伊賀越

November 08, 2014

伊賀上野天神祭 2014年

伊賀上野天神祭_翁 京都で同じ下宿に暮らしたということで、伊賀上野天神祭のこの時期(10月23〜25日)、3人はそこに住む友人:Toshiさん宅に集まっているのですが、私も3年前からその同窓会(?)に参加させてもらっています。去年は、大きな台風が近畿地方を襲い、京都嵐山渡月橋辺りで桂川が氾濫するなどして、その影響でこの祭も中止となりました。去年は秋も深まって肌寒く感じたのですが、今年は一ヶ月、少なくとも数週間は、季節が後戻りしたような暖かさ…というより、暑さでした。

宵山 奥方:Junkoさんの実家が古くは、上野西町、大和街道というメインストリートの一角に小間物屋として栄えたそうです。ご夫婦はその跡地に家を建て、通常は大阪に住み、月に1〜2回はここにやって(帰って)来るという生活をされています。以前にも書きましたが、当地は古来より飛鳥、奈良、京都の都に接し、五畿七道の一つ、東海道の最初の国:伊賀国に在り(因みに、東海道の東端は常陸国)、倭武(ヤマトタケル)がこの道を東に向かったのか、大和街道は当初、幹線街道としての東海道の一部だったのか?…、壬申ノ乱の大海人皇子が、平安時代末期には源義経が、時代は下って、「天正伊賀の乱(1578-1581)」で信長が、「本能寺の変(1582)」で密かに服部半蔵が先導して家康を伊勢へ逃がす「伊賀越」、この辺りが舞台でした。

 浅井長政の足軽に始まって8回も主人を換え、戦国・江戸時代初期を生き抜き、築城技術に長けた藤堂高虎は外様にもかかわらず徳川家康始め三代の信任厚く、同じく築城技術に長けた加藤清正は息子の代に改易となったとは対照的に、藤堂家は別格譜代の厚遇を受け伊勢・伊賀二国にまたがる大大名(32万石)となり明治まで続きます。内政手腕だけでなく、文学や能楽、茶の湯を嗜む文化人でもあった高虎は天満宮の改築、寄進等にも力を注ぎます。上野天神祭は、二代目藩主:藤堂高次の時代(1660)に始まり、その後一時は倹約令で中止となったが、元禄(1688 綱吉の時代)に復活、三代藩主:藤堂高久は祭礼を城内假御殿より見物、田楽、能、狂言等が行われた。同地出身の松尾芭蕉だけでなく、井原西鶴、近松門左衛門とは同時代、商品・貨幣経済、前資本主義社会・前近代社会ともいうべき時代の文学であり、上野天神祭は正に勃興する商人・町人が作り上げた祭でした。
伊賀上野天神祭商店街_2

 AkiraさんはToshiさんの所属する上野西町の山車を引くために、遠く新潟からやって来るのです。町内の人からも当てにされているのは嬉しいが、出来れば山車を引くのは午前中だけにして欲しい、ここ数年は伊賀上野天神祭と言えば山車を引いているだけで、祭全体を見たことがないそうです。…というより、長時間山車を引っ張るのが辛い、体力がなくなってきた、というのが本音でしょう。午後、山車を抜け出し、私にはどうでもいいように映るのですが…、私と二人で観光客向けに用意されたスタンプラリーに参加、13ヶ所のスタンプ・ポイントを約1時間をかけて上がりのゴールへ、結果は残念ながら二人とも参加賞の山車をデザインしたクリアファイル、さすがは伊賀上野天神祭の大ファン、私の参加賞も差し上げると、満足気な彼は山車の牽引に復帰します。因みに、住民は祭に何らかの手伝いをしないとペナルティとして数万円を徴収されるそうで、Akiraさんの上野天神祭好きもToshiさん上野西町宅に十分貢献しています。すみません、何も貢献できず…。

Junkoさん、お世話になり、ありがとうございました。

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March 01, 2014

みんな、「人生色々」

「上野天神祭」の山車を引くのを楽しみに、毎年この時期、遠く新潟からやって来る御仁がおられます。昨年10月、三重県伊賀上野の友人宅でその彼に会ったのが2回目でした。その彼からメールが、確か…、ガラケーしか持っていない彼…、「タブレット端末を購入したが、商品を入手するのは後日、入手したら連絡するので会って使い方を手ほどきして欲しい」という内容でした。もうそろそろ…かと、先日当方からメールすると、「小田原に帰るので会おう」というお誘いのご返事でした。

私の頭が悪いのか…、どうも彼の置かれている状況を把握出来ていませんでした。その彼は遠く新潟出身、私の友人は三重県伊賀青山、加えて名古屋出身者、この3人がは京都での学生時代、同じ下宿に暮らしたことが縁で毎年この時期、上野の友人宅で会っているそうです。因みに、当時、私は関西在住、竜安寺近くの大学まで通っていたので、加えて、大学紛争・大阪万博関係のアルバイトで大学どころではなかったので…、友人の下宿での交友関係は知りませんでした。私と友人との接点は同じゼミに所属したことですが、それはいつかまた次の機会に譲りましょう。

彼は、将来、新潟に帰ることを考えて就職、勤務地が関東となりました。私と同じく、それから何十年、誰も人生には紆余曲折あって、大半を過ごした小田原市に住み、新潟まで450キロを車で、月のうち20日間をご両親の介護で過ごしているそうで、小田原に帰って来たのを機会に今回の再会になったわけです。亡くなりましたが、両親の面倒を二人の姉に任せっぱなしだった私とは大違いです。

曽我梅林タブレット端末…?、今までパソコンも、キーボードさえ触ったことがなかった私の姉でさえ、今やメールを送受信、ブログへのコメントくれるまでになったのですから…、何をどのようにお教えしようか…と思案しながら車窓の景色を眺めます。         ※写真は小田原市観光課より拝借
私の住む町田から小田急で1時間弱、相模国(神奈川県)を東から西へ横断、小田原の少し手前の開成駅で待ち合わせです。彼が連れて行ってくれたのは「曽我別所梅祭り」、河津桜の名所も近く、花見にふさわしい暖かな日和です。

時代は平安末期、まだ平家が都で権勢を振るっていた頃、工藤祐経(すけつね)とその叔父:伊東祐親(すけちか)、両者の所領争いに始まります。1176年、工藤祐経の命を受けた郎党二人は伊藤祐親を待ち伏せて襲い、一緒にいた嫡男:河津祐泰(すけやす)を殺害します。死んだ河津祐泰の妻は曽我祐信(すけのぶ)と再婚、その子・兄:一萬丸と弟:箱王丸はこの地:曽我荘で育ちます。

伊東家は平家について没落、逆に、工藤祐経は頼朝に従ってその寵臣となります。征夷大将軍に任じられ、鎌倉幕府を開いた頼朝は、1193年、関東一円の御家人を富士山の裾野に集めて大規模な巻狩、軍事演習を行いました。元服した兄弟もその巻狩に参加、同じく参加している工藤祐経(すけつね)の陣屋を襲撃、祐経を殺害しました。兄:祐成(すけなり)はその場で討ち取られ、弟:時致(ときむね)は捕らえられ、処刑されました。表面的にはこんなあらすじで、その裏には頼朝政権誕生に纏わる骨肉の争いがあるのですが、ここでは触れません。これが「曽我兄弟の仇討ち」事件です。※ふりがなを付けないと読み続ける気をなくしてしまいます。

数馬茶屋前回の伊賀「上野天神祭」は豪雨の影響で中止、当日も雨でやることもなく、友人の奥さんのアドバイスで、その彼と連れ立って行ってみたのが「鍵屋の辻」でした。『伊賀越鍵屋辻の決闘(1634)』の舞台に続いて、今回は『曽我兄弟』縁の地に出かけ…、これはおそらく「日本三大仇討ち」ツアー、次回は『忠臣蔵(1702)』の本所吉良邸になるのではないでしょうか。

結局、タブレット端末に一言も触れることもなく、小田原城近くの居酒屋、二人でビールを楽しみ、小田急に乗り込みました。遠く新潟からやって来た学生時代の京都、故郷に至る途中の関東:小田原に住む彼。関西に育ち、仕事で関東に…、それまでは縁も縁もなかった町田に住む私。「人生色々」、一杯の客を乗せた電車は間もなく町田に到着です。

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ISAO

映画・音楽・歴史、そして、自己流ながら、水彩画を描いています。思いついたことを、気の向いたままに、イサオなりに、深く掘り下げていきます。 ※お気づきの点、改善すべき点をどうぞお聞かせ下さい。

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