千利休

February 05, 2017

『沈黙』、全てを腐らせてしまう底なし沼…か

 明治以降、日本文化に果たしたキリスト教文化の影響は大きく、特に大学を頂点とする高等教育に多大の影響を与えました。戦後、映画・文学その他アメリカ文化の氾濫が見られましたが、例えば、クリスマス、バレンタイン・デイ、加えて、最近ではハロウィンやサンクス・ギビング(アメリカだけの習慣)などの習慣が商業主義的に定着されつつあるとは言え、その文化の根幹であるキリスト教の布教はむしろ失敗に終わったと言えるのではないでしょうか。 

 私は辛うじて戦後生まれの戦後育ち、学校で学んだ英語もアメリカ英語(?)、テレビ番組の多くは西部劇やコメディ・ドラマ、中学生に始まる洋楽偏向趣味はほとんどがアメリカから輸入されたキリスト教的価値・道徳に裏打ちされたものでした。同じ頃によく訪れた神戸三宮、トアロード、元町にかけて、ガード下に並ぶ店舗はリバイスのジーンズを始めアメリカくさい商品で埋まり、車窓に見える東灘区から芦屋・夙川に立つキリスト教会の尖塔の風景はエキゾチックなものでした。確かにアメリカ文化に傾いたが、それ以上のものでもなく、その背景にあるキリスト教に興味はあっても、その信仰そのものに向かうことはありませんでした。

沈黙_3 先日観た映画、『沈黙』。イエズス会フェレイラ神父が長崎で拷問を受けて転向・棄教したという衝撃的な報告を受けて、かつて彼の指導を受けた弟子達が、禁教下の日本に潜入して恩師を探し出します。

〜 この国は全てを腐らせてしまう底なし沼だ。この国にはどうしてもキリスト教を受け付けぬ何かがある。〜 

フェレイラ神父の発した言葉です。

 1549年、そのザビエルが日本に来訪してキリスト教が正式に日本に伝わります。それから約40年で(秀吉によるバテレン追放(1587))キリスト教徒数は20万人を越えています。以来禁教となり、1889年明治憲法下、制限付きながら信教の自由が明文化され、西欧からの技術・科学・文化とともに、これを支えるキリスト教も流入、1945年の敗戦と共に信教の自由が保障されたにもかかわらず、信者数の増加は見られません。465年前の当時の人口(12百万)の1.6%がキリスト教信者であったことに比べ、今日(2014)のカソリック、プロテスタント及び正教信者数が1百万と、人口のわずか0.8%に過ぎません。
 
 鎌倉時代、庶民には難解な密教の呪術性を徹底的に排除、国家権力(鎮護国家・貴族)の為のという旧来の仏教(6世紀仏教伝来以来の「南都六宗」に天台宗、真言宗を加えた旧仏教諸派)から決別して、個人の救済に専念したのです。従来、天台浄土教を信仰していた貴族・武士だけでなく、一般民衆にも急速に広がりました。文字を読めない、況んや難解な仏典を理解できない多くの庶民に対して、「ナムアミダブツ」と念仏さえ唱えれば…、あるいは「座禅」を組むだけで…、「念仏踊り」に身を委ねるだけで…、往生できると説いた鎌倉新仏教が誕生しました。これは正に日本の宗教改革でした。

 その一つ、法然に始まる浄土宗は、親鸞(1173-1263)に引き継がれてその革命性をさらに先鋭化して浄土真宗となり、室町時代、蓮如(1414-1499)の時、ひたむき(純粋)に念仏を唱えて阿弥陀仏を信仰するとして、「一向宗」と呼ばれ、北陸・近畿・東海地方に興隆します。生活共同体(惣)であると同時に宗教共同体(講)、室町から戦国時代にかけて、各地で新しい村落自治共同体が出現するまでに発展します。「一向宗」の時代は、1580年、信長による石山本願寺敗北まで続くことになります。

 この時期にキリスト教が伝来したのです。イエズス会の意義は、宣教のみならず、ルネサンス後期の「人文主義(humanism)」に基づき、コレジオやセミナリオ等、高等・初等教育に積極的に取り組んだことです。当初、仏教僧、特に禅宗の僧侶がこれを学び、戦国武将の中に南蛮貿易の実需のために改宗する者、次第に真の信仰を行う改宗者が現れ、社会の指導者層のみならず一般大衆にまで広がります。 利休の高弟にも蒲生氏郷(レオン)、細川 忠興(その正室ガラシヤ)、高山右近(ジェスト)、大友宗麟(フランシスコ)、黒田如水(シメオン)等のキリシタン大名が少なくありません。鎌倉時代に遡る武士道の精神、禅を母胎とする茶の湯の精神、キリスト教の精神、これら三つに通じるのは「静寂の精神」「清貧の精神」です。

 〜 この国は全てを腐らせてしまう底なし沼だ 〜 

 はたして、そうでしょうか…。この国、この時代に、利休はキリスト教から学び、芸術、道徳、哲学、宗教など、日本文化の総体、「茶の湯」を完成させたのではないでしょうか。

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May 19, 2014

荒木村重、正に数奇者でした

摂津国伊丹(現在の兵庫県伊丹市)、古くは「五畿七道」の「五畿」、「畿内」とも呼ばれた5か国(山城国・大和国・河内国・和泉国・摂津国の)の西端に位置し、現在の神戸市須磨区で山陽道の播磨国と接します。「名こそ惜しけれ」、「一所懸命」、恥ずかしいことはしない、卑怯なふるまいを軽蔑するのは坂東武士の真髄、京の貴種:源頼朝を据えて鎌倉幕府を建て、坂東半独立国家を作った彼等のエトスは、その後の全ての日本人の規範、原理・原則となった。しかし、その後の歴史を見るとこれらの原理・原則がまばゆい光を放って表舞台に現れるのは関東・東国ではなく、「畿内」、摂津国に極めて隣接した、ほとんど都に近い、播磨国であることが面白い、とはどこかで読んだ司馬遼太郎の言。

黒田官兵衛を始め、その家来:母里友信(もうり とものぶ)は『黒田節』に歌われただけですが、嫡男:黒田長政と不仲だった後藤又兵衛は関ヶ原戦いの後、1606年黒田家を離れて、犬猿の中だった細川忠興始め、多くの大名からの仕官の話があったが、1614年、豊臣秀頼の家臣:大野治長の招請に応じ大阪城に入る。大阪夏の陣(1615)、「道明寺の戦い」で十倍する徳川方と奮戦、討ち死にします。時代は下って元禄、1703年、「赤穂浪士の討ち入り」は日本人の心に深く刻まれているが、前者の舞台は姫路、後者の舞台は赤穂、何れも播磨国、「畿内 摂津国」のすぐ隣、「上方」、現在ならば「近畿」、「関西」という言葉で一括りにされるところが面白いところです。

伊丹市は荒木村重の居城:有岡城の在る有岡城跡町、私が小学3年から高校卒業までを過ごした…、生まれは九州ですが…、ほとんど私の出身地と云ってよいほどの土地です。その後何十年も行ったことがありませんが、当時、新伊丹から阪急電車、塚口で神戸線に乗り換えて大阪梅田まで30分ぐらいだったでしょうか…、その阪急電車に比べて、当時は国鉄(今で言うJR宝塚線?)福知山線の伊丹駅は田舎の駅、駅を出た所に在ったのが伊丹の街並み有岡城址でした。今は全く違うでしょうが、当時はただ小高い丘あるいは山があり、何処に石垣が在ったのかも覚えていません。城跡よりも、ここは清酒:『白雪』の小西酒造の街、大きな酒蔵はじめ古い街並みががきれいでした。

どうも…、荒木村重を好きにはなれませんでしたが、世間も私と同じように見ているようです。最初は池田勝正に仕え、三好家に寝返り、次は織田家、伊丹有岡城で信長に反旗を翻して籠城、説得にやって来た黒田官兵衛を幽閉します(1578-79)。側近の中川清秀や高山右近が織田方に寝返り、有岡城を抜け出し尼崎城、花隈城(現在の神戸元町)をさらに西へ、毛利方に遁走します。残された家臣・人質122人は尼崎七松にて処刑、村重とその家臣の家族36人は京六条河原で斬首、本人は早々と毛利方に亡命したのは、多くの若人を特攻隊で送りながら本人は敵前逃亡した在フィリッピンの司令官:富永恭次、近くは沈没した韓国フェリーの船長と似ています。そうこうしている内に「本能寺の変(1582)」、備中高松城の戦を即座に和議、山崎の戦いにて明智光秀を討ち取った秀吉が、清洲会議の主導権を握ります。1586年、秀吉は豊臣の姓を賜り、豊臣政権が確立します。

村重は堺に戻って、武人ではなく茶人として、千利休とも親交を持ち、秀吉の御伽衆にも加えられるようになったが、秀吉への悪口が本人に聞こえてしまい、秀吉の怒りを買うことになります。村重は、今度は出家して、これまでの幾多の過ちを恥じて、その名前を「道糞 みちのくそ」と名乗ったが、秀吉が許して「荒木道薫」に改まったそうです。彼は「利休の七哲」の一人に数えられることになりますが、正に「数奇」な人生であり、数奇者そのものでした。1586年、畳の上で死去、享年52歳。

…で、有岡城から救出された官兵衛と生き延びた村重の関係はどうだったのか、気になるところですが、最近、1583年に官兵衛から村重に出された手紙の写しが発見されたそうです。両者は気さくな関係だったようで、1年にも及び幽閉された者が幽閉した者に書いたものではないように思えるのですが…。いや、本当は官兵衛は有岡城で殺されるはずだったところを、村重が助けた…、あるいはそれ以上のことをしたのではないでしょうか。村重のことを勉強したくなって来ました。

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July 11, 2013

精神の病

1570年、越前朝倉を撃とうとした織田信長軍は、浅井長政の裏切りで挟撃される事態となり、当時の木下藤吉郎(34歳)は退却戦の殿軍を務めます。以降20年間、天運に憑かれたように階段を上り詰め、1589年(53才)には、側室の茶々(淀殿)が、嫡男:捨丸を出産、続く1590年(54才)、北条を滅ぼし、奥州の伊達政宗を配下に置くことによって全国統一を果たしたのです。ここに、「日輪の子」として生まれた豊臣秀吉は幸福の絶頂を迎えます。しかし、絶頂の後は落ちるしかありません。

翌1591年(55才)、老いて生まれた嫡男:鶴丸(捨丸)が幼く病死、さらに弟で雑兵から一緒に成り上がった参謀の豊臣秀長が病死…と立て続けに不幸が彼を襲ったのが、精神の変調のきっかけでした。信長以来、秀吉にも一時は重い信任を受けた千利休を切腹させたのが、明らかな変調の始まりでした。何時の頃からか、構想は信長に始まるとの説もありますが…、次の目標は「明の征服」、そのために甥で養子の豊臣秀次に関白職を譲り、自身は太閤となります。
秀吉
1592年〜97年(56〜61才)、朝鮮へ侵攻(文禄の役・慶長の役)するも失敗。
1593年(57才)、ふたり目の子、拾(おひろい=豊臣秀頼)誕生。
1595年(59才)、甥の元関白、豊臣秀次を切腹させる。
1598年(62才)、醍醐寺で花見を開催。病に伏し、五大老に宣紙を何度も繰り返して書かせ…、伏見城にて死没。

彼のそれまでの半生は、百姓に生まれ、信長の草履を胸元に入れて暖めて歓心を買うことに始まり、信長軍の兵卒として軍功を重ねながら第一の武将に成り上がって行きます。まさに明るい・陽気な・人なつっこい・庶民の子:「日輪の子」の出世話で、多くの日本人は彼に対して好意的なイメージを持っているのですが、老いてからの彼はまさに「精神の病」でした。「妄想性人格障害(Paranoid personality disorder)」らしく、元々の性格はそんな兆候のない者でも、成り上がった独裁者は常に他人によって失脚させられる危険性を抱いており、部下の裏切りや暗殺者の恐怖などによって猜疑心が強くなり、必然的にこの病に陥るそうです。

文禄の役明征服のための朝鮮への侵攻、そこには「大義」も何もなく…、朝鮮半島では今日に至っても残虐な侵略行為と非難され、伊藤博文と並んで極悪人とされる豊臣秀吉。誰も止める人間はいなかったのでしょうか?朝鮮出兵の計画案は五大老にはかられたが、徳川家康の一言:「まことに結構なる仰せでございます」で出兵に一決。後に、「家康と利家が一兵も兵を出さないのはおかしい」、と言う石田三成さえも出兵の不正義の一言も秀吉に諫めることはできませんでした。まさに暴走。家康はこの戦争の結果を冷徹に予想して、豊臣家を弱体化させ、豊臣恩顧の武将の力を削いで置きたかったのでしょう。

1588年、その無敵艦隊がイギリス海軍に敗れたスペインは既に斜陽。劣勢に立たされたスペインはローマ教皇と結び、一方で反宗教改革運動としてのイエズス会を興隆、フランシスコ・ザビエルはじめ優秀な宣教師を積極的に海外に派遣しました。日本でのイエズス会事業はその後、ルイス・フロイスやグネッキ・ソルディ・オルガンティノといった優秀な宣教師たちの活躍で大きく発展した。 加藤清正は熱心な日蓮宗徒でしたが、彼のライバル:小西行長はれっきとしたキリスト教徒、一旦開戦となるや、仏教徒にせよキリスト教徒にせよ、信ずる宗教とは全く無関係に、彼等はこの「大義」も「仁愛」もない戦争に積極的に参加しました。

地理的に見て、日本は、朝鮮に比べて、中国文化を取り入れるのは不利であったが、南洋経由の西洋文化の取り入れには有利であった、と言えるでしょう。中国朝鮮は冊封体制で結ばれた主従関係、整然とした中央集権的官僚制度国家であり「極めて内向き」、李氏朝鮮には厳しい身分制度があり、「両班(ヤンバン 貴族)」が「常民(庶民)」、「奴婢(奴隷)」を厳しく抑圧することによってその平和が維持されていた。彼等から見れば、一方の日本は、ヨーロッパと同じく、封建制度国家であり「極めて外向き」で、戦国の騒乱の世にもあれだけ商業が発展して、海外貿易にも積極的なのは到底理解できないものでした。

対馬藩、宗義智(そうよしとし)と小西行長は、朝鮮貿易・外交を独占して戦争反対の立場…、共謀して李氏朝鮮・秀吉双方に虚偽・詭弁を使い戦争回避工作を行い、一旦開戦となるや、日本軍の先鋒となって朝鮮に攻め込み、一方では休戦工作を行い、その虚偽・詭弁が双方に露見するや、再び戦争状態になり、休戦するのは秀吉の死を待たなければなりません。本当の終戦は、関ヶ原が終わり、天下人となった徳川家康の時代、1607年、通信使が幕府に派遣され江戸にて将軍職を継いでいた秀忠に国書を奉呈し、帰路に駿府で家康に謁見した。日本に連れ去られた儒家、陶工などの捕虜の奪還をを目的としたものでした。この求めに対し、徳川幕府が国書を送った形跡はなく、またまた…、対馬藩が国書を偽造して国交を修復しようとしたものでした。

「戦争の大義」、「精神の病」の話は横に置いて…、文禄の役で15万、慶長の役で14万の出兵をした秀吉です。あの天下分け目の「関が原の戦い」の参加数、東軍:10万、対する西軍:8万を比べると、如何に大規模な派兵を実施して明国を目指したのかが理解できます。李氏朝鮮が、その北辺に住む蛮族を「北狄、オランケ」と軽蔑していた女真:満州族が、ヌルハチの時代、明から独立して、清の前身である後金国を建国したのが1616年、慶長の役が終わってわずか20年後のことである。今まで軽蔑していた「北狄、オランケ」の支配を受けるのですから、これほどの屈辱はなかったことでしょう。中国の明朝はこうして倒れ、北夷である女真:満州族により清朝が起こります。

秀吉にそこまでの大局観はないと思いますが、もし彼が北狄の女真と同盟を結んでいたら…、とは、私も老人性誇大妄想(?)の始まりでしょうか。

※参考資料:「物語韓国史 (中公新書)」「文禄・慶長の役―空虚なる御陣 (講談社学術文庫) 」

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映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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