北条早雲

September 13, 2018

Yokohama、近藤勇…そして町田 その2

『Yokohama、近藤勇…そして町田 その1』から続く…
 
 町田、さらに大きく多摩という地域の歴史を見ると、面白い事に気がつきます。最初の武士政権、鎌倉幕府(1192)を建てた関東武士の棟梁は都からやって来た貴種、源頼朝。源氏三代を殺して、鎌倉幕府を引き継いだ伊豆国(静岡県)出身の執権北条。その鎌倉幕府を倒して(1333)、後醍醐天皇親政失敗( 1336)に続く南北朝時代(〜1392)、そして上州(群馬県)出身の足利尊氏が室町幕府(1336〜1575)を建てるもその実力は京周辺の山城一国にしか及ばなかった。各地の守護はその権限を拡大し、守護大名に成長、関東でも混乱が続きました。戦国時代の先鞭をつけたのが備中(岡山県)出身の早雲(伊勢新九郎盛時)が伊豆韮山(静岡県)に拠点を置いて、伊豆・相模国を、執権北条の名を継いで小田原(神奈川県)を本拠地に関東一円を支配しました。後北条は秀吉に敗れ(1590)、いよいよ三河(愛知県)出身の家康が入って来ます。家康は、善政を敷いた後北条の民政(四公六民)を踏襲、100万石余といわれる幕府直轄領(天領)には有能な代官を置いて統治し、関東はこれ以降現在に至るまで大きく発展を遂げます。家康の江戸脱出路とされる甲州街道、その途中に在る八王子の街、そこに武田・後北条の遺臣を集めて「千人同心」を作ったのが大和(奈良県)出身の猿楽師、大久保長安(武田信玄、後に家康に仕える 金山奉行)江川邸玄関外であり、町田を含む多摩地域には千人同心の子孫が多く住んでいます。 もう一つ、保元の乱を嫌って伊豆韮山に流れてきた江川家は、頼朝・執権北条・足利・後北条そして家康に「江川太郎左衛門」の名で世襲代官として仕え、町田を含む多摩地方の幕府直轄領は伊豆の代官「江川太郎左衛門」の支配下に在りました。

 日本人の精神と倫理観に徹底的な影響を与える関東武士の誕生、彼等はその主役でありながら、自らのうちに棟梁を見いだすことをせず、当初は平氏を、次いでは源氏、都の貴種(他国者、よそ者)を担ぎ上げて史上最初の武家政権、鎌倉幕府を開きます。 以来、関東に於いて、時代の節目にいろんな事象が発生しますが、近世末、おそらく今日に至るまで、全くこの傾向は変わりません。

 幕末、養蚕だけでなく、 木綿・油菜・荏胡麻・藍などの商品作物への転換が進み、近藤勇農民は「穀物買い入れ層」となり、奢侈・贅沢へ傾斜して行きます。その結果、穀物価格の急騰、飢饉・打ち壊しの発生、治安の悪化、社会の混乱を招くことになります。後に新選組を率いる近藤勇(1834-1868)、土方歳三(1835 - 1869)は武蔵国多摩郡調布・日野に中農以上の豊かな家庭環境に生まれますが、彼等こそ多摩地域が生んだ独自のリーダー、棟梁でした。小島鹿之助(1830 - 1900)は当時の小野路村の名主で近藤勇(新選組)のスポンサーでしたが、ひ孫に当たる小島政孝氏(小島資料館館長)は講演で「近藤勇・土方歳三は多摩の英雄」と明言しています。身びいきすぎる…とは思いますが、確かに関東武士が生まれて以来始めて、近藤勇は歴史の節目で「棟梁」となった唯一の多摩人であり、その意味では「多摩の英雄」です。

 市民大学講座の講師もここの学芸員の方が多いのですが、町田市立自由民権資料館というものがあります。私の了解する「自由民権運動」とは、戊辰戦争で勝利した新政府軍、例えば武士は板垣退助を頂点に一国の家老待遇の名誉と地位を得ながら、数年後の廃藩置県でその地位は反故にされ、「不平士族の反乱」に繋がり、西南戦争が終息すると、明治政府への不満の矛先が憲法制定・議会開設を要求する「自由民権運動」へと変遷していきます。板垣退助は東山道先鋒の参謀として戊辰戦争(1868-1869)に従軍、「勝沼の戦い」では近藤勇(新選組)を撃破して甲州街道を東へ、八王子千人同心を懐柔、徳川恩顧の多摩郡を全く無抵抗のまま江戸に達します。町田には、代官「江川太郎左衛門」の組織した木曽農兵、小野路には小島鹿之助が組織した小野路農兵が幕府側として参戦したはずなのですが、どうも消息が分かりません。戦争の帰趨が判っていたからでしょうか…、 上野戦争・東北戦争は未だ始まってもいないのに、徳川恩顧の町田を含む多摩地域から、例えば宇都宮・日光方面の戦いに向かうこともありませんでした。

 自由民権資料館は野津田村の地主、村野常右衛門(1859-1927)が自由民権運動に加わり(1881)、その私財を割いて建てた「凌霜館)」の跡地を町田市に寄贈されたものが始まりで、 多摩・神奈川の民権運動関係史料を収集・保管し、整理・研究している由。読む方の誤解か…、それとも誤解を招くことを意図したのか…、自由民権運動の起源がこの地にあったかのような名称です。横浜開港で町田に西欧の宗教・思想(例えばアメリカ独立戦争・フランス革命の自由・平等・議会設置)が入り込んでいたのか、と大いに期待したのですが…、全くそんなことはなく、かと云って不平士族でもなく、不平というならば、それまで天領・旗本領の特権を剥奪されたという新政府への不満…でもないようです。 彼は戊申もはるかに過ぎて、西南戦争(1877)後、当時、にわか風俗の如く流行した「自由民権運動」に参加したのでしょう。福沢諭吉が訳したとされる「自由」、それを底に記したぐい飲みが展示されています。廃藩置県に伴い(1872年までに)町田を含む多摩地方は神奈川県に編入されましたが、コレラ流行(?)等を理由に、1892年、再び現在の東京都(府)に戻ったと云います。当時、神奈川県・町田を含む多摩地区で盛んだった自由民権運動を削ぐ狙いがあったと云いますが、云われる通り運動は急速に衰退してしまいます。ブームが終わったように…。原町田から八王子にかけての人間にとっては、新しい産物・思想・生活習慣の発信地、居留地のあるエキゾチックな港町横浜(神奈川県)が少し遠くに行ってしまいました。

 東京・大阪を初めとする大都市に人口が集中する傾向は今も変わらず、町田市の人口は43万、八王子(58万)に次ぎ、多摩地域第二の大都市です。幕末の横浜開港以降、町田の中心は小野路村から原町田村に移り、JR横浜線は市の南端を、小田急も東の端をかすめるだけ、 国道は一本も通らず、町田の背骨でもある町田街道に右折レーンが出来たのはつい最近の話です。遠藤周作縁の地で在り、死後遺族から彼の遺品寄付の申し出がありながらそれを断り、長崎に持って行かれ、かろうじて白州正子の遺品は「武相荘」に遺されています。映画館はやっと最近、南町田にシネコンが出来たというお粗末さ。文学・芸術がダメならスポーツで、ということで町田市はサッカーにお金をつぎ込んで、やはり政治の中心は昔ながらの野津田(あるいは隣接する小野路)なのか、人里離れた所に立派なスタジアムを建設しましたが、その結果は未だ明らかではありません。多摩地域第二の大都市でありながら、武蔵野には入っておらず、現在に於いても「多摩の横山」が厳然たる壁、市内を走る神奈中バス、相模原市と同じ市外局番に、かつては神奈川県に編入された名残がある、とらえどころのない無個性な街に映ります。これがこの街の文化…?。

 地域おこし、街おこしをやろうにも、ただミニ歌舞伎町が駅前にあるだけの街では手の打ちようがありません。町田市が積極的に景観を保存した訳ではありませんが、私の住む小山田地区には、結果的には、幸か不幸か、江戸時代、さらに遡った古い原型のままの山里を見ることが出来ます。 やはり、多摩の横山を越えて小野路に出稽古にやって来る近藤勇をキャラクターに据えるべきでしょう。


express01 at 19:27|PermalinkComments(0) このエントリーをはてなブックマークに追加 mixiチェック

July 25, 2016

散歩の途中 <15> 小江戸 川越

 少なくとも月に1〜2回は訪れている川越の街、バンド練習の場:シダックスのある街なのですが、町田の自宅から車で1時間、まずは西恋ヶ窪、ドラムのKunさんの駐車場に車を駐め、彼の車の助手席に乗って走ること1時間、合計2時間をかけて川越のシダックスに通っています。因みに、ギターのNobuさんは熊谷から、途中でMaruさんを拾ってやって来ます。4人が集合するのに便利という理由だけで、地図を眺めながら決めたのがこの場所でした。私といえば、西恋ヶ窪からは助手席に座っているだけ、関東平野は広く、目印となる高い山もありません。どの道の何処を走っているのか…、到着したら、そこはシダックス、単なるバンドの練習場というだけで、「蔵造りのある街並み」、「小江戸」と呼ばれる川越とは全く結びつきません。

 前回訪問の八王子城跡、その落城にまつわる悲劇は、秀吉の「小田原攻め」の際、碓氷峠を関東に入った前田・上杉ら北国勢を前に、松井田城(安中)城主:大道寺政繁が豊臣方に降り、案内役として豊臣方に協力、北条方諸城が次々にあっさりと降伏開城したことにその原因がありました。その内の一つが川越城で、これも良い機会とばかりに、バンド練習の川越ではなく、「蔵造り」の美しい街並み、「小江戸」と呼ばれる川越に行ってきました。

 淵野辺からJR横浜線で八王子、JR中央線に乗り換えて西国分寺、JR武蔵野線に乗り換えて北朝霞、朝霞台から東武東上線で川越まで、やたらと乗り換えの多い、自宅を出て3時間の旅でした。

 川越城は、室町時代(1457)、上杉持朝が家臣:太田道灌に命じて築城させたもので、道灌は、河越城の支城として、江戸城の基礎を築いたことでも知られる。戦国時代は北条早雲に始まるのですが、小田原を拠点の後北条氏は、1537年、北武蔵の要衝:川越城を落として同国支配を固めました。1590年、後北条氏は滅亡し、秀吉の命で、家康が江戸城に入り、関ヶ原に勝利した(1600)家康は江戸幕府を開きます(1603)。江戸時代に入ると、川越は当時から「小江戸」とも呼ばれ、川越藩の城下町として栄えました。川越藩は江戸幕府の「北の守り」であり、家光を補佐した酒井忠勝(1587-1662)、家光・家綱の松平信綱(1596-1662)、綱吉の柳沢吉保などの幕府重臣が配され、商工業や学問が大いに発達しました。「知恵伊豆」と称えられた松平信綱は商業経済、新田開発を行い、江戸隅田川との間に新河岸川舟運を開設するなど、川越の発展に寄与しました。黒船来航(1853)に始まる幕末、川越藩は三浦半島と品川の海防に大きな負担を強いられ、水戸天狗党の乱鎮圧に出兵し(1864)、徳川譜代故に財政は逼迫しました。戊辰戦争(1868-69)では、最後の藩主:松平康英は新政府に帰順することで藩論をまとめ、官軍にひたすら恭順することで、川越の街を戦火から守りました。

一番街_1

一番街_2

 現存する喜多院、川越城本丸御殿、重厚な蔵造りの町屋が残る一番街周辺を訪ねると、康英の判断が正しかったことが判りますが、残念なことに、徳川家に忠誠心の高い譜代諸藩が頻繁に配置換えとなり、あまりに入れ替わりが激しく、川越藩独自の産業が育たず、従って独自の文化が醸成されなかったようにも思われます。

 幕末、近隣の忍藩(行田)は同じ境遇にありながら、新政府に恭順か旧政権側に付くかを悩み、藩論は分裂、後出しじゃんけんの様に大勢が決まってから新政府軍に付くという失態を演じてしまいました。次回は、「のぼうの城」、その忍藩(行田)に行ってみたいですね。
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July 13, 2016

散歩の途中<14> 八王子城跡

 去年10月、Ikeさんと一緒に訪れた八王子、産千代稲荷神社の境内に建設中だった大久保長安の資料館(?)がそろそろ完成の頃では…、とサイトを探したが見つからず、長安資料館(?)というのも私の勘違いだったかも知れません。ということで、急遽行き先を八王子城跡に変更しました。

 後北条氏の三代目:北条氏康の三男:氏照は、小田原-上野(現在の群馬県)間交通の押さえ:滝山城(八王子)を本拠とした。1569年、小田原を目指す武田信玄軍に三の丸まで攻め込まれ、落城寸前までとなった。これを機に(?)八王子城(標高445m、比高240m)を築城、1587年頃までに本拠地を移しました。

虎口 最近整備されたと聞く、城主:氏照の居館:「御主殿跡」を目指します。大手門跡から曳橋を渡って御主殿の出入り口:虎口を見上げる石段にどこか、確かに過去に見たことのある記憶が蘇ってきます。階段の一段一段が高く、勾配もきつく、圧倒されるように大きく見えるのは安土城のそれです。既視感(デ・ジャブ)ではなく、八王子城築城の際、氏照は家臣が信長の安土城を訪問してこれを参考にしたと、見学後のガイドさんの説明がありました。私の感覚も捨てたものではありません。

 1590年、北条氏攻撃に総勢22万の兵力を動員、その為に鴨川に三条大橋を架設したと言います。先陣を命じられた家康に続いて諸大名が東海道を東進、秀吉自身は3月1日に京都聚楽第を出発、27日、本陣の三枚橋城(現在の沼津市)に到着、既に最前線では交戦が始まっています。箱根の西坂に位置する山中城は早々に陥落、4月1日には秀吉が箱根峠に達しています。4月3日には豊臣軍の先鋒は小田原城へと迫り、小田原城包囲が始まりました。一方、前田利家・上杉景勝等の北国勢は碓氷峠を越えて上野に入り、4月20日には松井田城(安中)を開城、城主:大道寺政繁は豊臣方に降り、北条方諸城の案内役として豊臣方に協力しました。これを皮切りに、上野・下野・相模・武蔵の諸城は次々に降伏開城します。

 秀吉に「実力で落とした城がない」となじられた北国勢は、最後に残る八王子城を徹底的に攻撃することを決意したといわれます。

 上野の最前線に位置するの松井田城(安中)の大道寺政繁が豊臣方に降り、それ故か、次に控える平井城(藤岡)の守将:平井無辺も凋落され、次々と将棋倒しとなった観があります。その平井無辺は普請奉行で八王子城の構造を熟知しており、6月23日、前田・上杉・真田の北国勢(1万5千)は攻撃を開始、彼の案内で上杉軍が本丸頂上を占拠、城は一日で陥落しました。犠牲者は千余名、あるいは3千とする説もあり、60余名の婦女子捕虜は見せしめのために相模川から舟で小田原に護送されたそうで、この八王子城落城が決め手となって、小田原城は開城します。八王子城主:氏照は小田原に籠城中の兄:氏政と共に自死、北条氏は滅亡しました。

 後北条氏の祖:北条早雲の出自は備中伊勢氏、幼くして禅僧の教育を受け、京の大徳寺で修行を積み、公家衆とも交流した教養人でした。信長・秀吉に先立って領内の「検地」を実施、『壁書(へきしょ)二十一条』を定め、御家人・領民の生活規範を現し、質素・倹約に務めた経済家でもあり、戦国時代を切り開いた人でした。小田原から関八州にかけては、全国で一番地租の安いところであったが、これは早雲のお陰…、とは勝海舟の言(『氷川清話』)です。関東に入る家康は、本拠地を早雲が造った小田原にすべきか、あるいは江戸か、大いに迷ったはずです。家康は、領民に慕われた早雲の築いた小田原ではなく、江戸を本拠地に選び、旧北条氏領の多くを幕府直轄・天領としました。加えて、井戸水に海水が含まれる…江戸の開発に不可欠な飲料水の確保の為に、早雲の建設した小田原城下の水道施設をこの江戸にも採用しました。

 これほどまでに慕われる早雲、後北条氏なのに、何故、いざ決戦と言うときに、次々と将棋倒しの如く、裏切りにも似た降伏開城になったのか全く判りません。例外的に、多くの犠牲を出した八王子城攻めとは対照的に、石田三成軍の「水攻め」を受けた忍城(行田)はよく守り、ついに降伏するのは、小田原城陥落後の7月16日でした。
八王子神社
 急な山道を登ること40分、八王子城本丸跡に至ります。すぐ下に「八王子権現」を祀った八王子神社(廃屋)が風雨にさらされています。仏教の守護神である牛頭天王には8人の子(八王子)がいるとされ、市名の由来です。
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