公界

June 24, 2016

鎌倉新仏教(2) 聖と遊行僧

 私が育った兵庫県の南東に位置する伊丹という町、その北部に昆陽寺(こんようじ 地元では「こやでら」あるいは「行基さん」と呼ばれる)があります。731年、行基が灌漑用の「昆陽池」を建設、これに従事する貧民の救済を目的とした「昆陽施院」に始まります。行基(668-749)は寺院外の布教を禁じた「僧尼令」に違反して托鉢して民家を回ったとして弾圧されましたが、行基に対する民衆の支持が大きいと見た朝廷は、東大寺大仏造営の勧進役に起用しました。律令制度の下、国家鎮護のための仏教に反して民衆の救済を説いた行基の行いは後に空也(903-972)に引き継がれ、抑揚・高低・曲調を付けた「南無阿弥陀仏」を唱えながら念仏踊りを行うもので、民衆の大きな支持を得ました。

 法然、親鸞に始まる、中世の宗教改革と言うべき、鎌倉新仏教に連なり、行基・空也の後を継いだのが一遍でした(教団:時衆の結成は室町時代)。どんなに穢れていようと、いかなる不信心者であろうと阿弥陀如来の力で必ず救われると全国を旅し、空也上人に倣って各地で念仏踊りを催しました。こうして、「一切往生・平等往生」を説いた法然の思想は民衆に広がりました。
160622一遍聖絵より
 南都六宗、比叡山、高野山の僧侶は得度僧と呼ばれ、民衆の中に入って布教することを禁じられていたが、民間で布教した僧侶:私度僧は民衆の中を奔走して、無許可で僧侶になった者で、彼らは「聖(ひじり)」と呼ばれました。この「聖」に属する僧には大きな幅があって、上は、貴族の出身でありながら、得度僧の堕落に見切りをつけて…、日々の生活から逃れて…、下は、その日の食べ物を得る為に僧形をして物乞いし…、隠遁・放浪生活をした。平安末期の西行も僧形をしていたが(実は「高野聖」)、見方によっては…、貴族の道楽・風流、日常生活を捨てたようで…、その実、片足はきちんと俗世に置いたようにも見えます。

 民俗学者の五来重(ごらいしげる)はその著:『高野聖 』の中で「聖」を下記のように説明しています。
『聖』の属性
 美辞麗句に、抑揚・高低・曲調を付けた語り、伴奏も付けて、聴衆を説話の中に引きずり込み、いや、没頭させ、恍惚とさせなければなりません。聞き惚れる唱導が芸術に変わって行ったのは極めて自然ななり行きです。寺社のために勧進をやっているのか、自らが食べていくために唱導をやっているのか…、琵琶法師によって口承されていた『平家物語』は語られる毎にその芸術性を高めていったことを思えば、日本の文学・芸能の代表作品は多くの「聖」達によって造られたものであると言えるでしょう。
 
 鎌倉中期、法然から70年後、伊予国河野氏を出自とする一遍が依るべき階層は自分の出身階層である地方武士でした。「無縁(むえん)」、「公界(くがい)」を、主従の縁、親子の縁、賃貸関係等、世俗の縁が切れた「自由」を保証する場所(中世西欧における「アジール(避難場所)」)とし、「公界」の寺の僧はそれにふさわしい能力=「芸能」を身に付ける必要がありました。能役者、連歌師、太平記読みなどの芸能民は「公界衆」と呼ばれ大名など権力者の宴席に並び、彼らは後の「同朋衆」につながります。山伏、時衆僧、禅僧は戦に於いても敵味方と縁の切れた「公界」の人、戦場における死者の供養、負傷者の救援など、時衆僧と武士との間には深い絆が生まれました。

 14世紀、南北朝動乱期から室町時代にかけて、北陸・近畿・東海など産業文化の先進地域では連帯性と自立性を持った「惣村と呼ばれる新しい農村共同体が生まれ、村民全員参加の信仰組織:「講」が結成され、村々に道場が置かれました。後の「一向一揆」につながります。当時の農村は閉鎖的な共同体、これを横へ広げたのは諸国を渡り歩く<職人>、商業・運送業を営む<ワタリ>でした。

 元弘3年(1333)六波羅探題の北条仲時は光厳天皇と花園上皇を奉じて関東に逃れようと、都を落ちて近江国へと敗走するが、番場宿蓮花寺にて進退窮まり、命運尽きたことを悟った北条仲時は六波羅軍の解散を命じて自刃、彼に従った北条一門432人が彼の後を追って自刃します。この敗走する六波羅探題軍の前に立ちはだかったのが佐々木道誉(1306-1373)でした。楠正成とともに討幕運動に参加、足利高氏と密約して連携、この馬場宿で天皇・上皇を捕らえて三種の神器を強奪しました。武家政権樹立を躊躇する高氏に積極的な反旗を働きかけた道誉はいわば足利政権の立役者でした。運送の拠点となる大津始め琵琶湖沿岸の津・泊などの商業・流通・運送の拠点となる地を所領とし、一般的な武士からかけ離れて、流通・商業からなる<ワタリ>的な生活をしていたのでしょう。

 道誉は婆娑羅大名と呼ばれ、暴力と風流のアンビバレンス、和歌・連歌、立花・茶・香などの芸道にも造詣が深く、多くの芸術家を経済的に援助するなど、いわば中世文化のパトロンでした。三代将軍:義満(1358-1408)の同朋衆:海老名南阿弥(なあみ)とともに「猿楽=能」観阿弥のスポンサーとなります。現代にも生きる義満が築いた北山文化、その代表は観阿弥・世阿弥の「猿楽=能」でしょう。注目すべきは、道誉と共に討幕運動に立ち上がりながらも最後には敵味方に分かれる正成ですが、彼の姉か妹(?)が観阿弥の母親、観阿弥は正成の甥、正成は観阿弥の叔父に当たります。

 この時代から戦国時代にかけて、個性的な生き方をした人、傾いた人は、阿弥号の有無は別に、どこかに一遍、時衆、遊行僧のにおいを感じます

※ 参考:五来重(ごらいしげる)著:『高野聖  』
 
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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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