原町田
September 06, 2018
Yokohama、近藤勇…そして町田 その1

その人の人格形成に最も影響を与えた土地を出身地と呼ぶそうで、それに従えば、私の出身地は兵庫県伊丹市(人口20万、その頃は「白雪」の小西酒造、三菱電機、陸自中部方面総監部の街)です(出生地は九州)。昔の呼称では摂津国、京都の南西(概ね現在の大阪府淀川以北)および大阪(市域と堺)から神戸市(兵庫県南東部)にかけての地域です。JR西日本の広告で「三都物語」というものがありましたが、阪急に乗れば、京都まで1時間、大阪(梅田)まで20分、神戸(三宮)まで30分、伊丹市と3都市の位置関係をご理解して頂いたでしょう。京・大阪に比べると神戸はやや格下に見えますが、今も基本的には変わらないと思いますが、関西の若い女性の理想は、「神戸に住み、大阪に働き、京都に遊ぶ」、神戸はあこがれの街なのです。関東で云えば横浜、どちらも幕末に開港、欧米諸国の新しい産物・思想・生活習慣が流入、外国人の居留地のあるエキゾチックな港町と云えますが、神戸は幕末・明治にパッと出たのではなく、遠く平安時代末期、平清盛が大輪田泊を築き、福原遷都(1180)を行った歴史の重みがあります。
横浜線淵野辺に住む友人の奥さん(いわゆる「在」の人)は大の京都ファン、彼の地を観光旅行で訪れた際、「関西じゃないですね。何処から来られたのですか?」と聞かれ、とっさに「横浜から…」と応えてしまったそうです。横浜に住んでいる訳ではなく、単に横浜線沿線に住んでいるに過ぎないのに…、「Yokohama」には大きな魅力・求心力があります。幕末(1853-18

平安後期、関東では、新田・牧場の開墾・開発が隆盛、アメリカ開拓期の牧場主のような彼等は「一所懸命」という単純明快な論理は「名こそ惜しけれ」という、卑怯な振舞いを蔑む精神を表裏一体して鎌倉武士の真髄であり、その後の日本人の原理・原則、「理念」にもなって行きます。清和天皇の皇子に「源」の姓を与えて臣籍降下させたのが源氏の始まり、桓武天皇の孫の一部が「平」の姓を与えられて臣籍降下させた平氏が早い時期に関東へ進出、後に武蔵国では後に秩父七平氏が周辺の豪族を従え、その一人が小山田荘を支配する小山田有重となります。平氏は次第に西に逃れ、平正盛の伊勢平氏は河内源氏を抑え、忠盛・清盛の平家の全盛時代となります。遅れて関東に進出した源氏(河内源氏)は「前九年・後三年の役(1051-1062)」に勝利、 源義家(八幡太郎義家)は関東の豪族を掌握します。 「平治の乱(1160)」に破れた義朝の次男、頼朝は捕虜となり、伊豆韮山に流罪、関東の武士団は頼朝を担ぎ上げて、都より遠く、相模国鎌倉に幕府を開きました(1192)。
