田方」と呼ばれるのに対し、市の南側(相模原市に隣接)は相模台地に在り「岡方」と呼ばれ、水田はない。近世までの米流通社会においては、「田方」に有力な農家が現れたのは偶然ではないでしょう。

小山田の風景 稲の水田耕作は弥生時代の前期には本州全土に伝播したと考えられています 。今の私達には田んぼ・水田と言えば一面の水田をイメージしますが、平野部を水田にするのは、一つ一つの田んぼをわずかな高低差で繋ぎ、全ての田んぼを豊かな水で満たしておくには、高度な測量・灌漑技術の蓄積が必要でした。

 ここで話はそれますが、非情に面白い本を読みました。樋口清之著『梅干と日本刀』で、〜日本人は最高!、驚くべき日本人!〜など、自虐史観の裏返しかと思ったりしたのですが…、違いました。中国人は「耕して天に至る」と言うが、これは畑だからで、水田の日本は逆、「耕して平地に至る」。日本の段々畑は、山から水を引いて、まず高いところに田を作り、上から下へ田が広がって行きます。これが、山田・本田・元田と、日本では多い苗字となり、下の下田・平田は後に分家したものと言う。インドネシア以外に世界に類がない合理的な耕作方法、焼き畑開墾して炭・灰のアルカリで土壌の酸性を中和。そこへカブ・ヒエ・豆をまいて収穫する(=「畑」)。耕しているうちに水平になり、木の根も腐り、妨害物のない耕作地となる(白い田=「畠」)。完全に水平になって水が引ける(=「田」)。私だけが知らなかったのか、余談ですが、「田」は漢字ですが、「峠」・「榊」・「働」と同じく、「畑」・「畠」は国字=和製漢字だそうで、「畑」→「畠」→「田」という文字は水田開拓の順序を証明していると言う。
 
 小山田は多摩丘陵という小高い丘陵地帯に多くの谷戸があり、鶴見川の豊かな流れを利用して、谷戸田から谷戸田へ水を繋ぎ、今日の豊かな水田地帯を作り上げました。この地では、苗字ではなく荘園の名、地名として存在し、後にこの地を支配した人間=秩父有重が地名を冠して小山田有重を名乗ることになります。自分の住む小山田桜台、「武州小山田荘」に変えたらいかがでしょう。すこし誇らしく思ってきました。
※ 参考資料:樋口清之著『梅干と日本刀
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January 26, 2017

散歩の途中<19> 代官坂

 過去何回か(?)ご紹介している小山田桜台団地ですが、小田急町田駅に出るのにバスで30分、本来は15分弱のJR横浜線淵野辺駅に出るべきなのでしょうが、如何せん朝夕の通勤・通学時間を除けば1時間に1本しかありません。しかし、2027年、東京・名古屋間開業予定の中央リニア新幹線が着工(?)、品川を発車した最初の駅は隣町:相模原市橋本らしく、それにともなって、現在、唐木田まで来ている小田急多摩線を延伸、横浜線相模原駅に接続、その間に2〜3駅が新設されるそうです。小田急延伸・モノレールの構想は、この団地開設の30年も前から言われている話、10年後、近くに新駅が出来たとしても、その頃には外出する意欲もなくなっていることでしょう。

 「陸の孤島」状態はしばらく続きそうですが、そのお陰で、東京都に在りながら単なる昭和の里山風景どころか、遡って、平安後期から鎌倉にかけての武士勃興・政権確立の舞台、できる限り直線に配した「鎌倉街道」、さらに遠くの古代、阿倍比羅夫・坂上田村麻呂が東北に向かい(?)、防人が横山をはるか九州を目指して下って行った痕跡が「奥州古道」として残っているのは奇跡ではないでしょうか。
鳥瞰図
 団地の掲示板の言葉、「水彩画を楽しんでいます。ご一緒にいかがですか。」に誘われて水彩画同好会に入会しました。つい最近まで高校で美術の先生だった方、かつてそれなりの先生について絵を学んだ方など、本格的に水彩画をやっておられるようで、持っておられる道具類(絵の具・筆)も違います。彼等の水彩画に比べれば、私の絵は極端に言えば線画、色付けも単純、持ち物も友人にもらった絵の具は別に、筆は絵手紙用の水筆一本だけ。そもそも彼等のサイズがA4であるのに比べ、私のそれはA5あるいはF0と彼等の半分です。私の絵を見た一人が、「こんな風景がお好きでは?」と写真を見せてくれます。

 数年前、町田市と多摩市を隔てる大きな段差(多摩丘陵、『万葉集』で言う「多摩の横山」)を越えて小田急多摩線終点駅:唐木田駅に至る道路が完成、路線バスはないものの、車で行けばわずか10分、唐木田駅発の急行に乗り、代々木上原で本線急行に乗り換えて新宿に出る新ルートが発見され、時間的にも金銭的にも、都内が近くなりました。唐木田に至る道路の途中で目に入るのがその写真の風景です。私だけでなく、その彼も、おそらくこの道を走る多くの人にとっては大いに気になる景色なのでしょう。早速描いた絵がこれです。
170117小山田代官坂辺り
 ただものではない立派な門構えの農家、その敷地の裏から「多摩の横山」へ通じる「代官坂」が始まります。下小山田と上小山田のほぼ境、標高が上がるにつれて突然小さな谷戸に畑の畝が現れるたかだか1キロほどの坂にすぎません。鶴見川、結道川、馬駈堀など水の便良い麓では田んぼが広がる「田方」と呼ばれる代官坂地蔵のに対し、この辺は「岡方」と呼ばれるそうです。耕耘機など、小型の農業トラクターなどが辛うじて通行出来る道幅で、終末のハイキング客か地元農家の人しか通る人もおらず、「奥州古道」の痕跡を深く残す道と言えるでしょう。

 さて、その名前、「代官坂」とは、どこからやって来たのでしょうか?甲斐、武田氏が滅び、かつてその家臣だった大久保長安が徳川家康に仕官、一族郎党を連れて八王子に移住、「千人同心」を組織、江戸〜八王子〜甲府を結ぶ将軍の脱出路として甲州街道を整備、佐渡・院内・石見を統括する金山奉行として権勢を振るいました。当地境川流域(淵野辺・橋本)あるいはこの下小山田・上小山田にも少なからず、甲斐以来の彼の郎党の子孫が住んでおり、長安の冬至の官職名:八王子代官頭に因んで「代官坂」と呼ばれるようになったのではないかと云う説があります。近くには「大久保台」の地名、八王子には「野猿峠」と言う地名があり、長安の出自が金春流猿楽師であったことも合わせて考えると想像力も膨らみます。「陸の孤島」も悪くはありません。 
  Momo holding sign board-HKX Radio※今までの曲は左サイド、Music Player  でお聴きになれます。   
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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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