佐藤義清

May 26, 2012

「趣味」と「数奇」

この歳になり、仕事もほとんど午前中には片付くようになり、残りの時間、それは単に一日の残りの時間という事だけではなく、人生の残りの時間=「人生の黄昏」とは少々抵抗があるところですが…、を如何に過ごすか、これが一大関心事となりました。

先日の金環食、友人と二人で撮影すべく前もってリハーサルまでして準備したのですが、前日の夜、彼からメールをもらいました。 「申し訳ない。当地曇りの予報にて、晴れている赤城山に行きます。」 

写真を趣味としている人はこれぐらいでないといけません。彼は、日々、天気予報に気を配り、どこが最適ポイントかを判断します。当日の朝、満天の(?)曇りがフィルター代わり、結果的には、肉眼で十分でした。事前に用意した観測サングラスは曇天下では無用の長物、生きている間に二度と使うことはないだろう…と、全く別なことを悔やむ私でした。

※彼が赤城山で撮った写真がこれ。意図とは違ったらしく、失敗の由。
Annular Eclipse

写真、音楽、あるいはスポーツにせよ、暇が出来たからと行って、急に出来るものではありません。趣味を「楽しめる」レベルに達するまでにはそれ相当の時間と環境が必要です。私はお音楽が好きで、ジャンルを聞かれれば、「カントリーぽぃロック、ウエス・トコースト風、あるいはルーツ・ミュージック」と答えるでしょうし、これが理由で「カントリーミュージック人気ランキング」に参加しています。

私が今、音楽経験豊かな他の3人と一緒に楽しめるのも、高校生の時代、それなりにギターを練習したからでしょう。「少年老いやすく〜」はその通りですが、それ以上に言えることは、当時そんな仲間=環境があれば、また違った人生になったかも知れません。欲は言いますまい。ギターのコードを弾けるだけで十分、満足です。

視聴率、少しは回復したのでしょうか?…NHK大河ドラマ:『平清盛』、佐藤義清(さとうのりきよ 後の西行)は出家(1140)してしまい、そんな場面も亡くなりましたが、彼は「弓馬の道」だけではなく、帝・院の要請に応じて即興の歌を披露する、和歌・今様・けまりの名手でした。専門業とはせず、何らかの芸事に打ち込む様を「すき」と称し「数寄」の字を当てるのですが、彼は当時随一の「数寄者」であり、彼の出家の原因をこの「数寄」に求める説もあるようです。

宮廷貴族という限られた世界に広まった和歌は、室町時代には連歌に、桃山時代には富裕な町民層及び武士の間に広がります。江戸時代になるとその裾野はさらに一般庶民に広がり、俳句を使った「三笠付け」と呼ばれる賭博が流行、幕府はその取り締まりに手を焼いたそうです。ほんの一握り人たち:貴族の遊びだったものが、それから5百年後の江戸時代には一般庶民の遊びになっていました。これは江戸時代の識字率の高さ、ひいては文化の高さ、庶民の豊かさを示すものでした。

西行はその人生で二回奥州に、そして四国に旅しますが、決して放浪ではありませんでした。揺るぎない経済基盤を背景に熊野に庵を構えますし、庶民層と係わることもなく、況わんや決して乞食(こつじき)やホームレスなんかではありません。旅に出ながらもいつかは都に帰って世俗との関わりを維持する、鼻持ちならない金持ちの道楽者、ということも言えるでしょう。

音楽といえば聴くだけのもの。自分で演奏するなど夢の又夢、楽器と言えばプロの演奏者が弾くものと思っていた私が最初にギターを弾く事ができたのが『君といつまでも』、続いてベンチャーズが空前のエレキブームをもたらし、一気にギターを庶民の楽器にしてしまいました。戦後、大衆文化としてのアメリカ音楽が日本に入ってきてから僅か15年、文化の高さはともかく…、庶民の急激な豊かさの実現を示すものでした。

西行の生き方と比べるのもおこがましいのですが、揺るぎない経済基盤を築く間もなく、「人生の黄昏」に突入してしまった私です。

Momo holding sign board-HKX Radio※今までの曲は左サイド、I Pod 風のプレーヤーでお聴きになれます。 
Your Support, Please. ▼ ボタンを押して下さい。このサイトの順位がわかります。
にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 人気ブログランキング  


March 11, 2012

『3.11』が巡って来ました

西行NHK『平清盛』、北面の武士:佐藤義清は、待賢門院璋子(たまこ)への片思いが原因(?)で…、23歳で出家、以降『西行』を名乗り、1143年、26歳の時、何故奥州なのかは不明ですが、最初の奥州の旅に出ます。

それから40年後、戦乱:『治承・寿永の乱、 あるいは、源平の戦い(1180 - 1185)』を避けて伊勢の国に庵を組んでいました。戦乱で焼け落ちた東大寺大仏復興のための寄進が捗らず、再建の責任者:俊乗坊重源(ちょうげん 1121 - 1206)に依頼されて、大仏を鍍金(金メッキ)するために必要な砂金を寄進する旨約束してくれていた藤原氏を訪ねて、1186年、70歳を前に再び奥州へ旅立ちます。

今日、『3.11』がやって来ました。メディアの多くは『東日本大震災からの1年』を特集していますが、被災地そして日本の今後を考えると暗澹たる気持ちになってしまいます。言いたくはないのですが…、この1年を振り返ると、政治、官僚はもちろんのこと科学・技術、報道、教育、宗教…等、どれをとっても『日本の〜界のリーダー』(あるいは『専門家』)には本当にがっかりさせられてしまいました。

しかし、西行の奥州行を調べていると、偶然、ちょっと古いのですが、約1年前のニュースにぶつかりました。2011年4月8日付の産経新聞に…

『1300年前の縁…東大寺が1億円寄付 銀行借り入れ「宮城の文化財修復に」』…とあります。

宮城県涌谷(わくや)町は日本で初めて金(砂金)が採れた所。奈良時代、聖武天皇によって東大寺の大仏が建立されました。大仏は銅で鋳造された後、金で鍍金(メッキ)されるはずでしたが、その金が不足し、 大仏の完成が危ぶまれていました。そこへ749年、日本で初めて産出した砂金900両が陸奥国守百済王敬福(くだらのこにきしけいふく)によって献上され、大仏は無事完成しました(752)。

「白村江の戦い(663)」で唐・新羅連合軍に敗れ、半島での足場を失い、百済からの難民を受け入れ、唐の侵攻も恐れられる中、断固たる決意で律令国家を目指し、唐(中国)との冊封関係を断ち切った日本。その国家安泰・人々の幸福・五穀豊穣を祈願して建立されたのが東大寺大仏。奈良時代のみならず、鎌倉時代の西行による勧進に応え、2度までも(…実は3度)奈良東大寺大仏建立・再建を支えたのが奥州、今の東北地方でした。

これに応えたのが『東大寺の1億円寄付』。ちょっと…、古いのですが、「ほっ」とさせられたニュースです。

Momo holding sign board-HKX Radio※今までの曲は左サイド、I Pod 風のプレーヤーでお聴きになれます。
  
Your Support, Please. ▼ ボタンを押して下さい。このサイトの順位がわかります。
にほんブログ村 歴史ブログ 諸文化の歴史へ にほんブログ村 音楽ブログ カントリーミュージックへ 人気ブログランキング


Profile

ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

Back Issues At A Glance
Comments
ISAO's Bookshelf
人気ブログ ランキング
NINJA
Search